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zoom RSS やがて哀しき道化者―「Fred」(short film animated)

<<   作成日時 : 2016/10/10 00:10   >>

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さて、“面白いショートフィルム発掘の旅”も一時中断していましたが、そろそろ再開していきたいと思いますよ。本日のお題はショートアニメ作品。しかも私が愛してやまないストップモーション・アニメでございます。そして私がその演出力と編集の妙、ストーリーテリングの巧妙さに惚れ込んだ若きフィルムメーカー(そして近い将来にはきっと、優れた長編映画で映画界にショックを与えるであろう)、ケイレブ・スレインCaleb Slainもお気に入りだという(笑)力作ですね。


“人生とは、ただの歩いている影法師、下手な役者。つまり、舞台の上を持ち時間だけばたばた慌てて歩き回り、それっきり名を聞かなくなる、そんな奴なのだ。 ...Life's but a walking shadow, a poor player, that struts and frets his hour upon the stage, and then is heard no more. It is a tale told by an idiot, full of sound and fury, signifying nothing.” ―「マクベス Macbeth」ウィリアム・シェイクスピア William Shakespeare


“Fred”

Fred from Misha Klein on Vimeo.



「Fred」(2013)
Director: Misha Klein
Fred(voice): Don Heitzer
Jim(voice): Vinny Ferraro
Dirctor of Photography: Matthew P. Hazelrig
Editor: Margaret Andres
Digital VFX/Composite/Finish: Paul Golden/FFAKE
Original Score: John Askew
Sound Design: Jason Edwards
Fred's Theme by David Newman

人間とは誰しも、舞台の上を与えられた時間だけオロオロ歩き回り、スポットライトから外れればそれっきり忘れられてしまう、そんな存在なのだ。

ネオンが侘しげに瞬く夜の街。すえた臭いのする今にも崩れそうなビルの扉を恐々と開けたフレッドは、オドオドと中を見回した後、意を決して“いつもの場所”にやってきた。ともすると腰が引けてしまいそうになる弱虫の自分に、改めて気合を入れなおす。

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そう、今日こそは、今日こそは、長年溜め込んできた恨みつらみを雇い主のジムに叩きつけてやるのだ。今まで長い間、ジムのクソくだらないお笑い舞台に付き合って、クソくだらない扮装でクソくだらないお間抜けヒーローを演じ続けてきたが、もう我慢の限界だ。いや、限界値はとっくに超えた。俺はシリアスな役者なんだ。ジムがやってるような下衆なお笑いではない、由緒正しい舞台やテレビ、映画に出て偉大な役を演じるために生まれてきたんだ。それなのに。

それなのに、なぜ俺はこんな場末のシケた酒場のステージで、自分がどこにいるかも分かってないような酔っ払い連中に笑われるために道化を演じているんだ?今頃は、シェークスピアの舞台に立ってスタンディング・オベーションを受けているんじゃなかったのか。

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薬と酒の常用のせいで、いつも何かに驚いているように見開かれたどんぐり目玉は血走り、目の縁は赤く腫れあがり、手入れなどろくに行われない無精ひげは、血色の悪い顔の周囲にまだらに張りついてはいるが。フレッドは今日を限りに、ジムの舞台でみじめな役を演じることを辞めると宣言するつもりだった。役者としてのプライドは既に地に堕ち、徒に年齢だけを重ね、今更どうあがいてもかつて思い描いていた夢は叶いっこないとわかってはいたが。それでも1人の人間としての最後の矜持だけは守りたかったのだ。

ジムは世にも恐ろしい風体をした男で、全く他人の話に耳を貸さない、傲慢で威圧的で口やかましい守銭奴だ。だがしかし、これといった特技もない哀れな中年男に身銭を稼がせてくれる、唯一の男でもある。フレッドにとっては頭が上がらない存在なのだ。もし、一時の激情でジムの仕事を辞めてしまったら、フレッドはたちまち路頭に迷う羽目になるだろう。だからこれまでは、プライドが泣き言を言い出すたびに、酒や薬の力を借りてそれを押さえ込んできた。だが今は、いくら金のためとはいえ、くだらぬ道化に身をやつして客から罵声と嘲笑を浴びせられることに、これ以上耐えられそうもなかった。

