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zoom RSS 芸術はf*ckin'テンポだぁっ―「セッション Whiplash」

<<   作成日時 : 2015/06/21 17:17   >>

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“1つだけ確かなのは、もしもテレンス・フレッチャー先生の目の前に日本の誇る伝統的家具“ちゃぶ台”があったなら、彼は迷わずそれをアンドリュー・ニーマン君の頭めがけてブン投げたことだろう。つくづく、フレッチャー先生の練習スタジオに“ちゃぶ台”が存在しなくて良かったと安堵したものだ…”―「セッション Whiplash」観賞後の豆酢館長の率直な感想より

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....."Chabu-dai".....

【ちゃぶ台だろうがシンバルだろうが、そして如何なる理由があろうとも、他の人に向かってそんなものをブン投げてはいけません。大変危険です。怪我人が出るわ、ヴォケが】


“私たちアメリカ人が好んで使う言葉の中で最低最悪のものは2語、『Good job』だ。この2語のせいで本物の芸術家になりそこねた奴が、アメリカに一体どれだけいることか。『Good job』は人の向上心を削ぎ、人の心を弱くする。今巷には『Good job』が溢れている。本物にもクズにも等しく『Good job』。ジャズが廃れていくわけだ”―「セッション Whiplash」より

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「セッション Whiplash」(2014年)
監督:デイミアン・チャゼル
製作:ジェイソン・ブラム&ヘレン・エスタブルック&ミシェル・リトヴァク&デヴィッド・ランカスター
製作総指揮:ジェイソン・ライトマン&ゲイリー・マイケル・ウォルターズ&クーパー・サミュエルソン&ジャネット・ヴォルトゥルノ=ブリル
脚本:デイミアン・チャゼル
撮影:シャロン・メール
プロダクションデザイン:メラニー・ペイジス=ジョーンズ
衣装デザイン:リサ・ノルチャ
編集:トム・クロス
音楽:ジャスティン・ハーウィッツ
音楽監修:アンディ・ロス
出演:マイルズ・テラー(アンドリュー・ニーマン)
J・K・シモンズ(テレンス・フレッチャー)
ポール・ライザー(ジム・ニーマン)
メリッサ・ブノワ(ニコル)
オースティン・ストウェル(ライアン・コノリー)
ネイト・ラング(カール・タナー)他。

夢と希望と野心に溢れる19歳のアンドリュー・ニーマンにとって、近い将来、自分がバディ・リッチのような偉大なドラマーになるのは、努力と才能さえ認められればさほど難しくはないことのはずだった。だが、自信を抱いて入学したアメリカ屈指の音楽学校、シェイファー音楽院には、少なくとも彼自身と同レベルの音楽家の卵たちはたくさんいる。自信はあるが、自分が飛び抜けて優れているのかどうか今ひとつ確信が持てないアンドリューは、この不安定な状況から抜け出すため、最初の学年の生徒たちが配属される楽団で、黙々と練習に明け暮れる孤独な日々を送っていた。シェイファー学院で最高クラスの楽団を率いるテレンス・フレッチャー教授に認められれば、彼の楽団にスカウトされる。そうすれば、プロへの道も開けてくるのだ。アンドリューもそうだが、他のライバルたちも皆この“フレッチャー教授”に到達することを目標に、毎日練習しているようなものだった。

練習尽くしで煮詰まったら、アンドリューは映画館に行く。別に映画好きでもなんでもないのだが、しばらくの間頭を空っぽにするには、映画館内でボーっとスクリーンを見つめるのが一番良いのだ。それに、可愛い店番の娘ニコルもいる。アンドリューが場末の映画館に通うのは、彼女が目的でもあった。しかし、音楽…特にジャズ…についてはコンピューター並みの知識と情報量を誇っても、同じ年頃の女の子をデートに誘うにはどう切り出したら良いのかさっぱり分からず、彼女の前ではいつも下を向いたままポップコーンを注文する有様だった。

