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zoom RSS “美”に捧げた生涯―レニ・リーフェンシュタールLeni Riefenstahl

<<   作成日時 : 2016/05/04 00:40   >>

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“この世界で悪が善よりも強いものならば、とっくに善を喰いつくしてしまっているでしょう。それなのに自然はこんなに美しい。春は繰り返しやってくる。だから自分は、人生に向かって常に「はい(ヤー)」と言おう”

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レニ(レーニ)・リーフェンシュタール Leni Riefenstahl

1902年8月22日生まれ、2003年9月8日没
ドイツ、ベルリン出身

レニ・リーフェンシュタールは、1902年、ドイツのベルリンで生まれた。家庭は裕福で、彼女は幼い頃から美を愛する夢みがちな少女であったという。高等女学校在学中は絵画を学び、卒業後舞踏学校へ入学した。しかし、娘がダンサーになることを心よく思わなかった父親と対立。彼女は一時家出をするまでに父親との関係が険悪になってしまう。ついに折れた父親の許可が下り、彼女は19歳でロシア出身のバレエ教師に師事した。1923年、21歳のとき、父親がスポンサーとなりベルリンでの公演を行う。蓋を開けてみれば興行は大成功を収め、彼女の美貌も相まって文字通り一夜にしてスターとなる。その後興行をヨーロッパ各国で展開し、実家を出て自立。同年、ペーター・ヤコブ氏と婚約した。ところがある日、ステージで膝を負傷したためダンサーの道を諦め、直後に女優に転身した。
「聖山」「モンブランの嵐」「白銀の乱舞」など、一連の山岳映画でヒロインを演じ、人気者となる。そしていよいよ念願の映像作家になるために、レニ・リーフェンシュタール・スタジオ・フィルム会社を設立、初の監督作品にして主演映画の「青の光」の製作に入った。「青の光」が完成した1932年、当時ナチ党を率いて大躍進を続けていたヒトラーに自ら手紙を出し、面会している。「青の光」は、ヴェネチア映画祭で銀賞を獲得するなど、その独特の映像美と演出センスを高く評価されるに至った。こうして映画監督としても順調なキャリアをスタートさせたレニは、翌1933年には監督第2作目「信念の勝利」を発表する。
1934年、ヒンデンブルク大統領の逝去に伴い、ヒトラーがドイツの政権全般を統括する総統に就任すると、才能を買っていたレニにニュルンベルグ党大会の模様を記録する映画を製作するよう依頼した。レニは、自身の映画製作会社の社名を便宜上“党大会映画会社”と変更し、1935年に「意志の勝利」を完成させた。レニ本人にその気はなくとも、この映画は無言のうちにナチスの強大さを内外に知らしめるステートメントとなり、後々まで彼女に“ナチ信奉者”の汚名を着せることにもなる。ベルリン・オリンピック開催前という配慮もあってか、「意志の勝利」はパリ国際博覧会に出品され、金メダルを獲得している。
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1936 年、ヒトラーはラインラントに進駐し、ついにベルリン・オリンピックが開催された。レニは、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤー氏から依頼を受け、オリンピックの全ての競技の模様を映像に収めた。その映像は1938年に「オリンピア」と題されて記録映画として封切られ、革新的な映像技術と圧倒的な映像美によって、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を授与された。移動カメラを大々的に導入した初めての映画監督はレニである。そのおかげで、競技者の躍動する筋肉を臨場感溢れる映像に仕立て上げることができた。だがこの作品では、レニは競技者に自分の望む動きを逐一演出し、その通りに再度競技に臨むことを強いたという。その意味では純然たるドキュメンタリーではないともいえるが、レニという完全主義者の厳しい審美眼に適った、まさしく人間の根源的な肉体美がそこに現出しているのを見て取ることが出来る。
同年、ヒトラーはオーストリアを併合し、ユダヤ人への弾圧を開始している。翌年第2次世界大戦が勃発し、戦時下の厳しい状況の中で「ペンテレージア」の製作に取り掛かる。同年、戦争報道員として従軍し、ポーランドに渡った。ベルリン空襲が行われる中、さらに「低地」の製作にも入る。機材やフィルムも不足する状態だったが、1942年までになんとか「低地」用のスタジオ撮りを終えた。しかし、アウシュビッツはじめ各地の強制収容所では、ナチスの最後の足掻きとしてユダヤ人の大量虐殺が行われていた。ドイツ国家の土台はきしみ、崩壊するのも時間の問題となっていたのである。1943年、スターリングラードの戦いでドイツ軍が敗北を喫したのを皮切りに、戦況はナチスにとって決定的に不利になる。レニもキッツビューエルに逃れて編集作業を続けた。1944年、連合軍がノルマンディーから上陸し、彼女は危険を承知でヒトラーとの面会に赴く。これが彼女がヒトラーを見た最後の時となった。
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翌年ヒトラーが自殺してドイツが降伏を宣言すると、レニはナチに協力した罪状でアメリカ軍によって逮捕される。証拠不十分で釈放されてもすぐさまフランス軍に逮捕され、私物を没収された上に厳しい尋問が課された。その後3年間に渡り、当局による逮捕・釈放を繰り返し、最後は精神病院をたらいまわしにされる。彼女がそんな生活から解放されたのは、1948年に非ナチ化審査機関で行われた裁判に勝訴したときである。同年12月1日、ナチス構成員ではなかったという正式な判決文が下された。
