House of M

アクセスカウンタ

zoom RSS 暴力は人をいかに変容するか―「ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス」Part2

<<   作成日時 : 2016/07/21 13:01   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

この映画を観た観客に聞きたいね。“暴力に加担した気分はどうだい?”って。―カンヌ映画祭記者会見より、監督のコメント

私財をつぎ込んだ前作「スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする Spider」(2002年)は、批評家筋からの受けは良かったものの、興業的に成功したとは言いがたい作品となってしまいました。クローネンバーグ監督は、今後新しい作品を撮るためにも、今一本のヒット作が欲しい状況に陥ります。

画像


そんななか、アメリカでは“グラフィック・ノベル graphic novel”なるジャンルが勃興し、その余波は映画界にもすぐに波及します。「フロム・ヘル」「コンスタンティン」など、コミックと小説の合体した新たな表現形式であるグラフィック・ノベルを原作とする映画作品が、次々と製作されるようになったのです。
製作者のクリス・ベンダーとJ・C・スピンクは、共同で出資・製作会社を立ち上げ、「ザ・リング」などの成功で業界に名前を知られるようになりました。彼らは次なる企画として、ジョン・ワグナーとヴィンス・ロックのコンビ作としてはまだあまり知られていなかった、グラフィック・ノベル「ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス A History of Violence」に目を付けます。そして、これを若手脚本家のジョシュ・オルソン Josh Olsenに託す一方で、監督探しを始めました。

クローネンバーグがこの企画に参加したのは2003年になってから。彼は当時、グラフィック・ノベルのことすらよく知らない状態だったそうですが、オルソンの仕上げた脚本は彼の直感に働きかけるに充分な力を持っていたのです。この脚本を自分の思い通りに撮らせてくれるのなら、いい作品が出来上がる。自信を深めた監督は、ベンダーとスピンクが契約したニュー・ライン・シネマと綿密な交渉を持ち、クリエイティヴな面に関してかなりの自由を得ることに成功しました。そしてスタッフに、何年も苦楽をともにした“クローネンバーグ・ファミリー”を集め、主役のトム・ストール Tom Stall役など俳優の選考に入ります。ヴィゴ・モーテンセン Viggo Mortensenは、同じニュー・ライン・シネマが製作した大作「ロード・オブ・ザ・リング Lord of the Ring」で帰還した王アラゴルン Argornを演じ、一躍世界中にその名を知られるようになりました。
ニュー・ラインの強い勧めもあって、トム役の候補には早くからヴィゴの名が挙がります。監督はヴィゴ本人と会って、何度も脚本と役柄の解釈について話し合ううち、彼の中に複雑な役柄を演じる性格俳優としての力量と、主役を張れるほどのカリスマ性の両方を感じとったそうです。そうして、このアイデンティティの混沌とした男トム役をヴィゴに託す決意を固めたのです。弁護士で勝気なトムの妻エディ Edieには、整った顔立ちながら地味な印象もあるマリア・ベロ Maria Belloが扮し、思春期の難しい時期である息子ジャック Jack役には、映画初出演であるアシュトン・ホームズ Ashton Holmesが抜擢されました。トムを過去へと引きずり戻す役割を果たすマフィア、フォガティ Carl Fogartyにはエド・ハリス Ed Harrisが、トムの諸悪の根源たる兄リッチー Richie Cusack役には、ウィリアム・ハート William Hurtがそれぞれ選ばれ、なんとも豪華な布陣が揃います。

画像

物語の舞台は、アメリカ中西部の典型的田舎町です。“ミルブルック”という名前こそ架空ですが、監督がわざわざロケ地に選んだカナダはオンタリオ州の古都ミルブルックは、百年前からその佇まいを変えていないほど美しく、牧歌的な風景が残った街です。こういった街を敢えて暴力の物語の舞台に選んだ意図は明確。要は、アメリカ人が心の中に大切に抱いている原風景である“懐かしく美しい田舎町”の裏側に、どれほどの陰惨な歴史が隠されているかを暴きたかったのですね。

