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zoom RSS 「リバー・ランズ・スルー・イット」―ロバート・レッドフォード監督

<<   作成日時 : 2018/03/04 20:00   >>

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かつて、およそ全てのアメリカ人が理想とする美男の典型は、若き日のロバート・レッドフォードでした。今は“美の基準”も多様化し、個々の観客が美しいと感じる俳優のタイプも多岐にわたるようになりました。どんな人が見ても魅力的だと感じる俳優、女優さんはほとんどいないでしょうね。

20代から30代にかけてのブラッド・ピットの俳優としての才能を、真剣に捉えていた観客は少なかったと思います。非の打ち所のない容姿、笑うとキュートなえくぼもできる完璧な美男であることを、おそらく彼は何度となく呪ったに違いありません。その悩みは、凡人の目には実に贅沢なものとしか映りませんが、当人にとっては、自分の理想とする状況から遠のいている現状への不満と将来への不安をいや増すばかりであったと思われます。
40代に入り、顔の皺が増えて髪にも白いものが混じるようになると、20代から30代にかけて耐えに耐え抜いた“完璧な容姿による呪縛”から、ようやく彼自身が解放されたようにみえます。オスカーにもノミネートされていた傑作「マネーボール Moneyball」での演技には、彼が長年にわたって闘ってきた“葛藤”に打ち勝った誇りが、熟練とカリスマ的なパワーとして見事に昇華されていたと思います。

この「リバー・ランズ・スルー・イット A River Runs Through It」は、才能あふれる“役者ブラッド・ピット”の原点のひとつでありましょう。


All things merge into one and a river runs through it. ―すべては1つに溶け合い、その中を川が流れる。

画像

「リバー・ランズ・スルー・イット A River Runs Through It」(1992年製作)
監督:ロバート・レッドフォード Robert Redford
製作:ジェイク・エバーツ
製作総指揮:ロバート・レッドフォード&パトリック・マーキー
原作:ノーマン・マクリーン「マクリーンの川」(集英社)
脚本:リチャード・フリーデンバーグ
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:マーク・アイシャム
出演:ブラッド・ピット(ポール・マクリーン)
クレイグ・シェイファー(ノーマン・マクリーン)
トム・スケリット(マクリーン兄弟の父)
ブレンダ・ブレッシン(マクリーン兄弟の母)
エミリー・ロイド(ジェシー・バーンズ)
スティーヴン・シェレン(ニール・バーンズ)
ニコール・バーデット(メイベル)
アーノルド・リチャードソン(老いたノーマン)他。

老いたノーマン・マクリーンは、故郷であるモンタナのブラックフット川で、1人静かにフライフィッシングに興じている。針に疑似餌を装着する指先は時に震え、日の光を浴びて輝く川面は、霞む視界には眩しすぎるほどだ。それでも彼は出来る限りこの場所にいたいと思う。モンタナの自然に抱かれつつ釣り糸を垂れていれば、人生を過ぎ去っていった懐かしい人たちのことを、ごく素直に思い出せるからだ。
1912年。アメリカはモンタナ州ミズーラ。10歳のノーマンと2つ年下の弟ポールは、この地で牧師を務める厳格な父親について勉強を教わっていた。父のしつけは厳しく、反抗期のノーマンはしょっちゅう反発していたが、父が折に触れて兄弟に教えるフライフィッシングには否応なく魅せられていった。父は、教会で説教を行うのと同じぐらい熱心に息子達にフライフィッシングの極意を伝授し、美しい自然と一体化する喜びを神への感謝に例えていた。
長じると、ノーマンは文学の勉強を得意とするようになり、将来の希望を漠然と父と同じ道か、タフになるために習い始めたボクシングに求めた。思慮深く真面目だが、同じタイプである父親とは以前にも増してお互いの気持ちがすれ違うようになってしまう。ノーマンも父もそれに気づいており、親子の間には余計に気まずい空気が流れる。一方ポールの方は、フライフィッシングの腕をめきめきとあげ、プロのフライフィッシャーになるという突拍子もない夢を抱くようになる。ポールは明るく社交的な性格の青年に成長し、ハンサムな外見も手伝ってか、誰からも愛される“ママご自慢の”息子となったのだ。次第に両親も、地味なノーマンより闊達なポールをかわいがるようになる。なにしろポールがいるだけで、その場がぱっと華やぐのだから致し方ない。父の背丈を追い越すようになった兄弟は、それでも寄ると触ると小犬のようにはしゃぎ、いたずらが過ぎて父親に大目玉を食らいながらも仲の良い兄弟でい続けた。しかしノーマンは、大学進学を機に家族からの独立を考えるようになる。ポールがあくまで地元に残ることを選択する一方で、彼は東部にあるダートマス大学に進路を決めた。1919年、牧師の少ない給料で故郷から遠く離れた大学に通わせてくれた父親に感謝しつつ、ノーマンは家を出て行った。

