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zoom RSS 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 Inside Llewyn Davis」

<<   作成日時 : 2014/10/08 11:52   >>

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最近、情報伝達のスピードがネットによって爆発的に上がったことで、世界が丸ごと巨大な情報の繭に押し込められてしまったような錯覚を覚えます。毎日一秒も休むことなく膨大な量の情報の奔流に晒され、日常生活のスピードまでも日増しに上がっているような気がしますね。何をするにも“より早く、より速く”と急かされるのは、しかさすがに辛い。私も寄る年波には勝てないということでしょうね。

偶然か無意識のなせる業か。実は去年の暮れ辺りから断続的に続いている個人的な現象なのですが、“潮流から取り残された人”の映画を続けて見るチャンスに恵まれ、且つそのいずれにも、今の自分の心理状態を鏡で見直しているかのような相性の良さを感じています。なにより自分自身が、“周囲に遅れないようについていくこと”それ自体に徒労感を覚えている時期なので、スクリーンの中で取り残されて途方に暮れ、孤独に蝕まれていく人には深く共鳴した次第です。

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“ボブ・ディランになれなかったすべてのミュージシャン達に捧げる。”

「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 Inside Llewyn Davis」
監督:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン
製作:スコット・ルーディン&ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン
製作総指揮:オリヴィエ・クールソン&ロバート・グラフ&ロン・ハルパーン
脚本:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン
撮影:ブリュノ・デルボネル
プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール
衣装デザイン:メアリー・ゾフレス
編集:ジョエル・コーエン(ロデリック・ジェインズ名義)&イーサン・コーエン(ロデリック・ジェインズ名義)
エグゼクティブ音楽プロデューサー:T=ボーン・バーネット
出演:オスカー・アイザック(ルーウィン・デイヴィス)
キャリー・マリガン(ジーン・バーキー)
ジョン・グッドマン(ローランド・ターナー)
ギャレット・ヘドランド(ジョニー・ファイヴ)
ジャスティン・ティンバーレイク(ジム・バーキー)
F・マーリー・エイブラハム(バド・グロスマン)
スターク・サンズ(トロイ・ネルソン)
アダム・ドライバー(アル・コーディ)
イーサン・フィリップス(ミッチ・ゴーフェイン )
アレックス・カルボウスキー(マーティ・グリーン)
クリス・エルドリッジ(マイク・ティムリン)
ベンジャミン・パイク(若年期のボブ・ディラン)他。

「古くて新しけりゃ、何でもフォークだよ」
グリニッジ・ヴィレッジで最も流行っているコーヒーハウスの一つガスライト・カフェで、今夜もルーウィンはギターを抱えて弾き語りをしていた。何一つ上手くいかず、生きる希望を失ってしまった男の歌。ルーウィンの歌はどれも悲しい。タバコの煙と安酒の臭いとフォーク・ソング。見苦しい髭をぼうぼうに生やし、髪の毛もボサボサ、まるで彼自身が歌う歌の主人公そのままの侘しげな姿は、しかし、このカフェの雰囲気に溶け込んでいた。身形には全く気を使わないが、ルーウィンはこれまでにガスライト・カフェの耳の肥えた常連客を何度も納得させてきた。それぐらいには才能はあるのだ。
1961年。当時のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジでは、若い世代が中心となったアート・カルチャーが勃興していた。特筆すべきは音楽で、フォーク・ソングを歌うにわかシンガーたちがたくさん誕生したものだ。ギターさえ持てば、猫も杓子もフォーク・シンガーを自称できる。時にはギターすら必要ないことも。あちこちで売れないフォーク・シンガーたちが弾き語りをし、才能があって運がよければ、ルーウィンやその他大勢の歌手たちのように、ガスライト・カフェで歌うチャンスを与えられる。だが、そこからさらに一段上のレベルに這い上がる者は、ごくごく僅かに過ぎなかった。売れるためには才能以外に運を引き寄せる力も必要だが、それ以上に大切なのは、業界の有力者に気に入られ、かつ彼らのやり方に素直に順応することだ。成功へのレールを敷いてくれるのは、どんなに嫌な奴でもやはりお偉方だから。ルーウィンのソロ・アルバムが全く売れず、一文無しで帰る家すら持たず、いつまでもガスライト・カフェでシケた客を相手に歌わなければならないのは、ルーウィンが音楽に対して異常に頑固であるせいだろう。

