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zoom RSS 「孔雀夫人 Dodsworth」―ウィリアム・ワイラー監督

<<   作成日時 : 2011/07/06 11:09   >>

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サミー、ヨーロッパでは女性は人生を満喫してる。これからは私も貪欲に人生を楽しみたいの!

「孔雀夫人」(1936年製作)
監督:ウィリアム・ワイラー
製作:サミュエル・ゴールドウィン
原作:シンクレア・ルイス『DODSWORTH』
脚本:シドニー・ハワード
撮影:ルドルフ・マテ
音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ウォルター・ヒューストン (サム・ダズワース)
ルース・チャタートン(フラン・ダズワース)
ポール・ルーカス(アーノルド・イズリン)
メアリー・アスター(イーディス・コートライト)
デヴィッド・ニーヴン(クライド・ロッカート大尉)
キャスリン・マーロウ(エミリー・ダズワース・マッキー)
オデット・マーティル(レネ・ド・ペナーブル夫人)
グレゴリー・ゲイ(クルト・フォン・オベルスドルフ男爵)
マリア・オースペンスカヤ(男爵夫人)他。

ダズワース自動車工場の社長サムは、20年間手塩にかけた会社を大手UM社に売却した。仕事詰めであった20年間、ろくに構ってやれなかった妻フランのため、今後は仕事を忘れてのんびりと欧州一周旅行に出る計画なのだ。かわいい子供から引き離されたような寂寥感がサムを襲うが、これは自分で決めたこと。彼は長年苦楽を共にした従業員たちに別れを告げた。
フランは長年住み続けた田舎町ジーニスを嫌い、もっと華やかな社交生活に憧れを抱いていた。そんな妻を満足させつつ、過去できなかった2人きりの新婚生活を満喫するため、サムは友人からなんと言われようと二度と仕事に戻る気はなかった。結婚したばかりの1人娘エミリーを残し、夫妻はクィーン・メリー号に乗って、船でヨーロッパへ向かったのである。