臆病なフレッドは気も弱く、頭から怒鳴りつけられるとすぐ尻尾を巻いて物陰に隠れようとする。ジムはそんなフレッドの性格をよく見抜いていて、これまで彼を自分の意のままに操ってきた。ならばフレッドの方も、“俺は酔っ払ったブタどもからカネを巻き上げているのだ”と居直るぐらいのずうずうしさを持てばよいのに、そこまでは自尊心を開放できない。まあだからこそ、毎夜出番の前には重度の“舞台恐怖症”に陥るのだろうし、それを克服するために薬と酒が手放せないのだろうが。

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ステージ裏の楽屋に入る前、フレッドはジムに対して叩きつけるはずの決別の台詞を繰り返し練習した。声の調子や表情のパターンも変え、ベストの演技を選択。よし。彼は意を決して楽屋のドアを開け、それでもやっぱりこわごわと中を覗き込んだ。大丈夫、俺は勘は鈍ったかもしれないが演技の素質はあるんだ。ジムに三行半を突きつけるぐらい、なんてことない。そう、ビビりさえしなければ。

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…ビビりさえしなければ。これがフレッドのもって生まれた最大の弱点だった。ジムのお笑いステージは既に幕を開けており、フレッドの出番が近づいている。とっくに衣装に着替えていなければならない彼が、大遅刻してひょっこり楽屋に顔を出したとき、ジムはいつも以上の大声で有無を言わせず怒鳴りつけた。へっぽこ役者め、さっさとへっぽこ道化のへっぽこ衣装を着やがれ!

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酔客の怒声よりもやかましく、不愉快なジムのだみ声が、天井が滅法高い楽屋に反響してわんわんと木霊する。今日こそは、ジムが怒鳴り始める前に自分が啖呵をきろうと身構えてきたのに、ご機嫌が最悪なジムは、フレッドの方を見もせずにぎゃあぎゃあ喚き散らした。完全に機先を制されたフレッドは、遂に一言も言葉を発する間もなくジムに好きなだけ怒鳴らせる羽目になり、結果、道化の仕事を(またしても)断ることができなかったのである。

すっかり道化を卒業した気でいたフレッドは、ジムにとっとと着替えろとダメ押しされて我に返る。今日はジムと戦うことで頭がいっぱいだったので、ばかばかしい衣装を着る心の準備が全くできていなかった。出番まであといくらも時間がないこともあり、フレッドはいつもの薬を酒と一緒にあおる。

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フレッドの精神は瞬時にトリップし、愚かな道化を演じる恥ずかしさも、嘲笑されることへの怒りも、道化をやめる意気地すらない自分自身への嫌悪も、とりあえずは脇に追いやることに成功した。ふらつく千鳥足で、他の役者の衣装がごちゃ混ぜになった中から、彼のアルターエゴを探し出す。

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なあ、どんなもんだい。道化の衣装を着込んだフレッドは、彼にしか見えない観客に向かって胸を張ってみせる。こいつも悪くないじゃないか。もうちょっと俺の腹が引っ込めば、アメコミのヒーローみたいに見えないこともないだろ。現実と非現実の境界線が混濁し始めたフレッドの頭は、彼の周りにあるものを全て肯定するようになっていた。芝刈り機みたいだが、ヴィランをやっつけるための武器もちゃ〜んとある。俺はこれでステージの上ではヒーローだ。たとえお間抜けであろうとヒーローだ。俺はステージで、俺にしかできない俺だけのヒーローになりきるんだ。アドレナリンも出てきたぜ。俺の一世一代の、唯一無二のフレッド・ザ・ヒーロー、そこで見届けててくれ!

