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zoom RSS 霧の中に消えたモノ−「ミスト The Mist」

<<   作成日時 : 2016/07/10 20:36   >>

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この映画は既に数回観ているのですが、観る度に、人類はやっぱり滅亡(自滅)するしかないのかなという思いを強くします…。化け物の封印を解いてしまったのも人間なら、そこからさらに悲劇を増幅していくのも人間。思うにこの作品のラストのオチは、そんな人間の愚行に下ろされた神の鉄槌であったのかも。「ザ・ロード The Road」をはじめ「ブック・オブ・イーライ The Book of Eli」等、“終末”を思わせる映画が製作されているのも、我々人類全体の“虫の知らせ”のようなものではないでしょうかね。


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「ミスト The Mist」(2007年製作)
監督:フランク・ダラボン
製作:フランク・ダラボン&リズ・グロッツァー
製作総指揮: リチャード・サパースタイン&ボブ・ワインスタイン&ハーヴェイ・ワインスタイン
原作:スティーヴン・キング「霧」(扶桑社刊「スケルトン・クルー1骸骨乗組員」)
脚色:フランク・ダラボン
撮影:ロン・シュミット
クリーチャーデザイン:グレゴリー・ニコテロ&ハワード・バーガー
プロダクションデザイン:グレゴリー・メルトン
編集:ハンター・M・ヴィア
音楽:マーク・アイシャム
出演:トーマス・ジェーン(デイヴィッド・ドレイトン)
マーシャ・ゲイ・ハーデン(カーモディ夫人)
ローリー・ホールデン(アマンダ・ダンフリー)
アンドレ・ブラウアー(ブレント・ノートン)
トビー・ジョーンズ(オリー・ウィークス)
ウィリアム・サドラー(ジム・グロンディン)
ジェフリー・デマン(ダン・ミラー)
フランシス・スターンハーゲン(アイリーン・レプラー)
アレクサ・ダヴァロス(サリー)
ネイサン・ギャンブル(ビリー・ドレイトン)
クリス・オーウェン(ノーム)
サム・ウィットワー(ウェイン・ジェサップ)
ロバート・トレヴァイラー(バド・ブラウン)
デヴィッド・ジェンセン(マイロン)
ケリー・コリンズ・リンツ(ステファニー・ドレイトン)他。

軍事施設を擁する田舎町を、未曾有の嵐が襲った。その翌日デイヴィッドは、1人息子ビリー、隣人の弁護士ノートンを伴って町のスーパーに買い物に出かけた。ふと見ると、湖の向こう側に異様に濃い霧が立ち上っていた。かすかに不快感を覚えながら、デイヴィッドたちは軍人や町の人々でごった返すスーパーに入る。
突如軍事施設からサイレンが鳴り響き、ひとりの男が血を流しながら店内に飛び込んできた。「霧の中に何かがいる!」
例の濃い霧は今やスーパーの駐車場全体を覆い尽くし、一寸先の様子もわからぬほどになっていた。霧はゆっくりと小さな町全体を飲み込んでゆき、店内に閉じ込められた人々は外に出ることも叶わず、篭城を強いられる。熱を出したビリーのため、店に備え付けの毛布を借りようと倉庫に向かったデイヴィッドは、不気味な触手で人間を襲う異次元の怪物を目撃する。皆をパニックに陥れぬよう、努めて冷静に怪異を告げるデイヴィッドであったが、人々の反応は様々であった。いずれ霧は晴れて元通りになるだろうと、霧の中の化け物の存在など鼻で笑う者、デイヴィッドを信じる者、恐怖に駆られて理性を失う者…。