大学で新しい空気に触れたノーマンは、趣味でボクシングを続けながら、子供達に文学を教えることに生きがいを見出す。しかしながら、大学の教授のポストがそう簡単に見つかるわけもなく、7年後、彼は結局確たる進路も見出せぬまま大学を離れることになる。
そのまま故郷のミズーラに戻ってくると、当然待っていたのは父親の非難の言葉であった。7年もの間大学で学んでいながら、なにひとつ手に職をつけることなく家に出戻った息子への困惑もあったのだろう。ポールが地元の大学を卒業して、地方新聞の記者になって堅実に働いていたことも、一層ノーマンの肩身を狭くした。
ノーマンは家にも居場所がなく、弟の職場を訪ねる。ポールは相変わらず人好きのするチャーミングな青年で、兄が帰ってきたのを喜んでくれた。だが彼は、デスクで記事を書いているべき真昼間から酒場に入り浸っている。ノーマンは、弟が両親にも隠さねばならぬ後ろ暗い秘密を抱えていることを薄々感じとるが、何も知らない両親には黙して語らなかった。
兄弟は数年ぶりにフライ・フィッシングに興じる。今やそれは兄弟の絆、親子の絆の確認作業でもあるのだ。濃い緑、陽光にきらめくブラックフット川の水面。ポールはノーマンの目の前で、もはや芸術の域に達した腕前を披露する。優雅な所作で水面すれすれに放たれる針と糸。疑似餌は自ら意志を持った生き物であるかのように水面を舞い、魚をひきつけるのだ。人と針と糸は一体化し、まさしく自然そのものの動きをトレースしていく。ポールの姿は、この世に一瞬だけ現出した自然と美の融合であるようにノーマンには思えた。

