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zoom RSS もしも鬱になったなら…「ツレがうつになりまして。」

<<   作成日時 : 2011/10/22 18:31   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 0

映画化された作品の方ではなく、原作のマンガエッセイを読んだ時に思い出した、記憶の断片。


私が軽度の鬱病だと診断されたのは、華の高校時代もそろそろ終りを告げようかという頃。大学への進学を前にして、元々打たれ弱い私の神経は完全にプレッシャー負けしてしまった。同じ頃兄の方にトラブルがあって、両親はその後始末に追われていた。毎日のように喧嘩を繰り返す彼ら。子育てがうまくいかなかったことに対する、責任のなすりあいだ。彼らは彼らで深く傷ついており、いっぱいいっぱいの精神状態であったことは想像に難くない。それなのに、さらに私までが学校の担任から精神科への受診を勧められたのだから、両親としてはたまったものではなかっただろう。

母は固い表情で私を伴って病院に向かった。そこで程度は軽いものの鬱病の傾向有りと診断され、母はついに爆発。掴みかからんばかりに医者に食いつき、ヤブ医者とののしり、返す刀で私を単なる甘え病だと罵倒した。二度と来るかという捨て台詞と共に病院を去り、その後再び来院することはなかった。

詳細は略するが、すったもんだの末に私は大学に通うようになった。県外の大学であったから親元を離れる必要がある。私の状態も安定していた(ように見えた)ので、両親も私も特に心配することなくキャンパスライフに踏み切った。最初の1年は良かった。クラスメートの中には変人もいるにはいたが、総じて皆良い人ばかりであったし、なにしろ初めての1人暮らしで見るもの聞くもの全てが面白い。親の束縛から解放されたために気分も大層良かった。

だが2年目に入ると、朝起きることができなくなった。手足が見えない紐でベッドに縛り付けられているように感じ、起き上がることがおっくうになってきたのだ。自分でも、大学生活に慣れて気が緩んだことによる、単なる怠けグセだと思っていた。事実、クラスメートの中には講義をサボる者が出始めていたからだ。しかしそれから半年経っても、食欲減退、不眠、情緒不安定といった症状は治まらなかった。中でも困ったのが食事で、なにしろトイレに立つのが精一杯の状態だから、買い物も自炊もできない。部屋の中は荒れ放題、自分自身の身体の具合も悪くなっていく。そんな自分の姿が恥ずかしくて、昼間外にも出られない。当時家主が近くに住んでいたことも幸いし、心配した友達が家主に連絡をつけ、ついに私のピンチが皆に知れたという次第だ。

大学でカウンセリングを担当していた教授の勧めもあり、一時帰郷した私はしばらく大学を休んだ。休学届けを出した学生は、私ともう1人いたが、そのもう1人はついに大学に戻ってこなかった。実家に戻るのはいやだったが仕方ない。両親は既に同居を始めていた兄と共に、私を家に連れ帰った。だが不思議なことに、今その頃のことを思い出そうとしてもうまくいかないのだ。全てがぼんやりとしていて、周囲が見えない霧の中を堂々巡りしていたような印象だけが残っている。具体的に何があったということまでは本当に思い出せない。ただ、うまく呼吸ができなかったことは確かだ。眠っていても、息が苦しくて何度も目が覚めたから。処方された薬の影響もあり、私は昼も夜もよくまあ飽きずに眠っていた。だからこの時期は、夢と現実がごっちゃになっていたのかもしれない。夢に見ることと目に見えることの区別がつかなかったのだろう。そんな奇妙な状態の私を見て、果たして両親はなにを思ったか。鬱病は周囲の人々、特に看病に当たる家族に多大なストレスを強いる。目に見えてどこかが悪くなるという病ではなく、精神の病であるからだ。“鬱病”などという言葉すら知らなかった彼らが、腫れ物に触るように私に接していたであろう様子を思うと、気の毒で本当に申し訳ないと今では思える。

その後規則正しい生活を送れるようになった私は、大学生活に復帰した。クラスメートは変わってしまったが、なんとか単位をもぎ取り(笑)無事に卒業も果たした。そして再び帰郷するわけだが、1年のうち数回ひどい状態に陥るというサイクルができてしまった。季節の変わり目と、台風の季節だ。気圧の変化につられるのかどうか知らないが、とにかく体内のホルモンバランスが悪くなり、多いときで年に2度ほど入院していた。このときは、下痢、嘔吐という具体的な症状が表に現れていたため、正直心療内科には足が向かなかった。

