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zoom RSS All roads lead to “Paul”―ポール・ニューマン(Paul Newman)

<<   作成日時 : 2013/12/23 11:55   >>

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“私は、『常に挑戦し続けた男』として記憶されたい。時代を生き、人々がお互いにコミュニケートするのを手助けし、人生に礼節を求め、困難から逃げずエゴを捨てる…あらゆることに挑戦し続けた男としてね”―ポール・ニューマン Paul Newman

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ポール・ニューマン(Paul Newman)本名:Paul Leonard Newman

1925年1月26日生まれ
2008年9月26日没(コネチカット州ウェストポート)

アメリカ、オハイオ州クリーブランド出身


●主なフィルモグラフィー

1956年「傷だらけの栄光 Somebody Up There Likes Me」
1958年「左ききの拳銃 The Left Handed Gun」
1958年「熱いトタン屋根の猫 Cat on a Hot Tin Roof」
1960年「栄光への脱出 Exodus」
1961年「ハスラー The Hustler」
1962年「渇いた太陽 Sweet Bird of Youth」
1963年「ハッド(Hud)」
1964年「暴行 The Outrage」
1966年「動く標的 The Moving Target」
1966年「引き裂かれたカーテン Torn Curtain」
1967年「暴力脱獄 Cool Hand Luke」
1968年「レーチェル レーチェル Rachel, Rachel」監督のみ
1969年「明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid」
1971年「オレゴン大森林/わが緑の大地 Sometimes a Great Notion」監督&主演
1972年「ロイ・ビーン」
1972年「マッキントッシュの男 The MacKintosh Man」
1973年「スティング The Sting」
1974年「タワーリング・インフェルノ The Towering Inferno」
1977年「スラップショット Slap Shot」
1980年「世界崩壊の序曲 The Day World Ended」
1981年「スクープ・悪意の不在 Absence of Malice」
1981年「アパッチ砦ブロンクス Fort Apache: The Bronx」
1982年「評決 The Verdict」
1983年「ウイニングラン Winning Run」(ドキュメンタリー、アーカイヴ映像)
1984年「ポール・ニューマンの ハリー&サン Harry and Son」(未)監督&製作&脚本&主演
1986年「ハスラー2 The Color of Money」
1987年「ガラスの動物園 The Glass Menagerie」監督のみ
1989年「ブレイズ Blaze」
1990年「ミスター&ミセス・ブリッジ Mr. & Mrs. Bridge」
1994年「未来は今 The Hudsucker Proxy」
1994年「ノーバディーズ・フール Nobody's Fool」
1998年「トワイライト 葬られた過去 Twilight」
1999年「メッセージ・イン・ア・ボトル Message in a Bottle」
2000年「ゲット・ア・チャンス! Where the Money is」
2001年「ザ・シンプソンズ The Simpsons」声の出演
2002年「ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition」
2006年「カーズ Cars」声の出演
2008年「ミーアキャット The Meerkats」ナレーション(遺作)

スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父アーサーと母テレサとの間に生まれた。生まれつき色盲で虚弱体質であったことから、子供の頃はよくいじめに遭っていたという。息子の内向的な性格を改善せんと、母親の勧めで地元の児童演劇団に入るも続かず。高校卒業後はこれといった定職にも就かず、訪問販売等に従事して気ままな生活を送っていた。父親の命でオハイオ大学経済学部に入学し直すが、第2次世界大戦が始まると海軍に志願。航空機無線手として、1945年には沖縄戦にも参加している。
終戦後オハイオ大学に復学し、さらにケニヨン・カレッジに進学した。一時はアメフトでプロ・スポーツを志すも、挫折して俳優の道を模索するようになる。地方の演劇団で演技力を磨き、1949年に最初の結婚をする。父親の他界に伴って家業を継ぐが、演劇の道を諦めきれずに改めてイェール大学大学院で学ぶことを希望。結局父親から譲り受けたスポーツ店を売却して大学に進んだ。そこでの演技が偶然プロデューサーの目に留まり、ニューヨークでテレビドラマや舞台に立つチャンスが与えられた。1952年にはアクターズ・スタジオ入学を許され、ジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドーと同期生になった。
ブロードウェイの舞台「ピクニック」で披露した演技が評判を呼び、ワーナー・ブラザースと専属契約を結ぶという、幸先の良いスターと切ったニューマン。ところが、同期生のディーンが主役を射止めた「エデンの東」出演の話はご破算になり、スクリーン・デビュー作となった「銀の盃」(後に「傷だらけの栄光」で再共演を果たすピア・アンジェリとの初共演作でもあった)は、興行的にも批評的にも大失敗。ディーンは「エデンの東」、ブランドーは「波止場」と、仲間達がそれぞれデビューと同時に自身の代表作に巡りあう幸運を満喫する一方で、出鼻をくじかれたニューマンは一時映画界を離れる決意を固める。
テレビドラマや舞台の仕事を着実にこなしていたニューマンは、元々はディーンのための企画であったロッキー・グラジアノの伝記映画「傷だらけの栄光」に、急逝したディーンのピンチヒッターとして急遽出演が決まった。ワイズ監督直々の要請にやる気を起こしたニューマンは、グラジアノの動き、発声、全てを徹底的に研究し、ものにしてみせる。役作りの苦労が功を奏し、ニューマンは今作でようやく正当な評価を得ることに成功した。1956年に最初の妻と離婚した。
1958年に出演した映画「熱く長い夜」で共演したジョアン・ウッドワードとは、舞台「ピクニック」で既に共演していたこともあり、すぐに意気投合する。やがて結婚した2人は、その後死が2人を別つまで、共に固い絆で結ばれた夫婦となった。また1958年には、リチャード・ブルックス監督のメガホンになるテネシー・ウィリアムズ原作「熱いトタン屋根の猫」で、ゲイの性向を押し隠す鬱屈した夫役を好演。初のオスカーノミニーを受けるなど、最初の俳優人生の山場を迎えている。
そして、1960年代から1970年代中盤までは、ニューマンにとっても生涯の代表作に数えられる作品が相次いで登場する。1986年に続編も製作された傑作ドラマ1961年の「ハスラー」の演技でBAFTA最優秀主演男優賞を受賞し、ロス・マクドナルド原作の私立探偵ルー・アーチャー・シリーズを映像化したハードボイルド映画「動く標的」(1966年)ではしがない私立探偵をセクシーに演じ、1967年の「暴力脱獄」では、権力に反抗して何度も脱獄を繰り返す不屈の主人公ルークに扮し、まさしく60年代を代表する名キャラクターたらしめる。特に「暴力脱獄」の原題「Cool Hand Luke」からとられた“Cool Hand”はその後もニューマンの通り名になるなど、彼が演じたキャラクターの中でも最も愛されたものとなった。
ニューマンの快進撃は止まらず、1968年には初監督作「レーチェル レーチェル」を完成。処女作でいきなりアカデミー賞にノミネートされ、主演に迎えた妻ジョアン・ウッドワード共々、ゴールデン・グローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では最高賞を得た。そして、60年代の最後の年、1969年には、ロバート・レッドフォードと共演した西部劇「明日に向かって撃て!」が大ヒットを記録。ハリウッドを揺るがした一大ムーブメント、アメリカン・ニューシネマの作品としても、またニューマンとレッドフォードの共演作品としても忘れがたい代表作となった。今作にも、後年になって製作されたプリクエル作「新・明日に向かって撃て!」が存在するが、キャスト並びにスタッフは一新されている。
採算度外視で思い通りの映画を製作することを目標に、シドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立。プロデューサー初仕事の第1弾作品「レーサー」で主役のインディ・カー・レーサーを演じるにあたり、レーシング・スクールに通ったことがきっかけで、ニューマン自身もカーレーシングにのめりこむようになる。後に44歳でプロレーサーとしてデビューを果たし、1975年にはレーシングチームを結成、1977年のデイトナ24時間レース参戦で5位、1979年のル・マン24時間レース参戦では2位という好成績を記録した。
華麗なフィルモグラフィーの中では比較的地味で目立たないが、70年代には2本の監督作品を発表している。そのうちの1作、1971年の「オレゴン大森林/わが緑の大地」では、材木の伐採業に誇りと命を賭ける一家の絆の物語をオレゴンの大自然の中に描き、後年のレッドフォード監督作品「リバー・ランズ・スルー・イット」の先駈けとなった。また、1972年には、ジョン・ヒューストン監督による異色西部劇「ロイー・ビーン」で、タイトルロールの“首吊り判事”ロイ・ビーンを熱演。決して単純な正義漢とはいえぬ、殺し屋すれすれの法の番人の破天荒かつ純粋な生涯を、ビザールな味わいの演出で描いたカルト作である。ジョージ・ロイ・ヒル監督の名作「スティング」(1973年)ではレッドフォードと再共演を果たし、詐欺師達の織り成すスリリングかつ痛快なドラマを余裕たっぷりに演じて魅せた。二転三転するストーリー、小気味良い演出、脇役に至るまで俳優陣の見事なアンサンブル演技、どれをとっても傑作。同年アカデミー賞作品賞に輝いた。70年代に大流行したパニック大作映画の中でも、特に名作と謳われる「タワーリング・インフェルノ」(1974年)では、スティーヴ・マックィーンと夢の共演を実現し、文字通りの豪華キャストのアンサンブルを引き締める役割を果たした。「スティング」のジョージ・ロイ・ヒル監督と再びコンビを組んだ作品「スラップ・ショット」は、プロ・アイスホッケーの世界を舞台にした痛快スポーツ・コメディ。ラフ・プレイ連発、ド迫力のホッケー試合と、選手達のダメダメ、ダラダラな私生活をテンポよく織り交ぜ、二枚目ニューマンの三の路線を上手く引き出した作品でもある。70年代前半は、銀幕以外でも話題を振りまいたニューマン。泥沼化したベトナム戦争でアメリカが敗北したことを重く見た彼は、かなり過激な反戦運動を展開。ホワイトハウス制作のブラックリストに名前が記載されていた時期もあった。