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中でも、異様な言動を繰り返して周囲の不安を煽るようになったのは、町の人々から“変わり者”のレッテルを貼られた狂信的キリスト教信者、骨董屋のカーモディ夫人であった。霧の中から姿を現した怪物たちは、怯える人々を次々と血祭りにあげてゆく。店内に緊張が走る。怪物と戦うため、皆が協力するべきだと主張するデイヴィッドに賛同した人々は、駐車場に面した大きなガラス戸にドッグフードの袋などでバリケードを築き始める。外に停めた車の中にショットガンがあるにはあるが、今店の外に出ることは自ら化け物に食われにいくようなものだ。仕方なく、デイヴィッドたちはモップや少しでも武器になりそうなものをかき集める。一方で、そんなデイヴィッド達の努力をあざ笑うように、カーモディ夫人は聖書を片手に叫び続ける。この変異は神の御意思によるもので、何人たりとも災厄から逃れることは出来ないのだと。ある女が、カーモディ夫人の言ったことは正しかったと口走ったことで、夫人を支持する者が急速に増える。今や店内は、デイヴィッド支持派とカーモディ夫人支持派に真っ2つに別れ、その2派の確執を恐々と眺める者が彼らを取り囲むという構図になった。刻々と忍び寄る怪物たちの脅威から生き延びるため、ぎりぎりの極限状態に置かれた人々はついに袂を別った。
突如店の壁に亀裂が走り、爆発音と共に不気味な怪物の咆哮が響き渡る。ついに怪物が店の中の人間たちに襲い掛かってきたのだ!デイヴィッドは、神の代弁者気取りのカーモディ夫人を無視し、ビリーを連れて一か八か駐車場に出ることを決意する。なんとか車に辿り着き、一丁しかないショットガンを武器にして行けるところまで逃げようというのだ。しかしカーモディ夫人は、自分の言葉に従わぬデイヴィッドを許さず、神の怒りを鎮めるためにビリーを生贄に差し出せとわめく。夫人にマインドコントロールされた人々の狂気を振り切って、デイヴィッドはアマンダたち支持者と共に店を脱出した。即座に霧の中から現れた怪物に襲われて死んだ者など、犠牲者を出しながらもデイヴィッドたちは命からがら車に乗り込む。しかしながら、真の恐怖はそこから始まった…。

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マニアックなほど緻密で饒舌な描写で、人間の根源的な恐怖を描き続けるホラー作家スティーヴン・キング。
彼は膨大な数の傑作をものにしていますが、短編や中篇小説にも優れた作品が多いですね。また、極めて映像的な作品が多いことから、映画化、テレビドラマ化されたものが非常に多いのも特筆すべき点です。ところが、この映像的に過ぎる内容ゆえんか、実際に映像化されたものの中に失敗作が多いのも確かなのですね (苦笑)。いつしかエンターテイメント業界には、キング原作を映画化するのはある種の鬼門であるという伝統が出来上がってしまいました(嘘です)。ですが、もちろん例外もあるわけで。これまでにキング原作小説を2度映画化し、内容・興行成績共に大成功を収めた数少ない映画作家が存在します。この「ミスト」を監督したフランク・ダラボンですね。
「ショーシャンクの空に」、「グリーンマイル」に続いてダラボン監督が映像化を熱望したのは、キングの中編小説集「スケルトン・クルー〈1〉骸骨乗組員」の中に収められている、「霧」という一遍。シンプル極まりない設定の中で、追い詰められた人間たちの獣性がむき出しになっていく物語です。極限状態に置かれた人間の織り成す、一種の心理葛藤劇とも呼ぶべきこの物語に魅せられたダラボン監督は、世界中が混沌とし、未来を信じられなくなっている現在にこそ相応しい題材だと判断したようです。