ある日、そのフレッチャー教授が、アンドリューが学ぶクラマー教授の1年生クラスにフラリと現れた。生徒達はざわめく。彼は自身が指導する学院最高のバンドに優秀な生徒を引き抜くため、たまにこうして各学年の生徒達を“試しに”くるのだ。フレッチャーはクラマーを一顧だにせず、クラス内の生徒達をランダムに指名しては即興で演奏させる。大半はフレッチャーのお眼鏡にかなわなかった。アンドリューも、1年生クラスの中ですら第一奏者ライアン・コノリーの二番手に過ぎないため、内心諦めていた。ところがフレッチャーは、去り際に1人の生徒にのみ白羽の矢を立てた。驚いたことに、その生徒の名はアンドリュー・ニーマンであった。

突然降ってわいたビッグ・チャンスにアンドリューは有頂天になる。未来への展望が一気に開け、取り戻した自信を胸に、ニコルにも思い切ってデートを申し込んでしまった。田舎から都会に出てきて、どこにも居場所がない心細さを抱えながら学生生活を送る不安が、アンドリューとニコルを不器用ながらも一層近づけた。

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フレッチャーのバンドとの練習初日、フレッチャー当人から聞いた練習時間にスタジオに向かったアンドリューだったが、そこは無人でフレッチャーの姿はなかった。狐につままれた心持ちで、1人スタジオで待ちぼうけを食うアンドリュー。バンドのメンバーがスタジオにやってきたのは、それから3時間も経った頃だった。練習開始前までは、皆冗談や無駄口を叩きながら、それでも楽器を触る手元はきびきびと演奏準備を進めているという、スタジオ内ではおなじみの光景が見られた。フレッチャーのバンドのドラムの第一奏者はカール・タナー。アンドリューはまずはタナーの譜めくり係から出発だ。ところが、フレッチャーがスタジオ内に入ってきたとたん、その場は水を打ったように静かになり、異様な緊張感に包まれる。皆無言で一斉に起立。まるで軍事教練開始のような彼らの様子に、アンドリューは面食らう。
その緊迫感の理由はすぐわかった。スタジオに入ってくると、フレッチャーはいきなり課題曲の演奏を促す。ここで慌てたり、演奏をミスしたりしてはだめ。どの楽曲のどのパートを指示されてもすぐ対応できるよう、皆、自宅で充分に準備してこなければならないのだ。…タナーは必ず譜面を見ながら叩くので、アンドリューは彼の演奏時にはぴったり隣に張り付いていてやらねばならないが。バンドメンバーのうちの1人が、フレッチャーの要求する“完璧なテンポ”と“完璧なハーモニー”を乱す許しがたい演奏ミスを犯した。フレッチャーはその生徒に名乗り出るよう要求したが、バンドから追い出される恐怖に竦みあがった彼は白状できない。フレッチャーは耳を疑うような罵詈雑言をわめき散らし、泣き始めた彼にスタジオからとっとと出て行くよう怒鳴りつけた。
あっけにとられるアンドリューに、フレッチャーは気味が悪い猫なで声でリラックスするようなだめたが、それも束の間、フレッチャーの次なる標的はアンドリュー本人だった。フレッチャーにとって、完璧な演奏こそが全て。たとえ一音でも音を外すようなマヌケは、フレッチャーのバンドに居場所はないのだ。ハンク・レヴィの“Whiplash”のテンポを捉えるのは、ドラマーにとって確かに難しい。だが、ドラムのテンポがほんの僅かずれているからという理由で、子供のように頬を殴られたり、演奏中に椅子を投げつけられたり、バンドメンバーのまん前で『お前がマヌケだから、母親はお前を捨てて家を出て行ったんだ』などという、事実無根、且つハラスメントに相当する罵声を浴びせられるいわれはないだろう。悔し涙にくれるアンドリューを、更なるフレッチャーの言葉の暴力が追い詰める。
「演奏中に小さなミスをしたチャーリー・パーカーに向かって、バンドメンバーのジョー・ジョーンズは遠慮なくシンバルを投げつけた。ショックを受けたパーカーは、その晩泣き明かした。だが次の日からは奮起し、練習に打ち込んだ。その後ステージ上で、彼は最高のソロを披露した。…だからこそパーカーは、偉大なミュージシャンになったんだ」

