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zoom RSS ダーク・ボガードへの恋文...A love letter to Mr. Bogarde

<<   作成日時 : 2015/08/17 13:55   >>

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ダーク・ボガード Dirk Bogarde

1921年(諸説ある)3月28日生まれ
1999年5月8日没 (チェルシーにて死去)
イギリス、ロンドンのウェスト・ハムステッド出身

●ニックネーム
オデオン、英国版ロック・ハドソン、ピップorピピン(第2次世界大戦中)
●本名
デレク・ユーリ・ガスパール・ウルリッヒ・ニーヴェン・ファン・デン・ボガール Sir Derek Jules Gaspard Ulric Niven van den Bogaerde

ダーク・ボガードは、ロンドン版「タイムズ」誌の編集者であった父(オランダ人とのハーフ)と、女優のマーガレット・ニーヴンの間に生まれた。3人兄弟の真ん中で、姉はエリザベス、弟はガレスという。夫の希望で女優を辞めた母、兄弟達、乳母のラリーと共に、サセックスの郊外の家で育った。
グラスゴーにあるアレン・グレン・スクールを卒業した後、当時ヘンリー・ムーアも教鞭をとっていたチェルシーの王立美術大学と、ロンドン大学にも席をおいた。「タイムズ」誌の芸術評論家になって欲しいという父の希望にもかかわらず、彼は演じる楽しさに目覚め、アートコースを辞めて俳優コースに鞍替えしてしまう。 1930年代は、ボガードは主に舞台の大道具係りとして働いた。
俳優としてデビューを飾ったのは、1939年俳優が病欠した代打で立ったロンドンの小さな舞台でのこと。その数ヶ月後、J・B・プリーストリーの戯曲「コーネリアス」で正式にウェスト・エンド・デビューを果たした。同時に、ジョージ・フォーンビーのコメディ映画にもエキストラで顔を出した。
ところが、1939年、ナチスのポーランド侵攻を皮切りに第2次世界大戦が始まると、彼も1940年将校として英国軍に加わった。主に空中写真分析に携わり、最終的に少佐の地位にまで到達する。大戦中に彼につけられたあだ名“ピピン”は、彼が5年間の従軍中に7つものメダルを獲得したことに由来する。また彼は戦時中詩を編み、公式命令により戦争画も多く描く。彼の詩『Steel Cathedrals』は1943年小さな雑誌に掲載され、膨大な戦争画のうち2点は、今も大英博物館に収蔵されている。
彼は、ベルゲン・ベルゼンの強制収容所にたどりついた最初の連合国司令官でもあったが、そのときの感想を「まるでダンテの描く地獄そのものの光景だった」という言葉で自伝に残している。また、戦時中に体験した衝撃は永遠に消えないとも告白している。

戦後、彼はエージェントの勧めにしたがって名前をクリスチャンらしく“ダーク”に変えた。そして1947年には、リンゼイ・シアターで上演された舞台『Power Without Glory』でその演技をノエル・カワードに絶賛され、俳優としてのキャリアを邁進し始める。活躍の場は映画まで広がり、同年「兇弾」で正式に銀幕デビューを果たした。
彼が初めて映画で主役を張ったのは、1948年の「四重奏」。スチュアート・グレンジャーの代役であった。ボガードの将来性を見込んで、ランク製作会社は彼と長期契約を交わし、この後14年もの長きに渡って彼は様々な作品に出演していくことになる。
1950年に製作された『The Blue Lamp』は、その年最も客足を稼いだ作品となり、ボガードに映画スターのステイタスをもたらした。また、この作品で演じた殺し屋は、その後彼がたびたび扮することになる、“神経質な悪党”というキャラクターの雛形ともなった。
彼は同時に舞台にも出続け、1955年の舞台『Summertime』の巡業、1958年の舞台『Jezebel』では揺るぎない名声と、大勢の女性ファンに恵まれるようになった。ところがこの時期の舞台では、彼は日々膨れ上がる名声への極度のプレッシャーから、舞台恐怖症になってしまい、以降舞台への出演を断念せざるを得なかった。
1954年には、以後幾度となくコンビを組むことになるジョゼフ・ロージー Joseph Losey監督との出会いがあった。「眠れる獅子」である。1950年代アメリカに吹き荒れた赤狩りのため、共産主義の烙印を押されてハリウッドのブラックリストに載ってしまったロージー監督。彼はその後、紆余曲折を経て英国に亡命し、映画製作を再開した。そのときに、映画俳優としてはまだ駆け出しであったボガードと出会い、1960年代の幕開けと同時に共に名声を勝ち得ていったのである。しかし当初は、ロージー監督が実名で映画製作をできなかった事情もあり、製作費用はボガードの出演料も払えないほど低く抑えられてしまっていた。そのため撮影は困難を極めたが、監督の才能を信じるボガードは彼とのパートナーシップを続け、10年後にはお互いのキャリアにとって転機となる作品を完成したのである。