ノーマン・ロックウェルのイラスト画を思わせる鄙びたモーテルから、2人の男が出てくる冒頭。くたびれた中年男と身体ばかり大きな青年のちぐはぐな組み合わせは、穏やかな田舎町の風景からは既に浮いた存在です。彼らが、いかにもめんどくさそうに自ら行った殺戮現場に戻っていく一連のシークエンスは、おそらく最近のクローネンバーグ監督の作品中、最高の緊迫度を誇るものでしょう。カメラは、青年の後ろからそっとモーテルの中を映し出し、やがてオブジェのようにそこいらに転がっている血まみれの死体を発見します。青年はその惨状を見ても顔色1つ変えずに水の補給に務め、生き残っていた少女を見つけるやいなや、無表情に銃口を向けるわけです。この、本編には直接関係のないシーンで、これからはじまる物語の異様さと耐え難い暗さを、観客の心に植えつけているのですね。まさに、ロックウェルの絵画を一枚めくると、そこに血まみれの内臓が転がっていたというアンビバレントなイメージです。
そして、トムの家族とその暮らしぶりが穏やかに描写されていくのですが、観客には冒頭のシーンが目に焼きついているわけで、いつそのゆるやかな均衡が破られるかと気が気ではない。優しくてハンサムな旦那様と、美人でしっかり者の弁護士の奥さん、気弱だけど素直で優しい男の子と、チャーミングな女の子。この絵に描いたような幸福な家族の肖像は、美しい自然に恵まれた街の風景とあいまって、しばしこれがクローネンバーグの映画であることを忘れさせてくれます(笑)。

画像

柔らかさと暖かさすら感じさせるカメラは、しかし、ふとした拍子に見せるトムの翳りを帯びたまなざしを見逃したりはしません。彼の彫りの深い顔立ちの中でもひときわ目立つ少し奥まった眼窩は、部屋に差し込む光線の具合によっても表情を微妙に変えていきます。彼が実は、見かけ通りの善良な人物ではないのではないかと、観客に疑いを抱かせるに充分なほど謎めいた印象を与えますね。いまひとつ実態が把握できないトムという男の存在感と、夢を見ているような錯覚を起こさせる周囲の風景がアンバランス。その違和感は、喉の奥に小骨が引っかかっているように常に付き纏い、本来安心してしかるべきの彼らの日常風景もどこか心もとなく、奇妙なよそよそしさを感じてしまうのです。監督がこの映画で使用したカメラは27ミリの広角レンズで、ロングショットでも人物に密着するシーンでも、可能な限り同じレンズを通したとか。その結果、トムの表情と周囲の光景が常に同じ視界に入ってくることになり、観客は彼の様子が周囲からどう浮いているのかシーンごとに確認できるわけです。監督がこのレンズにこだわった理由のひとつはそれでしょうね。トムと周囲の対比を常に観客に意識させることで、トムが今いかなる心理状態にあるか、また周囲がそれをどう捉えているのか、言葉で仔細に説明せずとも考えることができるのですね。

さて、冒頭で出てきた連続殺人鬼2人組は、ある日ふらりとトムの経営するダイナーにやってきます。その再登場の仕方も、別の登場人物と絡める実にうまいやり方で、監督の演出技術が以前と比べて格段に変わってきたなと感じさせます。よくある日常の光景の中にさりげなく彼らを置きながら、その異常性をも同時に伝えてしまう。そして彼らがついにトムの目の前で本性を露にした際、すわ殺戮シーンの再現かと固唾を呑んでいる観客は、しかしリアルで即物的な暴力シーンの奔流に呆気にとられてしまうのです。アクションをこれみよがしに美化するのではなく、ただ相手の息の根を止めるためだけの動きに集中させる。トムは素人とはとても思えない身のこなしで、最小限の動きで有効に悪漢を始末します。あっけなく終わった格闘の後、頭を打ち抜かれた悪漢は顔の半分をふっとばされて、醜悪なエイリアンのごとき様相です。昔からのクローネンバーグファンは、ここでようやく往年のクローネンバーグ節を発見してにやりとするわけですが (笑)、こういった描写は、監督の露悪趣味だけで入れられたものではないでしょうね。通常のアクション映画では決して描かれない、人間が銃で撃たれた後どうなるかという描写をことさら仔細に見せることで、“暴力”をかっこよく描き、肯定する世間の風潮に挑戦しているようにも感じられますね。トムの行為はあくまで正当防衛であり、犯罪者をやっつけたことは、一般の感覚ではむしろ称えられるべき行動です。監督は、アメリカ人の好む“正義のための行動”が生み出す醜怪な死に様を明らかにし、これが現実の姿だと観客に突きつけているかのようですね。ヒーローも悪漢も、根っこの部分では同じ暴力を共有しているにすぎない皮肉さです。