生徒と教師。古今東西、この二者の間には、“支配者と被支配者”という関係によって深い溝ができている。アンドリューにとって、いかなキチガイ教師といえど、フレッチャーはやはり屈服せざるを得ない支配者だった。しかし、かつて天才と呼ばれた偉大なミュージシャン達が、屈辱や挫折を乗り越えて成長していったように、アンドリューも侵食を忘れて死に物狂いで練習に明け暮れた。文字通り手から血を流しながら、ドラムのことだけを考える時間が過ぎる。たまに実家に戻っても、父親の心配すら耳を素通りし、芸術を理解できない、卑小で俗物的な親戚連中の自慢話にうんざりさせられるだけだった。地方の小さな大学でアメフトチームのレギュラーを務めていたところで、一体何の意味がある。こちらは凡人には手も届かぬ偉大な音楽に魂を捧げている身分なのだ。アンドリューのドラムへの固執はますます病的になり、ついにはニコルにも、酷く利己的な理由から一方的に別れを告げた。いわく、「僕は偉大なドラマーになる定めにある男だ。これから君なんぞにかまけている時間はない。君はガールフレンドを放っておく男を責め、彼の足を引っ張ることだろう。女は皆そうだ。だからお互いに不愉快な思いをしないよう、今のうちに別れておこう」と。

相変わらず暗譜をしようとしないタナーの譜めくり係として、二番手奏者に甘んじるアンドリュー。転機はリンカーンセンター主催の大会のときに訪れた。タナーはアンドリューを付き人扱いし、本来なら自分が肌身離さず持っていなければならない楽譜をアンドリューに預けて休憩に行ってしまった。面白くないアンドリューもコーヒーを買う。ところが、彼がほんの僅か目を放した隙に、タナーの楽譜が忽然と消えてしまった。楽譜を盗んだって何の得にもならぬのに、誰かがタナーの楽譜を持ち去ったのだ。もちろんフレッチャーは、タナー、アンドリュー双方の不手際に激昂する。苛立った彼は暗譜している者にドラムを叩かせると宣言。結局アンドリューがピンチヒッターで、文字通りぶっつけ本番で舞台に立つことになった。しかし、災い転じて福となり、アンドリューは狂ったように練習した“Whiplash”を完璧に演奏してみせた。フレッチャーはきわめてそっけなく、アンドリューを第一奏者に格上げした。

フレッチャーの考えていることは誰にもわからない。彼はある日、クラマー教授の1年生クラスで一緒だったコノリーを彼のバンドに招き入れた。彼を第一奏者の第一候補にするというのだ。代打で演奏したアンドリューは、あくまでも臨時の措置であり、正ドラマーになりたければ、実力で第一奏者のポジションを勝ち取れとフレッチャーはうそぶく。これで、コノリー、タナー、アンドリューの3名が正ドラマーの座を争うことになった。クソッタレ!!フレッチャーのオフィスに怒鳴り込んでいくアンドリューからは、スタジオ練習初日に当のフレッチャーにいたぶられてベソをかいていた気弱な青年の面影は、もはや消え失せていた。シェイファー音楽院の生徒たちにとって重要な意味を持つ大会が迫っている。試練と屈辱を乗り越え、己が才能に確信を持った傲岸な音楽モンスターは、間近に迫った大会に向けて闘志を燃やす。