「ルーウィン、お前の友達だっていう奴が店の裏口にいるぞ」

ガスライト・カフェのオーナー、パッピに言われ、ルーウィンは訝りながらも店の外に出た。音楽界隈以外にまともな友人などいないが、場合によっては今夜の寝床を確保できるかもしれないから。…しかし、飛び込んできたのはラッキーではなく、顔面への強烈なパンチだった。その乱暴な自称“友人”の顔を確認する間もなく、ルーウィンは意識を失った。
翌日ルーウィンが覚醒すると、いつも世話になっているゴーフェイン夫妻宅のカウチの上で寝ていた。大学教授であるミッチ・ゴーフェインとその妻リリアンの自宅は、特に芸術家肌のリリアンの好みで、グリニッジ・ヴィレッジ界隈の売れないフォーク・シンガー達の溜まり場兼、同界隈のアートサロン的な場所になっていた。音楽で食べていけない連中は、ゴーフェイン夫妻の家に招かれ、あるいは自ら転がり込み(ルーウィンのように)、彼らの同僚や社交界仲間の前で歌ったりする余興の褒美として、夕食のお相伴に預かったりするのだ。
ルーウィンが目覚めたのはとっくに朝を過ぎた時間であり、当然家の中には人の気配はなく、夫妻の飼い猫(ルーウィンは名前を知らない)だけが胡散臭げにヒゲぼうぼうの風来坊を見ていた。時々この家にフラッと現れては食事や寝床を夫妻に恵んでもらうこの男は、今図々しくもリリアンの台所で卵を料理し、おまけに行儀の悪いことに皿を持って歩きながら飯を食っている。男の目が、ゴーフェイン氏のレコード・コレクションに釘付けになった。その中に、男がかつての相棒と一緒に、デュオとしてプロ・デビューすべく制作したレコードがあったのだ。彼らはアルバムをたった1枚しかリリースしなかったが、少なくともそのアルバムのジャケット写真の中では、2人とも小綺麗な格好でギターを抱え、陽気で元気いっぱいな若者に見える。むさ苦しい男の今の姿からは想像もつかないが、ゴーフェイン夫妻のお気に入りだったこの頃は、男も成功するために髭剃りをしてヘアスタイルをキメることにやぶさかではなかったのだ。長く続く下積みの苦労と喪失の痛みは、かくも人を変えてしまう。
ルーウィンは、突然の訪問とカウチを借りたこと、朝食の礼をメモに走り書きし、勝手知ったる他人の家で手際良く鍵を取り出して玄関の扉を開けた。だがこの時、一瞬の隙をついて夫妻の猫も一緒に外に飛び出してしまう。猫も魔が差すことがああるのだろう。ルーウィンと猫にとって不運だったのは、ゴーフェイン家の玄関の鍵がオートロック式だったことだ。

一緒に締め出されてしまった彼らは、仕方なく一緒に街に出る。一文無しで住む家すら持っていないルーウィンは、友人、知人リストの中から取り敢えず室内に入れてくれそうな人間の家に向かった。地下鉄車両内では、ヒゲぼうぼうの男が猫を抱えている図を大層珍しがられ、猫は猫で、目の前の風景が凄まじいスピードで通り過ぎるのを初めて目にし、パニックに陥る始末。
なんとか猫をなだめすかし、ルーウィンはミュージシャン仲間の“ジムとジーン”ことジム・バーキーとジーン・バーキーのカップルが暮らすアパートに不法侵入する。ジーンは、屋根裏から勝手に入ってきた無作法者に激怒し、ジムが不在なのをよいことに、以前、勢いで浮気した代償であるお腹の子供を堕す金を工面しろと凄んだ。一文無しだからこそ、今晩だけでも泊めてくれと泣きついてくる情けない男に対して、である。しかしジーンの怒りは治まらない。ルーウィンと違い、ジムは売れるために努力をし、あと少しで商業的な成功を手にする段階まで来ている。ジーンはジムと結婚し、歌に出てくるような素敵な結婚生活を送ることを夢見ている。そのためには、この甲斐性なしの負け犬のせいで膨らんでくるお腹を何とかしなくては。自分の見てくれや生活一切にだらしないルーウィンは、女関係にもだらしがない。以前付き合っていたガールフレンドも、やはりジーンと同じように妊娠させてしまい、赤ん坊を堕す羽目になったが、ルーウィンはその後ガールフレンドがどうなったか知ろうともしなかった。ジーンは苦々しい表情で、彼女は自分の故郷に帰ったと吐き捨てた。
ルーウィンはソロ契約を結んでいるレコード会社ーといってもほとんど何も機能していないただの事務所だがーを訪れ、ソロ・アルバムの印税を払ってくれるよう頼み込んだ。しかし、制作したアルバムはほとんど全て段ボール箱に詰め込まれ、埃を被ったまま物置に仕舞い込まれている状態で、ただの一枚も売れていないことを物語っていた。しかし中絶費用を捻出しなければならない。すっかり耳が遠くなった社長は、ルーウィンの話をろくすっぽ理解せぬまま40ドルを彼の手に握らせた。当てが外れて落胆したルーウィンに、秘書のおばさんが追い打ちをかける。