船内で、気取り屋の英国青年ロカートが夫妻に近づいてきた。垢抜けないアメリカ人を軽蔑し、精一杯上品振ろうとするフランの欲求不満を敏感に感じ取ったロカートは、英国人であるというステータスを大いに利用してフランといちゃつく。朴訥としたサムは、もちろん妻の浮気など知る由もなく、船がロンドンに寄港間近という段になって、初めて目にするサーチライトと大きな灯台にいたく感激する。寒風吹きすさぶデッキで1人興奮するサムは、そこで落ち着いた物腰の婦人と知り合った。彼女、イーディス・コートライトは、アメリカ人だが外国の文化に憧れて英国人と結婚した。しかし、夢と現実の落差に破れて離婚した後は、独り身を貫いている。今は経済的な理由からイタリアのナポリで暮らしているという。長年働いた自分へのご褒美に、ヨーロッパ文化に触れたいと目を輝かせるサムに、彼女は外国暮らしは思うほどバラ色ではないと静かに諭す。人生に何らかの目的がなければ、とても祖国を離れてまでは生きていけないものなのだと。特にアメリカ人は。人生の光と影を知り、それゆえ慎み深く知的なイーディスとて、離婚で人生の指針を見失ってしまっている状態なのだ。
一方フランは、ロカートから、ロンドンで一緒に暮らそうと掻き口説かれる。フランは一時の火遊びだとロカートを切り捨て、自分を甘く見る年下の男につれない素振りだ。女たらしのプライドを傷つけられたロカートは、フランが最も認めたくない事実―自分自身が、実は思うほど洗練されていない田舎者のアメリカ人にすぎないこと―を彼女に突きつけ、足音も荒く去っていた。なにも事情を知らぬサムは、ロカートに侮辱されたと泣く妻に、自分たちの出自を素直に受け入れて分相応に振舞うべきだと意見する。背伸びをして出鼻をくじかれたのなら、それは自業自得だと。だがフランは、英国には行きたくないと駄々をこねる。結局“女の涙”に根負けしたサムは、英国の自動車産業の視察という予定をキャンセルし、パリに向かうのだった。
引退後の計画は最初から混乱気味だったが、サムはパリの風景もおおいに気に入った。彼は、本でしか読んだことのないオベリスクや凱旋門などを純粋な感銘をもって楽しんでいた。フランは、連日パリの名所観光に歩き、まるで一見さんの観光客のようなサムと行動を共にするのを嫌がり、パリで知り合ったレネ・ペナーブル夫人らとの社交に感化されていた。すっかりパリっ子かぶれのフランにいやみを言われながらも、サムはアメリカ人らしく陽気に過ごしている。
一方フランは、レネに引き合わされた中年実業家アーノルド・イズリンと急速に親しくなる。彼女は次の日、夕食に彼とレネを招待した。イタリアに帰る途中のイーディスも一緒だ。田舎者丸出しのサムの悪口を愚痴り、イズリンに人生の不満を訴えるフランに、イーディスは静かに警告を発する。クィーン・メリー号内でも際立って洗練され、美しかったイーディスに対抗意識を燃やすフランは、断然面白くない。そろそろパリ観光に飽きたサムは、他の国を廻ろうと妻に提案する。フランはイズリンと一緒になるチャンスを作ろうと、サム1人をアメリカに帰国させることにする。サムはサムで、レネをはじめ、フランにつきまとっている取り巻き連中から金を吸い取られているのが気に食わない。いいカモにされているとも知らないフランを1人残して帰国できるはずがないのだ。彼らがフランをちやほやする理由はただ1つ、バックにあるサムの莫大な資産だけだから。しかし彼らの属する世界を盲信するフランは、夫の忠告など聞き入れず、相変わらず体裁だけを飾ろうと躍起だ。フランの自尊心とは、レネたちに田舎者とバカにされたくないという子供じみたもの。それを夫に看破された彼女は、サムを学のない田舎者と罵倒する。だが彼は彼なりに、根っからのアメリカ人らしい認識で“文化”を理解している。清潔な病院、整備された道路、学校、2000万台の車が走ることが、すなわちアメリカの文化であり誇りであるのだ。フランスのそれとは根本的に性質が異なるだけなのである。結局、サムと一緒に帰国することを拒むフランは、内緒で借りたモントレー湖畔の別荘にレネたちと向かうことを宣言する。一時でいいから自由になりたいと涙ながらに訴えるフランに根負けし、サムはとうとう単身帰国の途に着いた。
サムは故郷に戻り、久しぶりに娘エミリーや友人たちと再会した。しかし自宅は既に娘夫妻が管理しており、以前はあった物がなくなっていたりして、自分の居場所を見出せずに居心地の悪い思いをするサムであった。フランとは、喧嘩別れした後なしのつぶて。サムは全ての計画が狂ったことに苛立ちを隠せない。そんなサムをなだめようとエミリーたちが右往左往する中、エミリーの夫が一通の電報を携えてきた。一同が緊張する中それを一読したサムは、ショックのあまり座り込んでしまう。果たしてその内容は、フランがしばらくモントレーから戻っては来ないというものだった。サムに来て欲しいとすら書かれていない。親友は、フランがイズリンと抜き差しならぬ関係に陥っているのではと忠告する。それを受けて、サムはただちにパリに戻ることを決意する。同時にイズリンの居場所も調べさせる。

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フランはその頃別荘で、レネ、イズリン、クルト青年と夏の休暇を楽しんでいた。だがサムからの手紙には再三帰国を促す旨が記されている。イズリンはフランに愛を乞うた。フランの方は現状に不満を持ちつつも、今一歩そこから踏み出せないでいる。踏ん切りのつかないフランを見かね、イズリンは彼女の目の前でサムの手紙に火をつける。手紙は炎に包まれ、風に乗ってバルコニーを舞った。
アキテーヌへ向かう船上、サムはイズリンが現在ビアリッツという別荘地にいることを知る。パリのクリヨン駅でフランと再会したサムは、彼女もまたビアリッツからやってきたことを確かめた。サムは砂を噛むような思いで妻と対峙し、夫妻はギクシャクした会話に終始する。ホテルの部屋に落ち着いたサムは、1人の客を呼んでいた。イズリンである。フラン、イズリン、サム。フランを挟んで三角関係に陥っている状況を打破しようと、サムが関係の清算を願ったのだ。サムは男の責任と矜持のため、妻フランをこのままの状況に置いておきたくはない。離婚するか、さもなくばサムの元に帰るか、フランの選択肢は2つしかないのだ。結局ここでも最後の一歩を踏み出す勇気の出ないフランは、サムとは離婚できないとうなだれた。気分を害したイズリンは足音も荒く部屋を出て行く。しょげかえるフランに、サムはとっておきのニュースを伝える。エミリーが身ごもっているのだ。12月には、サムとフランは晴れて祖父母になる。大喜びで電話を手にしかけたフランは、しかし自らが“おばあちゃん”になるという現実に恐怖を覚える。それは老いへの第一歩を意味するからだ。

