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zoom RSS 芸術は混沌だぁっ―「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) Birdman」

<<   作成日時 : 2015/05/05 01:02   >>

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“なぜいつも、俺が愛を乞う側なのだ?”

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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)」(2014年)
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ
製作:アレハンドロ・G・イニャリトゥ他。
製作総指揮:クリストファー・ウッドロウ他。
脚本:アレハンドロ・G・イニャリトゥ&ニコラス・ヒアコボーネ&アレクサンダー・ディネラリス・Jr&アルマンド・ボー
撮影:エマニュエル・ルベツキ
プロダクションデザイン:ケヴィン・トンプソン
衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー
編集:ダグラス・クライズ&スティーヴン・ミリオン
音楽:アントニオ・サンチェス
出演:マイケル・キートン(リーガン)
ザック・ガリフィナーキス(ジェイク)
エドワード・ノートン(マイク)
アンドレア・ライズブロー(ローラ)
エイミー・ライアン(シルヴィア)
エマ・ストーン(サム)
ナオミ・ワッツ(レズリー)
リンゼイ・ダンカン(演劇評論家タビサ)他。

リーガン・トムソンは落ち目のハリウッド俳優である。かつては『バードマン』という3本のブロックバスター映画で主役のスーパーヒーロー、バードマンを演じ数十億ドルの興行収入を稼ぐほどのスター俳優だったが、それ以降ヒットに恵まれず、20年以上が経過していた。60代となり、家庭でも失敗したリーガンは『かつてバードマンを演じた俳優』として惨めな生活を送っていた。
単なる落ちぶれたアクション俳優ではなく、アーティストとしての自分に存在意義を見いだそうと自暴自棄になったリーガンは、ブロードウェイ進出という無謀な決断をする。かつて俳優になることを決意したきっかけでもあるレイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を舞台向けに脚色し、自ら演出と主演を務めることにしたのだ。
プロダクションは親友の弁護士のジェイクが担当し、共演者にはリーガンの恋人であるローラ、初めてブロードウェイの劇に出演するレスリーが選ばれた。また、自分の娘で、薬物依存症から回復したばかりのサムをアシスタントとして加え、本公演前のプレビュー公演は目前にせまっていた。しかし、舞台制作を通して自身の抱える根深い問題と直面することになったリーガンは、いつしか今の自分を嘲る心の声に悩まされるようになる。
リハーサルの最中、1人の俳優が怪我で降板すると、その代役として、ブロードウェイで活躍するマイクが選ばれる。俳優として卓越した才能を見せながらも、身勝手極まりないマイクの言動に振り回され、プレビュー公演は散々な結果に終わる。また、公演の成功の鍵を握る批評家からも「俳優ではなく単なる有名人」と面と向かってこき下ろされ、本公演の酷評を宣告される。
そして本公演が始まる。
 ―Wikipediaより抜粋

アカデミー賞を獲得した作品「バードマン Birdman」と「セッション Whiplash」が、日本ではほぼ同時に劇場公開されました。そして館長が見た限りでは、作品への評価もまた双方とも賛否両論に二分されているようですね。両作品を通して見て、個人的には非常に気に入ったのですが、まあ、好き嫌いがハッキリ分かれるタイプの、クセの強い作品であるのは明白ですな(笑)。既に映画をご覧になった多くの方々が指摘されているように、アカデミー会員はよく「バードマン Birdman」みたいな作品に最高の賞を与えたもんだなと(大笑)、今更ながらに私も感心いたしました。

しかし、このアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作「バードマン Birdman」、同郷の盟友アルフォンソ・キュアロン監督の「ゼロ・グラヴィティー Gravity」同様、映画で描かれる物語の中に観客を引きずり込み、主人公の体験を観客にも同時に体験させてしまう感覚で観客を翻弄します。そういえば、もう一人の同郷ギレルモ・デル・トロ監督の「パシフィック・リム Pacific Rim」もまた、観客を映画世界の中に引き込んでいく“バーチャル・リアリティー”タイプの作品でした。なんですか、南米出身の映画作家は、観客を自らの作り出す映画世界に完全に取り込んでしまいたいという、一種の捕食願望をお持ちの方が多いんでしょうか。イニャリトゥ、キュアロン、デル・トロのスリー・アミーゴスについては、3人が3人ともに全く異なる個性と作家性を誇っていますのにね。面白い共通点だと思いますよ。

「バードマン」では、イニャリトゥ監督の強い意向を受けて、撮影監督のエマニュエル・ルベツキが壮大な長回しショットを披露。カメラワークと編集に拘り抜き、舞台で働く人々にカメラが密着したり、劇場の内外をぐーっと引いた場所からロングショットで捉えたりしながら、この作品全てをたった1度の長回しで撮影したかのように見せています。
そうすることで、今作で描かれる、リーガンの舞台のプレビュー公演前日から舞台が初日を迎えるまでの約4日間という時間を、観客も同時に体験することができるわけですな。そりゃもう、映画を見ている間中、私らもリーガンと一緒になって右往左往したり、絶望したり、怒り狂ったり、パニックになったり、妄想に逃げ込んだりして、忙しいことこの上なし(笑)。神出鬼没の力強いドラムの音に導かれるように、観客もリーガンも、芸術を生み出そうと苦悩する人間たちの混沌の中で転げまわる羽目になります。映画終了後は、ずーっとずーっと緊張し続けて開きっぱなしだった瞳孔がやっと閉じ、ついでにどっと疲労感も押し寄せてくる気がしましたわ(笑)。

