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zoom RSS 美は惜しみなく奪う−「ヴェニスに死す Morte a Venezia」Part2

<<   作成日時 : 2017/07/09 20:00   >>

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“ここでは、私の昔からのあこがれを実現することが重要だった。審美的な憧れを持つ芸術家(すでに名声を確立していたが落ち目の音楽家アッシェンバッハ)と、その生活の間に介在する対立。あきらかに歴史を超えたその存在と、彼の中産階級市民の身分(タッジオ少年を取り巻く社会)への接近との間に介在する不調和というテーマは、常に私をひきつけてきた”―ヴィスコンティ・インタビューより抜粋

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「ヴェニスに死す」撮影中ショット。

“私の作品には、常に背後に文学作品の影響があった。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の原作は、私が戦時中に密かに愛読していたものだ。「揺れる大地」には、ヴェルガ作「マラヴォリア家の人々」があったし、「夏の嵐」はボイドの短編から生まれたもの。「若者のすべて」は、テストーリの話とドストエフスキーの「白痴」をミックスした。「山猫」はランペドゥーサの作品世界をそのまま映像化した。「熊座の淡き星影」の背後には「エレクトラ」が、「異邦人」はカミュの原作だ。そして「ヴェニスに死す」は、私の人生における最大の愛読書を原作としたものであり、今の私にこそ最もふさわしいと感じる映画となった。私も年をとってしまい、現実世界に厳然としてある問題に立ち向かうのは不可能だ。だがトーマス・マンの世界を映像化することは、自分にとって必要だった。逃避ではなく、自分の作りたいものを作る自由が自分にあると信じている”―『スタンパ』ヴィスコンティ談

「地獄に堕ちた勇者ども」、そしてこの作品「ヴェニスに死す」、次の作品となる「ルードウィヒ」の3作をもって、ヴィスコンティのゲルマニア3部作(近代ドイツ3部作)と呼ばれます。ヴィスコンティ自身は、このあとやはりトーマス・マンの小説「魔の山」の映画化を渇望しました。「魔の山」を加えてゲルマニア4部作とするのが、彼の終生の夢であったそうですね。実際何度も企画されましたが、ヴィスコンティの健康的な問題もあり、標高の高い土地での撮影を断念せざるを得なかったそうです。

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1.オペラ映画

“私には映画も演劇もオペラも同じ仕事に過ぎない。どれも、出し物を生かすという点において様々な問題があるものだ。だがおそらく最も完全な形の出し物はなにかと問われれば、やはり、言葉と音楽と歌と踊りと舞台装置がひとつに溶け合う音楽劇に尽きるんだ”―ヴィスコンティ・インタビューより

この頃のヴィスコンティは、1969年に2本の舞台を演出したあと演劇世界からは遠ざかっており、精力的だった創作活動のスピードにストップがかかるようになりました。健康を害したのもひとつの理由ですが、最も大きな要因は、彼自身の老いや死に対する恐怖。頑健だった肉体に裏切られある日突如として襲われた病によって、何ヶ月もの間闘病生活を強いられた彼は、改めて死を現実のものとして捉えたといわれます。そこで、病床でも読みふけったというトーマス・マンの「ヴェニスに死す」を、彼なりの解釈で映像化しようと決意したわけです。映像化にあたり、原作では小説家であったアッシェンバッハを音楽家とし、音楽はマーラーの交響曲を大々的に使用。つまり、暗にアッシェンバッハをマーラーになぞらえたわけです。