12月。エミリーがついに元気な男の子マッキーを出産した。だがそこにサムとフランの姿はない。彼らはいまだウィーンに留まっていた。サムはフランに変わらぬ愛を誓っていたが、フランの方はまだイズリンとの破局を引きずっているようだった。サムとて心穏やかではいられない。フランは、サムがエミリーに祝福の電話を入れようとするのをなぜか嫌がる。今夜の来客であるクルト青年に、その電話の内容を聞かせたくないというのだ。彼女の友人たちは皆、彼女が若いと思っている。それを裏切りたくはないのだと。永遠に若くありたい。フランは今夜も、なにかに急き立てられるようにクルトと出かけていく。サムは彼らだけを行かせる。つまり、フランの今のご執心はクルト青年だというわけだ。
心身ともに疲れきって寝室に入っていくサムを尻目に、フランは夜を徹してダンスホールで踊り明かす。クルトを部屋につれて帰った彼女は、彼から愛を告白された。クルトはフランに求婚するつもりでいたのだ。もし彼女が独身ならば…。叶わぬ想いに狂おしく口づけを交わす2人。サムは彼らの逢瀬を知り、すぐさま帰国するようフランに促した。同じ過ちを繰り返されることは、いかな長年連れ添った妻とて許しがたい裏切りだ。クルトとの会話をサムに盗み聞きされたと思い込んだフランは逆上し、挑戦するようにクルトと結婚すると言い返した。サムは、フランが一時の激情で離婚を捲し立てていると考え、数ヶ月別居してお互いに頭を冷やそうと提案する。彼は、自分自身も独り身でいることに慣れないといけないと、己に言い聞かせるようにつぶやいた。夫妻は翌日駅で別れた。フランは離婚することに前向きだが、サムはそうはいかない。心にも無い慰めの言葉をかける妻に、今も変わらず愛していると伝えるのが精一杯であった。

サムは再びパリに戻り、ロンドン、ベニス、ローマへと足を伸ばした。彼の旅行カバンには、ヨーロッパ各地のステッカーが折り重なって貼られている。いたずらに増えていくステッカーの一番上に貼られることになったのはナポリ。抜けるように明るいナポリの海も空も、今のサムの沈痛な心を晴らすことはできない。すっかり身に付いた習慣で、当地の銀行に赴いたサムは、そこで意外な人物と再会した。あのイーディスである。サムがフランと離れてから、既に3ヶ月あまりも独りで旅していることを知ったイーディスは、彼の孤独と悲しみを敏感に感じ取った。サムも、心を許せる彼女にフランとの軋轢を明かして、ようやく肩の荷を降ろした気分になった。イーディスはサムを自宅に招き、懐かしい故郷の味クラムチャウダーで再会を祝そうと提案した。海沿いに建つ古いアパートメントがイーディスの家だ。サムは腕をふるってクラムチャウダーを料理する。久しぶりに楽しい食事を堪能したイーディスは、彼にホテルを引き払ってここに移ってくるよう勧めた。なにせここはイタリアだ。独身女性の家に男性がいたところで誰も気にはしないのだから。海で釣り三昧でもすれば、嫌なことも忘れるだろう。