70年代後半には初めてのスランプを経験する。特に、「タワーリング・インフェルノ」の2匹目のドジョウを狙ったパニック大作「世界崩壊の序曲」の大失敗は手痛く、出演作品の悪口を言わない紳士として有名なニューマンをして、“出演を後悔した作品”と言わしめてしまう。私生活でも不幸があった。先妻との間に出来た息子スコットが、ドラッグ禍で急逝したのだ。しかしここでへこたれないのがニューマン。彼は息子の名前を冠した基金を設立し、ドラッグ撲滅を進める団体や映画、テレビ番組に幅広く援助を行った。
ハンサムなルックス、クールな佇まいから連想される“セクシーな”役柄からの脱却を図るため、80年代は、地味ながらも骨太な社会派映画の佳作や人間ドラマを描く作品への出演が続いた。シドニー・ポラック監督の「スクープ・悪意の不在」(1981年)では、ニューマンは冤罪で逮捕された男に扮し、真実を求めるジャーナリストの報道が社会に広げる波紋を描いた。圧巻だったのは、シドニー・ルメット監督の名作1982年の「評決」での落ちぶれ弁護士役だ。ハイエナのように、新聞の死亡欄で弁護の仕事を見つけるまでに落ちぶれていた弁護士フランクは、ある日、医療ミスで家族を植物人間にされた依頼人に出会う。金のために弁護を引き受けるフランクであったが、事件を追ううちに背後の巨悪と偽善にぶち当たる。勝ち目なしと思われた裁判で、彼はかつて自身が持っていた正義を奮い立たせ、最終弁論の場に立つのであった。この最終弁論のシーンは、法廷サスペンス映画の中でも屈指の名シーンであるだけでなく、おそらく、ニューマンのこれまでの俳優人生の総決算であったと思われる。ニューマンのアカデミー賞主演男優賞獲得は確実と目されていたが、不運なことに、リチャード・アッテンボロー監督の伝記ヒューマンドラマ「ガンジー」に阻まれてしまった。
60年代から70年代にかけてが俳優ニューマンの絶頂期であるとしたら、80年代は熟成期であったといえるだろう。人生の酸いも甘いも噛み分けた男が、自身の人生の総決算をフィルムの上に刻印するのである。80年代にニューマンが出演した作品は、総じて地味なものが多く、公開当時は話題にならなかったものも多い。しかし、1989年の作品「ブレイズ」のように、非常に素晴らしい人間ドラマも残しているのだ。ニューマン亡き今、今一度今作のような作品にスポットライトが当たることを祈って止まない。「ブレイズ」は、実在の人物であるルイジアナ州知事アール・ロングの生き様を描くドラマだ。この御仁、なんと65歳になってから(当然既婚者)、孫ほども年の離れた28歳のストリッパーと電撃的に恋に落ちてしまった。元来、古風なモラルの支配するお国柄であるゆえに、もちろんこのスキャンダルは、全米を大混乱に陥れてしまう。だが、一方では、ロング知事は無報酬で知事職をこなし、貧しいルイジアナ市民のために人生を捧げてきた型破りな政治家でもあったのだ。既成概念に挑戦し、政治の世界にはびこる権威主義に牙を剥き、かくして恋の情熱には純粋な男。反抗心と茶目っ気とタフネスと純情を併せ持つ複雑な、でも魅力的な男を演らせると、やはりニューマンは際立つ。今作での彼もまた、「評決」と並んで名演とみなしていいと思う。
また、1987年には隠れた名作「ガラスの動物園」を監督している。今作は、ニューマンとは縁の深い劇作家であるテネシー・ウィリアムズ原作の戯曲。恋女房のジョアン・ウッドワードとカレン・アレンが舞台版に出演した際、その舞台を気に入ったニューマンが、それをそのままの形でフィルムに残すことを決意した。ニューマンは、ウィリアムズの原作を一字一句変えることなく映画版の脚本として使用し、緻密に練り上げられたカメラワークでフィルム上に舞台を再現。地味だが、監督第1作目「レーチェル レーチェル」を髣髴とさせる見事なドラマに仕上げた。ニューマンが、俳優としてだけではなく、監督としても円熟の域に達していたことを物語っている。
1983年にセシル・B・デミル賞を、1985年にはアカデミー名誉賞を授与された後に、当たり役を再び演じた1986年の「ハスラー2」で念願のアカデミー賞主演男優賞を獲得したが、彼自身の名演技は上記した作品にあると言っていい。
1982年には、ニューマン家自家製ドレッシングやソースのレシピをそのまま流用した商品を制作する、食品会社ニューマンズ・オウンを立ち上げた。ニューマン自身が広告塔になった効果も大きかったが、食品添加物にも気を配ったヘルシー志向の食品が大いに受け、なんと世界規模で事業の拡大に成功。当の本人も、ニューマンズ・オウンがまさかそこまでの利益を上げる大会社になるとは考えていなかったが、会社があげる純利益は全て貧困層の子供達に寄付する方針を決定した。
90年代に入り、還暦を迎えても尚、かくしゃくとした佇まいで映画出演を続けたニューマン。助演でスクリーンに登場し、その存在感で映画全体をぴしりと引き締める役どころが多くなった。しかしながら、1994年の「ノーバディーズ・フール」では、60歳になっても少年の心を失わないサリーを、まるでニューマンその人を思わせる説得力でチャーミングに演じて魅せた。共演のブルース・ウィリスも、思わず居住まいを正す程の良い演技を披露。ウィリスをひよっ子扱いするとは、ニューマン、さすがの貫禄である。今作では、ベルリン国際映画祭はじめ、多くの映画賞で男優賞を獲得し、まだまだ現役でいけることを証明した。「アメリカン・ビューティー」で衝撃的に映画界に登場したサム・メンデス監督の「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)では、アイルランド系マフィアのボスに扮した。年輪を増した切れ味鋭い威圧感と、主人公に見せる温厚な表情の巧みなる使い分けで、若い観客にも強烈な印象を残している。今作でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。ピクサー・アニメの「カーズ」ではドク・ハドソン役の声をあて、飄々とした、しかし頼りになるキャラクターを安定感抜群の“演技”で表現した。生涯現役を貫いたニューマンではあったが、2007年には、出演したテレビ番組で俳優業からの引退を表明。理由は、体力と記憶力の低下による演技力の低下。永遠のクール・ハンドは、自身の引き際も鮮やか、かつクールであった。
ニューマンズ・オウンの業績は安泰で、25年間で総額2億2000万ドルにも及ぶ純益を貧困層の子供達に寄付し続けた。1993年にはこの功績をたたえ、ニューマンにジーン・ハーショルト友愛賞が授与されている。また、母校ケニヨン大学への奨学基金設立資金援助も行い、俳優、事業家、篤志家として、多くの人々から賞賛される人生を締めくくった。