ところが、自由の身となっても彼女には受難の日々が続く。世間の彼女に対する視線は依然として冷ややかなもので、“ナチス称賛映画を作った女”“ヒトラーの手先”等々、あらゆるメディアから誹謗中傷が浴びせかけられたのだ。しかしながら、「意志の勝利」においても具体的な言葉でナチスを礼賛する演出は施されておらず、彼女にとっては、ヒトラーもナチスも当時のドイツの力強い美を体現した対象物でしかありえない。あの頃、意義の是非はどうあれ、ヒトラーとナチスは一種異様な美をもって、ドイツ及び周辺諸国の人々を圧倒したのは確かなことであった。多くのドイツ人と同様、レニもまた絶頂期のヒトラーに心酔した者の1人であったことが、彼女の残した手記からもうかがえる。従って、彼女の“すべては芸術のため”という弁明は、その言葉通りに捉えてしかるべきであろう。だが世界規模で広がっていく反ナチズム運動のうねりの前には、その反論もむなしい。彼女が1940年から製作を進めてきた劇映画「低地」は、ジャーナリストや映画評論家からの徹底した妨害工作を受け、興行的に惨敗を喫した。彼女1人を反ナチズムのスケープゴートにしようとする大衆の意思も働き、彼女につけられた“ナチスのプロバガンダ映画製作者”というレッテルは、以後最後まで消えることはなかった。
映画作家としてその存在を黙殺されたも同然のレニは、以後はカメラのファインダーを通じて、彼女の美意識を刺激する対象物を探すことになる。1962年、アフリカのスーダンで出会ったヌバ族の持つピュアな佇まいと虚飾を剥ぎ取った美に感銘を受けた彼女は、10年に渡って彼らと共に過ごしつつ取材を続けた。 1968年には、終生彼女と行動を共にするホルスト・ケトナーという忠実なアシスタントも得て、ヌバ族についての優れたルポルタージュを完成させる。初めてそのルポが掲載されたのは“Stern”“The Sunday Times Magazine”“Paris Match”“L'Europeo”“Newsweek”“The Sun”といった一流誌であり、ストイックなまでに美を追及するレニの姿勢と、ヌバ族の体現するしなやかな生命の躍動感が交錯した写真は大きな反響を呼んだ。1973年には彼らを写した写真は写真集「ヌバ」にまとめられ、10カ国で出版、アーティストとして復活を遂げた。
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なんとかしてレニの存在を潰そうと画策する人々は、依然として彼女のアートをナチズムに絡めて批判したが、同年彼女は年齢を51歳と偽り、実際は71歳でスキューバダイビングのライセンス取得に成功している。実はそれ以前から、彼女は海の中の生命の輝きに魅了されており、自分で実際に海にもぐって水中写真に挑戦したいという欲求を抑えられなくなっていたのである。こうして、ケトナーをアシスタントにダイビングを繰り返した彼女は、新たなる美の対象を海中に求め、カメラに収めていった。それらの写真は“The coral gardens”“The wonders under water”という2冊の写真集にまとめられ、高い評価を得るに至る。
1987年には自伝を上梓し、13カ国で出版された。大きな反響があったのは主にアメリカと日本であり、特にアメリカのハリウッドではレニの生涯を映画にしようとする動きも起こった。1992年には“Die Macht der Bilder”というドキュメンタリー番組も制作され、レニ自身が自らの人生と考え、アートについて言及するシーンが話題となった。エミー賞はじめ各国で賞を獲得している。アーティストとしてのレニを再評価する気運が高まり、彼女は世界中で積極的に写真展を開催した。また世界最高齢のダイバーとしても、 94歳でコスタリカのココス・アイランドの海にもぐってサメの撮影に挑むなど、活躍を続けた。
97歳の時、レニは再びスーダンの地を訪れるためあらゆる手を尽くした。彼女が愛して止まないヌバ族の人々が、数年にわたる内紛で苦しんでいたからだ。彼らを救うため、重要人物にもコンタクトを取るなどの交渉を続け、なんとかスーダンを再訪する手はずを整えた。何千人ものヌバ族の人々が彼女を待っていたが、彼女が現地で見たものは、累々たる死体の山と懐かしい友人たちの死の知らせであった。悲嘆に暮れる間もなく、他の仲間たちを救おうと奔走するレニであったが、ほどなく新たな紛争が勃発し、彼女たちは急遽ヘリコプターで出国を余儀なくされる。ところがそのヘリが撃墜され、大破してしまう。幸いにして死者は出なかったものの、レニ自身も重傷を負い、救助隊によってドイツの病院に搬送された。これほどの被害に遭っても、彼女のヌバ族を救いたいという信念は曲がらず、死の間際まで再びスーダンに赴く機会を作ろうと努力していた。この、レニとヌバ族の再会の模様は、ドキュメンタリー映画「アフリカへの想い」に収められている。レニがスーダン再訪のきっかけを作ったのも、この映画を撮るという名目があったからである。
2002年100歳のとき、それまでの海中撮影の総決算として「ワンダー・アンダー・ウォーター原色の海」というドキュメンタリー・フィルムを自ら製作。なんと48年ぶりの映画製作で現役の映画監督として返り咲いた。これが、彼女の長い生涯で最後の映画作品となる。101回目の誕生日を古い友人たちに祝福されたレニは、その数週間後、ドイツでケトナーに見守られながら静かに息を引き取った。激動の時代を生き抜き、数ある圧力にも屈しなかった鉄の意志を持つ女レニは、その生涯をまさしく勝利者として終えたのである。