ボガードが映画界においてスターになるきっかけとなった作品は、実は1950年代に製作された一連のコメディ作品である。これらサイモン・スパロウ医師シリーズは英国で大ヒットを飛ばし、彼は1950年代で最もセクシーで有名な英国俳優と認知されるようになる。だが彼自身はやはりシリアスな俳優への脱却を願った。ロージー監督の英国初期の作品で俳優としての転機を迎えたボガードは、トニー・リチャードソン監督の「怒りを込めて振り返れ」(1958年)で1950年代の典型的な怒れる若者ジミー・ポーター役を熱望した。が、これはランク製作会社との契約に抵触する企画であったため、主役はリチャード・バートンの手に渡ってしまう。

失望したボガードは、再三の招聘を受けてハリウッドに渡り、エヴァ・ガードナーと共演の「夜と昼の間」(1960年)とフランツ・リストを演じた「わが恋は終わりぬ Song Without End」(1960年)に出演した。この2つは、いずれも大金を投じて製作された作品だったが、興行的には大失敗に終わり、ボガード自身もハリウッド映画のお粗末な脚本に辟易して以降ハリウッドには近づかなかった。彼は、「わが恋は終わりぬ」で共演したフランス女優キャプシーヌと真剣な恋に落ちるが、バイセクシュアルであった彼女とは残念ながら結婚には至らなかった。しかし彼女とは終生続く友情を築くことになる。彼の公になった異性との交際はこれのみで、他に噂された数多くの女優達との交際も友情関係どまりであったという。

1960年代を通じてボガードは、巨万の富と“映画スター”の地位を保証する娯楽作品に別れを告げる決意をする。もっと芸術性の高い作品にかかわることを望んだのだ。同じ様なキャリアの選択をした俳優にバート・ランカスターがいるが、ボガードも出演作品をヨーロッパでの製作のものに限り、よりアート志向の作品への出演を始める。その最たる例が、バジル・デアデン監督による『Victim』(1961年)であった。この作品によってはじめて、英国で成人男性の同性愛が合法化されたのだが、こういったボガードの出演作品の方向転換は古くからの彼のファンに猛烈な拒否反応をもおこさせるほどであったという。
この作品で彼が演じたのは、ゲイであることを隠して結婚した高級弁護士。しかし彼にある日脅迫状が届く。ついに他のゲイの男性が犠牲になるに至り、彼は脅迫に屈することなく、勇気をもって同性愛であることを妻にも世間にも公表するのである。今ほど同性愛に対しての理解が進んでいなかった当時の世相もあり、この作品はアメリカでは公開されることはなかった。多くのファンの反発にもめげず、ボガードはこの作品に出演したことを誇りに思い、世間から迫害されていた当時の同性愛者達に大いなる力を与えたと自負した。彼自身が同性愛だと捉えかねられない役柄を選択した勇気は、彼の役者魂を奮い立たせることになり、また多くの後進たちのキャリア・モデルにもなったのである。この演技により、彼は英国アカデミー賞の最優秀男優賞に初のノミネーションを受け、彼自身のキャリアを大きく前進させるきっかけともなった。

1962年の「戦艦デファイアント号の反乱」や「愛と歌の日々」(未公開)などを経て、ロージー監督作の「召使 The Servant」(1963年)で主従の逆転を謀る召使役を、続く舞台劇を翻案した「銃殺 King and Country」(1964年)では、軍法会議にかけられる事になった脱走兵をたった一人で擁護する弁護士を熱演した。「召使」では英国アカデミー賞を受賞し、名実共に英国を代表する演技派俳優とみなされるようになった。またロージー監督自身もようやく名匠との評価を得るに至り、2人共に1960年代の英国映画産業のけん引役となったのである。ボガードとロージー監督のコラボレート作品は、他にハロルド・ピンターの脚本による愛憎劇「できごと Accident」(1967年)という佳作もある。しかし、ロージー監督のキャリア中唯一のおとぼけコメディー「唇からナイフ Modesty Blaise」(1966年)以降は、2人のコラボレートも徐々に機会を失っていき、1972年の「暗殺者のメロディー」にボガードがゲスト出演した程度であった。