「物置の邪魔になるから、アルバムが入った段ボール箱を持って帰って頂戴」

ズッシリと重い段ボール箱を抱え、仏頂面のままルーウィンを待っていたジーンと合流したが、手が空かなくなった一瞬の隙に猫に逃げられてしまった。今はジーンの身体をいたわるより、猫を確保する方が大問題だ。大量の荷物をジーンに押し付けて猫の後を追いかけるルーウィンを、ジーンは遠慮なく罵倒した。
何とか猫を取り押さえ、ジーンに罵られながらもバーキー家の台所用の床で一晩を明かすお情けをもらったルーウィン。翌朝。ジムとジーン、そして当時の音楽業界の大物バド・グロスマンにまで才能を認められ、世話を焼かれていた期待の新人歌手トロイ・ネルソンが、ルーウィンの前に座っていた。軍服を着た彼は、これから基地に戻るという。まだ兵役が残っていたのだ。ちんまりと椅子に座り、ルーウィンの存在に動じず、規則正しくコーンフレークを食べる姿は、ルーウィンの口に無性に意地悪な言葉を吐かせた。ポップソングは音楽ではないと信じ、甘い声で虫酸の走るようなラブソングを歌う輩を心底軽蔑していたルーウィンは、まさに彼の嫌うタイプの歌手であるトロイに突っかかったが、トロイの方は相変わらず泰然自若として負け犬を歯牙にもかけない。認めるのは忌々しいが、トロイはいずれ大きな成功を収めるだろう。ルーウィンにもその器の大きさは充分理解できた。
ジーンにアパートから叩き出され、路頭に迷っていたルーウィンに朗報が飛び込む。ジムが新曲のレコーディング中で、ギターとバックボーカルができるミュージシャンを探しているというのだ。ルーウィンの日頃の困窮ぶりを知るジムは、わざわざ彼に声を掛けてくれたらしい。しかし、ジムが真剣に取り組んでいた歌は、ルーウィンに言わせればとても歌と呼べる代物ではないジョークのようなメロディだった。歌い出しに戸惑う程奇天烈な転調、間奏に妙なタイミングで断末魔のごとくの呻き声が入る。その呻き声は、もう一人の若いスタジオ・ミュージシャンが捻り出していた。
しかし、ルーウィンが何と文句を垂れようが、このレコーディングはジムのためのもの。当のジムに怒られながら、何とかレコーディングを終了させたルーウィンは、大手の制作会社が気前良く払ってくれた200ドルに窮地を救われた。ルーウィンは、レコーディングに居合わせた若者アル・コーディのアパートに無理矢理押し掛け、大量の売れ残りアルバム入り段ボール箱の置き場所と一晩の寝床を確保した。ふと彼の部屋のテーブルの下を見ると、アルのソロ・アルバムが大量に詰め込まれた段ボール箱を発見。どうやらアルも、自分と同じ境遇にある“お仲間”らしい。
翌日。アルは友達と一緒に、車を飛ばしてシカゴの大物バド・グロスマンに会いに行くと告げた。ガソリン代節約のため、ルーウィンも誘いたいようだったが、ゴーフェイン夫妻に猫を返しにいくのを言い訳に、ルーウィンは現実と向き合うのを今しばらく先延ばしにした。

ゴーフェイン家に戻ったルーウィンと猫。夫妻の上流社会のお仲間も、いつものように招かれている。しょっちゅうゴーフェイン家に入り浸っているルーウィンにとっては、夫妻のお仲間達に珍しい動物でも見るような目で見られることも、彼らの前で歌ってみせろと言われることにも、慣れっこのはずだった。だが、この日だけは、散々な目に遭ってきた疲労と思うに任せぬ現実への苛立ちが、ルーウィンに自制を失わせてしまった。
この日の客たちは、以前ジムに会ったことがあるらしい。ジムは、新曲だという例の奇天烈なメロディのポップソングを彼らの前で歌ったとかで、ルーウィンにも当然のような顔で芸の披露を要求した。ルーウィンは、それでも最後の抵抗として、マイクと一緒に歌っていた古い曲を歌い始めた。すると、側で聴いていたリリアンが、ルーウィンに合わせて勝手にマイクのパートを歌い始めたではないか。ルーウィンはついに堪忍袋の緒を切った。自分はサロンの客に猿のように芸を見せるために歌っているのではない。これでしか生きられないから、歌が人生であり、歌うことで生きねばならないから歌うのだ。遊びや余興で披露するものではない。今はいない相棒の歌を勝手に歌わないでくれ。それはマイクへの冒涜だ。
突然怒りを爆発させたルーウィンに気圧され、リリアンがパニックを起こした。また念の入ったことに、苦労して連れてきた猫が夫妻の飼い猫ではなかったことも同時に判明した。ゴーフェイン氏は場を鎮めるため、ルーウィンに偽猫を連れて家を出るよう言い渡した。

シカゴに行こう。グリニッジ・ヴィレッジで燻っていたところで、もうどうにもならない。バド・グロスマンのオーディションを受け、あわよくば彼のカフェで歌わせてもらおう。何もかも嫌になったルーウィンは、身辺整理のつもりでジーンの中絶手術を頼んだ医師のところに赴いた。前回のガールフレンドの時と同様、金を払ってこっそり手術してもらうためである。ところが、医師は今回の費用はゼロでいいと答えた。実は前回用に受け取った金がそのまま残っているので、今回は要らないというのだ。呆気にとられるルーウィンに、医師は苦笑いしつつ教えてくれた。ルーウィンの以前のガールフレンドは、直前になって中絶をやめたのだ。故郷に帰ってルーウィンの子供を出産し、そこで育てるつもりなのだと。予想外の結果に肩透かしを食らったルーウィンだったが、胸中は複雑だ。彼女は彼女なりに新しい人生を踏み出していたのだから。自分が全く知らない間に。