独立記念日。街の広場で開催されたダンス・パーティには、女の子達が競うように着飾って集まっている。もちろん、彼女たちを鵜の目鷹の目で物色する男の子たちの視線を、充分意識してのことだ。ノーマンは、その中でもとりわけ大胆にダンスする、流行のイット・ガールに目を奪われた。くりくりした大きな瞳、愛嬌のある大きな口が魅力的なジェシーである。ジェシーは酒の入ったグラスを片手にグラマーを気取っている。ノーマンは文字通り一目で恋に落ち、不器用ながらも彼女にダンスを申し出た。
久方ぶりに地元の悪友たちと談笑するノーマンであったが、一緒にいたポールはその場を中座してそそくさとどこかへ出かけていく。口さがない悪友たちは、ポールが賭けポーカーにのめりこみ、違法の酒を出す闇酒場に毎晩通い詰めているのだと噂した。ノーマンの不安はますます高まっていく。
ノーマンはジェシーを連れて、ポールの彼女でインディアンの血を引くメイベルと共にダブルデートをする。商人の娘で、思想的には進んだリベラルな面をもつジェシーは、メイベルが当時人種差別の対象となっていたインディアンであっても、全く屈託なく彼女に接していたが、世間はそうではない。彼らが怪しげな酒場に赴いても、メイベルだけは入店を断られたり、ポールのごり押しで席を確保できても注文を拒否されたり…。ポールとメイベルが、周囲に見せ付けるように酒場のフロアで官能的なダンスに興じているのを見守りながら、ノーマンはあえてメイベルをパートナーにした弟の心境を察していた。メイベルもポールも、結局は社会から孤絶された者同士であるのだろう。彼らが惹き合うのは、お互いが孤独だから。デートの最中であるというのに、ポールがまたも席を中座して酒場の奥にある薄暗い小部屋に滑り込んでいくのを見るにつけ、ノーマンは弟の底なしの孤独感に戦慄する思いであった。
その夜遅くノーマンが帰宅すると、警察から家に電話が入った。ポールがメイベル共々酒場で大乱闘を演じ、留置場に放り込まれたらしい。両親は眠っていて何も知らない。ノーマンは1人で弟の身柄を引き取りに向かった。臭い留置場の中で、捨て犬のように身を縮めて涙ぐんでいるポール。それはなにも酒を過ぎたせいばかりではないだろう。廊下からこぼれる薄い明かりに、彼の金色の髪の毛とまつげが鈍く輝いている様が切ない。ノーマンは、打ちひしがれたポールに真実を問う。どうやらポールは賭けポーカーで負けがこみ、莫大な借金を背負っているようなのだ。しかしそれは自分個人の問題であり、他の誰にも関係のないことだと、ポールはあくまで強気だ。ノーマンは、弟の抜き差しならぬトラブルに関しては両親に知らせないでおくことにした。老いた両親を追い詰めることは、彼にとっても本意ではない。
ジェシー家では、ハリウッドに暮らすジェシーの兄ニールが久しぶりに帰郷するというので、沸き立っている。ノーマンも渋々、ジェシーのお供で駅まで出迎えに行った。列車から降りてきたニールは、絵に描いたようなキザったらしい優男。テニスのルールも知らないくせに流行のテニスウェアに身を包み、髪型ばかり気にするノーマンの大嫌いなタイプである。しかしジェシーと、ニールを溺愛するお母さんの手前、努めて礼儀を失しないように振舞う。ところが成り行き上、年のころが近いノーマンがニールを釣りに誘わねばならぬ羽目になってしまった。ジェシー一家も、まるで腫れ物に触るようにニールに接しており、できればノーマンにニールの相手をして欲しいらしい。家を出て真っ直ぐ闇酒場に向かうニールに、嫌々ながらついていったノーマンは、すぐさまそこで酔っ払い女をナンパするニールにあきれ返る。ともあれ、約束は約束だ。明日の朝早く川で落ち合う手はずをつけたノーマンは、その足で弟を訪ね、彼の無事な姿に安堵しつつ釣りに誘う。ポールはさすがに一流の釣り士らしく、前の晩どんなに酒を過ごしていても、釣りの為ならば明朝早く起きることも苦にならないのだ。翌朝、結局泥酔して遅刻したニールと女を川原に置き去りにして、兄弟はフライフィッシングに興じるのだった。寝過ごして全身に日焼けした哀れなニールは、裸のままジェシー家に引き取られる。ジェシーには悪かったが、ノーマンとポールはその無様な姿に笑い転げるのだった。ところが、愛する兄を侮辱したノーマンたちに、ジェシーは怒りを爆発させる。どんなできそこないでも、兄は兄だ。彼女が家族を愛するのを笑う権利は誰にもないはず。自身、弟ポールの暗い秘密を共有しているノーマンには、彼女の言葉はことさら堪えた。そして改めて、ジェシーへの愛情を深めていくのである。