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初老の音楽家アッシェンバッハを演じたのは、英国の名優ダーク・ボガードです。ヴィスコンティ監督とは、「地獄に堕ちた勇者ども」に続き二度目の顔合わせとなりました。彼は当初電話で監督から出演依頼を受けた際、「アッシェンバッハ役を演じて欲しい」と言われて不思議に感じたそうです。というのも、“アッシェンバッハ”という名前は、「地獄に堕ちた勇者ども」で登場したナチ高官の役名でもあったからですね。程なくそれが誤解だとわかると、監督はボガードに対し、とにかく何度も何度もマーラーの音楽を聴いて彼の人生を生きるよう努力して欲しいと厳命したそうです。原作にも何度も目を通し、アッシェンバッハを理解するだけではなく、アッシェンバッハその人を生きて欲しいと。ボガードは、この作品で見事監督の期待に応えた演技を披露しました。ほとんど会話のないこの特殊な物語の中で、ちょっとした仕草や目線の揺らぎでアッシェンバッハの絶望と小心さ、タッジオ少年との出会いを経てにわかに浮き立つ恋心などを繊細に表現しつくしたのですね。後年彼はこのように語っています。

「もうこんな役を演じることはないと思う。この映画での私の演技は、役者人生においても最高の出来だったと自負している。今後このような素晴らしい作品にめぐり合うこともないだろうね」


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そして映画の核となるもう1人のキーパーソン、タッジオ役のオーディションは苛烈を極めました。ヴィスコンティ監督は、とにかく自分の眼鏡にかなう美を体現した少年を探して、全ヨーロッパを行脚。その模様は、「タッジオを探して」というドキュメンタリーになったほどです。何千人もの候補者の中から、スウェーデン、ストックホルム生まれの当時15歳のビヨルン・アンドレセン少年を発見したとき、監督は文字通り天を仰いで神に感謝の言葉を叫んだとか。そのときの彼の心境たるや、おそらく映画の中でアッシェンバッハが初めてタッジオを目の当たりにしたときの衝撃と同様であったでしょう。とはいうものの、タッジオとは、ギリシア彫刻とルネッサンス絵画の最良たる部分のみを抽出した美であり、そこに佇むだけで芸術家を魅了する人物です。一言もセリフをしゃべることなく、その厳粛なる神的美を現出せしめたのは、アンドレセンを的確に演出した監督の魔術によるところが大きいでしょうね。

製作スタッフには、ヴィスコンティ映画の常連が名を連ねました。特に美術のスカルフィオッティは、リド島にあった古いホテルを18世紀末の様式に作り変え、主な舞台となるホテルの内装としました。衣装のトージはヴィスコンティ作品のほぼ全てを手がけていますが、この作品でも、単なる衣装の域を超えた重要なアクセントを映像に付与していますね。

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映画冒頭。薄紫色にぼやけた夜明け前の海を、古ぼけた汽船がヴェニスに向かって静かに航行するシーンから、マーラーの美しくも多分に感傷的な交響曲が鳴り響きます。アッシェンバッハが1人でかの地に向かうのはなぜか、そして名だたる観光地に向かっているのにえらく憔悴した様子なのはなぜか。それは映画が進んでいくにつれて、アッシェンバッハの回想シーンが織り込まれることにより、次第に明らかにされていく仕掛けになっています。彼は不安げに船を降り、目的のホテルの自室にたどりつくまでで既に疲労困憊となってしまいますが、その一連の描写で、彼が規律を重んじ、何事も予定通りにことが運ばねば耐えられない四角張った小心者であることが暴露されます。本人もそれを隠すために気取った仕草をしたり、殊更横柄な物言いをしたりするのですね。映像の背後には、これから彼を待ち受ける体験への不安や期待感に揺れ動く心境を映すかのように、マーラーの交響曲が流れ続けます。この交響曲は、常にアッシェンバッハの行動をピタリと捉え続けるカメラと連動するように響き、彼の心境を代弁する役割を果たしています。不安や絶望に苛まれているときには、神経を引っ掻くような神経質な調べが、滞在先のホテルで美少年タッジオを見つけたとき、彼へのあこがれに身を焦がしているときには、浮き立つような軽やかな調べが流れてくるのですね。

