3人の男に受け継がれた鎮魂歌―「ウォー・レクイエムWar Requiem」Part1
“親愛なるブリテン様、ご持論ではレクイエムには素晴らしい歴史があるとのことですが、世にレクイエムはもう十二分にあるのではないでしょうか。また、ウィルフレッド・オーウェンの詩をつけたとしても、大勢には受けないと我々は考えます”―デレク・ジャーマン著「ラスト・オブ・イングランド」より抜粋
「ウォー・レクイエム War Requiem」(1989年製作)
監督:デレク・ジャーマン
製作:ドン・ボイド
撮影:リチャード・グレートレックス
詩:ウィルフレッド・オーウェン
曲:ベンジャミン・ブリテン
出演:ナサニエル・パーカー(ウィルフレッド・オーウェン)
ティルダ・スウィントン(従軍看護婦)
ローレンス・オリヴィエ(老兵士)
ショーン・ビーン(ドイツ軍兵士)
ナイジェル・テリー(アブラハム)他。
第1章:オーウェン Owen
Sean Bean reads Wilfred Owen's Anthem for Doomed Youth
ショーン・ビーンが朗読するウィルフレッド・オーウェンの詩“Doomed Youth”
あれは、と殺される君らを弔う鐘だろうか?
大砲の怒りに満ちた轟音、
機銃の粗野な掃射音、
君らの願いを打ち砕く音。
憐れみの心もなく、祈りもなく、鐘の音も聞こえない。
狂ったように吠えるりゅう弾の合唱。
そのけたたましい歌声こそ、
はるか彼方の薄暗がりから聞こえくる弔いの歌。
―「暁の円卓」第1巻より抜粋
ウィルフレッド・オーウェン Wilfred Edward Salter Owen
1893年3月18日生
1918年11月4日没
1893年3月18日、シュロップシャーのオスウェストリーで誕生。オーウェンが生まれた当時は、土地の名士であった母方の実家に居候していた一家だが、2年後祖父が亡くなると、一家はバークンヘッドの労働者の住まう地域に引っ越した。
シュローズベリー・テクニカル・スクール在学中、詩人キーツに傾倒したオーウェンは、自分でも詩作を始める。1911年に大学進学を志したが、ロンドン大学奨学金獲得に失敗した。家庭の経済事情から大学進学が困難になったため、彼はダンズデン村にある教会の牧師の助手などを勤めた後、フランスに渡った。ボルドーで英語を教えながら暮らすうち、第1次世界大戦が勃発してしまった。
1915年9月に英国に帰国。10月に軍隊訓練組織に入り、7ヵ月後少尉に任官。マンチェスター連隊に配属され、激戦で名高いソンムの戦いを経験する。この戦いで、実に連隊の3分の2の兵士が戦死したといわれる。オーウェン自身も心神喪失状態となり、英国エジンバラのクレイグロックハート病院に入院した。この病院には、戦争批判を声高に訴えたために無理やり入院させられた、詩人ジーグフリード・サスーンもいた。
サスーンは、当時の世相を反映したリアルな作風と、自身の戦場での体験からつむがれる反戦を訴える詩作で有名であった。オーウェンは彼の影響を多分に受け、塹壕での戦いや毒ガスとの戦いをリアルに描いた詩を書くようになった。そして代表作「死すべき定めの若者のための賛歌」を完成させたが、サスーン自ら作品の添削を行ったといわれる。こうして、サスーンとの出会い以降に書かれた詩の多くは、サスーンの尽力によって世に出ることになる。オーウェン最初の詩集の刊行は、詩人イーディス・シットウェルによってなされ、2番目の詩集の刊行は、詩人エドマンド・ブランデンによって実現した。
サスーンの反対を押し切り、オーウェンは1918年7月に西部戦線に復帰した。映画「西部戦線異状なし」でも有名になったこの戦場での働きにより、10月には戦功十字勲章を受章。しかし皮肉なことに、第1次世界大戦が休戦する1週間前の11月4日に、彼はサンブルの戦いで戦死する。享年25歳であった。なお公にはなっていないが、サスーンとの関係も含め、オーウェンはゲイであったといわれている。
彼の作品は、“Project Gutenberg”(著作権の切れた作品をウェブ上に紹介し、維持・管理する団体)に詳しく紹介されています。
第2章ブリテン Britten
“私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。詩はその悲しみの中にある。詩人の為しうる全てとは、警告を与えることにある”―ウィルフレッド・オーウェンによる一節。「ウォー・レクイエム」のスコア冒頭に捧げられたもの
エドワード・ベンジャミン・ブリテン Edward Benjamin Britten / Baron Britten OM CH
1913年11月22日生
1976年12月4日没
1913年、イギリスはローストフトに生まれる。12歳から作曲家フランク・ブリッジに師事し、和声学、対位法を学んだ後、1930年16歳でロンドンの王立音楽学校に入学した。4年後に卒業し、すぐに作曲家としての活動を始めた。1945年に初演を迎えたオペラ「ピーター・グライムズ」が大成功を収め、作曲家としての地位を確立した。1948年からオールドバラで音楽祭を開催し、テノール歌手ピーター・ピアーズと共に運営に尽力した。1956年には来日し、日本政府により受け取りを拒否されていた「シンフォニア・ダ・レクイエム」の日本初演を行った。自身はNHK交響楽団を前に指揮棒を振ったという。1973年最後のオペラとなる「ヴェニスに死す」まで、実に多岐に渡る分野で精力的に作曲活動を行った。
1940年のドイツ空軍による爆撃で、コヴェントリー市の象徴であった聖ミカエル大聖堂が無残に破壊された。1962年5月30日、その修復を記念して、新しくミサ曲が演奏されることになった。その作曲を依頼されたのがブリテンで、完成したのが「ウォー・レクイエム」である。
ブリテンは反戦主義者であった。イギリスが第2次世界大戦に深く関わっていくようになると、1942年には“良心的兵役拒否”の申請を堂々と行い、兵役を免除されるやいなやアメリカに移住したほどだ。
その彼が、聖堂の献堂式という喜ばしい席上で演奏するのに、“戦争で死んでいった者たちへの鎮魂歌”を作曲したということは、やはり、戦争という人間の最も憎むべき過ちを二度と繰り返してはならないという強いメッセージを発するためであった。時は折りしも米ソの冷戦期。世界中の人々が、第3次世界大戦の勃発を恐れていた時代であった。ブリテンは、自身の集大成として「ウォー・レクイエム」を作曲したのである。ブリテンは、当時取り組んでいた他の作品を一時中断してこの作品に心血を注ぎ、1961年12月についに完成させた。
作品は、『レクイエム(永遠の安息を)』、『ディエス・イレ(怒りの日)』、『オッフェルトリウム(奉献文)』、『サンクトゥス(聖なるかな)』、『アニュス・デイ(神の子羊)』、『リベラ・メ(われを解き放たせたまえ)』の6つのパートから成っている。それぞれにラテン語の式文の歌詞がつけられ、オーウェンの詩(英語)が挿入されている。
ラテン語の式文のパートは、ソプラノ独唱・児童合唱・混声4部合唱・オーケストラ・オルガンで演奏され、オーウェンの詩の部分は、テノールとバリトンの独唱・室内オーケストラによって演奏された。
ブリテンは初演のソリストに、ソ連出身のソプラノ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、イギリス出身のテノール歌手で盟友ピーター・ピアーズ、ドイツ出身のバリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウを迎えることを初めから念頭において作曲したといわれる。つまり、第2次世界大戦中のヨーロッパにおいて、最も激しく交戦したこれら3国を代表する歌手たちを一堂に集めることで、真の和解と平和への誓いを打ちたてようという願いを込めていたのである。
しかし残念ながら、ヴィシネフスカヤは夫の急病とソ連政府による出国禁止措置のため、この歴史的な舞台に立つことは不可能となった。急遽次のメンバーで初演が行われることになったのである。
総指揮:メレディス・デイヴィス、室内オーケストラ指揮:ブリテン
ソプラノ:へザー・ハーパー
テノール:ピーター・ピアーズ
バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
バーミンガム交響楽団
メロス・アンサンブル
コヴェントリー祝祭合唱団
レミントンとストラッドフォードの聖トリニテ教会児童合唱団
初演は大絶賛でもって迎えられたが、ブリテン自身はこのときの出来に不満であったという。この曲はリクエストに応えて、続いてロンドンのウェストミンスター寺院やロイヤル・アルバート・ホールで演奏されたが、初演から半年後にキングズウェイ・ホールで行われたレコーディングで、ついに当初の構想が完全に実現することになった。ソプラノにヴィシネフスカヤを迎え、ロンドン交響楽団の総指揮もブリテンが行ったのである。
1989年にデレク・ジャーマンが製作した映画版「ウォー・レクイエム」では、このブリテンが指揮する演奏版が用いられた。
●ブリテンの主な作品
歌劇
「ピーター・グライムズ」(1944~1945)
「ルクレティアの凌辱」(1945~1946)
「小さな煙突掃除」(1949)
「ねじの回転」(1954)
「夏の夜の夢」(1960)
「カーリュー・リヴァー」(1964)
「ヴェニスに死す」(1973年)
合唱曲
「戦争レクイエム」(1960~1961)
管弦楽曲
「シンプル・シンフォニー」(1933~1934)
「シンフォニア・ダ・レクイエム」(1940)
「左手のためのディヴァージョンズ」(1940/1952)
「4つの海の間奏曲」(「ピーター・グライムズ」より。1944)
「青少年のための管弦楽入門」(1946)
「ヴァイオリン協奏曲」(1950)
「チェロ交響曲」
サー・ピーター・ネヴィル・ルアード・ピアーズ Sir Peter Neville Luard Pears
1910年6月22日生
1986年4月3日没
ファーナム出身
また、第2次世界大戦後のイギリスを代表するテノール歌手であるピーター・ピアーズ(1910年生-1986年没)は、ブリテンの歌劇のほとんどで初演の舞台に立っており、ブリテン自らピアーズのバックでピアノ伴奏を務めることもあった。共同でオールドバラ音楽祭を主催するなど、音楽界における盟友として知られていたが、ブリテンの死後、彼らが私生活においてもパートナーであったことを告白。ピアーズは、生涯をブリテンと共に歩み、彼に遅れること10年、1986年にブリテンと同じくオールドバラで死去した。
ブリテンとピアーズのバイオグラフィーや、活動の足跡を詳しく紹介する“Britten-Pears Foundation”なるサイトがあります。掲載した一部の画像はこちらからお借りしました。興味を持たれた方は訪問なさってみてください。
第3章ジャーマン Jarmanへ続く…

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「ウォー・レクイエム War Requiem」(1989年製作)
監督:デレク・ジャーマン
製作:ドン・ボイド
撮影:リチャード・グレートレックス
詩:ウィルフレッド・オーウェン
曲:ベンジャミン・ブリテン
出演:ナサニエル・パーカー(ウィルフレッド・オーウェン)
ティルダ・スウィントン(従軍看護婦)
ローレンス・オリヴィエ(老兵士)
ショーン・ビーン(ドイツ軍兵士)
ナイジェル・テリー(アブラハム)他。
第1章:オーウェン Owen
Sean Bean reads Wilfred Owen's Anthem for Doomed Youth
ショーン・ビーンが朗読するウィルフレッド・オーウェンの詩“Doomed Youth”
あれは、と殺される君らを弔う鐘だろうか?
大砲の怒りに満ちた轟音、
機銃の粗野な掃射音、
君らの願いを打ち砕く音。
憐れみの心もなく、祈りもなく、鐘の音も聞こえない。
狂ったように吠えるりゅう弾の合唱。
そのけたたましい歌声こそ、
はるか彼方の薄暗がりから聞こえくる弔いの歌。
―「暁の円卓」第1巻より抜粋
ウィルフレッド・オーウェン Wilfred Edward Salter Owen
1893年3月18日生
1918年11月4日没
1893年3月18日、シュロップシャーのオスウェストリーで誕生。オーウェンが生まれた当時は、土地の名士であった母方の実家に居候していた一家だが、2年後祖父が亡くなると、一家はバークンヘッドの労働者の住まう地域に引っ越した。
シュローズベリー・テクニカル・スクール在学中、詩人キーツに傾倒したオーウェンは、自分でも詩作を始める。1911年に大学進学を志したが、ロンドン大学奨学金獲得に失敗した。家庭の経済事情から大学進学が困難になったため、彼はダンズデン村にある教会の牧師の助手などを勤めた後、フランスに渡った。ボルドーで英語を教えながら暮らすうち、第1次世界大戦が勃発してしまった。
1915年9月に英国に帰国。10月に軍隊訓練組織に入り、7ヵ月後少尉に任官。マンチェスター連隊に配属され、激戦で名高いソンムの戦いを経験する。この戦いで、実に連隊の3分の2の兵士が戦死したといわれる。オーウェン自身も心神喪失状態となり、英国エジンバラのクレイグロックハート病院に入院した。この病院には、戦争批判を声高に訴えたために無理やり入院させられた、詩人ジーグフリード・サスーンもいた。
サスーンは、当時の世相を反映したリアルな作風と、自身の戦場での体験からつむがれる反戦を訴える詩作で有名であった。オーウェンは彼の影響を多分に受け、塹壕での戦いや毒ガスとの戦いをリアルに描いた詩を書くようになった。そして代表作「死すべき定めの若者のための賛歌」を完成させたが、サスーン自ら作品の添削を行ったといわれる。こうして、サスーンとの出会い以降に書かれた詩の多くは、サスーンの尽力によって世に出ることになる。オーウェン最初の詩集の刊行は、詩人イーディス・シットウェルによってなされ、2番目の詩集の刊行は、詩人エドマンド・ブランデンによって実現した。
サスーンの反対を押し切り、オーウェンは1918年7月に西部戦線に復帰した。映画「西部戦線異状なし」でも有名になったこの戦場での働きにより、10月には戦功十字勲章を受章。しかし皮肉なことに、第1次世界大戦が休戦する1週間前の11月4日に、彼はサンブルの戦いで戦死する。享年25歳であった。なお公にはなっていないが、サスーンとの関係も含め、オーウェンはゲイであったといわれている。
彼の作品は、“Project Gutenberg”(著作権の切れた作品をウェブ上に紹介し、維持・管理する団体)に詳しく紹介されています。
第2章ブリテン Britten
“私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。詩はその悲しみの中にある。詩人の為しうる全てとは、警告を与えることにある”―ウィルフレッド・オーウェンによる一節。「ウォー・レクイエム」のスコア冒頭に捧げられたもの
エドワード・ベンジャミン・ブリテン Edward Benjamin Britten / Baron Britten OM CH
1913年11月22日生
1976年12月4日没
1913年、イギリスはローストフトに生まれる。12歳から作曲家フランク・ブリッジに師事し、和声学、対位法を学んだ後、1930年16歳でロンドンの王立音楽学校に入学した。4年後に卒業し、すぐに作曲家としての活動を始めた。1945年に初演を迎えたオペラ「ピーター・グライムズ」が大成功を収め、作曲家としての地位を確立した。1948年からオールドバラで音楽祭を開催し、テノール歌手ピーター・ピアーズと共に運営に尽力した。1956年には来日し、日本政府により受け取りを拒否されていた「シンフォニア・ダ・レクイエム」の日本初演を行った。自身はNHK交響楽団を前に指揮棒を振ったという。1973年最後のオペラとなる「ヴェニスに死す」まで、実に多岐に渡る分野で精力的に作曲活動を行った。
1940年のドイツ空軍による爆撃で、コヴェントリー市の象徴であった聖ミカエル大聖堂が無残に破壊された。1962年5月30日、その修復を記念して、新しくミサ曲が演奏されることになった。その作曲を依頼されたのがブリテンで、完成したのが「ウォー・レクイエム」である。
ブリテンは反戦主義者であった。イギリスが第2次世界大戦に深く関わっていくようになると、1942年には“良心的兵役拒否”の申請を堂々と行い、兵役を免除されるやいなやアメリカに移住したほどだ。
その彼が、聖堂の献堂式という喜ばしい席上で演奏するのに、“戦争で死んでいった者たちへの鎮魂歌”を作曲したということは、やはり、戦争という人間の最も憎むべき過ちを二度と繰り返してはならないという強いメッセージを発するためであった。時は折りしも米ソの冷戦期。世界中の人々が、第3次世界大戦の勃発を恐れていた時代であった。ブリテンは、自身の集大成として「ウォー・レクイエム」を作曲したのである。ブリテンは、当時取り組んでいた他の作品を一時中断してこの作品に心血を注ぎ、1961年12月についに完成させた。
作品は、『レクイエム(永遠の安息を)』、『ディエス・イレ(怒りの日)』、『オッフェルトリウム(奉献文)』、『サンクトゥス(聖なるかな)』、『アニュス・デイ(神の子羊)』、『リベラ・メ(われを解き放たせたまえ)』の6つのパートから成っている。それぞれにラテン語の式文の歌詞がつけられ、オーウェンの詩(英語)が挿入されている。
ラテン語の式文のパートは、ソプラノ独唱・児童合唱・混声4部合唱・オーケストラ・オルガンで演奏され、オーウェンの詩の部分は、テノールとバリトンの独唱・室内オーケストラによって演奏された。
ブリテンは初演のソリストに、ソ連出身のソプラノ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、イギリス出身のテノール歌手で盟友ピーター・ピアーズ、ドイツ出身のバリトン歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウを迎えることを初めから念頭において作曲したといわれる。つまり、第2次世界大戦中のヨーロッパにおいて、最も激しく交戦したこれら3国を代表する歌手たちを一堂に集めることで、真の和解と平和への誓いを打ちたてようという願いを込めていたのである。
しかし残念ながら、ヴィシネフスカヤは夫の急病とソ連政府による出国禁止措置のため、この歴史的な舞台に立つことは不可能となった。急遽次のメンバーで初演が行われることになったのである。
総指揮:メレディス・デイヴィス、室内オーケストラ指揮:ブリテン
ソプラノ:へザー・ハーパー
テノール:ピーター・ピアーズ
バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
バーミンガム交響楽団
メロス・アンサンブル
コヴェントリー祝祭合唱団
レミントンとストラッドフォードの聖トリニテ教会児童合唱団
初演は大絶賛でもって迎えられたが、ブリテン自身はこのときの出来に不満であったという。この曲はリクエストに応えて、続いてロンドンのウェストミンスター寺院やロイヤル・アルバート・ホールで演奏されたが、初演から半年後にキングズウェイ・ホールで行われたレコーディングで、ついに当初の構想が完全に実現することになった。ソプラノにヴィシネフスカヤを迎え、ロンドン交響楽団の総指揮もブリテンが行ったのである。
1989年にデレク・ジャーマンが製作した映画版「ウォー・レクイエム」では、このブリテンが指揮する演奏版が用いられた。
●ブリテンの主な作品
歌劇
「ピーター・グライムズ」(1944~1945)
「ルクレティアの凌辱」(1945~1946)
「小さな煙突掃除」(1949)
「ねじの回転」(1954)
「夏の夜の夢」(1960)
「カーリュー・リヴァー」(1964)
「ヴェニスに死す」(1973年)
合唱曲
「戦争レクイエム」(1960~1961)
管弦楽曲
「シンプル・シンフォニー」(1933~1934)
「シンフォニア・ダ・レクイエム」(1940)
「左手のためのディヴァージョンズ」(1940/1952)
「4つの海の間奏曲」(「ピーター・グライムズ」より。1944)
「青少年のための管弦楽入門」(1946)
「ヴァイオリン協奏曲」(1950)
「チェロ交響曲」
サー・ピーター・ネヴィル・ルアード・ピアーズ Sir Peter Neville Luard Pears
1910年6月22日生
1986年4月3日没
ファーナム出身
また、第2次世界大戦後のイギリスを代表するテノール歌手であるピーター・ピアーズ(1910年生-1986年没)は、ブリテンの歌劇のほとんどで初演の舞台に立っており、ブリテン自らピアーズのバックでピアノ伴奏を務めることもあった。共同でオールドバラ音楽祭を主催するなど、音楽界における盟友として知られていたが、ブリテンの死後、彼らが私生活においてもパートナーであったことを告白。ピアーズは、生涯をブリテンと共に歩み、彼に遅れること10年、1986年にブリテンと同じくオールドバラで死去した。
ブリテンとピアーズのバイオグラフィーや、活動の足跡を詳しく紹介する“Britten-Pears Foundation”なるサイトがあります。掲載した一部の画像はこちらからお借りしました。興味を持たれた方は訪問なさってみてください。
第3章ジャーマン Jarmanへ続く…

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