ルーウィンは姉の家に赴いた。実家に顔を出すのは久しぶりだ。相も変わらず汚い格好で、フラッと現れた弟に、姉は不機嫌さを隠そうともしない。弟が実家に現れるのは、大抵金に困っている時だからだ。姉は先手を打ち、彼らの父親の痴呆が進み、費用捻出のため家を売りに出しているがなかなか買い手がつかないことを打ち明ける。家を出るときのために、ルーウィンの私物はまとめてダンボール箱に突っ込んである。そんなものは全部捨ててくれていい。どうせガラクタばかりだし。ルーウィンはかつて父親と同じように船に乗っていた。そんな過去に未練はない。今の自分にはギターがありさえすれば充分だ。その夜ルーウィンは久し振りにまともなベッドで眠った。子供の頃過ごしていた自分の部屋だが、奇妙な居心地の悪さを覚える。自分は既にこの家にとっても家族にとっても、赤の他人に過ぎないのだろう。

車を持たないルーウィンは、シカゴへ行くというジャズ・ミュージシャンのローランド・ターナーと、その付き人の青年ジョニー・ファイヴの車に同乗させてもらうことになった。もちろんガソリン代は割り勘である。ジムのレコーディングに付き合ったおかげで、多少の小銭はまだポケットに残っていたからだ。ローランドは、尊大かつ他人の話に耳を貸さないエゴイスティックな男だった。不摂生が祟り、肥満で身体中を悪くし、杖に縋っていなければまともに歩くことも出来ない。ローランドは、見るからに運に見放されたルーウィンと猫の妙な組み合わせを面白がり、さんざんっぱら小バカにして笑い飛ばした。ローランドの相手をするのも億劫なルーウィンは、こんな掃き溜めには似つかわしくない程美しい青年ジョニーに話しかけるが、こちらはあるじと違って寡黙だった。奇妙だというなら、ローランドとジョニーの組み合わせも随分とちぐはぐなのだが。
シカゴまでは長距離だ。ダイナーで休息をとる3人。ジョニーはかつて役者をやっていたそうだ。今でも舞台用の脚本を持ち歩いていて、その一部を朗読してくれた。深遠な意味を持つドラマティックな詩だが、隣で船を漕いでいるローランドには馬耳東風、ルーウィンにとっても正直なところチンプンカンプンで、酷くいたたまれない気持ちになった。口の端から涎をたらしながら目を覚ましたローランドが席を立つと、ルーウィンも慌ててトイレに行ったぐらいだ。ところが、そのトイレの個室から妙な物音がしたかと思うと、中から腕に注射器を刺したままのローランドが出てきてその場に倒れてしまった。なんてこった、ヤク中だったのか!随分トイレが近い奴だと思っていたが、実際には隠れてヘロインをやっていたのだ。ローランドは気を失ったままピクリとも動かない。青ざめたルーウィンはジョニーを呼びに走ったが、ローランドのこんな失態は日常茶飯事らしい。小山のような男を大の大人が2人で抱え、車に戻る。
とんでもないことになった。いつ死ぬか分からないヤク中と、何を考えているのかさっぱり分からない青年と一緒に、愉快な珍道中を繰り広げているのだから。多少のことでは驚かないルーウィンも、さすがに危機感を募らせる。だがジョニーの返答はいたってシンプルそのもの。

「大丈夫だ」

しかし、事態はちっとも大丈夫ではなかった。ハイウェイで警官に車を止められ、反抗的な態度をとったジョニーが、そのまましょっ引かれてしまったのだ。呆気にとられるルーウィンにジョニーは再び「大丈夫だ」と繰り返した。いや、自分自身に言い聞かせていただけかもしれないが。そしてルーウィンと猫は、後部座席でイビキをかいているローランドと共に車に取り残されたのである。これは、誰かを犠牲にしないと皆が遭難する典型的なパターンだ。彼は意を決すると、猫をローランドが眠る座席に乗せた。腐れ縁で今までルーウィンに付き合ってくれた奴だが、ここでお別れだ。ルーウィンは別の車をヒッチハイクするべく、道路に出た。