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つまり監督は、この作品を一種のオペラのように演出しているのです。画面でセリフが交わされていないときには常に音楽が流れ、人物がしゃべりはじめると音が鳴り止む。俳優がしゃべっているのは、主にアッシェンバッハの回想シーンです。彼がなぜヴェニスに静養に来ることになったのか、彼がなぜ公演先で倒れる羽目になったのか、その理由を過去へ過去へと遡って明らかにしていくのですが、実はその際のアッシェンバッハは、常に誰かに怒鳴られている状態なんですね。彼の友人アルフレートは、娘を亡くして以来、作曲に精彩を欠くようになったアッシェンバッハを責め立てます。アルフレートとアッシェンバッハが激論を交わす芸術論については後ほど考えますが、とにかく過去、誰かに怒鳴られ、最終的には彼の公演にブーイングした観客によって罵声を浴びせられるのですね。そこに音楽の介在する余地は一切なく、音楽家であるのに音楽の入り込む隙のない状態に置かれたアッシェンバッハが、いかに追い詰められていたか察せられます。その反動であるかのように、静養先のヴェニスでは、アッシェンバッハはほとんど口を開きません。なにかしゃべってしまえば、タッジオも彼への想いも消えてしまうとばかりに、ただ黙ってタッジオを見つめ、追いかけていくのですね。

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彼は自意識や自尊心を曲げてまでも、タッジオへの愛情を貫きます。タッジオが眩しいほどに放つ青春の光にあこがれ、それに同化するために、失った若さを似合わない化粧や身なりで繕おうとするシーン。タッジオが、物陰に隠れて自分を追うアッシェンバッハに視線を向けるシーンや、浜辺で自分に熱い視線を送るアッシェンバッハの目の前で、踊るように歩いて誘うシーン。廊下やテラスですれ違う際に交わされる、会釈程度の微笑みにすら歓喜に浸るアッシェンバッハや、彼が、タッジオと家族と団欒のひとときを好ましげに見つめるシーン。彼の哀れなまでに滑稽な行動は、しかし背後に明るい調べと歌唱が流れることにより、彼にとって短いながら幸せなひとときであったことが知れるのです。

結局彼は流行していたコレラにあっけなく感染し、楽しいはずであったヴェニスでの滞在を死の舞台としてしまいます。浜辺の波打ち際で、太陽に照らされ黄金色に輝く水面と同化していくタッジオ。対するアッシェンバッハは、暑さで化粧の仮面を醜くはがされながらの残酷な死に様を迎えます。背後には、老婦人の歌うアリアが、死者を悼むように静かに流れています。彼の中では、手の届く距離にいながら、否定されることを恐れてついに美に触れることが叶わなかった自虐の念と、完璧な姿を保ったままの美を目の当たりにできた幸福の思いが交錯していたことでしょうね。死んだ彼が若者によって画面の外へ運び出される様は、ついに“生”という舞台から退場した役者を思わせます。彼がヴェニスに向かう汽船のデッキの上で、たった1人でぽつんと座っていた冒頭の登場シーンから、この最期のシーンまで、観客は実に音楽劇の舞台を観るかのような錯覚に囚われます。これこそ、ヴィスコンティ監督が狙った意図だったのでしょう。