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鬼の目にも涙。ある日フレッチャーは、スタジオ練習を始める前に、かつての教え子ショーン・ケイシーが自動車事故で亡くなったことを告げた。彼はフレッチャーの教え子の中でも格別優秀とは言えなかったが、フレッチャーのしごきにも耐えて必死に努力した。そしてミュージシャンとして花開き、卒業後すぐに著名ミュージシャンのバンドメンバーにスカウトされたのだ。ケイシーのソロをテープで流しながら、フレッチャーは涙を流す。その光景は、フレッチャーへの怒りに燃えるアンドリューの心を打った。
ところが案の定と言うべきか、この直後に始まった練習では、フレッチャーはドラム3名に八つ当たりともみえる難癖をつける。3名ともに、叩くスピードが遅すぎる。この中で最も早いテンポで最も長く叩き続けられた者を第一奏者にすると宣言し、3名に延々と演奏を続けさせたのだ。遅い遅い遅い!もうギブアップか、次は誰が叩く?こうして3名のドラム早叩き対決は深夜にまで及び、3人の手から流れる血でドラムセットが血塗れになった。この対決を制したのは、アンドリューであった。

大会当日。会場が遠く、フレッチャーの忌み嫌う遅刻は厳禁であるため、アンドリューも早めのバスに乗った。ところが、音楽、特にドラムの神はアンドリューに苛酷であったようだ。なんと途中でバスのタイヤがパンク、田舎町の路上ゆえ、他のバスに乗り換えるわけにもいかず、立ち往生と相成ったのである。アンドリューは慌ててレンタカーを借りるが、その店に大事なドラムスティックを置き忘れてしまった。
会場には到着したものの、自分のドラムスティックを置き忘れてきたアンドリューに、フレッチャーは冷酷だった。彼の身に起こった予想外の不幸を一顧だにせず、ドラマーとは一心同体のスティックを忘れてくるとは第一奏者失格だと告げる。アンドリューが自分のスティックを演奏開始までに持ってこれなければ、ステージに立つのはタナーかコノリーだ。他人のスティックを借りて大事なステージに立つのは許さない。
アンドリューは再びレンタカーに飛び乗ると、置き忘れたスティックを引っ掴み、凄まじいスピードで車を飛ばす。だがハンドルを切り損ね、車は路上で横転。アンドリューは全身血塗れになる。しかし、介抱してくれた人の制止を振り切って、彼は会場まで走っていく。タナーとコノリーが驚く中、バンドがまさに演奏を始める直前にアンドリューはキットの前に辿り着き、震える手でスティックを握る。執念でドラムを叩き始めたものの、大怪我を負った腕では満足に叩くこともできず、彼はスティックを取り落とす。身体の激痛と無念に苦悶するアンドリューに、フレッチャーは口に薄ら笑いすら浮かべながらバンドからの追放を告げた。激昂したアンドリューはフレッチャーに掴みかかり、ステージから引きずり出されてしまう。

この騒動を受け、シェイファー学院はアンドリューを退学処分とした。憑き物が落ちたかのようにドラムへの情熱が醒めたアンドリューだったが、父ジムは納得しない。たった1人の息子の人生を台無しにした憎い男に一矢報いたい。彼は例のショーン・ケイシーの両親の代理人を務める弁護士と接触し、ケイシーの死の真相について驚くべき事実を得た。フレッチャーはケイシーを事故死だと説明したが、真相はそうではなく首吊り自殺だった。ケイシーはフレッチャーのいじめに等しい異常な指導を受けるうち、鬱病を発症した。プロになっても症状は改善せず、ついに最悪の結末を選んだというわけだ。ケイシーの両親と代理人は、フレッチャーを直接裁判にかけることはできなかったが、アンドリューの証言さえ得られれば、フレッチャーの素行を大学側に通報し、彼を大学から追放することは可能だ。…彼の“本物の才能”を見抜く眼力は確かだし、アンドリューの資質をここまで伸ばしたのも彼のおかげであることは疑うべくもない。しかし、彼から理不尽に虐待され続けた日々、その挙句、自分は結局大学を辞めざるを得なくなったこれまでのいきさつを思い出したアンドリューは、再びこみ上がってきた怒りの赴くまま匿名での証言書にサインしたのだった。