ある日、ノーマンはシカゴ大学から教授職のオファーを受けた。夢にまで見た教職だ。彼は1人喜びを噛み締め、大急ぎでジェシー宅まで走っていき、勢い込んで彼女にプロポーズした。自分と一緒にシカゴまで来て欲しいというノーマンの懇願に、家業が傾きかけていて実家が気がかりなジェシーはとまどうが、ノーマンの誠意に打たれついに承諾する。ノーマンは浮かれた気分のままポールを酒場に誘い、ジェシーとの結婚、シカゴでの新生活のことを語って聞かせた。しかし、一緒に喜んでくれるものと思っていたポールは不機嫌極まりない。ノーマンの喜びを冷笑に付し、心ここにあらずといった風情だ。真夜中、賭けポーカーが行われる闇酒場へ出向こうとするポールを、ノーマンは初めて言葉を荒げて引き止める。借金が払えないならば、自分が支払いを手助けするから二度と賭け事に手を出すな、と。暗闇の中で、ポールは引きつった笑顔を見せながら兄の申し出を断った。意固地な姿勢を崩さない弟に腹を立て、車を急旋回してその場を去ろうとしたノーマン。ポールは一瞬躊躇した後に、慌てて引き止める。目線を泳がせながら、彼は明日の朝一番に川に釣りに行こうと言う。まるで何事もなかったように。最近忙しいからなかなか釣りにも行けないんだと笑う弟の目は、しかしノーマンには泣いているようにも見えたのだった。
翌朝、家の台所で緊張しつつ弟を待つノーマン。今日の釣りは父も同行するのだ。もしあの後ポールの身になにかあったら…。刻一刻と約束の時間が近づくにつれ、ノーマンの内心の焦りはピークに達していく。間が持てなくなったノーマンは、シカゴ大学に教授として赴任することに決定したと両親に告げた。サプライズだったのは両親のほうだ。特に父親は驚きながらも、不器用にしかし彼らしく真面目に祝福の言葉を述べる。約束の時間をとうに過ぎた頃、ようやくポールが現れた。
ブラックフット川で、親子3人が数年ぶりにフライフィッシングに興じる。兄弟から離れた場所にポイントを定めた父に聞こえぬよう、ノーマンはポールに一緒にシカゴに行かないかと誘う。ここでのことを忘れて再出発するには、シカゴのような大都会の方がより相応しいだろうから。しかしポールは、兄の申し出を柔らかい笑顔で辞退する。断られることはノーマンも半ば予想していた。ポールは根っからの釣り人なのだ。彼は釣りができなければ、つまりこの美しいモンタナの自然がなければ、生きてはいけないのだ。もはや釣りは彼にとってただの趣味ではなく、生きていることの証であもある。釣りを通して自然と一体化し、この世の美を体現するような人間は、自然の外では生きてはゆけないのである。
父は川辺で兄弟が釣りをする様を満足げに見つめていた。そしてノーマンに照れくさそうに笑いかけ、不器用に手を差し出した。似たもの同士のノーマンと父。彼らははじめて親しげに肩をたたきあい、握手した。父は言葉少なにポールの釣りの腕前に感嘆した。そのうち、ポールが今まで体験したこともなかった巨大な引きに鋭敏に反応した。時に川の中に引きずり込まれながらも、彼は決して手を離さず、父と兄が見守る前でついに大物を釣り上げた。巨大な獲物を手に掲げ、破顔するポールに陽光が乱反射し、まばゆいほどに光り輝く。人と自然。その完全なる協調。ノーマンはまさしくその瞬間に、自然と一体化する弟の真の姿を垣間見た。完全なる“美”の出現。それは、ここだけにしか存在し得ない、ここ以外のどこにも存在し得ない美であった。弟の姿をカメラに収めながら、ノーマンは弟が社会の中では生きられないことを本能で悟るのだった。なぜなら、社会には芸術の存在できる場所などないからだ。
シカゴへ発つ直前、ノーマンは再び警察から呼び出しを受けた。彼は半ば悟っていた…弟がついに死んだことを。彼はそのまま実家に戻り、言葉少なにポールが殺されたことを報告した。金髪でハンサムで明るく社交的。新聞記者として、時の大統領にまで突撃インタビューまで敢行する行動派。誰にでも愛された自慢の息子。ノーマンは自失した母には伏せておいたが、父にだけは真相を告白した。ポールは賭けポーカーでイカサマをしたらしく、右手の骨が粉々に砕けるほど叩き潰されていたのだ…。
時は流れ、シカゴで暮らすノーマンはジェシーの間に子供ももうけ、堅実な人生を歩んでいった。その後も父は、折に触れてポールの死の模様を詳しく知りたがったが、ノーマンはその都度こう答えてきた。「少なくとも僕たちにとってポールは天才的な釣り士だった。それでいいじゃないか」と。父は思わず本音を漏らす。「それだけじゃない、ポールは本当に美しかった」

