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zoom RSS 史実の裏側の物語―「ヒトラーの贋札 The Counterfeiters」Part2

<<   作成日時 : 2013/03/09 17:09   >>

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史実の裏側には、いつだって人間存在の真理が潜んでいる。

この映画の原作を書いたのは、劇中にも主要人物として登場する、正義感に満ちた印刷工ブルガーことアドルフ・ブルガー氏である。
彼は1917年スロバキアに生まれた印刷工・植字工であった。1942年、妻のギゼラと共に当局に逮捕され、ろくな裁判もなくアウシュビッツ強制収容所に送られた。その6週間後にはビルケナウ強制収容所に移送され、アウシュビッツよりさらに劣悪な環境の中で、ギゼラはガス室送りとなる。為すすべもなく、まだ 22歳の妻を失ったブルガー氏は、ある日収容所の所長に呼び出される。印刷工であることを理由に、別の収容所での特別任務に就くよう要請されたのだ。しかも収容所送りになってはじめて人間らしい扱いを受けて。ビルケナウは当時、アウシュビッツと同様、使い物にならなくなった囚人を効率よく始末する“虐殺工場”であった。よもや生きてそこを出られると思っていなかったブルガー氏は、しかし新たに配置されたザクセンハウゼン強制収容所で、空前絶後、一国家による大規模な紙幣偽造犯罪への加担を余儀なくされる。
1945年、ナチス敗北が決定的となったため、ブルガー氏は他の紙幣偽造特別班の囚人達と共にレイア強制収容所に移送された。そこからさらにエーベンゼー強制収容所に移送され、紙幣偽造の口封じの為に殺害される予定であったという。それはオーストリアのパルチザンによって未然に食い止められ、その後進攻してきたアメリカ軍が彼らを解放した。ブルガー氏はその直後、強制収容所の写真を撮り、1945 年にその写真を掲載したはじめての手記を出版した。その手記は、さらなる正確さを期すために、広範な一次史料と生き残った偽造計画関係者への膨大なインタビュー、ブルガー氏自身による当時の写真等が追加され、ベルンハルト作戦の内幕を物語る貴重な書物となった。1972年以降、ブルガー氏は作家、ジャーナリストとして、収容所体験を若い世代に伝える講演活動を精力的に行っている。ドイツの映画プロダクション“マグノリア”は、オーストリアの映画会社と提携し、ブルガー氏の手記の映画化に漕ぎつけた。これが今作品「ヒトラーの贋札」である。ブルガー氏は、映画「ヒトラーの贋札」の日本での劇場公開が決定すると、それに先立って2007年11月に来日を果たした。以下の引用は、ブルガー氏のインタビューの抜粋である。

“私は、手記がフィクションとして映画化されるに際して、1つの条件を出しました。それは、私が納得し、承認した脚本でないと決して映画化しないことです”

この映画は、ブルガー氏が実際に体験した事件を基に作られたものだ。昔から、史実の映画化作品についてまわる問題として、“映画が史実に忠実であることを求められるのは、一体どれぐらいの割合か”ということがある。史実に極力忠実たらんとするために、映画的ダイナミズムを失ってしまえば、その作品はそもそも映画にする必要はなかろうと思われる。史実に重きを置くならば、最初からドキュメンタリー作品を製作するべきだろう。しかしだからといって、史実を都合の良いように捻じ曲げてしまうのは、倫理的にも許されないことだ。こと昨今では、インターネットの普及により、一般人がいち早くしかも正確に世界の情報を把握することができる。エンターテイメント作品とはいえ、著しくリアリティに欠ける映画は、ハナから重要視されないという憂き目に合うものだ。ここに史実の映画化作品のジレンマがある。つまり、史実を題材としながらも、そこから逸脱することなく同時に映画的カタルシスを表現するという、絶妙のバランス感覚が製作陣に求められるのだ。史実とフィクションをどういった割合で混合すべきか、そのさじ加減が難しいのである。