無事シカゴに辿り着いたのは奇跡だったのかもしれない。シカゴはニューヨークよりも寒く、まともなコートもブーツも持っていないルーウィンは寒さに凍えるしかなかったが。それでもバド・グロスマンのカフェに連絡を入れ、オーディションして貰えるように何とか頼み込んだ。ルーウィンはソロ・アルバムを一枚持って辛抱強く待ち続け、ようやく現れた御大にアルバムを手渡したが、グロスマンはアルバムには目もくれなかった。今ここで歌ってみせるようにとの要求に従い、ルーウィンはソロ・アルバムの中から一曲を弾き語りしたが、暗くて寒い店内の空気が一層侘しくなった。グロスマンは渋い表情で、ルーウィンの歌にカネの匂いはしないと返答する。それはそうだ。世間では、甘い猫撫で声で甘ったるい歌を歌う、小綺麗な格好をしたトロイ・ネルソンのような連中が大好きなのだから。グロスマンは代わりに、髭を綺麗に剃り落として身綺麗にすることを条件に、今彼が売り出そうと企画している男女3人のユニットに入らないかと提案した。ルーウィンにとっては、今の悲惨な状況から逃れられる絶好のチャンスだったが、かつての相棒マイクの姿が脳裏に浮かび、ここまで来て魂を売り渡す気にはついぞならなかった。誰かとコンビを組めというのなら、グロスマンに言われるまでもなく、昔、素晴らしい相棒がいたのだ。だが、そいつはもう二度と帰ってこないし、自分はそいつ以外の人間と組むつもりもない。

ルーウィンは気持ちにケリをつけ、再びニューヨークに戻ることにした。交代で運転することを条件に、ある男がルーウィンを車に乗せてくれた。真夜中のハイウェイをひた走る車。同乗者は隣で眠っている。今までの疲れがどっと押し寄せてきたルーウィンは、彼の子供を出産した元ガールフレンドのことをふと思い出した。このハイウェイ沿いにある小さな町が彼女の出身地だ。そこに、曲がりなりにも自分の血を分けた“家族”がいる。ほんの一瞬、車のハンドルを切り替えしてその町に行こうかと気の迷いを起こしたルーウィンだったが、すぐ正気に戻った。子供に会えたとして、一体何と言うのだ。『ヘイ、俺はお前の父ちゃんだぞ』とでも?悪い冗談だ。

ニューヨークに戻ったルーウィンは、歌を諦めて船乗りに戻ることにした。施設の父親に面会に行き、彼が大好きだった曲を聴かせてその決意を語ったが、もう父親には何のことか分からなかった。しかし、長いこと放ったらかしにしていた船員免許は期限切れ、おまけにその免許そのものも、ルーウィンの実家の私物と一緒に姉が捨ててしまっていた。ルーウィンはついに船に戻ることも出来なくなった。運命の女神はどこまでも彼に試練を与える気のようだ。

ガスライト・カフェでは、小綺麗なお揃いのセーターを着た4人組の若者達が、スマした顔でスマしたフォークソングを歌っていた。フォークの世界もポップスと融合し始めており、ルーウィンが頑固に守ろうとしていた古き良きフォークは廃れようとしていたのだ。トロイ・ネルソンやセーター4人組のような歌がもてはやされる。ルーウィンは自暴自棄になり、初めてカフェのステージに立った田舎臭い中年女性の歌を、酒の力を借りて大声で野次った。ハープを抱えたまま泣き出す女性。パッピは、ルーウィンに来客があったのをいいことに、彼を体良く店から放り出した。来客とは、ルーウィンに野次られた女性の夫でヤクザ者であった。女房の仇からコテンパンに殴られるルーウィン。
住処を追われた猫のごとく、ルーウィンはゴーフェイン家に赴き、頭を下げてリリアンへの大人気ない非礼を詫びる。ルーウィンにとって、結局ここしか戻る場所はないのだ。夫妻は寛大にも哀れなルーウィンを許してくれた。夫妻の愛猫ユリシーズが自力で家に戻っていたことも幸いした。なんと、この猫は“ユリシーズ”という名前だったのか。成る程、お前がユリシーズ=オデュッセウスであったならば、たとえ20年の長きに渡ろうとも、艱難辛苦を乗り越えて自力で我が家に戻ってくるだろうよ。

翌朝。ルーウィンはカウチと朝食の礼をメモにしたため、今度は放浪者が勝手に外に出ないよう、足で猫をブロックしつつ夫妻の家を後にした。その夜、ジーンの口添えもあって、ルーウィンはガスライト・カフェで歌うことにした。ステージでは、見慣れない小柄な青年が背を丸めるようにして歌っていた。その身形の構わなさ、冴えない風貌はルーウィンとよく似ていたが、ルーウィンには、青年が他の誰も及びもつかない程の巨大な才能を持っていることを見抜いた。この青年こそ、後に音楽の世界に革命を起こすボブ・ディランである。新しい時代への変革期は、すぐそこまで迫ってきていた。


「活気に満ちて火花の散る、競争的でロマンティックでコミューンっぽくていかれてて酔っぱらってて乱闘騒ぎのあったようなシーンを、ゆったりした茶色の悲しい映画に落とし込んじゃったように感じる」―スザンヌ・ヴェガ