きっとポールが、父が目指した自然との一体化を難なく体現してみせたからだろう。それは神の領域に近づくことを意味するのだ。父の心の中で、ポールはいつまでも美しい青年の姿のまま、光輝く姿のまま屈託なく笑い続ける。そしてそれはやがて神の姿に変貌していくのだ。ノーマンは父の最後の説教を今でも思い出すことが出来る。

「人はたとえ血を分けた家族であっても完全に理解することは出来ない。でも完全に愛することは出来る。家族が堕ちていくのを引き止めることは叶わないが、彼をいつも見守ることは可能だ。そしてそれこそが家族の役目であるのだ」

そして現在。黄昏時のブラックフット川で、ノーマンは1人佇んでいる。川の流れに耳を傾け、自然の声に耳を凝らし、1人で黙々と竿を振り続ける。釣果を期待する楽しみはとうの昔になくした。彼が今でも竿を振るのは、そうすれば自然と対話できるからだ。彼は思う。

“あの頃理解しあえず、でも愛した人たちは、妻を含め皆この世を去った。今は心で語りかける。この歳では釣りもおぼつかない。友達は止めるが、やはり1人で流れに糸を投げ入れる。谷間にたそがれが忍び寄るとすべては消え、あるのは私の魂と思い出だけ。そして、川のせせらぎと4拍子のリズム。魚が川面をよぎる期待。やがて、すべては1つに溶け合い、その中を川が流れる。洪水期に地球に刻まれた川は、時の始めから岩を洗って流れ、岩は太古から雨に濡れてきた。岩の下には言葉が…、その言葉のいくつかは岩のものだ。私は今も川のとりこだ…”

過去の思い出も、喜びも悲しみも、いずれは皆ひとつに溶け合って、記憶という名の川となって悠久の彼方へ流れていく。結局人は誰しも自然の懐に抱かれて生きる。自然の美の前では、人の存在はあまりにちっぽけだ。

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長い間映画を観続けておられる方の中には、昔感銘を受けた映画が、時を隔てるとさして面白くないと感じた経験が少なからずあると思います。あるいはその逆で、昔は退屈した映画が、今観ると滋味深い映画に思われることもあるかもしれませんね。

私にとってこの「リバー・ランズ・スルー・イット」という作品は、明らかに後者に属するものです。
原作となったノーマン・マクリーンの自叙伝的処女作「リバー・ランズ・スルー・イット」が発売されてから、この小説の映画化権を獲得しようと、何年にも渡ってマクリーンを説得し続けていたレッドフォード監督にとって入魂の3作目であり、今をときめくブラッド・ピットが大ブレイクした作品としてもつとに名高いものですが、公開当時観た感想は“眠い”の一言でした(笑)。
なにしろ、アメリカ社会の中にはごまんといるであろう、ごくごく平凡なWASP一家の平凡な歴史を、淡々と追っていくだけの展開なんですもの。演出が中だるみしなかったのは、ひとえにモンタナの自然を生き生きと活写したおかげでしょう。それに私は、ブラピに対してはなんら特別な感情も抱いておりませんしね。いかに彼が若き日のレッドフォードを髣髴とさせる正統派二枚目俳優だと騒がれても、どうもピンとこないのですよ。
「普通の人々」にあった胸をえぐられるような焦燥感、「ミラグロ/奇跡の地」を包んでいた愛すべきオトボケ感も、この作品には皆無。ただただ、モンタナの輝ける自然の情景をフィルムに焼き付けたいために、マクリーン一家の物語…もっと言えばブラッド・ピットの美貌を持ってきた、という印象しかなかったのです。

しかしながら、自分自身もマクリーン一家と同じように2人の息子を持つに至った現在では、この作品に対する見方が変わってきたと言わざるを得ません。確かに、レッドフォード監督らしい、オーソドックスで奇をてらわない演出が、昨今の刺激的な映像とジェットコースターのようなストーリーテリングに慣れてしまった人たちの目には、なんとも起伏に欠ける冗長なものに映ることでしょう。ですが、レッドフォード監督の諸作品で常に取り上げられるテーマである“家族の絆”の不確かさ、あるいはその永続性は、この作品においても真摯に追及されているのですね。