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ブルガー氏が製作陣につけた注文は、ドラマにふくらみを持たせるための多少の脚色は構わないが、史実を根底から変えてしまうことだけは絶対に避けるべしというものだった。上記のようなことから、それが映画を作る者にとって、どれほど難しい注文であるかが伺えると思う。ブルガー氏が明かしたところによると、脚本の第1稿では、サリーら紙幣偽造特別班の囚人達は、偽造工場があったザクセンハウゼンで終戦を迎え、ロシア軍によって救出されることになっていたそうだ。その理由はわかるような気がする。映画での主人公サリーは、ロシア系のユダヤ人であるからだ。しかしサリーは、ロシアに遠くルーツを持ちながらも、そのことについて愛憎半ばする複雑な感情を抱いていた。劇中、彼が、同じくロシア系ユダヤ人だったコーリャに、その想いを吐露するシーンがある。だから、そんなサリーにとって、ロシア軍によって解放されることは、映画的にも感慨深いインパクトを与える結果になるだろう。だがブルガー氏はそこで自説を曲げなかった。彼らはザクセンハウゼンからさらに別の場所へ移され、すんでのところで口封じに殺されるところだったというのが、真相だからだ。完成した映画では、その事実をエンドクレジットで注記する形になっていた。サリーたちが解放されるシーンを巡っては、ブルガー氏とルツォヴィッキー監督の間でかなり激しい論議が交わされたという。そこで、サリーたちは、ロシア軍でもアメリカ軍でもなく、他ならぬ同胞たる他の囚人達によって結果的に解放されたという、実に皮肉な描写に決着したのだ。しかし個人的には、この苦肉の策的演出変更は大成功だったと思う。なぜなら、このシーンで、それまで映画全体を影のように覆っていた重い“モラル”の問題が、劇的に爆発する結果になったからだ。

映画が観客に問いかけるモラルの問題とも関連してくるのだが、史実と映画の違いが、この作品にどのような影響をもたらしたかを挙げておく。
まず原作では、当然のように著者たるブルガー氏の視点からベルンハルト作戦の内幕が語られていた。映画では、よりドラマティックな効果を狙って、実際に作戦に参加していた実在の贋作師サロモン・スモリアノフをモデルにした人物サリー・ソロヴィッチの視点にスイッチしている。このことは、作品において、映画的表現のためという本来の意味以上に大きな役割を果たしたと思う。