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ポール・ニューマンの人生は、豊穣なフィルモグラフィーと、彼自身の人間性の素晴らしさで語られます。彼の生き様は、彼がスクリーンで演じてきた数々のヒーローたちのそれといつの間にか重なり合い、多くの人々を魅了し、また敬意を表されてきました。
キャリアの当初でこそ、ジェームズ・ディーンとマーロン・ブランドーという2大巨星に挟まれて苦渋を強いられましたが、その苦労は後に実を結びます。ニューマンという人は、俳優としては実にニュートラルな魅力の持ち主なのですね。ご本人が意図してそうしていたか、あるいは元々の持ち味であったかは不明ですが、とにかく透明な水のごとくのオーラです。
いやいや、“クール・ハンド”のセクシーさ、はたまた生涯現役のタフネスっぷりは、しっかり自己主張しているではないかと仰る向きもありましょう。でもよく考えると、ニューマンの佇まいというのは、ディーンのそれほど屈折しているわけでも脆いわけでもありませんし、また、ブランドーのそれほどアクが強いわけでもないのですね。時に翳りを見せるも程ほどに陽性だし、下積みを経験して程ほどにタフ。両極端のどちらかにメーターを振り切っているわけではなく、クールさを纏いながらも中庸を行く、というね。なにもこれは没個性的だと言っているのではなく、息の長い俳優になるためには必要不可欠な素質だと思うわけです。
ニューマンのキャリアを振り返ってみてください。ディーンのように志半ばで早逝することなく、多少の浮き沈みはあれども自身の納得のいく作品作りが実現できましたし、キャリアの最後の瞬間まで高いレベルの演技力をキープし続けました。また、ブランドーのように、晩年になって醜怪かつ悲惨な末路を辿る不幸にも全く縁がありませんでした。前妻との離婚、はたまた1人息子を亡くす不運はありましたが、それに潰されることなく、実にアメリカ人らしいポジティヴさで乗り越えるだけの強靭な精神を持っていたわけです。人生での経験値を1滴もらさず全て演技に生かし、なおかつ実生活は守り抜いたという、俳優としてはこれ以上望むべくもない幸福な生き方であったのですね。