兄ノーマンは生まれてずっと、明るくハンサムで華やかな雰囲気を纏う弟ポールの一歩陰に甘んじてきました。そもそも兄弟というのはそうなりがちで、私の息子達にも言えることなのですが、2人ともが同じ方向性の個性をもっていることはありえません。どちらかが社交的ならば、もう一方は内向的。どちらかがひまわりのように明るい方に顔を向けているならば、もう一方は必ずその陰に佇んでいるのです。マクリーン兄弟の父親である神父でさえ、2人の息子達を神の教えに則って平等にしつけることはできませんでした。彼も人間ですから、自分と同じ生真面目で不器用な性質を持つ兄ノーマンに対しては、自然と苦手意識を持ってしまったのでしょうね。ちょうど、磁石の同じ極同士が反発しあうのと同じです。一方、ポールの方には、ノーマンにも父親にもない輝きがありました。なにもせずとも、周りの人間を惹きつけてしまう強い磁力。それは、ポールが生まれながらにして持っていた天性のもので、力強い生命の鼓動がそのまま波動のように周囲に波及していくのです。劇中ポールは、ノーマンからも父親からも“美しい”と描写されますが、いわゆる有無を言わせぬカリスマ的な魅力が彼には備わっていたと思われますね。父親もポールのカリスマには自然と頭を垂れてしまうのでしょう。もちろんノーマンも。ノーマンは自分の存在が弟の影に隠れていることは充分承知していましたが、だからといって別段それを苦にすることもありません。ポールの前では誰しもがかすんでしまうからですね。常に弟と比較される運命であっても、彼が冷静でいられたのには訳があります。

ノーマンはある時期家族の元を離れ、遠い地で人生を学びました。青年から完全な大人に脱皮するという、人間の精神的成長にとって最も大切な時期に、彼は父親の強い影響力から逃れることができたのです。子供の頃から自身を支配してきた家族の価値観や思想を、新しい外の世界でいったんゼロに戻すことで、彼は改めて客観的に家族を見つめ直すことができました。彼にとって大学時代の7年間とは、彼独自の考え方を構築する貴重な時間であったわけです。
そうして故郷に戻ってきたノーマンは、家族の輪からいつも少しはみだした位置で彼らを見つめます。また、周囲を取り巻く人々の生態をも、観察者の視点で見守るのです。観客はこのノーマンの視線を通じて、彼ら家族の歴史の変遷を知ることになるのですね。ノーマンは、弟への屈折した劣等感を彼への惜しみない賛美に変え、父親や母親へも確執を超えた愛情を込めて、過去を振り返ります。時の流れの中で、人は様々な経験を積み、悲喜こもごもの生を送るわけですが、そんな中でも唯一川だけは姿を変えることなく泰然自若と流れ続けるのです。そんな川と自然の中に人生の本質を見出すノーマンもまた、彼と関わった全ての人たちにとっての“川”であったのかもしれません。
ノーマンとポールと父親にとって、フライ・フィッシングとは趣味であると同時に、川の流れに逆らわず身をゆだねるという、自然の懐に抱かれる行為であります。原作と映画を等しく貫く思想は、人生の喜びと悲しみは、川の流れのようにいずれは記憶の彼方に淘汰されていくものだという考え方です。人の生など、自然の偉大さに比すれば塵のようなものだとするノーマンの哲学は、東洋的な発想と相通ずるものがあり、非常に興味深いですね。
特にポールにとっては、釣りは単なる遊びではなく、人生そのものでした。彼は、父親から教わったフライ・フィッシングの技術を通じて、そのカリスマにさらに磨きをかけていったのです。父親が釣りという行為を、自然と一体化して神の息吹を感じる尊い経験だと考えたのならば、ポールはそれをさらに進めて、自然の中に己の存在意義を求めたのではないでしょうか。彼にとってのフライ・フィッシングとは、モンタナの自然と完全に調和して、神の領域に近づくための手段であるのです。