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映画では、ブルガー氏をモデルにした印刷工ブルガーを潔癖な正義感にし、基本的に即物的でリアリストであるサリーとは対照的な位置に配している。そして彼ら2人の間でモラル闘争―ナチスに協力して自身の延命を図るのか、それとも命を賭してでも同胞の為に作戦協力を阻むのかという究極の選択―をさせることで、物語をよりスリリングに進行せしめるのだ。ブルガーの思考は明快だ。彼の中では正義は絶対であり、苦しんでいるユダヤの同胞の為にも、ナチスに利益をもたらす作業は…もっといえば、絶対悪たるナチスに屈服することは良心が許さない。まあ確かに、通常の社会ならそれは正論であるし、人間たるもの常に清廉であらねばならないだろう。事実、彼はザクセンハウゼンに辿り着いて早々、ナチス親衛隊の命令に従わず、与えられた古着(前の持ち主は収容所内で死んでいる)に腕を通すことを拒む。サリーが前の持ち主の名札を即座に破り捨て、さっさと服を着込んだのとは対照的だ。
だが彼がいる社会は普通のそれではない。強制収容所なのだ。劇中、アツェやクリンガー医師がつぶやく台詞に、「なにがあっても生き抜かなきゃならん。生きてさえいればいずれ良い事がある」というものがある。強制収容所の中では、なにがなんでも生き抜くことが最優先事項なのだ。好むと好まざるとに関わらず、生存本能が人間に備わっている限り、これは当然のことだろう。サリーは、ザクセンハウゼン以前のマウトハウゼン収容所で、特技の絵を最大限駆使してナチスに取り入り、何年もの間生き延びている。ユダヤ人の尊厳も生命もクズのように踏みにじるナチスにおべっかを使い、理不尽な暴行を受けても卑屈な笑顔を浮かべる彼を、責められる者は誰もいないはずだ。だがブルガーは、紙幣偽造班にあっても抜け目なくナチスにへりくだるサリーを嘲笑する。それが、長年修羅場を潜り抜けてきたサバイバー、サリーの冷徹な計算であることを見抜けなかったのだ。そう、サリーは、ナチスに全面的に協力するような姿勢を見せながらも、一瞬のチャンスがあれば、自分と仲間を救うための命がけの取引を数々繰り出している。ブルガーの主張する正義にも敬意を払いつつ、しかしその正義のために仲間の命を見殺しにしないよう、ぎりぎりの段階で“完璧な偽ドル札完成”という最後の切り札をナチスに対して切ってみせているのだ。モラルや友情に素直に殉じてしまうわけでなく、かといって己のエゴのみを満足させているわけでもない。勝負師サリーは、理想と現実のギャップの狭間をタイミングを図りながら綱渡りし、その場その場で最善の道を模索する、ごく理性的な人間として描かれている。現実社会でははぐれ者の犯罪者である彼が、強制収容所という理屈の通用しない狂気の世界の中では、なんとも頼もしいヒーローに見えてくるのだ。
そんな人間の視点を映画の主軸にすえたために、観客は彼の目、彼の思考の変化を通じ、映画の中で描かれるモラルの是非を考えることになる。サリー自身、ブルガーやコーリャといった囚人達との交流を通じ、はじめて“仲間”という意識を持つに至るのだが、それは彼にごく人間らしい葛藤と苦悩をもたらした。より広義での“仲間”たる同胞のために正義を取るのか、恥を捨てて生に執着することを選ぶのか。それは極めて現実的な問題であり、現代にも通ずる普遍的な問題であり、また、いくら考えても答えの出ない問題であるだろう。固く閉ざされた“塀のこちら側”で、サリーたちが卓球に興じている間にも、その“塀の外”では直視できないほどの残酷な殺人が繰り返されているシーンは象徴的だ。今現在、世界には飢餓や政情不安に苦しみ、死に瀕した人々が大勢いる。その一方で、私たちは安寧で豊かな生活を当たり前のように享受している。いくら無視しようとも、やはりそこには根源的なモラルの問題が潜んでいるのは否定できない。だからこそ、「塀のこちら側にいることに感謝するんだな」と言われ、苦悩すら抑圧したサリーの表情の中に、観客もまた同様のジレンマを読み取ってしまうのだろう。サリーが主人公になったために、映画は、大きなモラルの問題を観客にわかりやすく提示することに成功したのだ。

“実際には、あんな風に堂々とサボタージュできる状況ではありませんでした。そんなことをしたら即刻銃殺でしたからね。私たちに出来ることといえば、ナチスの言うとおりに働くか反抗して射殺されるかのどちらかですから、良心の呵責を感じる余裕もなかったのです”

ブルガーは劇中、良心をすり減らした挙句、最後の誇りを賭けてドル紙幣偽造作業をサボタージュする。ブルガー氏によると、それは事実ではない。ただ、ドル紙幣偽造の際には、オランダ人のヤコブソンという男がわざと偽造用のゼラチンを悪質なものに変えて、紙幣完成を遅らせていたという。その2つの出来事が映画ではうまくまとめられていたが、痺れを切らせたナチスが、期日までに紙幣を仕上げなければ仲間を4名射殺すると宣言したのは本当のことなのだそうだ。つくづく、巨大組織による犯罪は恐ろしいと、背筋の寒くなる思いがする。当時、ナチスは戦局において劣勢を強いられており、経済は破綻し、敗戦間近の状態だった。このベルンハルト作戦と名づけられた紙幣偽造計画は、英国やアメリカの経済を混乱させるために企てられ、ナチスの起死回生を賭けた最後の大勝負だったのだ。1億3460万ポンド相当も偽造された偽ポンド札は、しかし実際にはごく一部が流通したに過ぎない。

“病気に罹った者は、感染が広がるのを恐れてナチスが銃殺しました。実際6人もの若者が病に倒れ、射殺されていきました。実際には、彼らはいつのまにか連れ出されていたので、私たちは彼らの死を知る由もありませんでした”

