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zoom RSS 「リア王 King Lear」の遠い旅路ーNational Theatre Live 2014

<<   作成日時 : 2016/04/20 00:01   >>

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“You need chaos in your soul to give birth to a dancing star. 空を舞う星を生み出すには、あなたの魂の混沌を必要とする” ーFriedrich Wilhelm Nietzsche フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ


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「リア王 King Lear」(National Theatre Live 2014 in Japan)
監督:サム・メンデス Sam Mendes
原作:ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare
出演:サイモン・ラッセル・ビール(リア王) Simon Russell Beale
スタンリー・タウンゼント(ケント伯爵)
スティーヴン・ボクサー(グロスター伯爵)
サム・スロートン(エドマンド、グロスター伯庶子)
ケイト・フリートウッド(ゴネリル)
アナ・マックスウェル・マーティン(リーガン)
Olivia Vinall(コーディリア)
エイドリアン・スカボロー(道化)
トム・ブルック(エドガー、グロスター伯嫡男)他。


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英国で生み出される優れた舞台を映画館を通じて体感し、英国演劇の伝統への更なる理解を深めようという目的の下、2009年から英国内で、また今年からは日本でも映画館での上映が始まったナショナル・シアター・ライブ National Theatre Live 2014 in Japan。今月の演目は、オスカー受賞映画監督にして英国演劇界を支える名演出家でもあるサム・メンデス Sam Mendes(「アメリカン・ビューティー American Beauty」「ジャーヘッド Jarhead」「007 スカイフォール Skyfall」)が演出する「リア王 King Lear」です。主演は、この企画でメンデス監督と9度目のコラボレーションが実現した名優サイモン・ラッセル・ビール。この二人が組んだ舞台を、生きてる間になんとしても観ておきたいもんだと願っていたのですが、こんな形で早く夢が叶って本当に喜んでおります。はい。ようやく完成したNTライブ日本公式パンフレットを見てるだけで胸がいっぱいになりまさぁ(涙)。


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長らくブリテン国を統べてきた、勇猛果敢で知られた国王リア。しかし彼は最近、ふとした隙に正体の分からぬ不安感に悩まされるようになっていた。また、誰にも打ち明けたことはないが、幻聴や幻影が彼の精神と肉体双方の視界を阻むのも一度や二度のことではない。絶えずイライラし、すぐに自分の要求が通らねば、自分でも馬鹿げていると思う程激しい怒りに我を忘れた。今はまだ、怒りの大風が凪げば、荒れ狂っていた間に自分がどんな間違いを冒したか省みることも可能だが、ゆくゆくは完全に正気を失ってしまうのではないかという恐怖にも苛まれていた。

老いが人間に強いる苦痛を和らげるため、リア王は、これまた腹心の家臣たちにも打ち明けなかったある計画を、3人の娘たちへの財産分与を定める席で突然公表した。彼自身は玉座から降り、既に結婚している2人の娘たちーオールバニ公夫人の長女ゴネリル、コーンウォール公夫人である次女リーガンーとフランス王から求婚されていた三女コーディリアに、三分割した国土をそれぞれ分け与えようというのだ。父親への愛情がどれほど大きいかを雄弁に伝え得た者に、最も肥沃な地域を譲ると明言した上で、彼自身は所有地を持たず、選り抜きの戦士で構成された国王直属の騎士たち100騎のみを従え、今後は娘たちの城に順繰りに滞在して気ままに暮らすと述べた。ゴネリルとリーガンは平素から気性の荒い父親と折り合いが悪かったが、財産相続のためならばと、心にもないおべっかと不気味な甘え声でここぞとばかりに父親に取り入った。ところが、気立てが優しく、父親を最も理解し、愛していた三女コーディリアは、正直な自分の気持ちを偽らず率直に述べた。老いてますます依怙地になり、家臣からの忠告にも耳を貸さず横暴さを増していた父親に、そんな自分自身の姿を自省して欲しいと思ったのだ。がしかし、三女からの甘い言葉を期待していた父親は落胆してしまった。今のリア王にとって、コーディリアの冷ややかな返答は裏切り行為に等しい。案の定リアは激怒し、コーディリアに王家からの勘当を言い渡した。結婚するにしても持参金はゼロ。着の身着のままで城を出て、今後二度とブリテン国の土を踏ませない。リア王の子供のような我儘に呆れたフランス王は、投げ捨てられた宝石を丁重に拾い上げ、フランス王妃として迎えると宣言した。リア王は、恩を仇で返した娘への罵りと呪いの言葉を彼女の結婚への手向けとした。