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●フィルモグラフィー(監督作品のみ)
1932年「青の光」(Das Blaue Licht)
1933年「信念の勝利」(Sieg des Glaubens)
1935年「意志の勝利」(Triumph des Willens)
1935年「自由の日」(Tag der Freiheit - Unsere Wehrmacht)
1938年「オリンピア」(Olympia)
    ・第1部「民族の祭典」(Fest der Völker)
    ・第2部「美の祭典」(Fest der Schönheit)
1954年「低地」(Tiefland)
2002年「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」(Impressionen unter Wasser)


苛烈な美意識をもち、生涯を通じてただひたすらに美のありかを追求し続けたアーティスト、レニ・リーフェンシュタール。

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その美を探究する精神は、当初人間の持つ筋肉や皮膚といった組織が形作る“形式美”に向けられていました。ベルリン・オリンピックに出場した選手たちに、己の望む通りの動きで競技させたという逸話があるほどの「オリンピア」然り。また誤解を恐れずに述べれば、ナチスという究極の様式美を最大限に写し撮った「意志の勝利」においてすらも。彼女の残した映像を観れば、彼女がいかに美の対象を立体的に捉え、可能な限りあらゆる角度から、その美の本質を描こうと腐心しているかがわかります。映画監督として彼女の絶頂期に製作されたこの2本(「オリンピア」はさらに2編に分かれている)では、それまでの映画にはなかった視点の移動により、カメラの視線が神のそれのごとく機能している錯覚を観る者に与えるのですね。