今作は一応、コメディ映画と理解されているようだが、以前のコーエン兄弟のコメディ作品と比べても、純然たるコメディというよりは、いわゆる“ドラメディ”映画だと捉えた方が良さそうだ。可笑しいほど哀しく、哀し過ぎて笑えてくる。一文無しで他人様の猫を抱え、途方に暮れつつ漂うようにニューヨークの底辺をさまよう1人の男の、ツキに見放された情けない一週間の出来事を追っていく。音楽以外の全てにおいてだらしがなく、現実からとことん否定される甲斐性のない生き様は、悲惨を通り越してもはや笑い飛ばすしかないだろう。
だがしかしこの男、音楽に対してだけは、頑ななまでに誠実でバカ正直で、己の美学を曲げようとしないのだ。シカゴ在住の音楽界の大立者バド・グロスマンでなくとも、ルーウィンがほんのちょいと妥協しさえすれば、売れるきっかけが掴めるぐらいに実力と才能に恵まれていることは明らかだ。なぜルーウィンは、たとえ自分の首を絞めることになっても音楽だけには妥協しないのか。

それは、彼が大きな大きな喪失を経験していたせいかもしれない。かつて一緒に素晴らしい音楽を生み出した最高の相棒マイクが、橋から身投げした。まるで鬱々としたフォークソングの歌詞そのままの出来事。彼はルーウィン同様大変な才能を持っていたが、いかんせん繊細過ぎた。彼とルーウィンが作った最初で最後のアルバム・ジャケットをみれば、2人の若者が自分達の輝ける未来を一片も疑っていなかったことが分かる。しかし、音楽業界は厳しいもので、たとえ才能があって人柄が良くても、運が味方しなければどうにもならない面もある。理想が高すぎたのか、それとも音楽に対してあまりに純粋過ぎたのか…。本編では、このマイクについてはほとんど何も語られないが、今の、それこそ音楽以外には固く固く心を閉ざしてしまっているルーウィンの姿を見れば、厳しい現実に落胆し、苦しんでいたのだろう在りし日のマイクを想像することができる。

ルーウィンにとってマイクに関わることは、今だに決して踏んではならない地雷だ。ルーウィンにどこまでも親切で寛大なゴーフェイン夫人が、何の悪気もなくマイクの話に触れただけで、あれだけ激昂するのだから。つまりルーウィンは、マイクの死から今だ立ち直っておらず、彼の死によって受けた心の傷は治る見込みもなく、ただただ墓守りのように亡きマイクの影を引きずりながら、グリニッジ・ヴィレッジの夜を彷徨っているだけなのだ。

行きかがり上、ルーウィンはゴーフェイン夫妻の愛猫ユリシーズと珍道中を繰り広げることになるが、このユリシーズ、つい出来心で家を飛び出してルーウィンの一週間の予定を狂わせた以外は、このお話そのものには関わってこない単なる脇役だ。しかも、ルーウィンは早々にユリシーズを取り逃がしており、間違えて全く別の猫を後生大事に抱えていたとくる(笑)。ルーウィン自身にとっては、猫の存在などハナっからどうでもよかったに違いない。だがしかし、ルーウィンの情けない一週間の冒険が進むにつれ、この“猫”の存在がやたらと大きくなってくるのだ。猫はただそこに、ルーウィンの側に居るだけなのに。画面に映らない時だって多々あるのに、だ。岐路に立たされていたルーウィンが逡巡し、苦悩した果てに苦渋の結論を出すまでの過程に唯一付き合い、彼の悲しみや焦燥や孤独を間近で見つめ続けた、たった1匹の証人(猫)となったからだろうか。
見るからに侘しげな男と猫が肩を寄せ合うようにして佇んでいる様子は、ほのぼのしているようにも見えるし、お互いに不釣合いなもの同士が無理矢理くっつけられたようで可笑しいかもしれないし、何処からともなく寂しさが漂ってくるような気もする。この猫は、今にして思えば、亡きマイクの魂の具現化だったのかもしれない。相棒を失って以来、1人きりでこの世を亡霊のごとく彷徨い、いっそのこと音楽の世界から足を洗おうかと思い詰めていたルーウィンを心配し、マイクの魂が猫に姿を変えてその傍に寄り添っていたのではないかなあ。そして出来れば、諦めずに自分の分まで歌い続けてくれるよう、ルーウィンを励ましたかったのかも。
ルーウィンがゴーフェイン氏の勤め先の大学に連絡を入れたとき、大学の事務員がルーウィンの伝言を『ルーウィンは猫だ』と聞き間違えるという、シュールで可笑しいシーンがあった。まるで野良猫のようにグリニッジ・ヴィレッジを徘徊しているという意味では、 成る程“ルーウィンは(まるで)猫だ”と解釈できるかもしれない。でも私自身は、“ルーウィンは、八方塞がりの人生に苦しむルーウィンのために下界に降りてきたマイク=猫と、かつてのように行動を共にし、これからの人生をどう生きるのか最後の決断を下すつもりだ”という、今後のストーリー展開の前振りだったような気がする。
成功する見込みのない音楽にしがみつくことに心底倦んだルーウィンは、故郷に戻って彼の子供を出産した昔のガールフレンドを突然懐かしがったり、音楽業界のボスからの提案にも絶望する程疲れていたり、縁切りしたはずの父親に最後の弾き語りを聴かせる感傷を見せたりと、まるでこれまでの人生の全てにピリオドを打ち、未練を絶とうとしているかのよう。魂の拠り所を求めるあまり、猫よりよっぽどか弱く不安定な存在になっているのだ。