国王が退位するのは、リアの高齢を鑑みれば致し方ないにしても、国土全てを子供に投げ与えるとは前代未聞。そんなことをすれば、内紛が起こるのは明らかだからだ。しかも、最も誠実なコーディリアを些細な理由で犬のように放り出すとは。リアの右腕にして忠臣ケント伯は、リアの愚かな決断に断固として反対したが、頑固で鉄火のようなリアが一度決めたことを曲げるはずもない。国王に逆らったことでケント伯までもが逆鱗に触れ、称号を剥奪されて追放処分を受けることになった。

扱いが難しい父親の世話は、全て三女に押し付けようと互いに考えていたゴネリルとリーガンは、予想外の展開にうろたえる。相続の取り分は増えたが、あの厄介な老人の我儘に振り回され、挙げ句の果てにコーディリアの二の舞にいつならんとも限らない。いかな腹黒く計算高い女たちといえど、保身のため、ひとまず共闘することを決めた姉妹であった。

リア王は、ゴネリルの城内で早速トラブルを起こし、我慢に我慢を重ねていたゴネリルがついに冷酷な本性を露わにした。リア王と騎士たちの世話を放棄し、リアが怒り狂うと、今は立場が逆であることを匂わせつつ、リアの騎士の数を半分に減らし、すぐに城を出て妹の領地に赴くよう命令。リアはコーンウォール公の領地を目指して真夜中の荒野を旅しながら、不安に苛まれる。多少の不満はあっても耐えると決意したにも関わらず、横暴さと野蛮さと情緒不安定は酷くなる一方だ。最愛のコーディリアを手放したことへの悔いが彼の僅かに残る良心を圧迫してもいた。いよいよ自分は発狂してしまうのか。リア王の焦りと恐怖を知っているのは、彼専属の道化と、姿を下郎にやつしてケイオスと名乗り、密かにリアの傍に控えているケント伯だけだった。

ところが、やっとの思いで辿り着いたコーンウォール公領地では、更なる屈辱が待っていた。リーガンは父親を城内に入れることを拒絶し、騎士の全てを辞めさせなければ城内に入れないこと、そして、まだ王を迎える準備が整っていないので、リアは急ぎオールバニに戻り、ゴネリルに頭を下げて謝罪するよう要求したのだ。リアはリーガンにも裏切られたことに衝撃を受け、屈辱に膝を折るぐらいなら荒野で眠ると言い捨て、嵐の荒野へ飛び出して行った。

コーンウォール公配下のグロスター伯爵は、飲んだくれで女の尻ばかり追っている嫡子エドガーの放蕩に悩む一方で、庶子と嘲笑われながらも父親である自分の下で働いているエドマンドをすっかり頼りにしていた。エドマンドが奸計を巡らせて、嫡子エドガーを追放し、ゆくゆくは彼が相続することになるはずの伯爵家を乗っ取ろうと狙っているとも知らずに。銀の匙をくわえて生まれてきた生粋の貴族グロスター伯もエドガーも、肉親を疑いもしないのだ。その人の良さにつけ込んで、エドマンドはエドガーを追放、コーンウォール公にも取り入ってやがてグロスター伯自身をも策略に嵌めようとしていた。

嵐の中、一晩中、荒野で見えない敵と戦ったリアはついに正気を逸してしまう。その裏では、娘二人に見限られたリアの窮状を見かねたグロスター伯がリア王救助に乗り出し、そのグロスター伯を陥れるためにエドマンドが張り巡らせた策謀に引っ張られる形で、ゴネリルとリーガンの間にも不穏な不協和音が響き始める。狂気の籠に閉じ込められたリア王、フランスにいるコーディリアにリアの窮状を訴え、命がけでフランス軍の手引きをするケント、エドマンドに嵌められコーンウォール公に追放されたグロスター伯、志半ばで命を落としたコーンウォール公の代わりに、まつりごとの表舞台に立つようになったエドマンド。そのエドマンドを巡って火花を散らすゴネリルとリーガンの女の戦い。実家から逃げ出して狂人の物乞いに身をやつして生き延び、拷問で目を潰された父親グロスター伯を庇いながらエドマンドへ復讐するチャンスを伺うエドガー。そして、父親を救うためについにブリテン国に派兵する決意を固めるコーディリア。3姉妹の戦いは、ブリテン国とフランスを巻き込んでの戦争に拡大した。彼らを巡る運命の歯車は悲劇に向かって一層加速していく。……