想像するに、ニューマンが俳優としても1人の人間としても成功を収めた秘訣とは、キャリアや人生の躓きで鍛えられた、“余裕”ではないでしょうか。彼の演技を見ていると、扮するキャラクターがそうだという以上に、端々で“余裕”が感じられます。常にいっぱいいっぱいの、力こぶを盛り上げ続けて痙攣を起こしたような“熱演”には、観客が一息つけるような余白が皆無ですよね。ニューマンの演技には、おそらく本人によって入念に計算されたのであろう“余白”が必ず存在するのです。それがごく自然に、観客に安定感を伝えていると考えられます。もちろんその余裕は、彼が年輪を重ねるごとに熟達の度を増していくわけですが、柔軟でニュートラルな彼の演技の核を成すものだと思いますね。

おそらく今後関連作品が続々とDVD化されると思います。数多いニューマンの出演作の中にも、いまだにDVDになっていない隠れた秀作が埋もれていますからね。以前ピア・アンジェリの記事の中で少し触れた「傷だらけの栄光」もそのひとつです。


Somebody Up There Likes Me [VHS] [Import]
MGM (Warner)
1998-09-01

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「傷だらけの栄光 Somebody Up There Likes Me」(1956年)
監督:ロバート・ワイズ
製作:チャールズ・スクニー
原作:ロッキー・グラジアノ&ロウランド・バーバー
脚色:アーネスト・リーマン
撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ
音楽:ブロニスロー・ケイパー
主題歌作詞:サミー・カーン
主題歌歌唱:ペリー・コモ
出演:ポール・ニューマン(ロッキー)
ピア・アンジェリ(ノーマ)
エヴェレット・スローン(アーヴィング・コーエン)
サル・ミネオ (ロモロ)
アイリーン・ヘッカート(ママ・バーベラ)
ハロルド・J・ストーン(ニック・バーベラ)他。

ロッキーは、ニューヨークのイースト・サイドにある貧民街に育った移民の子であった。当時、彼の地に住まう貧しい若者たちの辿る運命は知れたもので、ロッキーもご他聞にもれず、不良仲間のロモロらと共に日々盗みを働くチンピラとなっていた。ある日、他のチンピラ集団と縄張り争いを起こして感化院送りとなったロッキーは、強制的に軍隊に放り込まれる。ところがそれを不服とした彼は、軍隊生活初日で脱走、すぐさま軍規破りとして刑務所へ収容された。軍隊から逃げる途中で目の当たりにしたボクシングの世界に魅せられたロッキーは、刑務所内でボクシングを習い、天職を得る。
出所後、彼はスティルマン体育館を訪れ、本格的にプロ・ボクサーとしての道を歩み始める。厳しいトレーニングに耐え、めきめきと頭角を現していくロッキー。また、妹を介して知り合った美女ノーマとも愛を育み、結婚、娘も生まれて彼の人生はいよいよ実りあるものになろうとしていた。
ところが、ミドル級のチャンピオンベルトを賭けてのトニー・ゼイルとの試合を控え、ロッキーはとんでもない災厄に見舞われる。刑務所時代に知り合った男から、大事な試合での八百長を頼まれたのである。プライドを傷つけられたロッキーは当然八百長を突っぱねるが、その報復として試合の興行も放棄され、かつて札付きのチンピラであった過去を新聞に暴かれる。ボクサーとしての未来を断たれ、大きなダメージを受けたロッキーであったが、妻ノーマの献身的な支えによってやがて立ち直る。1から出直したロッキーは粘り強い努力を重ね、1947年、再びチャンピオン、トニーに挑戦。接戦の末にこれを打ち負かし、とうとう念願のチャンピオンの座を奪取したのだった。