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監督の思惑通り、この作品には、9.11テロ以降のアメリカ国内で進む内省・自嘲ムードが如実に反映されることになりました。考えてもみてください。“市井の人々に突如襲い掛かる怪物”というのは、なにも異次元の化け物でなくてもいいわけです。突然勃発した第3次世界大戦でも、はたまた、アメリカを標的にしたテロ攻撃であったって構わないのですね。その結果人々の間で起こりうる事態は、おそらく映画で描かれた通りになると思われます。
そう、この映画は、原作小説にはないラスト15分の衝撃にとかく注目が集まりがちですが、本来のテーマというのは、前述したように極限状態に置かれた人間の本性を暴くことにあるのです。平和な状態であるならば、理性によって制御されている人間の隠された本性。その醜怪な闇はしかし、まことに残念ながら、人間の本来の姿を映す鏡でもあります。得体の知れない化け物がどこから襲ってくるかわからない状況で、かつ、それら理不尽な攻撃に対して自分たちは無抵抗に等しいという場合、我々が取る行動こそが“その人間の真の姿”であると思いますね。普通なら考えられない頓狂な行動に走ったり、根も葉もない流言飛語に踊らされ、自ら進んで強者のマインドコントロールに身を任せてみたり。そのザマからは、彼らが逃れるべき怪物たちとなんら変わらぬ恐ろしさを感じ取ることができます。映画は神と同じ視点から、右往左往する人々を冷ややかに見つめ、彼らがやがて自分たちの心の中に飼っているそれぞれの“怪物”を解き放つまでに至るのを嘲っているかのようですね。
ただのアブナイオバハンから、やがては偏執的な狂気の神と成り上がるカーモディ夫人と、息子を守りたい一心の善意の正義感デイヴィッドも同様です。彼らは一見すれば正反対の人格のように思われますが、実は同じコインの表裏にすぎません。カーモディ夫人の狂気を一蹴し、スーパーの中に他の人間を置き去りにしたまま逃走を始めたデイヴィッドが、最後に下した“決断”がそれを物語っていますね。つまり、ダラボン監督にとっては、カーモディ夫人が象徴する人間の闇も、またデイヴィッドが象徴する人間の善性と愚かしさも、全てひとまとめにした上で“人間”たる生き物の全体像を割り出そうとしているのでしょう。そのどちらの側面にも優劣をつけることなど不可能なのです。

しかーし!

現在2匹の息子達と共に暮らす私には、一言どうしても言っておきたいことがあります。本編を観ていただければわかるのですが、やはり問題のラストのオチですね。どんな理由があるにせよ、そしてどんなに周囲の状況が絶望的であっても、私にはデイヴィッドの最後の決断は解せません。どうしても。許せないと言ってもいい。だってね、劇中、子供を守るために単身霧の中に駆け出していった母親もいたんですよ。最後の最後、彼女たちは無事軍隊に保護されたことが明らかになります。思わず、この母親とデイヴィッドの違いは何だったんだ!と叫びたくなりますよね。両者とも、親として子供を守りたいという気持ちに嘘偽りはなかったというのに。映画的効果としては、これほど強烈なオチのつけ方は類を見ないでしょうし、このオチがあるからこそ、映画は映画史の記憶に留まることになるとも思います。が、解せない。というか、私自身は絶対デイヴィッドのようなことはしないとわかっているので、このオチがことさら白々しく思えるのです。なんだかね、ダラボン監督の“計算”が透けて見えるようで嫌なのですわ。このエンディングにすれば、議論を噴出させることができるだろう…そうすれば映画は大きな話題になり、長く人々の記憶に残るだろう…そうすりゃ何年か後には、この映画が「市民ケーン」と同じように名作と並び称されるかもしれない…そしたら俺様は名匠の仲間入りだあっ!てね(爆)。
ま、実際にはダラボン監督はここまで性悪ではないでしょうけど(笑)、デイヴィッドの善意に対してもカーモディの純然たる悪意と同様に、情け容赦ない扱いに徹しているところが、彼をして相当の人間嫌いだろうと推測せしめるのであります。私がこの映画からマイケル・ムーアの「華氏911」と同じ匂いを感じたのは、人間性をカリカチュアして描くスタンスだけではなく、肥大化しすぎたアメリカそのものを反省するあまり、多分に自虐的になっているからですね。そして病的なまでに、古き良きアメリカ人の思考にショックを与えようとしている点。気持ちはわかるけれど、自虐的になればそれで免罪符が得られると勘違いしてはいけません。ピンチの時にこそ発揮される、“火事場のバカ力”のパワーをもうちょっと信じてあげてもいいのではないか。そのパワーこそ、事態を良い方向に持っていく原動力に変わりうるのですから。
…まあ尤も、こんな考え方も私が女親だから出てくるのかもしれないですけどね。然るにダラボン監督は男性で、現在の世情を憂えているからこそ、この物語を作り出したのでしょう。さすがは相性のよいキング作品ということで、監督は原作の持ち味を損ねることなく映像ならではのサスペンス表現に冴えを見せ、役者の好演を支えに、見応え満点の心理葛藤劇もものにしました。怪物の造形は極めて伝統的ですが(笑)、それらがどこから飛び出すかわからないという緊張感はさすが。その恐怖が、やがては疑心暗鬼に陥った人間同士の腹の探りあいの恐怖に転じる様は、この監督の演出力の賜物であろうと思わせます。