その頃フランは、クルトの母親であるオベルスドルフ男爵夫人を自宅に招いていた。彼女にクルトとの結婚を承諾してもらうためだ。入念に化粧し、若々しく見えるドレスに身を包んだフランは、ヨーロッパ滞在で学んだ所作で男爵夫人を迎え入れる。クルトとの結婚が叶えば、男爵家への経済的な援助も可能であると自信たっぷりに持ちかける彼女に、しかし夫人は冷淡であった。権威が失墜し、財力も傾いている男爵家といえど、かつては栄華を誇った名家。夫人は男爵家の窮状をあっさり認めた上でなおも、フランに究極の苦言を呈した。フランがもう若くはないことである。フランの年齢では、クルトの子供、すなわち男爵家の跡継ぎを生むことはできないと看破していた夫人は、それを理由にクルトとの結婚は認めないと結んだ。年齢の話を持ち出されては、フランに反論のしようもない。クルトは騙せても女の目はごまかせなかったというわけだ。ここでもまた、忍び寄る“老い”の脅威に打ちのめされたフランは、結婚話が決裂しておろおろと動揺するばかりのクルトにも、泣く泣く別れを告げざるを得なかった。

ナポリでイーディスの家に滞在中のサムは、持ち前の陽気さと未知のことへの飽くなき探究心でもって、あっという間に新しい環境に馴染んでいた。毎日地元民たちと共に釣りに興じたり、真っ黒に日焼けするまで海で泳いだり、車に替わる新しい情熱の的となった帆船にエンジンを積んだり。イーディスは、子供のようにはしゃぐサムを優しく見守っている。一代でダズワース社を全米髄一の会社に育て上げたときと同様、目を輝かせながら新しく始める予定の事業の話をするサムに、彼女は溢れんばかりの愛情を覚えていた。フランとの別離の痛みを乗り越え、立派に“人生の目的”をここナポリで見つけてくれた彼と、永遠に一緒にいられたら。いっそのことフランがクルトとかいう青年と一緒になってくれれば。そう密かに願うようになったイーディスであったが、現実は非情にも、フランから緊急を伝える電報を運んできた。フランの結婚話が上手くいかなかったに違いないと直感したイーディスは、身を斬られる思いでサムに今後のことを訊ねる。果たしてサムは、クルトと結婚できなくなったフランが再度復縁を望んでいることを知り、長年連れ添った責任感を思い出した。サムとて、知的で思いやり深いイーディスの元にいたいのは同じだが、このままフランを放り出すこともできない。それは、純朴で誠実なサムにはどうしてもできない行為だったのだ。思わず身勝手なフランをなじるイーディスだが、サムは重い足取りで彼女と第2の我が家となったナポリに別れを告げた。

アメリカに向かう豪華客船の船上。夫と久しぶりに再会したフランは、船がまだ出航もしないうちから、クルトや男爵夫人をはじめ意地悪で嘘つきなヨーロッパの人々の悪口を言い募る。誰も彼も私たちの金ばかりが目当て。狙ったものが得られないと知るや手のひらを返したように裏切る彼らに、自分がどれだけ傷つけられたことか!自尊心を砕かれて面白くないその矛先をサムに向け、こうなったのもあなたのせいだと見当外れの言い分を始めるフランに、ついに我慢強いサムの堪忍袋も切れてしまった。現状に満足できず、分不相応な世界に憧れ、みっともなくあがいていたのはフランの方だ。それは向上心からというより、確実に老いていくことへの恐怖から逃れたいためにすぎない。サムはその場でフランに離婚を突きつけ、出航間際、急いで下船した。彼が向かう先はただ1つ、ナポリで待つイーディスの家である。


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この作品は最初、女流作家シンクレア・ルイスの手になる原作小説から戯曲化され、1934年2月24日からブロードウェイで上演されました。そもそも戯曲になったいきさつも入り組んでいて、映画版の脚色も担当しているシドニー・ハワードが、サミュエル・ゴールドウィンにルイスの小説『DODSWORTH』の映画化を持ちかけたのが発端です。しかしそのときにはゴールドウィンの食指は動かず、結局ハワードは作品を戯曲に仕立て上げました。映画版でも同じ役を演じているウォルター・ヒューストン、ハーラン・ブリッグズ、チャールズ・ホールトンらが出演し(ただし映画版では、ホールトンの出演シーンだけ最終的にカットされている)、大ヒットを記録、その後実に315もの公演を重ねたそうです。記念すべき初日のステージでは、他に、フラン・ダズワース役のフェイ・ベインスターや、ハル・K・ドーソン、ヒューストンの実生活でのパートナーであるニネッタ・サンダーランドらが観客の声援に応えました。