劇中唯一、サリーの内面を知る立場にあった少年コーリャは、サリーにとって最も心許せる相手であり、彼の中の人間らしい感情を呼び覚ますきっかけとなる人物であった。心優しい繊細な美大生だった彼は、収容所内で肉体的にも精神的にも崩壊寸前の状態だったところを、サリーに救われる。そうして彼らは、お互いがお互いを支え合っていたのだ。また、映画でははっきりとは描かれていなかったが、サリーはコーリャの存在によって、プロの画家としての矜持を取り戻したのではないだろうか。手っ取り早く金になるからという理由で、あたら絵の才能を贋作という犯罪に流用するになったサリーだが、純粋に己の絵を追及するコーリャの姿に触発されないはずはない。サリーとて元は画家を志した者、実はエゴン・シーレを崇拝していることをコーリャにだけ打ち明けている。同じ情熱を共有する者同士、相通ずる感覚が2人の間に特別な絆を作った。そんなコーリャが結核に冒されていく様は、サリーにとって最も耐え難い苦痛だったことは想像に難くない。サリーがブルガー抜きで、1人黙ってドル紙幣完成に打ち込んだのは、ひとえにコーリャに薬を与えるチャンスを作るためでもあっただろう。コーリャはしかし、ようやくサリーが薬を手に入れた直後、ヘルツォークの差し金で銃殺される。銃口を向けられる直前、コーリャはタバコを一服する猶予を得るが、これはフィクションだ。カメラはサリーの目と一体化し、建物の隙間からその一部始終を指をくわえて見守るしかない彼の焦燥を代弁し、揺れに揺れる。その不安げに揺れる画面の中で、ゆっくりとタバコの煙を吐き出したコーリャは、次の瞬間、壊れた人形のようにその場に崩れ落ちる。フィクションながら、ここはナチスの残虐性を如実に物語るシーンであった。

紙幣偽装計画に従事する者は、囚人ながら破格の優遇措置を受けた。彼らが働く18区と 19区は収容所内でも塀によって厳しく隔離され、外の地獄絵図からは想像できないほどの安らかな空間が保障されていた。工場内には常に美しい音楽が流され、作業員は余興として卓球を楽しみ、祭日にはナチス高官を交えてパーティーなども行ったという。それもこれも全て、作業員達に完璧な偽造紙幣を作らせるための、いわばエサである。古来より、優れた芸術家達は、時の為政者の庇護を受け創作活動にいそしんだものだが、この映画でも似たような構図が成り立っていると言えよう。贋作とて完全を目指せば、それはある意味アートになり得る。偽造に従事する者達は完璧な偽造というアートを生む芸術家であり、ナチスはその庇護者である。サリーは完璧な偽ドル札を目指すうち、次第に贋作とアートの曖昧な境界線に入り込んだかもしれない。それは甘美ながら、実に危険極まりない誘惑だろう。
実は、映画のほとんどのシーンは、その塀の中のみの様子を描いている。時折塀の外から囚人の断末魔の叫び声や、ナチスが囚人を暴行する音が聞こえてはくる。だがカメラがその様子を映すことは決してないのだ。塀のこちら側にいる面々は、その音のみで、自分たちが今いる場所がどんな場所なのかを思い出すことになる。また、カメラはほぼ全編を通してハンディ・カメラが使用され、登場人物の目線そのままに辺りの様子を映し出す。狭い工場内で大勢の人間が押し合いへし合いしながら作業する光景や、ちょっとした物音の変化にも敏感に反応する作業員達の表情ひとつひとつを、ひどく接近して捉えるのだ。それは、観客に否応なく息苦しさや閉塞感をもたらす。ルツォヴィッキー監督の意図したとおり、ハンディ・カメラによる臨場感溢れる映像は、狭い場所に閉じ込められ、一歩外に出れば残虐な死が待っているという恐怖感を、観客にも粛々と体感させるものだ。“映画的表現”は、ここでも史実をより具体的に咀嚼するのに上手く利用されている。