ドラムセットを物置にしまい込んで鍵をかけ、コロンビア大学に願書を出し、夏休みの時期に店員のバイトをしていたアンドリューは、フレッチャーが近所のクラブでピアニストとして演奏している姿を発見する。大学にいた頃とは人が違ったような穏やかな表情で、のんびりと演奏を楽しんでいたフレッチャーを信じられない思いで見つめるアンドリュー。しかし、何物も見逃さない視覚は健在で、足早に去ろうとしたアンドリューを目ざとく見つけたフレッチャーは、彼にビールをおごる。気まずい雰囲気を破ったのはそのフレッチャーで、彼ははじめてアンドリューに自らの行き過ぎた指導の意味と理由を説明し始めた。

自分の仕事は、才能の原石を教え導き、最高の状態にまで磨き上げること。客の前で指揮棒を振ることではない。自分に敵が多かったのは認めるが、才能ある若者を成長させるため、自分もまた全てを犠牲にしてきた。

「演奏中に小さなミスをしたチャーリー・パーカーに向かって、バンドメンバーのジョー・ジョーンズは遠慮なくシンバルを投げつけた。ショックを受けたパーカーは、その晩泣き明かした。だが次の日からは奮起し、練習に打ち込んだ。その後ステージ上で、彼は最高のソロを披露した。…だからこそパーカーは、偉大なミュージシャンになったんだ」

誰になんと言われようと、自分は優秀な教え子たちを導いてきた自負はあるし、そんな自分を誇りにすら思っている。しかしアンドリューはこうあてつけずにはいられなかった。その“天才”への異常な執着が、未来のチャーリー・パーカーの人生を結果的に潰したことになったのではないか、と。

「私たちアメリカ人が好んで使う言葉の中で最低最悪のものは2語、『Good job (よくやった)』だ。この2語のせいで本物の芸術家になりそこねた奴が、アメリカに一体どれだけいることか。『Good job』は人の向上心を削ぎ、人の心を弱くする。今巷には『Good job』が溢れている。本物にもクズにも等しく『Good job』。ジャズが廃れていくわけだ」

真の悲劇は、この“Good job”のせいで、未来のチャーリー・パーカーの才能の芽を永遠に潰してしまうことだ。フレッチャーは不敵ともいえる笑顔をアンドリューに見せた。なに、私のチャーリー・パーカーは、何があっても絶対に潰されやしないさ。

フレッチャーが初めてその本音をアンドリューに吐露した、そのうちのどの言葉がアンドリューの琴線に触れたのかは分からない。だが確かに、凍りついていた彼の心の一部は溶け、人生から葬ったドラムスティックを再び手に取った。そして、フレッチャーがプロのバンドを率いてタクトを振るというJVC音楽祭で、彼のバンドのためにドラムを叩くことを了承したのだった。……


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“圧倒される。とんでもなく凄い映画”
“バカみたいな映画。音楽を知っている奴が作ったと思えない。楽器は、速く弾いたり叩いたりすれば良いものではない”
“音楽をやってる奴なら見ておくべき映画”
“ラスト9分少々のカタルシスにはやられる”
“究極の師弟関係”
“あの教師は狂ってる。生徒を怒鳴ったり叩いたり、彼らの人格を破壊する罵詈雑言を浴びせたり。あれはただの暴力であり、教育でも何でもない”
“鬼教師を怪演したJ.K.シモンズの狂気っぷりが凄すぎ”
“若き天才ドラマー、アンドリュー青年役をほとんど吹き替えなしで演じたマイルズ・テラーも素晴らしい”


―映画「セッション Whiplash」に寄せられた観客の反応例―


…そして、「セッションWhiplash」を観終わった直後のわたくしの反応。

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『『『何でもいいから叩きたい!ズンドコズンドコでもドガンドガンでもズガガガガでも何でもいいから!叩かせてくれぇぇぇぇぇ!!』』』