ブロードウェイでの大成功がゴールドウィンを動かし、映画化が決定。ハワードは引き続き映画版の脚色も担当し、肝心要の主役サムには、映画ならではの華やかさには欠けますがヒューストンが続投することになりました。ゴールドウィンは、もう1人の主役フランにルイス・チャタートンを配しましたが、最終的にサムの愛と信頼を勝ち得るイーディス役に誰を抜擢するかで、意見が錯綜したそうです。若く瑞々しい女優を配するか、それともフランやサムと年齢的に釣り合うベテランにするのか。結局ゴールドウィンが出した結論は、後に「マルタの鷹」(1941年)の謎のファム・ファタール役で名を残すことになるメアリー・アスターでした。英国出身でアメリカで俳優を志したデイヴィッド・ニーヴンが、1935年のゴールドウィン製作作品「生活への道」に続いて脇役で出演していますね。クィーン・メリー号船内で、最初にフランにちょっかいを出す伊達男の役です。他の男優陣もさすがハンサムぞろいで、このほろ苦い大人のための恋愛映画に適度な甘さをもたらしていますね。
さて、配役は順調に決定したものの、監督を誰にするかでまたひと悶着あったようです。当初は1936年の「襤褸と宝石」(ウィリアム・パウエルとキャロル・ロンバート主演の、大人のためのコメディ)で、アカデミー賞主要部門6部門ノミネートを果たしたグレゴリー・ラ・カーヴァ監督が候補に上がっていました。しかしゴールドウィンは最終的に、「この三人」(1936年)におけるワイラー監督の気迫のこもった演出に作品を託す決意をしたそうです。男女の間の微妙な心理的駆け引き、女性の持つ複雑で繊細な内面を映像化するのは、ワイラー監督の十八番でありますからね。

