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zoom RSS 放浪する英国人―マイケル・ラドフォード Michael Radford と「1984」

<<   作成日時 : 2017/03/31 13:00   >>

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マイケル・ラドフォードという人は実に不思議な監督さんです。彼を見ていると、いつもここではないどこかへ行こうとしているように見えるのですね。一体全体、彼自身の原風景はどこにあるのでしょうか。


失われた原風景を求めて。

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マイケル・ラドフォード Michael Radford

1946年2月24日生まれ
インド、ニューデリー出身

●フィルモグラフィー

1980年『The White Bird Passes』(テレビムービー・未)脚本&監督
1983年『Another Time, Another Place』(未)
1984年「1984」脚本&監督
1987年「白い炎の女」脚本&監督
1994年「イル・ポスティーノ」脚本&監督
1996年『Homicide:Life on the Street』(テレビシリーズ)のエピソード『Justice:Part1』
1998年「B モンキー」脚本&監督
2000年「ブルー・イグアナの夜」脚本&監督&製作
2002年「10ミニッツ・オールダー イデアの森」のエピソード、「星に魅せられて」脚本&監督
2004年「ヴェニスの商人」脚本&監督
2007年『Flawless』
2010年『La mula』
2010年『King Lear』
2011年『Michel Petrucciani 』
2011年『A Dream of Red Mansions』

イギリス軍に勤める父親とオーストリア人の母の元で生まれた。父親の仕事の都合上、中東の各地で育つ。家族がイギリスに戻ってくると、ラドフォードはパブリック・スクールへ入学した。16歳のときはじめて、べドフォード映画ソサエティで「ピアニストを撃て!」(60年)を観て以来、映画監督を志すようになる。オックスフォード大学のウォーセスターカレッジとべドフォード・スクールを卒業後、エジンバラで数年教職についたが、新設された国立映画学校に入学しなおした。そこで映画にどっぷり浸りきりながら、ゴダール、アントニオーニといった名だたるヨーロッパの映画作家の作品や、ハリウッドの映画についても学んでいった。
1974年に同校を卒業後、ドキュメンタリーフィルムを製作し、主にBBCで放映されていった。それが高い評価を受け、1980年 BBCスコットランド製作で初めての長編テレビ映画『The White Bird Passes』の脚本と監督を務めた。この作品も成功を収め、英国チャンネル4の劇場用映画出資作品である『Another Time, Another Place』(1983年)の脚本執筆と製作を手がけるにいたり、ラドフォードへの評価は揺るぎないものとなった。ちなみにこの作品は日本未公開ではあるが、カンヌ映画祭をはじめ、世界各地のメジャーな映画祭で計15もの賞を獲得している。
そして翌年1984年に、いよいよ劇場用長編映画第2作目、「1984」(ジョージ・オーウェル原作近未来SF小説)を発表した。これがラドフォードにとって、本邦初公開の作品となる。


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「1984」(1984年製作)
監督:マイケル・ラドフォード Michael Radford
原作:ジョージ・オーウェル George Orwell 「1984年 1984」
原案:ジョナサン・ジェムズ
脚本:マイケル・ラドフォード Michael Radford
撮影:ロジャー・ディーキンス撮影
音楽:ドミニク・マルドウニー
主題歌:ユーリズミックス『Sex Crime』
出演:ジョン・ハート、リチャード・バートン、スザンナ・ハミルトン、シリル・キューザック、グレゴール・フィッシャー、ジェームズ・ウォーカー、アンドリュー・ワイルド他。