……でした(笑)。

最近、音楽の世界を舞台にした映画をよく見ている気がします。感想は書いていないんですが、アン・ハサウェイ姐さんの「ブルックリンの恋人たち Song One」然り、「はじまりのうた Begin Again」然り、「FRANK -フランク- / Frank」然り。

そして、2014年度の映画賞レースでも、特に助演男優賞部門で頻繁に候補に挙がっていた「セッション Whiplash」。…私にとっては、良い意味でも悪い意味でも、あらゆる側面で突き抜けた感のあるこの作品が、2014年度の音楽映画のトリを飾るものだと思っています。尤も、これを“音楽映画”と呼んでしまうにはあまりに破戒的で、爆発的で野心的で尊大で攻撃的で、しかし、ドラマと音楽が臍の緒で分かち難く繋がっているために、やはり“音楽映画”と呼ぶしかないという、説明に困る状態なのですが(笑)。

初見時にこの作品から受ける“ファースト・ショック(インプレッションではない・笑)”は、こちらの予想を大きく裏切って二転三転するストーリー、またそいつに翻弄されるあまり、本来“音を楽しむ”芸術であるはずの音楽が、サスペンスの起爆剤も兼ねていることにストレスすら感じてしまうことでしょうか。それは要は、観客が劇中では否応なくアンドリューと同化し、モンスター・フレッチャー(笑)と闘いながらドラムの天才目指してドラムを叩いて叩いて叩きまくる、この音楽根性ドラマにすっかりのめり込んでいることを意味していますね。これ全て、アカデミー賞を獲得した編集トム・クロスの、まさしく完璧に“f*ckin' tempo”を捉えたスピーディーかつ無駄のない編集のお陰。切れ味鋭いクロスの編集の醍醐味が最大限に発揮されるのは、主人公アンドリュー君にとっては痛ましいことこの上ありませんが、大会会場に時間内に戻るため乗ったレンタカーが、横転事故を起こすまでのくだりですね。この部分のハラハラドキドキが心臓に堪えるのはひとえに、リズミカルに畳み掛ける編集のお陰です。

もちろんこの作品の価値は、二度目、三度目の複数回の観賞にも耐えるものです。決して、ストーリーのどんでん返しだけで観客をびっくりさせるこけおどし映画には終わりません。むしろ、何度も見ていくうちに、激しすぎるストーリー展開と、激しすぎるキャラクター達の正面からの激突の裏に密かに隠されたメッセージであるとか、登場人物自身も気付いていないかもしれない感情の交錯などが裏読みできて、新たに発見できるものがあるかもしれません。

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テレンス・フレッチャーは紛れもなく、“天才”を自らの手で生み出し、創造主になる野望を抱いていました。そして、彼の"genius maker"になることへの渇望は、彼が相手にする人間、すなわち天才にするべく彼が今大事に育てている人間と築こうとする関係と密接に結びついています。

彼は“天才候補者”を我が身の内に身籠り、それが彼のはらわたを食い破って生まれ出る瞬間を待ち焦がれていたのです。アンドリューを発見する前からずーっとね。

候補者を見つけると、その候補者を挑発し、罠を仕掛けて騙し、言葉でも肉体的にも暴力をふるって当人をボロボロに傷付け、狂気の淵まで追い込んでいくことも厭いません。“good job”と言われ続けて骨抜きにされ、口触りの良い“nice person”にはなったが、才能を研磨することを忘れたなまくらに喝を入れ、本人の肉体を精神を、持てる全てをその才能にのみ奉仕させるよう仕向けるためならば。彼はその崇高な目的にのみ生きており、目的を達成するためにあらゆる手段を駆使します。いかな他人には常識を逸脱した行為に見えようとも、フレッチャーにとってはそれらは必要不可欠な“指導”なのです。いいんですよ、それで。フレッチャーに言わせりゃ、“常識から天才は生まれねぇ”ってことなんですからさ。哀しいかな、天才は、常識を超えた未知の領域、私たちが“狂気”と呼ぶ世界に足を踏み入れて初めて、誕生するものであるのは確かです。