以前は、ポールがなぜノーマンの誘いを断ってシカゴに行かなかったのか、疑問に感じたものですが、今では理解できるような気がします。ポールにとっての“世界”はモンタナの川にしかなかったのですね。ノーマンが故郷以外の世界を見聞できたのに比べ、彼のそれはあまりに限られていました。ノーマンが言い当てたように、ポールの存在そのものが奇跡的な“芸術”であり、芸術はこの社会では生きながらえられません。ポールが川以外に己の居場所を求めて苦悶したとしても、やがてはこの世から消えるべき運命であったのは否定できないわけです。穏やかさと静けさ、平凡しかない田舎で如何に神に近づいたとしても、彼のような人間が持つ有り余る生命力の放出先などないのですね。では、シカゴのような大都会にはそれがあるのかと問われれば、もちろん答えは“No”です。都会には逆に自然がありませんからね。
ポールが奔流に飲まれながら巨大な鱒をものにした瞬間、彼が追い求め続けた美は完成しました。ノーマンには、その美の行き着く先はないことがわかっていましたし、わかったところで彼にはそれをどうすることもできません。あたら尊い生命を持て余している弟対して、なんら力になってやれない不甲斐なさへの怒りと哀しみは、彼をしてやがて、人間はちっぽけな存在であるという諦念にたどり着かせるのです。ポール亡き後の父親の最後の説教にも、同じ過程を見ることが出来ますね。無私の精神で他者へ愛情を注ぐことにこそ、人が生きる意味があり、つまるところ家族とは、見返りを期待しない無償の愛を注ぐ対象であるのだと。

それから、今回作品を再見して痛烈に感じたのは、劇中のノーマンの言葉を借りて語られるレッドフォード監督自身の本心ですね。ノーマンのポールに対する哀惜の念は、監督の愛するモンタナの自然への畏怖と、それが現代社会において破壊されていくことへの怒りにリンクしているような気がしてならないのです。
川が流れていくように、ある家族の肖像をスケッチしていく演出と、オスカーを獲得したフィリップ・ルースロのカメラによってスクリーンにスケッチされるモンタナの美は、映画において全く同等の意味を持っています。これらは2つながらにして、失われつつあるアメリカの原風景―家族の絆と自然の輝き―への、監督の愛惜の情を象徴しているのですね。監督がなぜ今環境保護活動に全身全霊を注ぐのか、この作品を見ると理解できると思いませんか。
ポールの死によって、表面上は消えうせたように見える家族の絆も、目に見えぬ世界では脈々と息づいています。ノーマンと父親が、最後に家族への無償の愛情を理解したように、自然への賛歌、自然に帰することが、やがては博愛の情に繋がっていくという流れは映画の最後で明らかになります。それは、現代社会という乾ききった大地に雨が降り、染み込んだ水が私たちの孤独感を癒してくれるようにも感じられますね。

この作品で、ポールを透明感のある演技で体現したブラッド・ピットはもちろんのこと、地味な風貌で、物語の語り部ノーマンに扮したクレイグ・シェーファーの好演は素晴らしかったですね。厳格であるにも関わらず、息子達の人生に対し迷いも見せる父親像をリアルに演じたトム・スケリットも同様です。実は、最初にポール役を熱望していたのは、あのウィリアム・ハート(「白いドレスの女」「蜘蛛女のキス」)だったそうですよ。彼はポールを演じたい余り、現在モンタナに住むノーマン・マクリーン本人と釣りをしたとか。原作者にアピールしたかったんでしょうね。しかしマクリーンには、“あなたはなかなか釣りは上手いが、私の弟を演じられるほどではない”と言われてしまったそうです。また、映画の中でこそ、皆プロ顔負けの手さばきで竿をキャスティングしていますが、撮影に入るまでは誰一人としてフライ・フィッシングをやったことがなかったそうです(笑)。ピットやシェーファー、スケリットは、撮影までにかなりの特訓を積んだのでしょうね。
レッドフォードという監督の資質は、役者の演技を基調に、オーソドックスな映像を積み重ねてストーリーの起伏を演出していくものです。つまり、作品の出来は全て演技にかかっていると言っても過言ではありません。この作品と次の「クイズ・ショウ」では、それが最も顕著に現れていると思いますね。
それから、家族の間に流れる微妙な“間”を表現する上手さはさすがです。この作品でも、久しぶりに食卓を囲む家族の間にどうしても出現する一種の気まずさを、噛み合わない会話や、ぎくしゃくした雰囲気で見事に表していました。監督は、家族のかもし出す独特の空気を描写するのに長けているようです。マクリーン家と対照的な家族として引き合いに出されるジェシー一家の描写も、ある種の典型的な家族のカリカチュアになっていて、非常に面白いものでした。母親に徹底的に甘やかされたアホ長男と、彼を腫れ物に触るように扱う家族の困惑を、彼らの引きつった笑顔で表現していて、こちらも観ていて苦笑を禁じえませんでしたね。そう、長男が甘やかされると、次に生まれた女の子は、大抵醒めた目線を家族に向けるようになるものです。思い当たるフシが私自身にもありますねえ(笑)。