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フレッドはつい今しがたまでのから元気もどこへやら、鏡の中に映る哀れな中年男の姿をあらためて見つめ、今にも泣き出さんばかりに顔をゆがめた。どんなに見栄をはってみたところで、フレッドが筋骨隆々のアメコミ・ヒーローに見えるはずもない。
つい数分前まで、ここに立つのはもう終わりにしようと思い詰めていたはずなのに。やめられないのは、たとえ道化と嘲笑されようとも、結局、ステージに立つ誘惑に勝てないせいではないのだろうか。演じることでどんなに自尊心が傷つこうとも、後でどんなに後悔しようとも、演技すること、ほんの一瞬でも舞台のスポットライトを浴びて観客の注目を集めることの快楽を知ってしまったら、もう後戻りはできない。魂を悪魔に売ってでも抗えないほど、それは強烈な快楽なのだ。

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三文舞台の三文役者フレッドとて、演技、もっといえば舞台の中央でスポットライトを浴びる欲求の奴隷である点においては、かの名優ローレンス・オリヴィエと同じ。本当に恐ろしいのはジムなどではない。演技の虜になって、その幻想に自分の人生を乗っ取られてしまうことこそ、フレッドや他の全ての役者が怯えねばならない、真の恐怖なのだ。ジムのだみ声が再び楽屋に木霊する。それに重なって、悪魔の誘惑の声も鼓膜の中に入り込む。

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“フレッド、お前は間抜けで馬鹿で腰抜けのイカレた道化野郎だ。死ぬまでそのサイテーの道化を演じ続けろ。お前がお笑い道化でいる限り、ほんの一瞬だけ、お前の大好きなスポットライトの下に立つことができるだろう…”

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…背中を丸め、何かに引っ立てられるように舞台袖に立つフレッド。しかしもう一度だけ、楽屋の方を振り返る。確か昨日の晩もその前の晩も、“フレッド、よく考えろ。舞台から去って人生をやり直すなら、今しかないぞ”という声が遠くから聞こえてきた。よく覚えている。あれは自分の中に残った最後の良心だったのだ。

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そして、昨日の晩もその前の晩も、もちろん今晩も、自分はその警告を無視し、スポットライトを浴びるためだけにズタぼろになった自尊心をかなぐり捨て続ける。自分の存在意義が、もはやこのクソくだらないステージにしかないからだ。


1人の三文役者が、嫌で嫌でしょうがない三文舞台に立つまでの逡巡と葛藤。言葉で説明すればたったこれだけのストーリーを、ダイナミックに、かつドラマティックに描いた作品です。

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主人公は、“負け犬”という特徴をカリカチュアライズされた、うだつのあがらぬ中年男性。そのお世辞にも綺麗とは言えない人間の中に宿る様々な感情を、万華鏡のようにくるくると変化していく表情を、これほど克明に豊かに捉えたアニメーションも珍しいですね。演じることに囚われ、演技と自尊心の間で苦悶するフレッドの表情を、一人芝居をする俳優に密着するカメラのように、画面いっぱいに映し出します。…まあ事実、このお話の中のフレッドは、一貫して自分の内なる世界の中だけでウロウロしておりますがね。

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かと思えば、階段を利用した見上げるアングル、見下ろすアングルを切り替えることで、このお話の“舞台装置”である楽屋を立体的に見せている工夫も。アニメ独特ののっぺりした平面ではなく、空間の奥行きまで実感させる背景の画作りに感心しました。

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視点を対象(フレッド)に徹底的に近づけて、対象の些細な変化も見逃さないマニアックかつミクロな観察眼と、一転して物語の進む“舞台”を複数の視座で捉えるマクロな視線が、このお話を単調さから救っています。アニメーションというよりは、非常に映画的なツボを心得た作品だと感じました。

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ところで、この、フレッドが鏡に映る自分に語りかけるシーンですが。「タクシードライバー Taxi Driver」(1976年、ロバート・デ・ニーロ主演、マーティン・スコセッシ Martin Scorsese監督)の中の、トラヴィスが鏡に向かってしゃべるシーンを思い出しました。トラヴィスも孤独を囲つ男でしたが、このフレッドも同様にどうしようもなく孤独な人間ですね。

この作品は、“役者”という不可解な生き物の生態を描いたもの。テーマは“演じること”そのものだといえますかね。ドキュメンタリーなどを除く映画やドラマ、演劇といったものは、役者さんたちがステージ上にあるいはカメラの前に立つことで、はじめて成り立つものです。役者さんは、台詞をしゃべり、動くことで、作品が語ろうとする物語を体現する役目を担っています。CGアニメの大流行、モーション・キャプチャー技術の急速な進化により、生身の役者の存在意義も今後変化していくかもしれませんが、どんな形であれ、役者のいない舞台など考えられません。従って、この“役者”をテーマにした作品も、これまでにいくつも作られておりますね。