シェイクスピアの諸作品には、およそドラマというものを構成する、ありとあらゆる要素が存在するといっても過言ではないでしょう。後世に生まれた文学作品は、シェイクスピアが提示した“ドラマ要素のショーケース”の中から複数の要素を抜き出し、組み合わせて作られているに過ぎません。だからこそシェイクスピアの作品は、いつの時代に紐解かれてもまるでたった今生まれた芸術のように、その時代を生々しく反映するのです。

そんなシェイクスピアの作品群の中でも、私が恐らく真っ先に名前を挙げるほど好きな戯曲が「リア王」。もちろん、シェイクスピア作品の中でも最も有名な悲劇の一つですね。初めてこの戯曲を読んだのは10歳の時でしたが、リア王がまるで子供のように駄々をこね、周囲を巻き込んで、自分も含めたすべての人々を破滅に追いやっていく過程が、何故だか不条理だと感じられなかったのを、よく覚えています。それに、リア王はあまり共感できる人物とはいえないはずなのに、彼が受ける試練の数々も自業自得だとは思わなかったなあ…。リア王の心の中の混沌は、既に当時の私にとっても他人事ではない痛みだったからです。

それから何年か経過して、翻案された様々な形態の作品に触れていくうちに、私がその都度共鳴するこの物語の登場人物は変わっていきました。しかし、作品が訴えかけんとする膨大なテーマ、またその深淵さ、純粋さに、毎回打ちのめされていたのは事実です。


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恐怖、策謀、疑心暗鬼、崩壊、闘争、絶望、苦悩、脆弱、嫉妬、憤怒、悔恨、悲嘆、諦観…。リア王自らが招いたこの混沌は制御する腕を失い、王自身を瞬時に吹き飛ばし、暗い深淵に叩き落としてしまいます。さながら糸の切れた凧のごとく、狂気と正気の混じり合う濃霧の中を彷徨いつつ、しかし彼は、国王としての長い長い人生の中で見失っていた彼本来の優しさ、最も重要で貴重な宝を最後の瞬間に取り戻します。それはまた、国王としての彼が犯した最大の過ちを贖うことを意味しました。無からは何も生まれませんが、諸行無常の響きの中で、全てはいずれ無に帰します。

しかし、リア王によって掻き乱され、崩壊した彼の世界の秩序の焼け跡からは、これから築かれていく未来の世界にとって必要となる者たちも立ち上がります。旧世界では社会の塵として忘れ去られていた者たちですね。支配者が世界の全てを掌握する旧世界の“敗北者”たちです。この物語では、降りかかる災難に鍛えられ、運命に立ち向かうようになるエドガーに象徴されていますね。リア王というパンドラの箱の底には、儚いほどささやかな希望が、やはり残されていたのです。私がこの戯曲に触れるたびに涙するのは、リア王が甘受する苦痛と引き換えに世界が未来を得ることそのものなのかもしれません。


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今回、NT ライブをご覧になった人達の感想を拝見すると、この作品は、財産分与をめぐる骨肉の争いや、家族間でも建前と本音を使い分けねばならぬような“家族神話”の崩壊、親と子の絆の脆さと美しさ等、今現在でも多くの人達を悩ませている人間関係の根幹に巣食う問題を、観た者に考えさせるようです。この物語が描くドラマはつまるところ、多くの観客の人生にも共通する悲劇であり、観た者それぞれが我が身に置き換えて観賞することが可能なのです。メンデス監督は衣装、時代背景、大道具、小道具、音楽に至るまで現代風にアレンジし、原作が生まれた時代と今の間にある数百年というタイムラグをなくすことにこだわりました。結局それが、今の感覚でこの物語の普遍的なテーマを理解し、また現在の社会に反映させる作業の手助けになったと思われますね。