1965年のジョン・シュレシンジャー John Schlesinger監督作「ダーリング Darling」でジュリー・クリスティー Julie Christieの相手役を務めたボガードは、再び英国アカデミー賞を得る。この作品の撮影中ボガードとクリスティーは、デイビッド・リーン監督の「ドクトル・ジバゴ Doctor Zhivago」に揃ってキャスティングされるのではないかと噂されていたが、結局クリスティーのみがラーラ役を得る結果となった。
ジバゴ役は逃したが、ボガードは1969年のルキノ・ビスコンティ Luchino Visconti監督作「地獄に堕ちた勇者ども The Damned / La Caduta degli dei」に出演するチャンスを獲得した。続いて1971年には、同監督の名作「ベニスに死す Death in Venice / Morte a Venezia」で死にゆく音楽家アッシェンバッハ役を持てる力を総動員して演じ切る。ボガードは、この作品に出演した後、“もうこの先、これ以上素晴らしい作品でこれ以上素晴らしい役を演じることはないだろう”と感じたという。“この作品こそが自分の最高傑作であり、おそらく役者として最後の作品になるだろう”、と。
そしてその言葉通り、「ベニスに死す Death in Venice / Morte a Venezia」の後、彼は20年間にたった7つの作品にしか出演していない。彼の元に送られてくる脚本が、どれもこれもクズに見えたからだ。実際、リリアナ・カヴァー二 Liliana Cavani監督の「愛の嵐 The Night Porter / Il Portiere di notte」(1973年)で、戦争によって捩れた愛憎を抱える元ナチス将校を演じた以外は、特筆すべき作品も見当たらない。

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ボガード自身は、公式には同性愛であることをかたくなに拒否してきたが、後に、マネージャーであるアントニー・フォーウッド氏と長年のパートナーであったことを告白している。フォーウッド氏は1939年、舞台の支配人をしていたときにボガードと出会い、意気投合。結婚していた妻と離婚してボガードの伴侶となり、2人して1968年にフランスの永住権を獲得した。彼らは1970年代初めに、プロヴァンスに15世紀の邸宅を購入し、修復に努める。この邸宅は、フォーウッド氏の癌の治療のため1983年にロンドンに戻るまで、彼らの住処となった。氏は1988年に死去したが、最後の数ヶ月はボガードがつききりで看病していたという。最愛の伴侶を失った後、ボガードは心の拠り所を失い、演技への情熱も薄れてしまう。ベルトラン・タベルニエ監督の「ダディ・ノスタルジー Daddy Nostalgie」(1990年)の後は事実上俳優業を引退し、自伝や小説などの執筆にもてる力を費やすようになった。
そして、20代から悩まされていた肺結核の影響もあり、1999年ロンドンで心臓麻痺のために倒れ、そのまま帰らぬ人となる。享年78歳であった。

●フィルモグラフィー

2004年「トゥルーへの手紙」
1990年「ダディ・ノスタルジー」
1987年「ザ・ビジョン/衛星テレビの陰謀」TVムービー
1981年「パトリシア物語」TVムービー
1977年「遠すぎた橋」
1977年「プロビデンス」
1975年「殺しの許可証」
1973年「愛の嵐」
1973年「エスピオナージ」
1971年「ベニスに死す Death in Venice / Morte a Venezia
1969年「アレキサンドリア物語」
1969年「地獄に堕ちた勇者ども The Damned / La Caduta degli dei
1969年「素晴らしき戦争」
1968年「フィクサー」
1967年「できごと」
1966年「唇からナイフ Modesty Blaise
1965年「キプロス脱出作戦」
1965年「ダーリング Darling
1964年「地獄のガイドブック」
1964年「銃殺」
1963年「マインド・ベンダース」未公開
1963年「召使 The Servant
1962年「合言葉は勇気」
1962年「戦艦デファイアント号の反乱」
1962年「愛と歌の日々」未公開
1960年「黒い狼」
1960年「夜と昼の間」
1960年「わが恋は終りぬ」
1958年「風は知らない」
1957年「キャンベル渓谷の激闘」
1957年「二都物語」
1956年「将軍月光に消ゆ Ill Met by Moonlight
1955年「私のお医者さま」
1954年「暗黒大陸/マウマウ族の反乱」
1954年「ダーク・ボガードの求婚物語/エンゲージリング・ストーリー」
1953年「断固戦う人々」
1952年「ジェントル・ガンマン」未公開
1948年「四重奏」
1947年「兇弾」