第3次世界大戦を経て、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割支配されるようになった。そしてこれら超大国は、紛争地域をめぐって絶えず同名を結んだり敵対したりしながら、戦争を繰り返している。
ここオセアニアでは、偉大なる指導者『ビッグ・ブラザー』が率いる唯一絶対の『党』による人民支配が徹底されていた。街中に『偉大なる兄弟は見ている』という文句とともにビッグ・ブラザーの写真が貼られている。国の大多数を占める被支配階級(プロレ階級)と党の実務をこなす党外局員たちは、毎日『テレスクリーン』を通じて人民の敵『エマニュエル・ゴールドスタイン』に対する罵倒を行い、裏切り者である彼に対する憎しみを駆り立て、ビッグ・ブラザーへの絶対服従と敬愛を誓わされていた。
すべての国民は、思想・言語・性交渉など生活のあらゆる面において徹底した管理体制に置かれている。生活に必要なものはすべて配給制、言語は『ニュースピーク』と呼ばれる極端に簡略化された言語のみを話し、自分の考えを勝手に文字に書いたりするだけで思想犯として検挙される。許される思想は党の打ち出した思想のみ。勝手に性交渉を持つことはご法度で、独身が奨励されている。もちろんこれに違反すれば即監獄行きだ。『テレスクリーン』というテレビでは常にオセアニア軍の戦果が報告され、党のスローガン―戦争は平和、自由は屈従、無知は力―が叫ばれる。時には、思想犯たちの公開裁判が映し出されることもある。彼らはテレビで自らの罪を懺悔し、他の思想犯を告発し、ビッグ・ブラザーへ慈悲を請い、挙句に処刑されるのだ。テレスクリーンは双方向になっており、全戸に設置され、街中のみならず家の中まで国民の一挙一動を監視している。しかし党に関わりを持たないプロレ階級の労働者が住むプロレ地区(貧民窟)では、酒やギャンブル、金さえあれば売春婦を買うことすら可能なため、党に組織された『思想警察』が常に巡回して監視の目を光らせている。また、密告も奨励されていて、自分の家族であろうと党の思想やスローガンに反抗する者がいれば容赦なく警察に逮捕された。

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ウィンストン(ハート)は真理省記録局に勤める党外局員。毎日新聞や雑誌等をチェックして、国民に知られてはまずいと判断された記事を(たとえそれが事実でも)党の意向に都合よく改ざんするのが仕事だ。隣人のパーソンズ(フィッシャー)も同じ真理省に勤めている。毎日狭苦しいブースの中で事実の改ざんを行っているうち、ウィンストンの心には現体制に対して疑問が生まれる。もちろん周囲にそれがばれないように気をつけながら、彼はプロレ地区の廃墟に隠した日記に、自分の考えを書き付けていく。
今日も他の党員たちとともにテレスクリーンに向かって、党のスローガンを叫ぶウィンストン。しかしそんな彼を密かに見守っている一人の男に気づくはずもなかった。
ウィンストンはある日街中で、オセアニア軍が捕虜を伴って凱旋している様子を見ていた。党員ジュリア(ハミルトン)がそっと彼に近づき、手紙を握らせる。今度の日曜日に郊外の森で会いたいというのだ。とまどいながら彼女に会いに行くウィンストン。彼女は真理省創作局に勤め、青年反セックス連盟の活動員でもあった。彼は、腰に赤いサッシュを巻いている彼女を見ているうち、その身体を抱きたくなる。誰も見ていない森の中で愛し合う二人。その人間らしい原始的な感情に溺れるウィンストン。ジュリアは同じようなことを党員たちと繰り返してきたと言い放つ。
「あなたと私はぴったり合うと思うわ。心の底まで”堕落”しているんですもの」
ウィンストンはプロレ地区に赴き、古き良き時代のアンティークを愛する古道具屋チャリントン(キューザック)と知り合う。意気投合した彼に頼み、店の2階の空き部屋を借りることにした。ここで彼はジュリアと逢瀬を重ねた。ジュリアは違法に手に入れた本物のコーヒーや、砂糖、パンなどを持ってくる。
「”やつら”はね、なんでも持ってるの、本当は。自分達の特権を奪われたくないから、国民にはなにも与えない」
彼らの逢引は当然違法だ。見つかればただではすまない。しかしそんな中でも二人は、お互いが愛し合っていること、そして今の党による管理社会に我慢がならないこと、たとえ当局に捕まってどんなことをされようが心だけは自由だと確認しあう。
「自白は裏切りじゃない。もし当局が君への愛情を失わせるようなことがあれば、それこそ真の裏切り行為だ」
「そうよ。やつらにだってそんなことはできない。彼らはあなたに心にもないことをしゃべらせるでしょう。でもそれをあなた自身に信じこませることはできないはず。誰だって心の中にまで入ることはできないんだから」
ウィンストンはある日、オブライエン(バートン)という党内局員(高級官僚)に声をかけられる。
「君の記事は素晴らしかったが、いくつかニュースピークにない言葉があった。今夜うちに来たまえ。辞書を進呈しよう」
その夜オブライエンの邸宅に向かったウィンストンは、意外なことを聞かされる。オブライエンは高級官僚でありながら、実は反体制派の秘密組織に属しているのだった。彼らとともに現行政府の転覆のために戦おうと誘われたウィンストンは、決意する。