彼は現実世界と、その向こう側にあるはずの音楽によって開かれる世界の2つを猫のように気まぐれに、また頼りなく流離う。両者の間にある境界線は心もとないほどに曖昧なのだ。全てのシーンが、水槽の水越しに外界を見つめているような歪みを伴っている。およそこの世のありとあらゆる塵や汚泥を見つめているにも関わらず、この世のものと思われない美しさをもたらす。と同時に、ひょっとしたら今までの全てのお話は、この男ルーウィン・デイヴィスの見た夢だったのかもしれない…という不安をも掻き立てる。今作の描く心象風景はボンヤリしていて、どこか現実味と乖離した、不自然な浮遊感を伴っているが、これはルーウィン自身が認識している外界の様子を忠実に再現した景色なのだろう。彼の目には、現実はこんな風に頼りなく映っているのだ。

だが最後の最後に、ブレイクする前のボブ・ディランが登場することで、ルーウィンが辛うじてしがみついていたニューヨークのフォーク・シーンも、早晩終焉の時を迎えるだろうことが暗示される。非情ながら、抜きん出た才能を輩出した土壌は、その才能に全ての養分を吸い取られてしまうため急速に枯れていくものなのだ。こうして、ルーウィンの世界に起こるかもしれなかった奇跡の芽もまた、静かに摘み取られた。これからも続くルーウィンの人生に、ほんのわずかでも光明が現れることを祈りながら映画を見守っていた観客の希望も、同時に潰えることになる。映画冒頭で猫ユリシーズと共に下界に彷徨い出たまま1週間、古巣グリニッジ・ヴィレッジに戻ってこれなかったルーウィンは、ある意味、音楽という名前の実体を伴わない曖昧な世界にフワフワと包み込まれ、外界から守られていた。その真綿のごとき世界も、“ボブ・ディランの登場でフォークの世界も音楽の世界も激変した”という明確な現実に押し潰された。実にあっけなく、夢の世界から突如覚醒するように。

今まで見ない振りをしていた自分の周囲の世界の変化を、彼は今後どのように受け入れていくのだろう。自分と共通点をたくさん持った、ある意味ルーウィンの理想とするミュージシャンであったボブ・ディランというアイコンは、ひょっとしたら、運命の歯車がわずかでもどちらかに傾いでいれば、ルーウィン自身が体現していたかもしれないのだ。ほんのわずかの狂いで、ルーウィンは“ボブ・ディランになれなかったその他大勢の無名ミュージシャン”の墓の下に埋められることになった。

実は、このルーウィンのモデルとなった実在のフォークシンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクの方は、若かりし頃のディランと交流があった。ロンクは、フォークシンガーとして出発したディランの憧れの存在だったため、一緒にレコーディングまでしたそうだが、結局その後、意見の食い違いを理由に疎遠になっている。音楽のこととなれば彼らはお互いに頑固だろうし(笑)、ロンクにしてみれば“俺のほうが先人だったのに”という無念も多少は引っかかっていたかもしれない。ロンクは確かに“ボブ・ディラン”にはなれなかったかもしれないが、独自の音楽活動をその後もマイペースに続け、最終的に殿堂入りも果たしている。今現在考えてみても、彼らのうち、どちらの人生の方が良かったのかといった不毛な問いには、永遠に答えは出ないだろう。だって、“ボブ・ディラン”ではない私やあなたの人生は、それこそ十人十色であり、それぞれ良いこともあれば悪いこともあるのだから。


「1960年代初期のフォークの世界とまったくちがうものになるとは思わなかったわ」―デイヴ・ヴァン・ロンクの元妻テリー・サール

ハリウッドでは、伝記映画の流行が一向に衰えを見せない。しかし、以前当館でも触れたように、猫も杓子も伝記映画という傾向が良いものであろうはずがない。伝記映画を正しい形で作るのは至難の業だし、何よりかにより、伝記映画の製作本数が、オリジナルの脚本に基づいた作品のそれを上回る現象は、映画界にオリジナルのアイデアを生み出す力が既にないことを意味するからだ。
この「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」に話を戻すと、今作は、デイヴ・ヴァン・ロンクの自伝を参考にしているとはいえ、伝記映画では全くない(笑)。なるほど、ルーウィンはデイヴをモデルにしたキャラクターで、彼を演じたオスカー・アイザックは、撮影現場で歌と演奏シーンを生で一発録音できるほど、抜群の歌唱力の持ち主ではある。でもロンク自身の声はもっと太くてだみ声に近いし、もちろん風貌もアイザックとは似ても似つかない。ルーウィンを囲む周囲の人々の中にも、モデルが実在するキャラクターはいる。ルーウィンが向かうシカゴでオーディションを受ける業界の大立者バド・グロスマンがそう。彼とロンクが実際どういった関係にあったかは、部外者は知る由もないわけだが、映画の中での彼らのやり取りを見ていると、ルーウィン、つまりロンクが活動していた頃には、現在のような音楽業界のシステムなど全く出来上がっていなかったことはよく分かる。音楽が大きなビジネスの枠内に組み込まれていく前の黎明期に、ロンクは苦闘していたのだ。