彼はそうやって、彼自身と彼が生んだ天才との間にある種の運命共同体的連帯感というのか、へその緒で繋がったかのような濃密な絆を作り上げるのです。そしてそれが、他でもない天才自身によって食い破られる瞬間を、今か今かと待っているわけです。その瞬間にこそ、彼が天才に注いだ愛情の全て、天才のために彼が支払った犠牲の全てが報われ、彼の悲願―天才を自分の子宮から生み出す―が成就するのですね。

なんとまあ、あなたはどれだけ業が深いのか、フレッチャーさんよ。前世で一体何をやらかしたんだ(笑)。彼の不器用そのもの、でもある意味ではこれ以上ないほど純粋な愛のカタチを見ていると、彼という人間はきっと、彼自身が考える以上に天才という存在に依存し、むしろ隷属し、執着せずにはいられないのでしょう。見た目はタフでマッチョッチョですが(笑)、内面は非常に非常に女性的だと感じました。

先日、「マッドマックス 怒りのデス・ロード Mad Max: Fury Road」でトム・ハーディとシャーリーズ・セロンそれぞれのスタントを担当した、スタントマンとスタントウーマンがめでたくご結婚されたニュースを聞きました。なんでも、「自分達は、スタントでお互いを殴り合ってるうちに愛が芽生えました!」という、体育会系な愛の成就だったとか。その瞬間に“殴り愛”という言葉が頭に浮かんだ方はきっと多かったことでしょう(笑)。

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結局何が言いたいのかというと、この「セッション Whiplash」という物語は、方やドラムスティックを、方や指揮棒を武器にした、業の深い野郎2名の“殴り愛”音楽ラブ・バトル・ストーリーだったということですわ(爆)。特に、フレッチャー氏が抱える業が深過ぎ、彼の天才に向ける愛の深さはマリアナ海溝並み、愛の粘度はタール並みでございます。チャゼル監督は、やたら物分かりの良い鷹揚なキャラクターには食傷していたそうで、フレッチャーを演じたシモンズおいちゃんにも、キャラクター造型にリミットを設けず、誰も見たことのないような“怪物”を作り出してくれと頼んだとか。この作品の勝因の一つに、フレッチャーの魑魅魍魎跋扈する複雑なキャラクターがあります。油断も隙もあったもんじゃない、他人からの共感一切無用、孤絶の男フレッチャーが、その内面には実は究極の女性性を持っていたというアンビバレンス。これには確かに、抗い難い吸引力がありますなぁ。

何度か今作を見ていると、この業深きフレッチャーの執着を真正面から受け止め、紆余曲折はあったものの最終的にその重いカルマごと力技で全部抱え(笑)“天才”の領域に飛翔していったアンドリューの強さにも感銘を受けます。フレッチャーの方が派手で目立つキャラクターなのでワリを食いがちですが、天衣無縫の暴れ馬を受け止め、手なづけ、しっかり支えるには大きな力が必要。マイルズ・テラー君の縁の下の力持ち的な堅実な演技が、極めて受動的だったアンドリューの才能と自我の目覚めと共に変わり始め、ついにフレッチャーを凌駕するクライマックスで爆発、昇華するのを目撃できたのは幸せでしたよ。ほぼ自分で叩いたという根性ドラムプレイにも拍手を。


…そしてこの作品自身も、従来の“音楽映画”という伝統の子宮から、自らへその緒を食いちぎる勢いで誕生した異端の音楽映画であるとも考えられますね。また、“天才”という言葉から多くの人が連想する先入観をことごとく否定し切ったという意味では、常識をも挑発するアナーキーなアート“否定"アート映画です。


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