2.アッシェンバッハと他者のつながり

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ノウェル・スミスは、アッシェンバッハのタッジオへの欲望は“覗き見”の域を出ないと評しました。確かにそうですね。タッジオはそこかしこでアッシェンバッハの意識を誘い、自分を追う老人に満更でもない視線を投げかけます。アッシェンバッハが少年に話しかければ、ひょっとしたら、単に“見る/見られる”の関係から一歩踏みこんだ絆を築けるのかもしれないのに、彼は頑としてそうしません。タッジオの微笑の裏に隠されたどのような意味にも、彼は耐えることができないからです。つまり、タッジオとアッシェンバッハの関係はあくまでも、君臨する美とそれに仕える奴隷のそれに終始しているのですね。これはいみじくも、アルフレートがアッシェンバッハを評した言葉―君は他者と関わりを持つのを怖がっている―によって裏付けられます。アッシェンバッハという人は、自ら進んで能動的な人間関係を持とうとせず、関わりをもった人々に唯々諾々と言いなりになるだけなのです。ホテルの支配人に言いくるめられ、結局病が手遅れになってしまったし、美容師に勧められるがまま、愚かな若返りの魔法を信じ込んでしまった。コレラの真相を問いただそうとした辻芸人にまでバカにされる始末。その一方で、自身と同じ階級に属するような人々とは一切言葉も交わしません。
つまり、ここで監督が暗示したのは、彼が自作の中で好んで取り上げてきた、階級の交替―上の階級の没落と下の階級の勃興―であるのです。ある階級の滅亡が、アッシェンバッハの死のメタファーとして結びつくのです。

3.複数の“死”

アッシェンバッハは、功なり名を遂げた一流の作曲家でした。しかしまだ幼かった娘の死という悲劇に直面し、彼の楽聖たる魂の一部が同時に死んでしまいます。彼の中に残されたのは、アルフレートの弁を借りるまでもなく、音楽への情熱の燃えカスと惰性のみ。アルフレートは、それを友人たるアッシェンバッハに思い知らせるため、口をすっぱくして警告するのですね。“美とは芸術家のモラルや努力などとは一切関係ない。むしろ己の欲望や感覚の向かうがままに遊ぶことこそ、真の芸術に必要なものだ”と。アッシェンバッハは、“バランスを保つこと”“良き見本であること”という言葉で、自分に音楽を創造する才能が枯渇したことを隠すわけです。美とは芸術家の努力によってのみ到達できる境地だと信じ、自分もそうだと思い込みたいのです。ですが、それは現実には観客によって否定されました。
おまけに、彼らから無能の烙印を押されることから逃れるためにやってきたヴェニスでは、タッジオの在り様が彼を愕然とせしめます。その少年はただ単に美しく生まれついただけであるものの、存在だけで他者を圧倒させる力を持ちました。そこにアッシェンバッハが標榜するようなバランスや秩序などなく、理屈を超えた絶対的美であるだけなのですね。そしてこの世には、美しいものとそうでないものしかありえません。アッシェンバッハは、終生を賭けて行ってきたはずの峻烈な美への探求が、あらかじめ存在する圧倒的な美…アルフレートに言われたとおりの美…によって無に帰する恐怖に怯えます。なぜなら、それは芸術家にとって“死”を意味するからですね。心身を癒し、生きるためにやってきたはずのヴェニスで、彼は計らずも自身の肉体の死と己の芸術の死を同時に迎えたのです。

タッジオによって、自らの拠って立つべき芸術が間違いであったことがわかってもなお、彼は少年から離れることはできませんでした。まるで初めて恋を知った思春期の少年のように、若さを取り戻そうと醜悪な化粧を顔に塗りたくり、悦に入る。そしてストーカーよろしくタッジオを追い回すのです。皮肉なことに、そのようになって初めてアッシェンバッハは、以前アルフレートが忠告したような“魂まで堕落した真の芸術家”となりえました。すでにコレラに感染し死が差し迫った段階になってはじめて、彼は“平凡”を脱し、“真の美”を目の当たりにできたわけです。美と芸術家の反語的な関係性、矛盾に満ちた美の定義…この作品は、トーマス・マンの原作を借りてはいますが、ヴィスコンティその人の芸術論の発露ともいえますね。

