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zoom RSS 「二十四時間の情事Hiroshima Mon Amour」Part2−アラン・レネ監督

<<   作成日時 : 2017/01/28 22:05   >>

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Hiroshima Mon Amour | Trailer | NYFF52
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―私は、観客が自ら働きかけて見ることができる映画、観客1人1人の想像力に委ねられる映画を作りたかった。「二十四時間の情事」は、全く何も強制することのない映画空間となっていると信じている。― アラン・レネ・インタビューより抜粋

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1955年、世界中に衝撃を与えた「夜と霧」の後、レネ監督は数本の短編ドキュメンタリーを製作します。そして1959年当時のフランスでは、レイモン・クノーやフランソワーズ・サガンが文学界を活気づけていました。映画界に於いても、フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」やクロード・シャブロル監督の「いとこ同志」、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」といった作品が次々と発表され、“ヌーヴェル・バーグ”運動が最盛期を迎えたのです。

そんな時代の中で、レネ監督の短編作品製作を支えてきたアルゴス・フィルムは、長編の商業映画製作に乗り出そうとしていました。アルゴス・フィルムは、大映の永田雅一が日仏合作映画を作る企画を立てていることを聞きつけ、日本市場への参入と長編映画製作という命題を同時に実現するため、大映と協力することを決定したのです。アルゴス・フィルムのアナトール・ドーマンは、早速アラン・レネとクリス・マルケルに日仏合作映画製作の監督を依頼、マルケルはこの企画に興味を示さなかったため、結局レネが手がけることになりました。彼は当初、広島を舞台にした反戦ドキュメンタリーを撮るつもりでいましたが、1人の女性を語り部にして2つのストーリーが同時に進行するというプロットを思いつきます。彼はこの基本的なアイデアを基に、脚本執筆を作家マルグリット・デュラスに依頼しました。彼女にとって、映画産業と関わるのはこれが初めての経験になります。彼女自身、戦時中は収容所暮らしを経験した身の上で、“広島”というキーワードが導く反戦メッセージをテクストに反映させるという仕事に、いたく心を動かされたのだそうです。

デュラスの協力を取り付けたレネ監督は、次にキャスティングと広島へのロケハンを行いました。ヒロインの女優役には、かねがねその美貌と視線の強さに感銘していたというエマニュエル・リヴァを起用、ヒロインに拮抗する魅力の持ち主である日本人建築家役には、「青銅の基督」(1955年)の主役を務めた岡田英次に白羽の矢をたてました。レネ監督は、大映から送られてきた洋服姿の岡田の写真のハンサム振りに満足し、キャスティングはとんとん拍子に進みました。余談ですが、岡田はこの作品に出演が決まったとき、フランス語が全くわからなかったそうです。そのため、フランス語のセリフを耳で聞いたリズムのまま、丸覚えしたそうですよ。劇中では、とてもそんな風に思えないほど流暢な台詞回しでしたね。その日本人離れした容貌と相まって、大変に強い印象を残しました。

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1958年脚本助手とともに東京と広島を訪れたレネ監督は、広島滞在最初の日の午前3時に宿泊ホテルを出て、映画と同様に広島の街中を歩いたといわれます。広島での撮影直前にはリヴァも連れて2週間のリハーサルも行いました。ヒロインが悲劇的な愛の破局を迎えたヌヴェールの撮影を担当したのは、「夜と霧」に引き続きサシャ・ヴィエルニ。1958年12月に12日間という短期間での撮影を敢行しました。広島のシーンは全て高橋通夫が撮影にあたります。撮影は1958 年8月から9月にかけての暑い時期に行われました。またレネ監督は、映画を通して背後に流れる音楽と、劇中聴こえる音によって映像の緩急をつけるため、スコアの依頼をジョヴァンニ・フスコに求めます。カフェのジュークボックスから流れる曲には、ジョルジュ・ドルリューの作品をあてはめました。

こうして完成した作品は、1959年に公開されました。その年のパリにおける興行成績では振いませんでしたが、「ポジティフ」や「カイエ・デュ・シネマ」等の、ヌーヴェルバーグ・ムーブメントの守護神とみなされていた雑誌では、一様に驚きをもって迎えられました。それは、この作品が時間の流れを自在に操り、その中で人間の“意識の流れ”及び“潜在意識の現われ”を映像化することに挑んだからです。それは従来の映画において未踏の領域であり、矛盾に満ち説明しがたい心象風景を、そのまま流麗な映像美にまで昇華せしめた功績は非常に大きいものでした。この作品がフランスのみならず、世界中で高い評価を得ることになったのも当然ですね。そしてこの後、多くの映画で人間の潜在意識がテーマに取り上げられるようになったのです。