原作戯曲のセリフとストーリーの流れには大きな変更は加えられなかったのですが、メンデス監督は、リア王の狂乱の原因として今でいうところの“認知症”の問題があったのではないか、と示唆する演出を施しておりました。幕間に流されたメイキングで、リア王を熱演したビール氏も、リア王の狂気の描写には、所謂老人性痴呆症、アルツハイマー病の症状にそっくりな部分が多々あることを指摘していましたしね。確かに言われてみれば、リア王の狂気が加速したのは、娘たちに拒絶されたことがきっかけではあるのですが、それ以前からリア自身が自分の正気の消失に度々恐れをなしていたし、コーディリアやゴネリル、リーガンに対しても些細な理由で不条理な仕打ちをしておりましたよね。原作を読んだだけでは何となく腑に落ちない部分もある、こういったリアの狂気の過程を、“認知症”でもって解読していくと、パズルのすべてのピースがピタリと正しい位置に収まっていくのです。ビール氏が今回リア王の役作りをした際に、老人介護の専門家からのアドバイスが随分役に立ったそうですが、物語の前半部分、老いによる衰えに加えて認知症が彼の魂をじわじわと蝕んでいく様子、また、娘たちに拒絶された真夜中に嵐荒れ狂う荒野に放り出され、ついに彼の正気が天高く飛んでいってしまった、あの涙なくしては観られない狂乱シーン、以後、全ての権力とアイデンティティすらも奪われ、幼児に退行していくばかりの哀れな老人となる後半部分、新たに付け加えられた認知症という要素は、繊細にして緻密に組み立てられたビール氏によるリア王の肖像を一層生々しくしておりました。私なぞ、壊れていくリア王を正視できない時が何度かありましたものね。

そして、それを踏まえると、2人の娘、ゴネリルとリーガンが父親に辛くあたる描写にも説得力が増すのですよ。いくら実の父親といえど、元々短気で独裁的だった上に認知症を患った老人の介護に手を焼き、低い忍耐力があっという間に限界を超えてしまうのは火を見るよりも明らか。またそれが、腹黒い姉妹に更なる権力への欲求を掻き立てさせ、後の騒動の発端になる流れも至極自然に受け入れられます。
メンデス監督は、ゴネリルとリーガンに単なる“シンデレラの意地悪な姉妹”以上の存在意義と複雑なキャラクターを付加しようと気を配ったそうですが、その試みは成功していると思います。認知症を発症した親の介護という問題に直面した子供が抱える悩みとジレンマは万国共通ですし、一見身勝手に見える彼女たちの行動もある程度の同情を呼ぶでしょう。…それに、親のスネを人一倍齧るくせに親の面倒を見るのは嫌、権力をかさにきると、てめえの本性と欲望を丸出しにするふてぇ連中って、現実世界でもあちこちにおりますもんね(笑)。

しかし、そうなればなるほど、理不尽にも実の父親に追放されたコーディリアの、当の本人への変わらぬ愛情と真心、献身が、貴重な尊さでもって一層光り輝くわけでして。ゴネリルとリーガン姉妹の嫌悪すべきリアリティに対比され、コーディリアの純粋さは、理想像として一種の寓話性を付与されています。この辺りの人物描写のバランス感覚の良さは、メンデス監督の才能を支える大事な要素だと思いますね。

