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zoom RSS 妖精は何処へ行った―「となりのトトロ My Neighbor Totoro」

<<   作成日時 : 2017/01/13 00:37   >>

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モーリス・センダックの名作絵本を、「アダプテーション」のスパイク・ジョーンズ監督が大胆なイマジネーションと独自の解釈を施して映画化した「かいじゅうたちのいるところ(Where The Wild Things Are)」。フランス在住時に当地で劇場公開されており、私も子豆たちを連れて観に行ったものです。
実はこの「かいじゅうたちのいるところ」に関しては、原作絵本には全く記載がない、かいじゅうたち同士の関係性が非常に重要であり、彼らの間で交わされる会話をきちんと把握し、理解しなくては、作品全体の理解もままなりません。最初にフランス語吹き替え版で観賞し、従ってその辺りのデリケートなやり取りがあまり理解できなかったことには、フラストレーションも感じましたね。
スパイク・ジョーンズ監督らしいイマジネーションは相変わらず面白いし、子供の世界を大人の視線で上から見たのではなく、そのありのままの姿を描いた演出には非常に感心もしました。子供向け、あるいは子供だましの映画に貶めず、子供の親の世代に向けて真摯に発信された寓話には、幾重にも暗喩がちりばめられてもおり、裏に隠された深層心理を探っていくと、また一味違った楽しみ方も出来そうです。日本でも1月15日から公開される「かいじゅうたちのいるところ」、興味をもたれた方は、ぜひ日本語字幕で内容をしっかり把握しつつ(苦笑)ご覧になってみてください。子供向けファンタジー映画ではなく、一種のカルトなアート映画に仕上がっておりますので、お好きな方にはたまらない作品かと思われます。

さて、その「かいじゅたちのいるところ」に登場する、着ぐるみとCG加工で出来上がった“かいじゅうたち”を見ていますと、我々日本人は自然にこの作品を思い出したりします。

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実はこの「となりのトトロ」、うちの子豆たちが今よりもっと小さかった頃、トトロの造形が怖くて映画が観られなかったといういわくつきの作品である(笑)。
この名作アニメの、一体どこが怖いんだろうと不思議に思う。この世とこの世ならざる場所が曖昧に交わる、あの世界観がダメなのか。それとも、単純にトトロの造形が苦手なのか。しかし苦手ったって、子豆たちは遥かにグロテスクなモンスターを大喜びで観ているのに?子供の感覚の基準とは大人からすれば突拍子もなく、それが非常に面白いもんだ。

「となりのトトロ My Neighbor Totoro」(1988年製作)
監督:宮崎駿
製作:徳間康快
プロデューサー:原徹
企画:山下辰巳&尾形英夫
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
撮影:白井久男&スタジオコスモス
特殊効果:谷藤薫児
美術:男鹿和雄
編集:瀬山武司
音楽:久石譲
主題歌:井上あずみ
作・編曲:久石譲
作詞:中川季枝子「さんぽ」
仕上:保田道世
制作:スタジオジブリ
声の出演:日高のり子(サツキ)
坂本千夏(メイ)
糸井重里(とうさん)
島本須美(かあさん)
北林谷栄(ばあちゃん)
高木均(トトロ)
丸山裕子(カンタの母)
鷲尾真知子(先生)
鈴木れい子(本家のばあちゃん)
広瀬正志(カンタの父)
雨笠利幸(カンタ)他。

皆さんご承知だと思うが、トトロっていうのは要するに妖精。妖精という存在は、無垢な子供の目にしか映らないというのが専らの定説だ。実在するのかしないのかも不明。この世の常識では測ることはできない、人知を超えたものなのだ。だから大の大人をも惹きつける。かのミステリの巨匠アーサー・コナン・ドイル然り、また先ほど別記事で触れたアイルランドの偉大な詩人イェーツ然り。“妖精は本当にいる!”と信じ、なんとかそれを証明しようとした偉人が後を絶たない。
でも、やっぱり妖精は子供にしか見えないのだ。「となりのトトロ」では、緑濃い田舎の村に越してきた2人の幼い姉妹が、このふかふかの毛玉のごとき妖精トトロと交流を持ち、母親入院中に起こったピンチを彼に救われるという顛末を描いている。メイとサツキ姉妹の父親には、案の定トトロは見えない。しかし、考古学の教授らしく、この御仁も多少浮世離れした部分を持っているのだろう、妖精の存在を頭から否定してしまうような愚挙は犯さない。事実、昔、まだ人間がありのままの自然の懐の中で、その恵みに感謝しながら生きていた頃、人間は自然の不可思議な力を目の当たりにしていたのだ。まだ純朴であった我々のご先祖は、自然の中に神の姿を見出していた。だから、トトロのような森の主が隣にいたって何らおかしいことではないのだ。
だが、人間は成長するにつれ、妖精の姿を見失っていく。妖精が消えたのではない。おそらく我々の目が大人になるにつれ曇っていくせいだろう。大人の知恵と賢さを手に入れる代わりに、人間は大切なものを手放していくのだ。その失ったものの大きさを思い知る頃には、我々の前から妖精はすっかり消えてなくなってしまっている。代わりに、目の前にはどこまでも写実的な風景が広がるばかりである。

アニメ作品であるので、アニメでなければ表現不可能な描写が美しい。まっくろくろすけ、ちびトトロ、ネコバスなど、イマジネーション溢れる造形もさることながら、今ではもう見られなくなってしまった古き良き日本の田舎の情景が、望郷の念をこめて描写されているのには胸が痛くなる思いだった。色鮮やかな緑色の田んぼや畑、そこを吹きぬける一陣の風、目に見えぬ空気がどこまでも澄んでいく様。水溜りにいるおたまじゃくし、道端で呑気に鳴くかえる、井戸からくみ出される冷たい清水。そして、たくさんのどんぐり。不思議とどこでもないように感じられるそれらの情景は、実は多くの日本人が普遍的に心に抱いている“ふるさと”の象徴であるのだ。
私が子供の頃住んでいた実家は、おそらくこの映画に登場する田舎に限りなく近い風景を有していた。しかし、そこでは私は妖精を見ることは出来なかった。今でもそうだろう。ではもう一度そこに帰ってみたいかと問われれば、否と答えると思う。もはやそこに、昔のままの光景は存在しないとわかっているから。我々がふるさとという茫漠とした意識を大事にしているのは、それが記憶の中におぼろげに留め置かれているイメージであるからだと思う。
人の世界と神の世界が緩やかに交錯した時代は、既に遠く過去のこととなった。現代に生きる我々には、恐らく最初から、妖精を見るチャンスはなかったのだろう。だから我々はせめて映画の中に、そのイメージを求めた。「となりのトトロ」という作品が作られた背景には、そんなちょっぴり悲しい事情もあるのかもしれない。またこれが多くの親世代に受け入れられた理由も然りだろう。

この作品を何度か見ていて思ったのだが、母親が不在という状況の中で、さつきとメイがトトロに出会ったのはなにかの暗喩かもしれない。姉妹が根源的に抱えていた寂しさがこの妖精を呼び寄せたとするならば、トトロとは、姉妹にとって親代わりのような存在であったのだろう。

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