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あくまでも私見ですが、“アカデミー賞作品賞受賞!2014年度の最高傑作!”という煽り文句も凄まじかった「バードマン Birdman」への観客の困惑が、かなり大きかったのではないでしょうか。“アカデミー賞作品賞受賞!!”と耳のすぐ傍で怒鳴られると(笑)、観客は本編を実際に自分の目で見る前に、“この映画は愛と感動の名作である”といった先入観を植えつけられてしまいがちです。それは、日本の配給会社がそのように観客をミスリードしておられるからで、万が一、映画を見て騙されたような気になってしまった人が大勢いらっしゃっても、それは致し方のないことですよ。

「バードマン Birdman」という映画は、芸術と娯楽の狭間でもがく主人公リーガンが、芸術の桃源郷を目指しつつも自分の目前に立ちはだかる分厚い壁に跳ね返され続け、ついに狂気の淵まで追い詰められるお話なんです。全てを犠牲にして芸術を目指す彼が、自分自身に課すあまりに重いプレッシャーに耐え切れず、居心地の良い娯楽のぬるま湯に戻りたがるもう1つの自我を表出させます。彼は、他ならぬ自分自身の甘えや心の弱さを、勝手に作った別人格になすりつけ、現実と妄想の境界線からも目を逸らそうと、悪あがきを繰り返しているに過ぎません。実は「バードマン Birdman」という作品は、本編の最初から最後まで、自分自身の尻尾を追いかけて右往左往する主人公をネタに、呆れて笑うしかないという類の“笑い”を取る魂胆なんですな。可笑しゅうて、やがて哀しき運命に堕ちていく哀れなリーガン。

多くの方から指摘されている通り、「バードマン」における、落ち目の男がもうひと花咲かせようと奮闘するくだりは、ミッキー・ロークが長い長い低迷から復活を果たした映画「レスラー The Wrestler」(2008年)を連想させるし、本物の芸術家たらんとするあまり、彼が己の正気を失っていく部分は、その同じダーレン・アロノフスキー監督による心理スリラー「ブラック・スワン Black Swan」(2010年)を容易に想起させます。しかし、「バードマン Birdman」の面白いところは、そのシンプルなストーリーラインに、昨今の“スーパーヒーロー映画”大流行への痛烈な嫌味、毎年飽きもせずにオスカー八百長レースを繰り返して喜んでいるハリウッドへの皮肉、ガチガチの保守性と排他性で衰退してゆく演劇界への批判、猫も杓子もSNS漬けで、他人と繋がる妄想と自身の病的な承認欲求の奴隷と化す凡人どもへの警告といった、カオティックな現代の文化批判が積み重ねられていく点ですね。

何もかもが過剰な今の世界で、自分自身を見失わないようにするためにはどうしたらよいのか。皆さん、“自分だけは大丈夫だ”という顔をなさっていますけど(笑)、そんなこたぁ誰にも分かるわきゃないでしょうが。リーガンの一人娘サムは、父の悪あがきを見ていられず、彼がもう一度世界から“尊敬されたい”“承認されたい”と願っているだけだと言い募ります。確かにそれは一理あるでしょうが、それだけではないようにも感じましたね。
リーガンが、私ら凡人より遥かに自己認識に劣っているのは明らか。そんなリーガンも、自身の復活を賭けて挑んだ舞台を通じ、大きな大きな犠牲を払ってやっとのことで、“自分自身を見失わないようにするために、あるいは、見失った自分自身を取り戻すにはどうしたらよいのか”という難題への彼なりの回答を得ます。その回答がどんな内容であったのかは、映画本編では観客の判断にゆだねられていますね。どのようにも解釈可能なラストもまた、観客の困惑を増幅した要因だったのでしょう。

ではなぜ、この作品の肝心要ともいえる“リーガンの回答”について、イニャリトゥ監督は映像にしなかったのか。“リーガンの回答”の具体的な内容は観客それぞれが自由に想像するとして、ここでは映像にしなかった理由にだけ触れておきます。
本編ラストにいたるまで、実はカメラはずっとリーガンの頭の中から外の世界を覘いておりました。従って私ら観客もまた、“リーガン自身が認識している外界”つまり、“第2の自我であるバードマンに操られているというリーガンの妄想世界”を、カメラを通じてずーっと見ていたのです。本編ラストでようやく、リーガンはその鬱陶しいバードマン自我から脱却し、妄想を切り捨て、例の雪の女王じゃござんせんが、ありのままの自分を受け入れたため、カメラはリーガンの頭の中から追い出されてしまいました。そうなると、カメラは第三者の目としての機能に戻らざるを得ず、“リーガンの外側”からリーガンの行動を見つめることになりました。ですから、父の“回答”を目の当たりにして、納得したように微笑むサムの表情のみが、スクリーンには映し出されたわけですね。


…自分を取り戻すことができたなら、次は“自分らしくあるためにはどうすればよいのか”という難題が待ち構えています。この問題の回答を得るためには、それ相応の試練と時間が必要ですね。皆さんがもしリーガンの立場だったとしたら、一体どのように答えられたのでしょうか。


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