今思い出したのは、ピーター・イェーツ Peter Yates監督によるバックステージものの佳作「ドレッサー The Dresser」(1983年、アルバート・フィニー、トム・コートネイ主演)。あるいは、最高峰のシェークスピア俳優でもあるケネス・ブラナー Kenneth Branagh監督・脚本による、皮肉と哀感ととてつもない実感のこもった、愛すべき小品「世にも憂鬱なハムレットたち In the Bleak Midwinter」(1995年)、1942年に製作されたエルンスト・ルビッチ Ernst Lubitsch監督の「生きるべきか死ぬべきか To Be or Not to Be」(これはむしろ、戦時下、ナチス・ドイツに侵攻されたポーランドの国民を鼓舞する意味合いを持った作品ですが)などなど。

これらの作品を観ているといつも感じるのですが、“演技をする”というのは、考えてみれば不可思議な行為ですよね。“誰かの真似をする、しかもとびきり上手に”という行動が、なぜに多くの人間の興味をひきつけるのか。とびきり上手く誰かの真似をする役者に、何故私たちは拍手喝采を送るのか。演技の虜になっている役者の深層心理と、彼らを愛して止まない観客の深層心理は、深い部分でつながっているようにも思えます。

役者は自我を空っぽにし、“自分以外のもの”の魂をそこに招き入れることで、観客は役者の一挙手一投足に共鳴することで役者の存在に憑依し、それぞれの内面に巣食う孤独をしばし忘れるのでしょう。人は生まれるときも死ぬときも一人ですし、誰しも基本的に孤独です。孤独は、人が生きるうえで切っても切り離せない根源的な闇なのですね。しかし、人はまた、大変に闇を恐れる生き物でもあります。それで、たとえほんの一時であっても孤独を忘れる方法を、様々に模索しているのかもしれません。手っ取り早く“他人”に変身できる演技は、自分自身の孤独の深淵から目をそらし、仮そめの人格を通じて観客と一体化もできます。そこにスポットライトが当たれば、それはもう、己の人生を捧げてもおつりがくるほどの快楽になると思いますよ。

そう、私達なんて皆、所詮哀れな道化者と同じ。スポットライトが当たっている瞬間だけ、舞台の上でジタバタと演技らしきことをやり、後はすっかり忘れられてしまうだけなんですね。道化をやめられないフレッドと、それを哀れむ私達の間にはいささかの違いもないのであります。


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さてさて、この我らがフレッドの顔。よーく見つめてみると、どこかで見かけたことがあるような気になりませんか?

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そう、私が愛して止まないポール・ジアマッティ Paul Giamatti氏であります。

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“フレッド・ザ・ヒーロー Fred the Hero”。

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“ポール・ザ・ヴィラン Paul the Villain”。これは、アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメイジング・スパイダーマン」(2012年、マーク・ウェブ監督)に続くリブート版スパイダーマン・シリーズの第2作目で、ヴィランを演じるジアマッティ氏の撮影中の様子です。ヴィランのジアマッティ氏には、もちろん特殊効果がモリモリ後付けされるでしょうから、撮影中の彼の中途半端な姿を見ると、なんというか…………ちょっぴり不憫。

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張りぼてのメカを背負っての撮影は、しかし、肉体的にさぞかし厳しいこととお察しします。額に浮かぶ汗と、若干丸められた背中、ゆるい腹回りに哀愁を感じますね。

ですが、演技者としてのジアマッティ氏は天下一品。クセのある屈折した役どころを与えられれば、主役を頭からバリバリ噛み砕く勢いで食ってしまいます。彼がヴィランを演じ、私の愛するリス・エヴァンスも再登板しそうな「アメイジング・スパイダーマン2」、今からめっちゃ楽しみで夜も眠れません。

もしも、この「フレッド」を実写化するチャンスがあったら、フレッドの役は絶対にポール・ジアマッティに演じさせてあげてください。よろしくお願いいたします。


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