しかしある日、いつものようにジュリアと会っていたウィンストンは、突然思想警察に捕らえられる。見ると、逢引の部屋はすっかり警察に包囲されていた。警官達の後ろから、古道具屋チャリントンとオブライエンが姿を見せる。本当は二人とも体制派の人間で、違反者たちを検挙するために、仮の姿を見せていたにすぎなかった。
愛情省の監獄に入れられたウィンストン。そこで彼はかつての隣人パーソンズに出会う。ひどい拷問を受けたらしいパーソンズは、涙ながらに自分の娘に密告されたことを打ち明けた。知らない間にゴールドスタインの手先にされていたが、娘のおかげで深入りせずにすんだと言うパーソンズに、ウィンストンは同情を禁じえなかった。
ウィンストンに、洗脳を目的とした尋問と拷問が加えられる。オブライエンは彼に電気ショックを与えながら、誘導尋問を繰り返す。しかしなんと言われようとも、ウィンストンには心にもないことを自白することはできないし、党が強いる思想を受け入れることはできない。それを受け入れることは、すなわち人間らしさを放棄することになるからだ。そんな彼にオブライエンはこう宣告する。
「権力とは人間の精神をバラバラに引き裂いた後、思うがままに新しい型に作り直すことだ。我々の権力は絶対だ。君が自分を人間だというのなら、よろしい、君を最後の人間にしてあげよう。しかしただ処刑するのではなく、ビッグ・ブラザーに完全に服従してからだ。そして君の記録をすべて消去する。君は肉体はおろか、記憶さえも残らない。はじめから存在しなかったことになるのだ」
ウィンストンは答える。
「…そんな権力はいつかは崩れる。いつの日か、あんたたちの内側から破れていく」
ジュリアを想いながら拷問に耐えるウィンストンであったが、ついに『101号室』へ連れて行かれる。ここは最後の洗脳拷問部屋である。ここでウィンストンは椅子に縛り付けられ、頭にかごを付けられる。かごの中には大きなドブねずみが入っている。彼は震え上がる。オブライエンは、ウィンストンの幼少の頃のトラウマ―彼が子供の頃、母親と妹がドブねずみに食われて死んだ―を利用したのだった。
「かごの仕切りを上げれば、飢えたねずみどもが君の顔面にまっしぐらに飛びつく。頬を食い破って舌を根こそぎ食らうかもな」
ついにウィンストンは叫ぶ。
「いやだ!ジュリアにやってくれ!私にではない!彼女をどんな目にあわせようがかまわない!私にはやらないでくれ!ジュリアにやれ!」

思想教育を終えたウィンストンが下町のカフェで酒を飲んでいる。うつろなまなざしでテレスクリーンの公開裁判の模様を見ている。それは彼自身の裁判の様子であった。そこで彼は他の思想犯と同じく、罪をあがない、他者を告発し、偉大なるビッグ・ブラザーへの絶対的な敬愛を誓っていた。そこへ同じく出所したジュリアがやってきた。
「あなたのことを警察に話したわ」
「私もだ」
「捕まって良かったと思うわ」
「そうだな」
テレスクリーンがオセアニア軍の勝利を叫んでいる。
「素晴らしいニュースだ」
「そうね。集会があるから私行くわね。またね」
「ああ、またな」
テレスクリーンの画面が切り替わって、今度は偉大なるビッグ・ブラザーへの敬愛が叫ばれている。
「ビッグ・ブラザーへの愛を!」
『愛している』…この言葉を聞いたとき、ウィンストンの胸になにか去来するものがあったが、それがなんであったか、もはやわからなくなっている彼であった。