とはいうものの、いざ撮影が始まると、やはりフランのキャラクターの解釈を巡って、チャタートンとワイラー監督が鋭く対立することになってしまいました。劇中おそらく最も観客の共感を得にくい人物であるフランは、いかに演じることが商売の俳優といえども、その人物像に血肉を与えることは困難でしょうね。悪役なら悪役らしく、いっそ単純明快にビッチな女振りを誇張してはどうかと、半ばヤケ気味にチャタートンが考えたのも無理からぬことです。
しかしワイラー監督は違いました。フランは、表面的には確かに軽佻浮薄な女に見えますが、本当はもっと多面的な人間であると理解していたのです。もしフランが、ちょっと色っぽいコケティッシュなだけの女であるならば、あそこまでサムが彼女を守ろうとはしないはず。ヨーロッパに出向いて早々の、フランとロカートの火遊びの一件だけで、彼女を見限っていたでしょうね。
その後の一連の彼女の行動を見てみると、とにかく、“今いる場所から逃れたい”“自分はもっと上等な人間になれるはずだ” “アメリカの片田舎でくすぶっていた今までの自分は本当の自分ではない”という、強迫観念を持っていたのではないかと思えるのです。彼女は繰りかえし、 “自分は実際より若く見られるし、本当はヨーロッパの貴族並に洗練されている”ということを、呪文のように口にしますよね。これは何を意味するのかというと、彼女は、生れ落ちたときから、自分を取り巻く環境が自分の真の価値と釣り合っていないと思い込んできた、ということなのです。本当はヨーロッパのお姫様に生まれていてもいいはずなのに、現実には、裸一貫で成りあがってきた、田舎者の実業家の奥さんに過ぎない。社交界といえば、日がな一日同じ話題ばかりを繰り返すしか能がない、田舎者の集まりだけ。それはおかしいだろうというわけです。自己愛の究極の形でしょうね。
では若い頃の彼女はどうであったのでしょう。それは、折に触れて繰り返されるサムとの夫婦喧嘩の中で、さりげなく明かされています。美しくてダンスが上手い近所でも評判の目立つ娘。でも彼女は単なる酒場の小娘として生まれ、彼女が自分にこそ相応しいと信じるハイソな階級とは縁のない存在だったのですね。彼女はおそらく幼い頃から、今見ている現実は本来のものではなく、彼女にとって真の人生はきっと未来に訪れると信じることで、現状への不満から自我を守っていたに違いありません。
夫は一代で自動車産業に足跡を残す大人物になりましたが、それも別に彼女自身の手柄ではありません。あくまで彼女は、“女は夫に傅き、家にこもって家庭を守るべし”という当時のモラルに沿っていただけに過ぎず、金はあるが尊敬に値しない(と彼女が思い込んでいる)男に家政婦のように扱われているという、新たな不満を抱えることになってしまいました。生活レベルは上がっても、“女としての、そして人間としての自分の価値を認めてほしい”という彼女の望みは叶えられないまま。つまり、サムの妻として、生まれ育った町ジーニスに生き続ければ、死ぬまでこの望みが実現しないわけです。
フランがサムに、仕事からの引退と同時にヨーロッパ行きを強制したのも、今度こそ自分の真の価値を周囲に知らしめるチャンスだと考えたのでしょうね。娘は嫁がせたし、夫も引退した。主婦業、母親業は今日限りお役御免。この先は自分の自由にやらせてもらうと。この辺りのフランの心境って、彼女と同じように“中年の危機”に差し掛かりつつある私としては、実によく理解できるものです。子供が自立し、夫も引退したとたん、今まで子育てや家庭の切り盛りに埋没していた自分が、全てのしがらみから解放されるのですね。例えれば、糸が切れた凧のような状態だと感じられるかもしれません。さあこれから何をしても自由だよ、と言われたところで、とっさには次にどう行動したらよいかわからないでしょうね。フランの場合は、そこに積もり積もった現状への不満が一気に爆発したという要素も加わります。そんな不安定な状態の女性を、突然全く見知らぬ環境―ヨーロッパ独特の社会構造―に放り込めば、たやすく進路を狂わせてしまうのは火を見るより明らかです。
世間知らずのおぼこい金持ちマダムを手玉に取る連中に、なぜフランがころりと騙されたか。余りにありきたりな理由ですが、彼女自身がやはり、そういう詐欺師連中の睨んだとおりの人物だったとしか言いようがありません。ただし、フランが夫ではなく彼らのことをかたくなに信頼しようとしたのには、前述したような強迫観念が彼女を苛んでいたことを考慮しなければいけません。彼女は、昔思い描いたようなハイソな貴婦人に、早いところなりきらねばならないのです。彼女にはあまりのんびりする時間は残されていません。年齢の問題があるからですね。辛うじてまだ“お若いですね”と世辞のひとつも言われるうちに、夢を実現しなければ。彼女があんなに次から次へと愛人をこさえていったのは、皮肉にもサムが指摘したとおり、“老い”という避けがたい現実があるからです。老いてしまえば、彼女の最大にして唯一の武器が使えなくなりますからね。
そもそもフランは、“ヨーロッパの洗練された貴婦人=恋愛上手”と誤解しているフシがあります。彼女の考える人生の自由とは、夫の束縛から解放され、誰とでもゲーム感覚で恋愛を楽しむことです。それがすなわち、女性の真の自立であると思っているのでしょうね。だからこそ、ロカートやイズリン、クルトたちとの恋愛でも、あれほど派手に遊んでいながら、しかもあれほどサムをないがしろにしながら、今一歩離婚には踏み出せなかった。サムという経済的基盤を捨ててまで彼らと一緒になるのは、彼女にとって得策ではなかったのですね。