画像

案の定、死の現実に一切目を向けない一般市民は、トムを正義のヒーローと祭り上げます。ところが、これがトムの秘められた過去を暴くきっかけになるのです。トム以外の人間には、彼が静かな生活に戻りたいが故に、かたくなに口を閉ざしているように見えたでしょう。実際は少し違い、自分の顔が世間に晒されると、逃げてきた過去に再び追われることになる事態を恐れていたのでした。目の前にギャングのボス、フォガティが現れたことで、トムは明らかにうろたえます。観客には比較的早い段階で、彼がそのギャングと過去に因縁があったことが知れます。ですがトム自身は、過去の忌まわしい自分 “ジョーイ”は既に封印したと思い込んでいるのです。フォガティの目を潰す無茶を働いた彼は、それでいわゆる悪事の頂点を極めてしまったのでしょう。憑き物が落ちたかのように破壊衝動が治まり、別人に生まれ変わった…。トムが二重人格であるのか、それともそうではないのか。観客には正確なところは伝えられませんが、それはこの物語の論点ではありません。図らずもトムが妻エディに語ったように、本人にすら最早自分の人格がジョーイなのかトムなのか判別できなくなっているのですから。要は彼が、暴力と破壊の本能の誘惑に打ち勝てるかどうかということでしょう。トムのように過去に暴力沙汰を働いた人間でなくとも、多くの人にとってそれは難題です。なぜなら、暴力と破壊の衝動は、自ら好んでそれを行う場合のほかに、自分に向けられた暴力から身を守る自衛本能とも密接につながっているからです。トムが悪漢達から向けられた暴力、フォガティから家族に加えられた暴力、いずれの場合も、トムは自衛のためやむを得ず暴力で対抗しているかのように見えます。ここでやり返さねば自分が殺される、という究極の状況に追い込まれたときのみ、彼は暴力を用いている。したがって暴力とは、理想から考えればいけないことではあるが、今の危険な世の中では選択せざるを得ない必要悪なのではないか。そう考える観客もいると思います。特に、この作品の乱闘シーンで拍手喝采が起こったアメリカでは。

しかしながら、現実はどうなんでしょうね。トムがふるう暴力は本当のところ、彼自身が知らず知らずのうちにその引力に引き寄せられている結果だと思います。暴力とはいともたやすく人間に根付き、実に簡単に人間の行動を支配してしまう、強力なウィルスのようなもの。事実トムも、悪漢を倒したことで一度箍の外れた暴力衝動を、その後抑えることはできませんでした。フォガティ一味に付き纏われ始めてからは、あれほど忌み嫌っていた“人殺しジョーイ”の人格を無意識のうちに目覚めさせ、それは息子ジャックへも伝染してしまうのです。ジャックは、父の人格が一度の殺人で豹変していくのを目の当たりにし、普段から押さえ込んでいたイジメへの鬱憤を暴力で発散させるのです。そこに論理的な理由なんてないでしょう。ムカつくことを言われ、頭にきた。だから相手を殴りつけた。父の殺人が正当化されるなら、自分の暴力も正当化されてしかるべきだ。本来相容れないはずの、悪と正義という2つの要素を無理やり一本化したせいで、“暴力の正当化”には矛盾が内包されることになり、このような恐ろしい連鎖をも生んでしまうのです。ジャックは、穏やかな日常に突如投げ込まれた暴力によって、自身の本能に気づきました。思春期の子供が親に反抗するのは当たり前の光景なのですが、口答えをしたジャックをトムが殴ったことで、世界中で一番密接なコミュニティである家族こそ、暴力の温床となりうる皮肉が明らかになりますね。クローネンバーグ監督は、暴力によって人間がどのように変容するのか、その過程をつぶさに観察するとともに、暴力が家族の絆をいともたやすく崩壊せしめる現実をも提示しているのです。