さて、この作品のもう1つの主役たるべきモンタナの風景ですが、劇中の舞台になるのは、モンタナ州ミズーラ近郊を流れるブラックフット川です。実際には、ミズーラより270マイルほど東に位置するBig Timberという名前の小さな町の南方、ボールダー峡谷上流のボールダー川で撮影されたそうです。またここは、レッドフォード監督の「モンタナの風に吹かれて」が撮影された場所でもあります。監督のモンタナへの思い入れの強さが感じられますね。
また、原作者のマクリーンが、実際にシカゴ大学で英文学の教鞭をとっていたことから、原作では有名な詩の引用が目立ちます。映画にも一部採用され、どうしても歩み寄れなかったノーマンと父親が、互いの共通点である詩を交互に暗唱することで、その絆を深めるというシーンに登場しました。ウィリアム・ワーズワースの“Ode: Intimations Of Immortality From Recollections Of Early Childhood”からの引用ですね。ここは私の大好きなシーンでして、家族なんて余計な言葉などなくても分かり合うことが出来るのだというメッセージが感じられます。

そして、この映画を支えるもう1つの重要な側面である音楽。実は、当初この作品のスコアを書いたのはエルマー・バーンスタインだったのですが、レッドフォード監督が求めるものとは違ったために破棄され、新たにマーク・アイシャムが書き直したそうです。モンタナの自然を描写するリリカルで繊細な旋律と、当時の風俗を感じさせる粋なスタンダード・ジャズの組み合わせは、アイシャムの得意とするところ。結果的に彼の起用は大正解だったということでしょう。サントラ盤も発売されていますから、ぜひアイシャムのベスト・ワークの1つを堪能してみてください。

●サウンドトラック盤

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1. リバー・ランズ・スルー・イット
2. 長老派教会の投票
3. 驚きで満たされた土地
4. 小道をかけおりて
5. 森林局と釣りの夏
6. 急流下り
7. 3人の太公望
8. ダートマス大学での日々
9. シャドウ・キャスティング
10.アラブの首長(Written by Harry B. Smith, Ted Snyder and Francis Wheeler)
11. バイ・バイ・ブラックバード(Performed by Prudence Johnson、Written by Mort Dixon and Roy Henderson)
12. ジュ・ヌ・セ・クァ
13. スイング・ミー・ハイ、スイング・ミー・ロウ
14. 想い出の場所
15. 警察からの連絡
16. ラギド・クロス
17. マスクラット・ランブル(Written by Roy Gilbert and Edward "Kid" Ory)
18. 生皮のムチ
19. 線路を直進
20. 早朝の出発
21. 草原の輝き
22. ジェシーとノーマン
23. ロロ
24. ハイ・ロード
25. シカゴへの誘い
26. 3人の太公望とビッグ・ブラックフット・リバー
27. 永遠の瞬間
28. 深い悲しみ
29. 理解出来ずに
30. 薄暗い峡谷で
31. 水に憑かれて〜リバー・ランズ・スルー・イット(リプライズ)

注:劇中、酔っ払ったノーマンが調子はずれに歌う『Yes, We Have No Bananas』は、Frank SilverとIrving Connによって書かれた楽曲です。

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「リバー・ランズ・スルー・イット」―ロバート・レッドフォード監督 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
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