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もしサムが、愚直なまでにアメリカ人としての自我にこだわらなければ、彼ら夫婦の関係は終わらなかったでしょうか。それはわかりませんが、映画を観る限り、サム自身もフランを追い込んだ要因の1つとなっている気がします。映画をご覧になった殆どの方は、サムの責任感、男らしさを絶賛され、対してフランの身勝手さは弁解の余地なく断罪されているのですが。
サムは、フランにそのいもっぽさをどんなにバカにされようが、古き良きアメリカ人らしさを捨てようとはしませんでした。パリにいようがウィーンにいようが、自分自身をその地の色に染め替えることなどできないと、はなから外国文化を否定していたのです。“理解はするが受け入れるわけではない”ということですかね。これは彼が、ある意味相当な頑固者だということを証明しています。実は妻フランに対しても、同じ要領で接していたと感じられるのですね。そして、彼の考え方を知らず妻にも強要していたのでは。サムは、自分の出自をよくわかっていましたし、どんなに背伸びしようが自分が一介の労働者に過ぎないことを受け入れています。自分らしく生きることが一番だと信じていましたし、事実その通りではあるのですが、フランがいまだその境地に達せず、道に迷っている最中であることを、もう少し時間をかけて理解してあげても良かったのではないでしょうか…。私は女性ですからこう感じたのですが、男性の立場からの言い分は、また違っているのでしょうね。
事実、フランとの決別が決定的になってからのサムの一人旅は、妻のために良かれと思って行ったことが、なぜ誠意としてフランに伝わらないのか、それを自問自答する旅になりました。自身のどこがフランに嫌われたのか、どうして己の忍耐によって彼女を取り戻すことができないのか。男女の間で火花を散らせる感情の襞とは、車の仕組みを説明するようにはいかないのです。単純な思考の持ち主であるサムには、手に負えない分野の問題だったかもしれません。彼は、10の親切を施せば、必ず10の御礼を受け取れると信じる類の人間だったのでしょうね。
サムに天啓を授け、またサムを変わらせるきっかけになったのは、バツ一の婦人イーディスですね。彼女は人生の行き着く先の限界点を悟っていました。自身もフランと同様、ヨーロッパに見果てぬ夢を追いかけ、英国人と結婚しました。フランと違うところは、身一つで思い切りよくアメリカを飛び出した点ですね。その結果、彼女が得た教訓とは、“人生に目的がなければ、いかなヨーロッパといえど、約束の地にはなりえない”ということ。考えてみれば当たり前のような気もしますが、これがなかなかどうして、未来の夢と希望に燃えている人間には見えない盲点なのですね。結局、甘い憧れだけでは、別世界に飛び出していくのは賢明ではないのでしょう。今与えられる幸せに充分感謝しつつ、今いる場所で精一杯生きることが、つまるところ、本当の“自分らしい”幸せの形です。そして、その幸せを一緒に享受できる人間とこそ、共にいるべきなのですね。サムは、最終的にイーディスのもとでそれを学んだわけです。

新世界に羽ばたくことを望んだフランはそれに失敗し、最後まで自分の身分をわきまえ、故郷に心を残し続けたサムの方が人生に新しい目標を見つけたのですから、皮肉なものです。今度こそサムに捨てられたと思い知ったフランの歪む顔のアップは、彼女の目じりや口元に深く刻まれた皺をも克明に写し撮り、監督の冷徹な視線を感じさせますね。欠点も全てひっくるめて自身を知っている者と、虚栄心にまみれ、己の真の姿を受け入れられない者の違い。ラストシーン、明るい笑顔でイーディスの元に馳せ参じるサムの表情は、直前のフランの哀れな厚化粧顔と残酷に対比され、その落差を際立たせています。戻ってきたサムを確認し、泣き笑いのような笑顔で懸命に手を振るイーディスも印象的でしたね。人生の光と陰を見すえ、疲れを引きずるような暗い美貌だった彼女が、最後の最後にまるで少女のような面差しに変化しているのです。登場人物1人1人の性格付けをファナティックなまでに追及する、ワイラー監督の演出の賜物ではないでしょうか。