再度カウンセリングを受けようと決心がついたのは、二度目の結婚をしたとき。また生活環境が変わるし、生活のリズムも変わるので、自分の精神状態に自信が持てなかったからだ。幸い伴侶は鷹揚な人であったし、夫婦で協力して彼自身の健康上の問題を1つ乗り越えたことで、私もタフになったように思う。子供が生まれたとき、実母に「あんたなんかの子供になって、私の孫はかわいそうだ」と憎まれ口を叩かれても聞き流せるほどには。なにより、両親は最近身体の調子が悪くなると“鬱病だ鬱病だ”と騒ぐようになった(笑)。つまり彼らも、私との体験を経て鬱病の何たるかを少しは理解したのだろう。

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この作品の特筆すべき点は、鬱病に罹ってしまった夫を看病した妻の立場から描かれていることではない。
確かに劇中大半を占めるのは、漫画家である妻の看病日記であり、鬱病の人間の具体的な行動や思考を克明に記した観察日記ではある。しかしより重要なのは、途中に数ページ挿入される夫自身のエッセーだと思うのだ。実際に鬱病の真っ只中にいた頃の思い出、死すら考えた最も苦しかった時期を乗り越えた今の心境。その達観に至るまでの偽らざる真情は、どん底を経験した人間でなければわからない。これを読む人は、試行錯誤の中、夫を精神的に支え続けた妻の愛情の大きさに涙するのだと思うが、私は夫が妻に感謝する最後の言葉に最も胸を打たれたのである。

“この非常事態にも、持ち前のユーモアと深い洞察力で観察しながら対処してくれた、偉大な、偉大な相棒に本当に感謝したい。そして、この本を手にとってくれた皆様、ありがとう。今日も僕は生きています。”

人は1人で生きるものにあらず。すべての生物は家族という単位を礎にして日々を送っている。天涯孤独な身の上の人でも、なんらかのコミュニティーに属して誰かと絆を結ぶことで、“家族”という形態をまがりなりにも保持しているのだ。つまり人間は、“家族”という名に代表される“人との絆”なしでは存在することはできないといえるだろう。夫婦であれ親子であれ友人であれ恋人であれなんであれ、人と人を結ぶ見えない絆の糸は、あらゆる人の人生の中で交錯しながらあちこちに新たな結び目をこしらえ続けている。本人が望むと望まざるに関わらず、人の生はそれによって支えられているのだ。私たちが今いる社会とは、そうして出来上がっているものなのである。
夫のこの言葉の中には、これまでは気づかなかった家族や友人、周囲から差し伸べられる手に、思い切り縋る喜びが溢れている。それは、赤ん坊がなんの不安も疑問もなく、母親の手に縋る喜びに似ている。雑念を取り払ってただ一心に生を実感し、それに身をゆだねる喜び。自分が人生を生きるのではなく、周囲の人々によって生かされていることへの、素直な感謝の気持ち。鬱病は、夫にそんな置き土産を残していったのである。
ストレス社会とも呼び習わされる現代では、誰でも鬱病にかかる可能性がある。それこそ、いつでもどこででもだ。現代人は皆、鬱のウィルスを身の内に抱えていると言っても過言ではない。従って鬱病は決して珍しい病ではなく、風邪と全く同義であるとすら考えられる。罹ったり治ったりを繰りかえし、やがては自分の身体の一部になってしまうのだろう。
この本は、病とどのように向き合い、また病をどう捉えるのか、視座を変えることが、現代社会を生きるひとつのヒントになりうることを雄弁に語っている。


さて、私自身の鬱病経験も絡めて、鬱病とはなんぞやということに触れてみましたが、しかし少し気がかりな点もあります。というのも、日本では今だに、罹患したことをオープンにするという行動に批判的な風潮が根強いからですね。現に一部には、この本について懐疑的、あるいは批判的な意見もあるように思われます。



スーパーサラリーマンであった細川女史の伴侶“ツレ”氏が、仕事上のストレスが肥大したことにより鬱病を発症。病状の浮き沈みに一喜一憂しつつも、その後1年半にわたるリハビリ闘病生活の中で得た大切なことを綴ったエッセーマンガです。特筆すべきは、この本が単に、看病する側の人間(細川女史)だけから見た闘病記ではないことでしょう。続編でも触れられていますが、罹患した当事者ツレ氏が、過去のご自身の病状について分析するエッセーが織り込まれている点が重要であるのです。これにより、鬱病を内側と外側の両面から多角的に捉えることができる、画期的な本が出来上がったのです。

誰にとっても容易にイメージしうる“マンガ”という形で、現代病たる鬱病と闘った経過を明らかにした、細川女史とツレ氏。それは究極のプライバシーであり、ある種の人間には“忌み、世間から隠しておくべきもの”だと判断される危険性もあるものですね。そういう人たちにとっては、事情はどうあれ、病気で社会の歯車からこぼれ落ちた人間の存在自体が許されざるものであるに相違ないのです。私の母もかつて口にしていましたが、鬱病を“キチガイ病”と疎んじる神経の背後には、無知に端を発する精神の病への偏見もはびこっています。残念ながら、世間的な体面を保つことが全てであるところの彼らには、細川女史とツレ氏の真意は永遠に測れないでしょう。もうひとつ、細川女史とツレ氏のケースはとても恵まれており(ダブル・インカムで、養育すべき子供もいなかった)、現実にはもっと悲惨な境遇に置かれる患者があるのだと、やっかみ気味に主張する人たちもいることでしょうね。確かに、鬱病のせいで働くに働けず、生活が立ち行かなくなってしまったケースもあります。あるいは、鬱病を理解する者が周囲におらず、患者が追い詰められた挙句に自らの命を絶ってしまうという最悪のケースも。しかし、そういった人々を実際に救済する役目を負っているのは、社会制度を整備する政治であり、細川女史とツレ氏ではないのですよ。
細川女史とツレ氏がこの本に込めた意図は、“鬱病はどこでも誰でもかかる身近な病気ですよ”という警告と、では罹患した場合、その当人と看病する家族はどのように行動すればよいのかの具体例を示すことにあります。鬱病のことを医学的に解明した書物や、鬱病を特集したテレビ番組は数限りなくありますが、どれも“実際的”である点において一歩及んでいないように感じますね。ひとつひとつの症例について、失敗した行動例、成功した行動例を挙げることにより、現実に即して読者がより良い対応の仕方を選択できるのが、この本の特徴なのです。鬱病関連の書籍では、今までありそうでなかった隙を突く内容だと思いますね。

いささか横道にそれましたが、要はこの本を批判するのは的外れであり、私たちが読み取るべきはもっと深いところにあるのではないかということです。続編では、ツレ氏が発病後も3年という月日をかけて闘病を続ける間、なぜ闘病記を出すに至ったかの経緯も語られています。また、本にするための細川女史の捨て身の営業活動(内容が暗いということで出版社の理解を得られなかった)、闘病中のツレ氏に書かせていた日記の内容の壮絶さ、それも含めて闘病内容を明らかにする作業の辛さなどなど、絶妙なユーモアにくるまれて上梓されていた作品が完成するまでの、それはそれは険しい道のりが伝わってきますね。
ついに出版の日を迎えた後、同じような症状で苦しんでいた読者からのポジティヴな反響があったことや、鬱病を知らなかった読者の間に共感の輪が広まっていくことへの嬉しい驚き、反響から得た新たな知識なども開示されています。鬱病に罹患しても慌てず騒がず、まず会社の休職制度を利用したり、障害者自立支援法で薬代や医療費の負担を減らすなど、現行制度をうまく活用する術も、知らされなければそのまま気がつかないことばかりでしょう。闘病日記をつけたり同じ症状の人との対話をすることが、治癒にいかに大きな効果をもたらすか。そして闘病の教訓として得られた、“焦らず、自分を特別扱いせず、できることとできないことを見分ける”生き方は、たぶん全ての人たちにとっても座右の銘となるでしょうね。たとえできないことが出てきてもネガティヴになるのではなく、“それがわかって良かったじゃないか”と思考の転換を図る余裕は、せわしない現代社会に生きる人間にはなにより必要なものですもの。
病状の回復と悪化の間を振り子のように行き来しながら、それでも新しい局面に入った細川女史とツレ氏の人生は、以前にはなかった強さとしなやかさを備えるようになります。ツレ氏が最悪の状態を乗り越えたのと同時に、女史の方も己の壁をひとつ乗り越えていたのですね。つまり2人して闘病するうちに、共にほんの少しの“自己改革”に成功したというわけです。もっとも、自己改革なんていう言葉、非常にうさんくさく聞こえてしまうので、ここで用いるのは本当は気が進まないのですが(笑)。
病気に限らず、人生において何がしかのつまづきを経験することは、誰にでもあるはずです。仕事上のトラブルであったり、スランプであったり、人間関係の難しさであったり。この本で提示されているメッセージは、そのまま普遍的な意味合いをもって、何らかのストレスを抱えて生きざるを得ない私たち全てに当てはまることだと思われますね。

そして、いよいよツレ氏の人生が大きく転換する時がきます。「ツレがうつになりまして。」の大ヒットを受け、彼らの下に舞い込んだ講演会の仕事を、彼が見事に成し遂げたのですね。それを期に、新たな人生の目標として、細川女史の仕事を管理するマネージメント会社を設立してしまいます。こうして夫婦二人三脚の鬱病克服の旅は、いつのまにやら、彼らの人生を切り開く大きなチャンスとなったのです。どんなにつまらないと思える人生でも、どこにチャンスが転がっているかわかりません。あるいはとんでもない不幸に見舞われたとしても、人生を投げたりせず、生きている今この瞬間を大切にしなければいけないのですよね。この続編を読んで、柄にもなくしんみりしてしまいました。


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