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さて、特に初期のレネ作品に共通する特徴として、先に挙げた“時間の流れ”があります。つまり、今現在の出来事と過去の出来事を自在に行き来することで、主人公の深層心理を明らかにしていくという形ですね。「夜と霧」のなかで暴かれていたのは、作品を見つめる私達観客のそれでしたが、この作品では、名前を持たない1人の女の潜在意識を探っていきます。
フランス人の美しい女優である彼女が、いまだ原爆投下による悲劇の記憶の生々しい広島を訪れています。日仏合作の映画を撮影するためですね。そこで偶然知り合った日本人建築家の男(彼も名無し)と24時間だけの情事をもつのです。彼女は名も知らぬその男に、“広島”という概念に対して意外なまでの執心を持っていることを訴えることから、お話は始まります。フランス人であり、なおかつ、戦争の影響をあまり受けていないと思われる牧歌的な田舎町ヌベールの出身である彼女が、どうしてそんなに広島の悲劇を知ろうとするのか。映画のための役作りの一貫という領域を超えた広島へのシンパシーの強さと、その一方で自らの過去を封印しようとする、矛盾した意識のせめぎあい。男は、次第に彼女の隠された意識を知りたいという欲求にかられていくわけですね。それは観客も同様で、私たちは男と共に彼女自身の秘められた悲劇を探っていくことになります。

劇中劇である日仏合作映画は広島を舞台とした反戦映画であり、この作品そのものだといえますね。その撮影の過程で知った原爆禍は次第に女の潜在意識を揺り動かし、同時に愛を交わした男の存在が、彼女の過去の悲劇を呼び覚ましていきます。ついに彼女は、今まで誰にも話さなかった過去を男に打ち明けました。広島の経験した悲劇と、彼女が故郷ヌベールで経験した悲劇―敵対するドイツ人の兵士を愛したこと―が交錯し、彼女の意識の中でひとつに溶け合っていたのですね。彼女の心の中で、初恋の相手ドイツ人兵士と目の前の男が一体となったわけです。

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フランス人でありながらドイツ人を愛するというタブーを犯した彼女は、戦争の終結と同時に同胞たる街の人々から屈辱的な罰を受け続けます。目の前で愛人を殺され、頭を丸刈りにされ、両親から疎まれ地下室に監禁されて。忘れようにも忘れられないその苦痛と屈辱は、彼女の心を、祖国ではなくむしろ戦争に敗れた国(フランスにとっては敵対した国)へと歩み寄らせていったのです。つまり、彼女は戦勝国側に属する人間ではあったけれども、個人の心情としては、ドイツと共に敗退し、原爆によって壊滅的なダメージを受けた国の人々により近かったわけですね。
やがて、戦争によってもたらされた彼女個人の苦痛と広島が被った絶望的な痛みは、同じ悲劇性を共有するのだということが、観客に明示されます。その二つを比較するのではなく、戦争のもたらす悲劇を個人のそれに還元することにより、どんな戦争であれ、その愚かしさは同じものであるということを言外に訴えたかったのではないでしょうか。“敵と味方”という立場の枠組みを超えた女をシンボルとして、人間は等しく戦争を憎むべきなのではないか、と。
「私は広島を見た」という彼女の言葉と、「いいや君は何も見ていない」と答える男の会話は、冒頭で何度も繰り返されます。一見不毛なやり取りに見えるその会話は、実は原作と脚本を手がけたデュラス自身の“広島”への認識なのだそうです。彼女は戦時中、夫と共に収容所に入れられていました。広島に原爆が投下されたニュースを知ったのも収容所の中。彼女はそのとき、収容所の寝所から外に飛び出し、立ったまま気絶したのだそうです。同じ頃、アウシュビッツなどの強制収容所では大量の死体の山が発見されていた…。彼女の意識の中で、広島の壊滅と収容所内での苦痛は別ちがたく結びつき、以降戦争の悲劇について語ることは、彼女にとってタブーとなってしまいました。冒頭の問答は、“広島”つまり“戦争”を第三者的な立場から語ることの不可能性を示しているのです。この作品の“女”には、多分にデュラス個人の体験と思想が投影されていると思われますね。この作品が、レネ監督の個性と共にデュラス色が濃厚に出た映画になったのは、そのためもあるでしょう。デュラスは後年、レネ監督からの要請でなければ、個人の戦争体験を作品に著すことはしなかったと述べています。