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私がはじめて映画でダーク・ボガードを観たのが「地獄に堕ちた勇者ども The Damned / La Caduta degli dei」です。これで彼の存在を認知し、その後は彼の膨大な出演作を片っ端から漁ることになりました。俳優として最も脂ののっていた60年代には、彼の佇まいはまさしく“デカダンス”そのもの。単なる一役者というより、英国のダンディズムと退廃と衰退を一手に引き受けて象徴する存在でありました。世相が大きく変動する60年代から70年代という時代に彼のキャリアが最も誇らしく花開いたのも、なにがしかの運命の力を感じずに入られません。 “時代のあだ花”という言葉でくくれないほどの、ずば抜けた才能を持った役者でしたが、早くからハリウッドに幻滅し彼の地から距離を置いていたせいで、オスカーに代表される映画賞にはまるで縁のない人でもありました。でもね、それが彼のキャリアにとっては却って良かったのだと思いますよ。

出演するに値すると感じた作品にのみ全力投球し、あとは静かに絵を描いたり小説を執筆したりという、マイペース、悠々自適の人生を楽しんだかに見えるボガード。しかし彼の役者としての人生は、終生付きまとったセクシュアリティへの偏見との戦い、ただの安っぽいハンサムスターではなく、真に芸術家たらんとした彼に対する世間の無理解との戦いに明け暮れたようです。複雑で屈折した演技の中に匂いたつような色気と艶、幾重にも折り重なる繊細さを醸しだすボガード。彼にとって“演じる行為”とはなんだったのか。絵画や執筆など、多彩な才能に恵まれた彼の演技の魅力を探るには、やはり今に遺された彼の出演作品を紐解くしかないでしょうね。

彼の代表作のうち、いくつかは既に別カテゴリーにてご紹介済みです。今後は、個人的にどうしても、どうしても感想を書いておきたい作品として、リリアナ・カヴァー二 Liliana Cavani監督の「愛の嵐 The Night Porter / Il Portiere di notte」、ジョゼフ・ロージー Joseph Losey監督とハロルド・ピンター脚本の「できごと Accident」、私の気力と体力が許せばロージー監督との貴重なコラボレーション作品として、一般にはあまり知られていない反戦映画「銃殺 King and Country」を挙げておきます。ボガード後期の作品には「遠すぎた橋 A Bridge Too Far」(1977年)などの名作も含まれてはいますが、これはあくまでも群像劇であり、ボガードの俳優としての稀有な特質を語るタイプの作品ではないので割愛します。

なお、彼の公式サイト official siteはこちら。彼に関する更に詳しいプロフィールやエピソードも充実していますし、貴重な画像のコレクションを誇るサイトでもあります。興味をもたれた方はぜひ訪問なさってみてください。

俳優としての活動がほぼ終わった80年代以降から亡くなる直前まで、ボガードは作家として作品をいくつも残しております。特に有名なのは、日本でも翻訳出版された、アメリカ人婦人との5年間に渡る友情を記録した書簡集「レターズ ミセスXとの友情 A Particular Friendship」(1989年出版)ですが、その他にも、自伝『Snakes and Ladders』(1978年)、小説などがあります。チャンスがあったらぜひ手にとっていただきたいですね。

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特に今、私も個人的に所有している書簡集「レターズ ミセスXとの友情 A Particular Friendship」を読み返している最中でしてね。これが滅法面白いのですよ。ご自分で小説を上梓したりするぐらいですから、ボガード氏の文章も巧みで、読者をぐいぐい引っ張っていくのはもちろんのこと、この書簡集の中でのみ垣間見える、俳優でもセレブでもなんでもない、単なる一人の人間としてのダーク・ボガード氏の姿というのが、大変複雑で陰影に富み、興味深い存在なのです。おとぼけとも表現できるユーモア、時に辛らつになる批評精神、内省的な側面、自然や友人、家族への愛情深さ、芸術への真摯な思い。彼らが5年間交わした手紙の内容については、ここでは触れません。ぜひ、ぜひ、実際に読んでみてください。


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●著作

・自伝、エッセイ集
『Snakes and Ladders』(1978年)
『An Orderly Man』(1983年)
『Backcloth』(1986年)
「レターズ ミセスXとの友情 A Particular Friendship」(1989年)
『Great Meadow』(1992年)
『A Short Walk from Harrods』(1993年)
『Cleared for Take-Off』(1995年)

・小説
『A Gentle Occupation』(1980年)
『Voices in the Garden』(1981年)
『West of Sunset』(1984年)
『Jericho』(1991年)
『A Period of Adjustment』(1994年)
『Closing Ranks』(1997年)

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