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この作品の原作は、前述しましたように、1949年に出版されたジョージ・オーウェルの「1984年」です。オーウェル自身は作品の中で、スターリン時代の旧ソ連を思わせる全体主義社会を描き、その恐怖の実態を批判しています。しかしそれは、特定の国家に限らず、どんな形であれ、個人の自由を奪い社会を徹底管理することの愚を告発する内容である点において、現在もなお普遍性を持っていると言えるでしょう。
大なり小なりこの「1984年」に触発された映画はたくさんあると思います。また、作品の描く管理社会をストレートにテーマに掲げているものもありますね。テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」や、近年ではカート・ウィマー監督の「リベリオン」など。
ラドフォード監督の長編映画第2作目「1984」は、実際に1984年になった時点でオーウェル原作を映画化したものです。サー・リチャード・ブランソン率いるヴァージングループの会社のひとつ、ヴァージン・レコードの映画製作第1作目ということもあって、大掛かりな企画が立てられたのでしょうね。そんな映画を任されたラドフォードですが、もともと彼はSF畑の人間ではないにも関わらず、この作品ではかなり見ごたえのある未来の映像を作り出しています。

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内容は原作を忠実に映像化しており、観客を絶望の底に突き落とすラストまで、常に陰鬱で重苦しい空気がスクリーンを支配します。ウィンストンのような党外局員が皆同じブルーのつなぎを着ているところや、貧民街は荒れ放題、常に物資が欠乏した状態、人々は当局の監視を恐れて息を詰めるように暮らしているといった描写が、やはり旧ソ連はじめ、現在でも独裁政権がしかれている国家を容易に想起させます。しかし、2度の世界大戦中のあらゆる国家(もちろん日本も)の状況のメタファーとも取れますよね。当時の記録を紐解けば、戦時中の市民生活はどこもこの作品のような環境だったのではないでしょうか。
この作品のメタファーはそれだけではありません。現在の社会でも、コンピューターによる国民の個人情報の管理が整備され、徹底されています。ゆえに、民主主義国家においても身分を証明するものを所有していなければ、存在しない者と判断されます。
また、湾岸戦争時あるいはイラク出兵時のアメリカのように、政府は国民をコントロールするために情報を操作することも厭いません。これは私達が住むここ日本でも同じような状況でしょう。
言論の自由を脅かす検閲の問題もありますね。余談になりますが、「1984」が日本で公開された際には映像無修正が随分話題になったものです。しかし今回ビデオで観直しますと、やっぱり修正は加えられていました。それが必要だと感じるほどのシーンではないんですがね。
また、一部の政治家が特権を享受するために、法律を捻じ曲げ国民を搾取したりするのも、映画で描かれているのと全く同様。
さらに言うなら、先進国家と呼ばれる力のある国家が、常に紛争地域に対して軍隊を派遣している状況も、恐ろしいことですが映画の世界と見事にシンクロします。これが、今だ内紛や民族紛争が収まらない現在の実情ですね。
つまり今から半世紀以上も前に書かれた小説の世界は、小説が書かれた時代でも、映画になった時代においても、またそれを観ている今現在でもなお実際に続いているのです。この恐ろしいデストピアは、小説やスクリーンに現出した虚構の物語ではないのですね。

ウィンストンが権力に翻弄され、最後にはついにそれに屈服する姿は、そのまま私達を象徴するような気がして暗澹たる気分になります。強大な権力と極限まで極められた管理社会に打ち勝つ術は、個人にはないのでしょうか。しかし劇中、権力の番人であるオブライエンが言うように、ウィンストンのような人間性に目覚め権力に疑問を呈する人間は、必ず現れ続けるのです。いくらそういった人間を抹殺していったところで、人間の本能はいつかは目覚めますし、第2第3のウィンストンは防ぎようもなく生まれてくるでしょう。生き物が進化の過程で必ず突然変異体を生み出すのと同じです。しょせん人間が人間の尊厳を奪うことは不可能だと信じたいですね。

この作品は、日本公開当時も、さほど高い評価を受けることはありませんでした。確かに暗鬱な未来社会を単に写実的に描いているだけですし、ストーリーは起伏に富まず、ラストはみじんの希望もない。加えて主役ジョン・ハートの頼りなげな風情が、テーマの悲惨さに拍車をかけていますものね。ヒロインのスザンナ・ハミルトンも、硬質で挑発的な演技は良かったのですが、雰囲気が少し地味でしたしね…。また、自身のオリジナルストーリーではないので、脚本も手がけるラドフォード監督の個性を出しづらい映画になったと思われます。
しかし、オーウェルの原作世界をここまでわかりやすく映像に仕上げたという点で、ラドフォードの演出力、映像表現力はもっと評価されても良かったかと思います。まあ、興行成績は期待されたほどではなかった模様で、ラドフォードは次の長編作品を撮るまで3年のブランクを余儀なくされます。


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