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煙と消毒薬の悪臭漂う死の都と化したヴェニスの街中を、タッジオは以前と変わらぬ軽やかな足取りで誘惑するように歩きます。美への誘いであるはずのそれは、アッシェンバッハにとっては死への扉でした。化粧が流れ落ち、衰えた肉体を古井戸に投げ出したとき、彼は己の人生と芸術の敗北を痛感したのです。タッジオとは、美の化身であり、美の具現化であり、芸術家が魂を引き換えにしても手に入れたいと願う美そのものです。しかしながら、それは絶対手に入ることのないものでもあるのです。
死に瀕したアッシェンバッハは、自らの音楽の死の宣告を聞きます。劇中では、病める彼の空耳だったという描写がなされてはいますが、それは彼自身の深層心理が現出したにすぎません。彼は、最後の砦であった自らの芸術の滅亡をとうとう認め、一方、真の美のために喜んで殉死する決意を固めるのです。

“デカダンス、という言葉は聞き飽きたよ。不健全なことを指すのに使っているだろう?しかしデカダンスとは、芸術を理解するひとつの方法に過ぎないんだ。トーマス・マンがデカンダスかい?”―『エウロペーオ』ヴィスコンティ談

絶対的な美を目の当たりにしつつ死に至るのは、アッシェンバッハにとって、彼を精神的・肉体的に束縛する現実を乖離し、より大きな芸術的至福に身をゆだねることを意味します。ここで語られる死とは決してネガティヴなものではなく、自らの意志で選択した生き方―タッジオ=美を求め続ける―を押し進めた先にあった事象にすぎません。彼は死をもって、自身がついに手にすることのなかった、この世界に現存する最高の美に一歩近づいたわけです。死にゆくアッシェンバッハの目には、すでにタッジオその人ではなく、タッジオの象徴する美のみが映し出されているのでしょう。たとえそれが単なる幻であったとしても、それは彼にとってたいした意味を持たちません。なぜなら、アッシェンバッハがタッジオを見初めたそのときから、彼の欲望はタッジオの肉体を通り抜け、少年の姿を借りた“美の形式”を欲していたからです。もどかしくタッジオに向かって伸ばされた老いた手は、現実の少年の肉体ではなく、芸術家としての到達点―究極の美― を求めていたのですね。
いわば積極的な生の結果の死。死を解放と信念の到達の極限と捉えるこの諧謔にこそ、“退廃”が生まれるのです。ヴィスコンティがこの作品に対して殊更“デカダンス”という言葉を嫌ったのも、それが今“不健全な”という意味で理解されているからです。ヴィスコンティにとってアッシェンバッハはデカダントな人間ではなく、必死に自分なりの美を追い求める芸術家のあり方でした。ゆえに彼の死は、美と引き換えに芸術に差し出された対価にすぎません。この芸術家の死が、エクストリーム・ロング・ショットでわずかな動きの中で捉えられるのみなのも、そのためですね。大自然の生み出す美の中では、1人の人間の死などちっぽけな風景の一部にすぎないのです。

“人間は、その熱情を傾けて…偽りの理想を掲げて、崩壊に瀕した世界に到達したんだよ。疎外、悪の数々、不毛にだ。抑制能力がない状態にだ”―『エウロペーオ』ヴィスコンティ談

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しかしながら、この作品を支配する“死”のイメージは、ヴィスコンティ監督自身が抱いていた老いとそれに連なる死への恐怖から派生しています。ところが彼は、死を恐れたにも関わらず、それにネガティヴな描写を施しているわけではありません。むしろ腐敗寸前の果実のような、実に抗し難い甘美な色合いで染め上げました。その背後にあった彼の心境とは、いかなるものだったのでしょう。美を創造する世界に於いて、いまだ自分が望む段階に到達できていないと感じていたのは確かでしょうね。“撮りたい映画が撮れない”というフラストレーションは、彼の年齢を考えれば充分に、迫り来る死を憎み恐れるに足るでしょう。そこで、忌むべき死を魅惑的かつ逆説的なポジティヴィティーで描くことで、その恐怖からひととき逃れようとしたのではないでしょうか。老醜をさらし、死臭の中をタッジオという美を求めてさまようアッシェンバッハの姿は、そのままヴィスコンティその人の、自虐的な自画像に他ならないのです。

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