今作は、ロンクが生きていた60年代という時代性とグリニッジ・ヴィレッジのカルチャー・シーン、彼自身が纏っていた独特の空気とその歴史を借りてきて、コーエン兄弟が自由に発想し、創作したオリジナル・ストーリーだと解釈した方がいいだろう。そうそう、今思い出したが、日本でも10月から全国で公開される映画「Frank -フランク-」(公式サイト)も、英国に実在した奇才ミュージシャン兼コメディアン、フランク・サイドボトム(もちろんこれもキャラクター名で本名ではない)の人生を基にして、自由にストーリーを広げた伝記“風味”映画、なんちゃって伝記映画(笑)である。これからは、ストレートな伝記映画ものに加えて、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」や「Frank -フランク-」のように、実在の人物をモデルにしたオリジナル・ストーリー作品が増えていくのかもしれない。
今作は、実在のミュージシャンを取り上げながらも、そのモデルの生き様を忠実にトレースするのではなく、その人生の核となる部分を抽出し、コーエン兄弟らしい色合いに染めていった作品なのだ。ミュージカル映画ではなく、音楽家の伝記映画でもなく、音楽によってルーウィン、つまりロンクの移ろっていく人生の心象風景を語る、一風変わったロード・ムービー。ルーウィンの人生が歌そのものであり、彼が歌う歌こそが、ルーウィンの人生を形作っていく。従って、この「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は、音楽そのものが人生であり、そこから抜け出すこともできない1人のぶきっちょな男の姿を捉えた作品なのだ。

先程、劇中歌はカメラを回しているその現場で録音されたものだと書いたが、今回コーエン兄弟の下に集まった役者たちは、アイザックをはじめ、皆何かしら音楽界に関係のある歌の上手い連中ばかりだ。ルーウィンの元カノ、ジーン・バーキーに扮したキャリー・マリガンは、旦那さんが人気バンド、マムフォード・アンド・サンズのマーカス・マムフォードだし、ジム・バーキーを演じたジャスティン・ティンバーレイクに至っては、彼自身が著名なミュージシャンである。映画本編の撮影前に、出演者が集まってジャムセッションのような交流を持ったそうだが、そういった音楽による人と人との繋がりを実際に作ったうえで、ルーウィンという男の孤独をあぶりだしたからこそ、この物語の説得力が増したのだろう。音楽は聴く者の心を豊かにし、言葉を超えて見知らぬ人との間に絆を結び合わせる力があるとよく言われる。だが一方では、音楽を己の人生そのものにしてしまえば最後、音楽という終わりのない旅にたった1人で立ち向かわねばならないことが分かる。

人と人の繋がりといえば、この作品の際立った点は音楽もそうだが、ルーウィンが1週間の間に出会い、別れていく人間模様も心に染み入る。また、本筋とは直接関係なくとも、ストーリーの流れの途中で、ふとしたことで画面に深い意味と余韻を添える細かい伏線の張り方も素晴らしい。この辺りの脚本のテクニックはさすがベテランの手練れだ。個人的に最も印象的だったのは、シカゴのバド・グロスマンのオーディションを受けようと、ルーウィンがジャズ・ミュージシャン、ローランド・ターナーと共にシカゴへ向かうくだりだ。ルーウィンは日頃から他人の家を泊まり歩き、よそ様の家のカウチを勝手に寝床にして暮らしているが、ローランドとジョニーも、一体どこで何をするために車に乗っているのか不明だ。彼らもまた帰る家を持たず、2人でずっと車で旅しながら暮らしているのでは、と思えてならない。ローランドにジョニーのような付き人が必要なのは明白だが、その気になればこんな手のかかる雇い主など打っちゃって、もっとまともな仕事もできそうなジョニーが、ローランドに忠実にくっついているのが解せない。彼らの様子を見るだに、個人的には、あの「真夜中の相棒」の共依存の2人組の関係性を思い起こすのだ。このように、ルーウィンがほんの一瞬関わってはまた消えていく個々のエピソードにも、忘れがたく滋味深いドラマが隠されている。

コーエン兄弟らしい、くすんだセピア色の中に溶け込んだような映像は、この世のものとは思えないほど美しい。音楽が素晴らしいのはT=ボーン・バーネットが音楽監修をしていることから明らかだが、今作をご覧になった方は否応なく、ルーウィンを演じたオスカー・アイザックの印象深い歌と佇まいに見惚れること請け合いだ。映画界でやっと飛躍のチャンスを掴んだアイザック。今後の活躍を期待したい。

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なるほど(納得、参考になった、ヘー)
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 Inside Llewyn Davis」 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
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