異母兄を陥れ、返す刀で父親をも裏切って旧来の貴族社会のモラルと常識を打ち破り、のし上がっていくエドマンドは、この物語の大切なテーマである“歴史の進化”、つまり、“旧世界が滅び新しい秩序を伴った社会の到来”を象徴する人物と位置付けられています。彼はまた、物語の流れに予想外の波を起こして転調を促すかと思えば、ゴネリルとリーガンの間で愛情と打算の板挟みになる昔ながらの“オトコ”を演じたりと、八面六臂の大活躍を見せますね(笑)。まあ最終的には、自らの保身と権勢欲と女からの愛情全てを独占しようと欲張ったため、一兎をも得られないという皮肉な結末を迎えてしまいますが。
旧貴族社会に反逆しようとして返り討ちに遭うエドマンドと入れ替わるようにして、旧貴族社会では牙を抜かれて怠惰に身を堕としていた兄エドガーが、逆境に晒されることで野生の力と本来の誇りを取り戻します。彼は貴族社会から放り出された後、指名手配から逃れるために“裸の乞食トム”と名乗り、狂人を装って社会のどん底で生き延びました。荒野をさすらってついに正気の枷から自由の身になったリアと偶然出会った時の、エドガーとリア、狂人同士の噛み合わないやり取り(片方は懸命に振りをするだけですが)は、側から見れば涙が出る程滑稽で哀しいものです。しかし時折、常識のしがらみに目の曇る私達には到達し得ない真理に鋭く迫る瞬間もあり、思わず魅入ってしまいますね。
滑稽で哀しいといえば、エドマンドの策略にまんまと嵌ってエドガー同様追放された父親を、偶然ドーヴァーまで道案内する羽目になったエドガーとグロスター伯のやり取りもかなりシュール。自分と同じ境遇になった父親が絶望して自害しようとしているのを止めるため、盲目になった父を断崖絶壁に案内する代わりに平坦な畑地に連れて行き、一芝居打つわけです。「リア王」中でも最も演劇的であるこのシーンは、エドガーが言葉だけでグロスター伯を誘導しつつ、同時に観客の想像の世界の中でも、“目に見えない幻のドーヴァーの崖から落ちたが神のご加護で助かった”奇跡のステージを見せるのですね。文字だけで初めてこのシーンに臨むと面食らうのですが、ある意味、最も“演劇”の本質を突いているとも言えます。実際に役者がステージに上がってセリフをしゃべる劇にしても、観客は物語の全体像を理解するために、ステージで再現し切れない部分を自分の想像力をフルに活用して補う必要がありますからね。
結果的に父親を絶望から立ち直らせたエドガーは、父親とようやく真の愛情を通わせることに成功します。尊い親子の絆が生まれた瞬間に、それが永遠に失われてしまう切なさも、舞台上で具体的に示されない分、余計に胸に迫ってくるように感じますよ。
ともかく、そんな紆余曲折を経たエドガーこそが、ブリテン国の未来を担う一人になると最後に暗示され、彼もまた新しい社会の到来の象徴になるのです。


“Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout. Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
And thou, all-shaking thunder,
Strike flat the thick rotundity o' th' world,
Crack Nature's moulds, all germains spill at once,
That makes ingrateful man!”



「リア王」といえば、前述した嵐の夜、荒野で彷徨うリアの絶望と怒りと狂気と取り返しのつかない悔恨の咆哮に、私は毎回涙腺が決壊いたします。多くの方が自業自得だと一顧だにしないであろう、リア王の哀れな境遇と心境に同情するためでもあるのですが、私の涙の源泉は、実は別の場所にありましてね。

権力も正気も失ったリア王には、考えうる最悪の結末しか待っていないのは明白です。しかしながら、それを承知した上で己の命と人生を投げうち、最後までリア王の傍から離れようとしない忠臣ケント伯と道化の存在、彼らこそ、この物語のもう一つの大きなテーマに他なりません。その誇り高い精神と身体を卑しい身分にやつしてでも、主君が心配で堪らず、最後まで彼を庇い奉公するケント伯の自己犠牲的精神性は、かつての日本にも確かにあったものですよね。今ではそれを疎んじる人も多いので、すっかり絶滅して久しいですが(笑)。
そして、リア王に対し、見返りなど一切期待しない無償の愛情と献身を捧げるもう一人の人間、道化。この道化の存在意義は、この物語の中ではことのほか大きいものです。単なる狂言回しではなく、リア王の正気の最後のよすがでもあると思います。同時に、家臣の忠言なぞ聞く耳持たぬリア王に向かって、ユーモアや戯言の衣を着せているとはいうものの、彼の犯した非を面と向かって鋭く指摘できる唯一の存在かもしれませんね。また、社会の未来について、従来では底辺にあった者たちが台頭する、価値観の大変換をもたらす時代がくるだろうと予言もします。これは、既にリア王の物語の枠組みを超えて、人間社会全般に対する鋭い考察と予測であり、昔も今も観る者の胸を正面から貫く言葉になっています。真に新しい世界の新しい形の平和を欲するなら、古い世界の全てを焼き尽くす混沌を甘んじて受け入れよ。…道化の口を借りて語られる逆説的真理とは、恐らくはシェークスピア自身のヴィジョンであったのでしょうね。


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