今作に関してはどうしても、霧のようにもやもやとしたはっきりしない後味の悪さが残ります。他の意見も聞いてみたい一心で、既にこの映画を観賞していた父豆に本作の感想をインタビューしてみました。

豆酢「お父さん、スラッシャーものとかお化けものとか苦手だよね?この映画、どうだった?」
父豆「昆虫なんかが苦手な人はダメかもしれないけど、僕はそうでもなかったよ。モンスターの造形がもうちょっと凄かったらなあ…とは思うけど(笑)」
豆酢「スラッシャー・シーンは結構ゴアだったんですがねえ。そうですか。では、肝心のラストの感想をどうぞ」
父豆「途中まであんなに頑張っておいて、最後の最後でなぜああなる!僕も父親だから彼の気持ちはよくわかるけど、僕なら違う選択をするよ。なんせ我が子に銃を向けるだなんて言語道断だぞ!最後、車に乗り込んだ人たちは一種の擬似家族のような関係を構成していたと思う。だから、主人公は文字通り一家の父親だったわけだよね。一家の長がどんな決断をするにせよ、家族は最終的には長の出した結論に従うものなんだ。だからね、父親の決断は人1人の命の重さに匹敵するほど、責任重大なんだよ。主人公はそれを理解していただろうか…とも思っちゃうな。まあ、わかってたんだろうけど、それにしてもね。酷い最後だね。しかも彼、銃を撃つ前にちゃんと弾の数確認してただろ?それなのに肝心の自分の自殺用の弾がなくなってしまってただなんて。悪いけどマヌケのように見えたよ、僕には」

ふーん。なるほどねえ。
私自身はね、保守的なアメリカ映画にしてはかなりリスキーな内容だと思いましたよ。キリスト教のモラルにことごとく挑戦するかのような思想が、映画全体を霧のように覆っていました。主人公の最後の決断も、なんとなく東洋的な遁世感が漂いますしね。ダラボン監督によると、このラスト草案は当初いくつかの大手映画会社に拒否されたそうです。キング自身には、メールでこのラストのアイデアを送り、許可をもらったそうなのですが、キング御大は自分がこのオチを思いつかなかったことが相当悔しかったみたい(苦笑)。確かに賛否両論ありましょうが、このラストは映画史上に残るものと断言していいと思います。それまでの映画全体の流れが、ラスト・シーンのために周到に用意された伏線だったのかと錯覚するほど。衝撃度は、かの「猿の惑星」のラストに匹敵しますね。

それから、お父ちゃん役のトーマス・ジェーン。なかなか素敵でしたよ。最後の決断には同調しないけど(笑)。彼の表情が時々クリストフ・ランベールに見えたのですが…。彼も渋い俳優さんになりましたよね。

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ちなみにこれは、2009年、パリ滞在時の12月25日クリスマス当日に撮影した我が家の近所の様子です。一寸先は白い闇。先が見えない恐怖というのは、五感をフル活用する生き物にとって最大の脅威となります。視界が閉ざされるだけで、人間はいとも簡単に理性を失い、野蛮な畜生と成り果ててしまうのです。そんな人間の脆弱さを、この映画からひしひしと感じることが出来ますね。

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デイヴィッドが霧の中で失ったモノとは何だったのか。“家族”という、生きとし生けるものにとって何より大切な心の拠り所か。デイヴィッドが霧の中で絶望したように、私たちもまた、先の見えない未来という“白い闇”の中で、家族という形態を失いかけているのかもしれませんね。

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