画像

妻エディの夫への信頼は、フォガティの登場と共に揺らぎ始めていました。その夫がギャング一味を血祭りに挙げていく様は、今まで知りえなかった夫の別人格を明らかにせしめ、不信感を決定付けます。彼女が夫を許せなかったのは、彼がかつて人殺しであったという事実以上に、家族に対して嘘をついていたからでしょうね。翻って、彼の自分への愛情も疑わざるをえない絶望感が、彼女を打ちのめしたのでしょう。とはいえ、彼女には夫と為した子供達がいます。彼らを守るためにも、そう簡単に“家族”を崩壊させるわけにはいかない。夫への嫌悪と怒りを押さえ込んでまでも、家族という形式にすがり付こうとするエディは一層哀れです。彼女の“家族”は、とうの昔にその実態はなきに等しくなっていたのですから。あるいは理想の家族など、最初から幻想に過ぎなかったのかもしれません。彼女が本性をあらわにした夫と暴力的なセックスをするシーンがあります。エディの精神はジョーイを拒否しているのに、その粗暴な性を受け入れる肉体が存在する。映画公開当時、この描写は物議を醸したようですが、いまだ“トム”を愛する気持ちを捨てきれないでいる弱い部分と、“ジョーイ”を憎む荒々しい気持ちの真っ二つに引き裂かれたエディの苦悩が察せられて、印象的なシーンではありました。

画像

ついにトムが過去と対峙するときがやってきます。それは、今まで現実から逃げ続けてきた代償を支払うという行為であり、唯一の拠り所たる家族を守るという贖罪の行為でもあります。血なまぐさいトムの過去を象徴する兄リッチーは、結局トムに最後の審判を下す存在でした。死の手先であった過去の自分を贖うには、リッチーの言うとおり「死んで償う」しか方法がなかったのかもしれません。ですがトムはまたしても本能的にリッチー一味に反撃し、彼らを皆殺しにしました。この最後のトムの暴力は、まるで夢の中の出来事のように、非現実的な描写が為されています。観客は、ただひたすらその暴力のもたらす結果を目の当たりにするのです。鼻を潰される人間、頭を打ちぬかれてどす黒い血の海に横たわる人間。映画は観客を暴力の只中に放り込むことで、暴力に加担する恐怖と高揚感を実感させようとしているのでしょう。暴力の是非を問う前に、その矛盾を知るべきだ。クローネンバーグ監督が、登場人物の心理描写をあえて最小限に抑えた意図は、観客自らが暴力の背景とその結果を考える余地を残すことにあったのではないでしょうか。

画像

トムにとって、暴力とは現実を引き戻す触媒であり、またその現実を混乱させる要因でもあります。過去の自分と現在の生活が、暴力を介在して合体した今こそ、意志の力で己のアイデンティティを変えることが可能なのか。最後に映し出される形骸化した“家族” の晩餐シーンで、その問いへの回答は観客自身にゆだねられているといえます。過去を払拭して赦しを請いに家族の元に戻ってきたトムも、それを受け入れるか否か迷う家族も、人間のか弱い側面を象徴する存在なのです。観る人によって解釈が異なるであろうこのラストシーンは、彼らの姿がとりもなおさず私達そのものであるからこそ、優れて印象的なシーンとなりえたのです。
クローネンバーグ監督は、このラストシーンについていかなる見解も示してはいません。ただ1つだけ明らかなのは、“家族の絆はいかなる障害をも超越する”とい神話は既になく、家族といえども個々の独立した自我の集まりにすぎないということです。つまり、家族の関係を良くするも悪くするも、それを構成する人間の努力次第であるのですね。そこに“希望”を見出すか、あるいは“絶望”を感じるかは、私達次第というわけです。