演出といえば、90テイクウィリーのあだ名に恥じぬ(笑)エピソードがあります。劇中、イズリンが別荘で、サムからの手紙をフランの目の前で燃やすシーンがありました。くしゃくしゃに丸められた手紙にぼうっと火がつき、風に乗ってバルコニーを舞う様は、つとに幻想的で男女の愛情のやるせなさをも感じさせる美しいものでしたね。監督は、このシーンを完璧に撮りあげるため、この1シーンだけのために膨大な時間とフィルムを費やし、数え切れないほどのリハーサルを行いました。一事が万事そんな調子で、結局撮影されたフィルムは莫大な量になったそうです。クランクアップする頃には、キャスト、スタッフ共に、もうお互いの顔も見たくないと辟易するほど、監督からの要求の多い撮影現場だったようですね。
その苦労の甲斐あってか、作品そのものは興行的には芳しくなかったものの、アカデミー賞の作品賞、監督賞など主要7部門にノミネートされ、うち美術賞を獲得しました。主演のヒューストンは、NY批評家協会賞の主演男優賞を授与されています。

さて、映画の原題は単に“ダズワース”ですが、邦題(「孔雀夫人」)は秀逸ですよ。老いを恐れ、必死になって若くあろうと必死なフランをして、あの華やかな“孔雀”と称するとは、なんともいえない辛らつさを感じますよね。でもね、フランを浅はかでバカな女と断ずることができる人は、実は大変幸せなのです。なぜなら、人生に対し理由のない焦燥感を感じていない、ということになるのですから。その幸福の上にあぐらをかかないで、ぜひとも毎日感謝することを忘れないで下さいね。

サムとフランの言い争いの中で繰りかえし登場する、“所詮我々は山だしのアメリカ人だ、ヨーロッパ人にはなれっこない”というセリフ。ヨーロッパ人とアメリカ人の文化に対する考え方の違いを、サム(単純明快、典型的なアメリカ人)とフラン(ヨーロッパ寄りだが迷える中立的人間)に託して表現した、実に感心させられるセリフですね。元々が戯曲ですから、この映画版でも俳優たちのセリフはかなり多い方です。俳優のアクションよりも、セリフの内容とセリフ回しで各登場人物の内面を描く演劇的手法が、ここでも多用されていますね。サムに扮したヒューストンも、ことさら大きなゼスチャーに頼らず、顔の表情の微妙な変化でサムの苦悩を表現していました。フランに扮したチャタートンも、猫の目のようにくるくると変化するフランの複雑な心境を、時にコケティッシュ、時にヒステリック、時に熟女らしいシナをセリフのトーンに託すことで雄弁に物語っていましたね。ハスキーな声がセールスポイントのアスターも同様で、イーディスの落ち着きと知性の中に、諦念感をにじませるようなセリフ回しがとてもリアルでした。
この作品の舞台は、ヨーロッパ各地を転々としていきますが、実は実際の当地の風景の描写はほとんどありません。しかしながら、交わされるセリフの端々に巧みにそれぞれのお国柄を知らしめる要素が織り込まれていたり、舞台が変わるごとに、その土地独特の音楽を背景に流したりして、ロケの少なさをアイデアでカバーしていましたね。室内劇であるのに、背景となる土地を感じさせるうまい演出でした。
音楽といえば、幼少期にバイオリニストを目指して特訓を重ねていた監督らしく、ロンドン行きの船の中で演奏するオーケストラの奏者として、自身カメオ出演を果たしています。私も何度も目を凝らしてみましたが、残念ながらはっきりとは確認できず…。無念です(笑)。

ほろ苦い結末を迎える部分もまた、大人のための恋愛映画と呼ばれるゆえんでしょうね。単純明快なハッピーエンドを期待するむきには、歓迎すべからざる内容でしょうが、この作品の残す深い余韻は数多くの人々の心を捕えて離しません。脚本家で劇作家のデイヴィッド・マメットも、“Bambi vs. Godzilla”という自著の中で、この作品をお気に入りの1つだと告白しているほど。再見に値する名作だと思いますね。

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(1936/ウィリアム・ワイラー監督/ウォルター・ヒューストン、ルース・チャタートン、ポール・ルーカス、メアリー・アスター、デヴィッド・ニーヴン、グレゴリー・ゲイ、マリア・オースペンスカヤ、ジョン・ペイン/101分) ...続きを見る
テアトル十瑠
2010/02/20 21:13
「孔雀夫人 Dodsworth」―ウィリアム・ワイラー監督 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
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