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女の潜在意識が明らかになるにつれて、彼女の男に対する感情が“一時の火遊び”から“愛情”に変化する様は、非常に説得力を持って描かれていますね。彼女は、自らの封印した過去を反芻するうちに、自分がいまだそれに囚われの身であることを思い知らされます。過去の記憶から逃れようとすればするほど、愛を失い魂の抜け殻と化した現在の自分の姿に対峙せざるを得ない矛盾。彼女は、過去の呪縛を振りほどく術は新たな愛しかないことを認識しています。おそらく無意識のうちに自己防衛本能が働いたのでしょう。広島で出会った男に過去に失った愛を見出し、不可能だと知りながら余計にそれに救いを求めていくのですね。男が象徴するものは、過去に彼女が愛した男であり、つまり幸せだった頃のヌベールでの楽しい思い出です。心の底では故郷を求めているにもかかわらず、帰ることを許されない哀しみです。彼女にとって男がどういう存在なのかを知る行為は、彼を鏡としてそこに自己を映し出してみる試みに他なりません。自分が何者かをついに彼女が受け入れたとき、男は彼女にとって“ヒロシマ”という概念そのものであったことが明らかになるのです。同時に彼にとっても、女は“フランス”あるいは“ヌベール”が体現する“戦争の痛み”の象徴であったわけですね。ここではじめて彼らに“名前”が与えられ、彼らが共鳴しあった真の理由も暗示されます。人が人を好きになるという行為において、理屈では割り切れない感情の揺らぎ。恋愛の不条理さもが、痛切な痛みを持って浮き彫りにされるのですね。

デュラスの駆使するロジックは多分に詩的で抽象的であるため、画面からはとかく難解な印象を受けがちです。しかし、ヴィエルニと高橋の流麗なカメラワークによる映像と呼応して、観客は容易にレネ監督とデュラスが目指した世界に引き寄せられていきますね。デュラスのテクスト(女の独白)とカメラが見事に一体化したのは、終盤、2人が夜の広島をさ迷い歩くシークエンスです。女の意識は広島と過去のヌベールをさかんに行き来していきますよね。彼女が故郷に対して抱くアンビバレントな思いを暗示するかのように、ヌベールの風景は陰鬱としており、他方広島のけだるげな夜の表情は、その悲劇を内包してよそ者を威嚇するかのように怜悧であります。対照的に見えるヴィエルニと高橋のカメラワークは、別人のものとは思えぬほど特徴が酷似しています。女を取り巻く周囲の環境―ヌベールでも広島でも―は、時に見下ろすかのように威圧的で、またあるときには彼女を包容するような鷹揚さも示します。カメラは女と男の目線で動き、空間を立体的に切り取ると同時に、彼らの心理状態までも映し取っていたのです。


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最後に、ヒロインをその強力な存在感で演じきったエマニュエル・リヴァの現在の姿をご紹介しておきましょうかね。彼女は50年代末から60年代にかけ、フランスの名匠と共に活動しました。しかしその強烈な印象が逆にネックとなり、オファーされる役柄が限定されるようになってしまいます。奇しくも、ヌーヴェルバーグの衰退と共にキャリアも下降線をたどり、テレビや舞台などに活動の拠点を移しているようです。
しかし、まだ記憶にも生々しい2012年の映画「愛、アムール」(ミヒャエル・ハネケ監督)では、突如体の自由を奪われる難病に倒れた妻アンヌを熱演し、作品にパルム・ドールやセザール賞、アカデミー賞の外国語映画部門等多数の映画賞をもたらすことに貢献しました。自身も英国アカデミー賞、セザール賞、ヨーロッパ映画賞などで主演女優賞に輝き、80歳を遠く過ぎてからの鮮やかなる返り咲き、しかもこれまでのキャリアの中で最高の瞬間を捕らえた奇跡のストーリーの、華麗なるヒロインとなったのです。

●主な出演作

1958年「大家族 Les grandes familles」
1959年「二十四時間の情事 Hiroshima mon amour」
1960年「ゼロ地帯 Kapò」
1961年「モラン神父 Léon Morin, prêtre」
1962年『Thérèse Desqueyroux』
1964年「恐喝 Le Gros coup」
1965 年「山師トマ Thomas l'imposteur」
1967年「先生 Les risques du métier」
1969年「栄光への5000キロ 5,000 Kilometers to Glory」
1973年「クレージーホース J'irai comme un cheval fou」
1976年「スキャンダル Le diable au coeur」
1983年「自由、夜 Liberté, la nuit」
1991年「熱砂に抱かれて Pour Sacha」
1993年「トリコロール/青の愛 Trois couleurs: Bleu」
1999年「エステサロン/ヴィーナス・ビューティ Vénus beauté (institut)」
2007年「華麗なるアリバイ Le Grand Alibi」
2011年「スカイラブ Le Skylab Mme Prévost dite Mémé」
2012年「愛、アムール Amour」


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エマニュエル・リヴァ Emmanuelle Riva

1927年2月24日生まれ
2017年1月28日没

フランス、ヴォージュ県出身

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