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しかしながら、これだけ観客を圧倒する映像を撮りながら、きっとレニの美意識は満足することはなかったでしょうね。目の前にある対象物の美を読み取り、さらにそれに磨きをかけて映像に残すという作業を繰り返しながら、彼女の中ではきっと、本物の美…あらかじめそこにただ存在する美…を求める欲求が際限なく増大したに違いありません。美への欲求はまさに上限のない欲望であるからです。しかし、戦後彼女に向けられた“ナチスの手先”という誹謗中傷は、彼女をして人間の作る様式美から興味を失わせていきます。いかな美しい肉体であっても、その中に宿る精神がお粗末では、それは本物の美となり得ない。彼女は戦後の数年間でそんな風に達観したのかもしれません。
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ですから、彼女がスーダンのヌバ族にスピリチュアルな美を見出したのも、無理からぬことなのです。自然と共に生まれ、あるがままに生き、死んでいく彼らには、人間が本来持っていたはずの根源的な美が残されていました。彼女は無我の境地でシャッターを切り、やがて写真集「Nubaヌバ」を完成させました。

人間は、生前どんなに虚飾を纏っていようが、やがては等しく土に還っていく。なにものを持たず、だからこそなによりも美しいヌバの人々を見ていると、レニが求め続けた美の解答が、他ならぬ“人間の本質”にあったことが理解できます。そしてそれは、自然に回帰することによって初めて完璧な形を得られることも。ヌバ族との交流を経て以降、レニは美の最終形を自然の姿に求めるようになるのです。

「アフリカへの想い」(2000年製作)
監督:レイ・ミュラー
製作:レイ・ミュラー&ラインハルト・クロス
出演:レニ・リーフェンシュタール
ホルスト・ケトナー
レニは23年ぶりにスーダンのヌバ族の村を再訪しました。その模様を追ったのは、1993年のドキュメンタリー作品「レニ」も手掛けているレイ・ミュラー監督です。
ここでは、レニがなぜヌバ族、アフリカに魅せられることになったのか、そのきっかけも語られています。1953年、ヘミングウェイの小説「アフリカの緑の丘」を読んで以来、ロマンチストらしくアフリカに多大なる夢を抱いてしまったのですね。偶然雑誌で目にしたヌバ族の写真に心奪われた彼女は、1962年ついに彼らに会うことに成功しました。ヌバ族の人々は彼女を暖かく受け入れ、彼らは終生変わらぬ友情を築きます。しかし同時に彼女は、文明の波に抗えず、否応なく変わっていくヌバ族の暮らしの現実も目撃することになります。2000年、内紛に苦しむ彼らを救うためスーダンを再訪した98歳のレニは、消えようとするヌバ族とのかけがえのない邂逅を通じ、失われていく美と自身の人生についてその意味を自問するのです。

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「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」(2002年製作)
監督:レニ・リーフェンシュタール
製作:レニ・リーフェンシュタール
撮影:レニ・リーフェンシュタール&ホルスト・ケトナー
編集:レニ・リーフェンシュタール
音楽:ジョルジオ・モロダー&ダニエル・ウォーカー
出演:レニ・リーフェンシュタール
レニが最後に辿り着いた美の極致は、海の中の生命でした。
彼女がこれまでに撮り貯めた膨大な映像から厳選した素材を自ら編集した、海中ドキュメンタリー映画です。
レニが海の世界を知ったのは、シュノーケリングで海中を覗いたのがきっかけだったそうです。その後、水中写真家ダグラス・フォークナーの写真集を見て、自分でも海の世界を映像に収めたいと願うようになります。71歳で年齢を51歳と偽り、見事ダイビングのライセンスを取得したという逸話は上記した通りで、以降世界中の海を訪れては、海の生命の神秘に満ちた美の世界を記録していきました。1977年に来日した際には、日本の水中写真の第一人者、舘石昭氏とも親交を深めたとか。レニ最後の映像作品にはナレーションは一切なく、ジョルジオ・モロダーの音楽がわずかに興を添える程度で、余計な演出を極力排しています。しかし美しい映像の連なりは、やはりレニらしい審美眼で選び抜かれたものばかりであり、「オリンピア」で最高潮を迎えた彼女の映像作家としての精神が、脈々と息づいていることを感じさせますね。人間の躍動美が、生命の根源に畏怖する映像に形を変えたにすぎないのです。またそれは、ついに彼女が究極の美を見つけた至福に満ちてもいますね。

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