傷だらけの栄光 [VHS]
ワーナー・ホーム・ビデオ
1994-07-22

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ハリウッド最後の巨星ポール・ニューマンの、実質上の映画デビュー作にして代表作のひとつに数えられる作品です。本当なら、彼の映画デビューは同じくピア・アンジェリ共演になる史劇「銀の盃」になるのですが、作品の内容も質も芳しからぬものであったため、彼のキャリアの中では黙殺されている状態なのですね (笑)。

1940年代中盤にミドル級チャンピオンとなったロッキー・グラジアノの伝記を、名匠ロバート・ワイズ監督が映画化した作品です。ニューヨークのスラムに生まれ育ったロッキーが貧しい環境から身を起こし、苦労を重ねながらボクサーとして頂点に立つまでを追った伝記ものですが、元はロッキー役にジェームズ・ディーンがキャスティングされていたように、全体的に「理由なき反抗」のボクシング版のような繊細な印象を受けます。
アメリカらしい、紆余曲折を経てのサクセス・ストーリー自体は、それこそオーソドックスな内容でしょうが、今作の素晴らしいところはストーリーの無駄のない流れに尽きます。必要なエピソードを過不足なくストーリーに織り込み、観客の集中力を削がないようにテンポ良く進めて行く。それでいて、単なるエピソードの羅列に終わらず、粋な会話と絶妙のタイミングで挟まれるユーモラスな描写が、映像に憎いほどの豊穣さをもたらしているのですね。どうしようもないワルであった若き日のロッキーの荒んだ状況と、一転して刑務所内で天啓を得てから後のタイトル奪取までのストーリーに起伏を持たせ、観客をのめりこませる演出の妙技は、やはり名匠と呼ばれる人ならではのものでしょう。クライマックスとなるトニーとの試合のシークェンスは、ボクシング映画に伝統のあるハリウッドの手練れ、こちらは安心して手に汗を握っていられます。
今作は、ボクシング映画としても、また1人の男の成長物語としても充分に満足のいく仕上がりですが、一方で、サイドストーリーとなるロッキーと妻ノーマの夫婦愛、家族愛ドラマにも丁寧なスポットが当てられていますね。時間の経過と共に彼らの絆が深まっていく様がうかがえる、印象的なシーンが幾つもあります。ボクシングがロッキーの身体を痛めつけるのではないかと心配するノーマに、ロッキー自身がふざけるようなスパーリングを見せて安心させようとしたり、逆に、八百長を断ったために窮地に陥るロッキーを、ノーマが力強く支えて土壇場の強さを見せたり。影になり日向になりしながら夫を支え続ける妻という役回りは、ピアの清楚な美貌によく似合いますね。
それにしても、今作におけるポールの初々しいこと!そりゃまあ、デビュー作なんですから外見が若々しいのは当然ですが、その佇まいが透明な瑞々しさに溢れているのです。晩年の、“素敵なロマンスグレーの紳士”的イメージしかご存じない方には、おそらく新鮮な驚きを感じてもらえるでしょう。不良時代の、研ぎ澄まされたナイフの刃のごとき鋭さと、苦しいトレーニングを経てその内面も成長していく様子の見事な対比。挫折を乗り越えて頂点に立った際のロッキーの顔には、勝者だけが持つオーラと同時に彼の人生の深淵までが幾重にもうかがえるような錯覚を覚えますね。ポールに内在する溌剌としたスター性と、類稀なる演技力が絶妙に融合し、ロッキー・グラジアノという雑草のごときヒーローに、熱い輪郭を与えることに成功したのです。俳優としても実生活の上でも反骨の人であったポール・ニューマンの伝説は、ここから始まったといっても過言ではありません。

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