史実は、映画的表現の助けを得て、歴史の上からひっそりと消え去ったはずの人物サリーの人となりをも、雄弁に語る。劇中、サリーは、コンティネンタル・タンゴを好むという設定であった。アルゼンチンからヨーロッパに渡ったタンゴは、彼の地でより洗練され、メランコリックな味わいが加味されるようになった。それは“コンティネンタル・タンゴ”と呼ばれ、広くヨーロッパに暮らす人々に愛されていく。この映画でも、ウーゴ・ディアスの奏でるコンティネンタル・タンゴの哀しげなメロディが、常にサリーの傍らに寄り添うように流れ続ける。映画にいわく言い難い沈痛な彩りを加え、決して表には現れないサリーの心情を代弁していた。サリーは、犯罪者として誰のことも信用せずに生きてきたときも、また、収容所から無事解放された後も、誰にも理解できないであろう壮絶な痛みを抱え続けねばならない。その孤独感たるや筆舌に尽くしがたいが、それを一切言葉にしないサリーの代わりに、タンゴの調べが画面に流れているのである。
工場内に流れる美しいアリア音楽、そしてサリーのテーマ・ソングともいうべきコンティネンタル・タンゴのメロディ以外、画面を遮る余計な音楽はない。これみよがしのサウンドトラックを廃したマリウス・ルーラントの音楽は、ことさら映画の印象を深くすることになった。

上映時間90分あまりの間に、重いモラルのテーマと、平和への希求という大きなメッセージを盛り込んだ映画は、“史実”と“映画的表現”との奇跡的な合体をも成し遂げてみせた。一国家による大規模な犯罪という題材の奇抜さはもちろんのこと、限られた空間の中でサスペンスフルに展開するエンターテイメントといい、サリーの回想から始まり、それがサリーの今の行動の明快な説明となっている物語の構成の妙といい、題材の面白さだけに寄りかからぬルツォヴィツキー監督の手腕にも感心させられる。

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それを画面で支えたのが、サリー役のカール・マルコヴィクスはじめ、出演陣の健闘だと思う。マルコヴィクスは、パッと見には地味で貧相な外見ながら、ジョン・マルコヴィッチ系の一種独特の色気を漂わせる不思議な個性の持ち主だ。また、ブルガーに扮した、ドイツ映画界期待の若手俳優アウグスト・ディールの成長にも驚かされる。彼の演技は「青い棘」でしか知らなかったが、この「ヒトラーの贋札」では、純粋さの中に言い様のない哀しみを湛えたブルガーを熱演して秀逸。

また特筆したいのが、サリーの運命を左右するキーパーソン、フリードリヒ・ヘルツォーク親衛隊少佐を演じたデーヴィト・シュトリーゾフだ。ヘルツォークは、ベルンハルト作戦の首謀者でもあったベルンハルト・クリューガー少佐をモデルにした人物である。シュトリーゾフは、ナチスという虎の威を借る狐であった彼の内面を実に繊細に演じていた。囚人達に対し、飴と鞭を巧みに使い分けて頭の良さを見せるかと思えば、形勢不利と見るやさっさと退散する要領の良さも見せる。終戦後、一気に形勢逆転されたサリーに銃口を向けられれば、失禁しながらも必死に命乞いをする卑屈さ。1人の人間の中に潜む多面性を、これほど鮮やかに見せ付けられる人物も珍しい。彼は結果的に、作戦に従事した144名からのユダヤ人の命を救ったことになるのだが、映画においては、そのキャラクター造形の巧みさと共に、シュトリーゾフの演技巧者振りを褒め称えたいと思う。

また、ベルンハルト作戦の概要を、ドイツ史と世界史の関わりの観点から広く知りたいと思われる方は、以下の書籍を読まれることをお勧めする。
ヒトラー・マネー
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長年世界の金融事情を報道する仕事に携わり、国際金融の歴史と実態に通じた著者ローレンス・マルキンが、5年の歳月をかけて著したルポルタージュである。ベルンハルト作戦の実際と、その作戦が世界の通貨事情にどんな影響を及ぼしたのか、またいかにしてそれが白日の下に晒されていったのか、その経過を全て網羅している。

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