さて。

ここで、クローネンバーグ作品においては欠くことのできない要素、“監督と俳優の素敵な共犯関係”についても触れておきましょうね。

監督自身が「ヒストリー〜」のプロジェクトに参加したのは2003年ごろだったそうです。監督とヴィゴが初めて顔を合わせたのが、「ロード・オブ・ザ・リング」のパーティの席上で。当時のヴィゴはひげをのばし、髪ものばした完全アラゴルン仕様。その姿からは、とても「ヒストリー〜」のダイナーのおやじトムを想像することはできなかったそうですが、監督のアンテナに引っかかったのは、「オーバー・ザ・ムーン A Walk on the Moon」(1999年)で演じたブラウスマンだったとか。
監督は「オーバー〜」でのヴィゴの演技を非常に高く評価しています。実は私も大好きな作品です(笑)。ヴィゴ出演作の中では、「ロード〜」の次ぐらいに良いなあとずっと思ってました。

画像

それはともかく、「ロード〜」のアラゴルンを観た後、「オーバー〜」のロマンティックで優しく自由奔放な演技を観た監督は、ヴィゴの演技の振幅の大きさに感銘を受けたようです。演技の幅は、クローネンバーグの映画に出て、彼のアルターエゴとも言うべき役を演じる際には絶対に必要になる要素です。まさしくこの理由で、監督もヴィゴにこのトム・ストールという複雑な役を与えたのですね。

「彼には主演俳優としての存在感とカリスマ性がある。だが同時に、それらを消し去って役に入り込むことをためらわない俳優でもある。その上、観客が望むような性格俳優としての奇抜さを持ち合わせているんだ」―デヴィッド・クローネンバーグ・インタビューより

「ロード〜」のDVD特典映像でも誰かが言及していましたが、ヴィゴには“ゲイリー・クーパーのようなテイストがある”と、監督も絶賛していました。それでいて、一旦役を引き受けたとなると、演じる役柄を徹底的にリサーチし、撮影現場に両腕に持ちきれないほどの小道具(自前)を持参するなど、主演俳優との役作りについては異様なほどのめりこむクローネンバーグをもってしても、舌を巻くほどの完全主義振りだったそう。
ヴィゴ自身も、クローネンバーグは今まで一番波長が合った監督だと洩らしておりましたしね。このコンビはひょっとすると、クローネンバーグ監督作品史始まって以来の最強タッグであったかも知れません。

そして、今作を語る際に避けては通れない(笑)問題のセックスシーンですが、やはりかなり肉体的にハードだったみたいですね。今回トムの妻役のマリア・ベロが背中じゅうにあざを作るほどだったとか。もっとも、監督の作品に出る女優さんがたは、みなさん一様に大変な思いをされつつ撮影に臨まれていますから(笑)、マリアさんも“クローネンバーグ流”洗礼を浴びたといったところでしょうかねえ。
ハードなシーンにも臆することなく、ヴィゴもマリアも全力投球した模様。「まあ、それを見て一番喜んでいたのは監督だけどさ」とヴィゴが言っておりました。…やっぱりな(爆)。

この作品も、一見ごくありふれたストーリーをなぞっているように見えながら、その実、何通りにも解釈できる多層構造を持っていると思われます。暴力によって人間の精神、それに伴う行動はどう変わっていくのか、また愛情はどう変化するのか。暴力の連鎖はなぜ断ち切れないのかなど、観客に『考える』ことを促す内容になっているでしょう。
ぜひ一人でも多くの人に観ていただき、『感じる』だけでなく『考えて』みて欲しいのです。

ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD]
日活
2006-09-08

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD] の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
暴力は人をいかに変容するか―「ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス」Part2 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる