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zoom RSS ロージーとネオ・レアリスモ―「拳銃を売る男Stranger on the Prowl」

<<   作成日時 : 2017/11/04 20:00   >>

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“ハリウッドを離れる前夜、私の脳裏にはなんらの希望も楽観もありえなかった…”

ハリウッドで最後の作品となる「大いなる夜」完成直前のこと。ロージーは、以前参加したマルキストの勉強会に居合わせた2人の人物が、非米活動委員会で彼の名前を挙げたことを知らされます。「真実の瞬間」でも繰り返し登場した“共産主義のレッテルを貼られないための密告”ですね。ロージー自身はその2人の人物のことは全く記憶になかったそうですが、その後堰を切ったように、公私共に親しかった友人たちから密告されるに及び(この“友人”の中には、舞台演出家時代からロージーを知るあのチャールズ・ロートンもいた)、非米活動委員会に召喚される3日前にアメリカを脱出。ジョン・ウェーバーというプロデューサーと共に、ローマで映画を撮るためイタリア入りします。

この作品「拳銃を売る男」は、実は「死刑台のエレベーター」の原作を書いたことで著名なノエル・カレフ(本名をニシム・カレフというユダヤ系フランス人)の小説が基になっています。名もなき流れ者、貧しい境遇にいる少年、社会の底辺で生きる女、社会の歪みと正義の軋轢…。ハリウッド時代のロージーの作品傾向にあるキーワードが、すべて含まれたような題材ですね。だからこそ、彼もこの作品を単に一時避難的なものとせず、製作には心血を注いだのだと思われます。
事実、ノエル・カレフのみならず、フランスからはカメラに名手アンリ・アルカンの“眼力”を得て、この作品は当時のネオ・レアリスモの潮流の中でも、素晴らしい完成度を誇るものとなりました。主要キャストと監督はアメリカ人、スタッフにはフランス人を迎え、ロケはイタリアというように、現在のグローバルな観点に立つ映画の先駆けになったことも注目すべきでしょう。ロージーという映画作家の本質は、アメリカ国内に留まっていたときよりも、むしろヨーロッパに拠点を移した後の方がはるかに明確な輪郭を持つようになります。

私自身は、ロージーのキャリアを語る上で欠かせないターニング・ポイントとなったのは「拳銃を売る男」だと思っていますし、今一度DVD化されることを願っております。ロージーの作風が、いかにネオ・レアリスモの良質の部分と融和するか、たくさんの方に観ていただきたいですね。それでは今作を、製作の裏話を拾い上げながらご紹介します。製作途上では相当な問題と苦労があったらしく、彼は自伝の中でも、多分に自虐的に当時を振り返っているようです。ハリウッドを離れ安住の地を探す彼の旅は、やはりイバラだらけであったのですね。

“私はイタリアで準備された、半分は共産主義者たち(アメリカ共産党左派のロージーの友人)、もう半分はファシストたち(資金は戦犯として死刑となった男が出した)の手による映画を作ることになった!イタリアとの素晴らしい形での協力であり、ヨーロッパ映画界での最初の仕事としてもとてもいい経験だった!”―「追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー」より抜粋


男と少年、彼らはこの世界で1人ぼっち。

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「拳銃を売る男(原題 'STRANGER ON THE PROWL / IMBARCO A MEZZANOTTE')」(1952年)
監督:アンドレア・フォルツァーノ (ジョセフ・ロージー Joseph Losey)
製作:ノエル・カレフ Noël Calef &アドルフォ・バイオッキ
原作:ノエル・カレフ Noël Calef『La Bouteille de Lait』
脚本:ベン・バーズマン Ben Barzman
撮影:アンリ・アルカン Henri Alekan &アントニオ・フィオーレ Antonio Fiore
音楽:ジュリオ・チェザーレ・ゾンツァニオ
編集:セルマ・コーネル
美術:アントニオ・ヴァレンテ
出演:ポール・ムニ Paul Muni (男)
ジョーン・ローリング Joan Lorring (アンゲラ)
ヴィットリオ・マヌンタ(ジャコモ・フォンタナ)
ルイーザ・ロッシ(ジャコモの母)
アルド・シルヴァーニ(ペローニ)
アルノルド・フォア(刑事)
フランコ・バルドゥッチ(モレッリ)
エンリコ・グロリ(プッチ氏)
エレナ・マンソン(雑貨屋の女店主)他。

戦争直後のイタリアの港町ジェノヴァ。敗戦した国はどこもかしこも荒廃し、そこに住まう人々の心もまた荒んでいた。
食うものにも事欠き、思い余った1人の男が希望のない町を出ようと密航を企てる。しかし、先立つものがなければ密航すらままならないのだ。密航資金25000リラを捻出するため、男は古道具屋の店主ペローニに持っていた拳銃を売ろうとした。だが厳しい世情のこと、親父は拳銃を買い上げる気などさらさらない。
町ではサーカスが興行を打っていた。貧しい家庭の少年ジャコモは、子供心にサーカスの舞台を一目観たいと願うが、洗濯女である母にそんな金があろうはずもない。母は代わりに、仕上がった洗濯物の配達と牛乳の買い物を息子に言いつけるのだった。ジャコモは途中で友達に会い、おはじきで賭けごっこに興じてしまう。持っていたわずかばかりの金はおはじきに替わる。事の重大さに慄きながらも、少年は顔なじみの女中アンジェラが奉公しているプッチ家へ洗濯物を届けにいった。アンジェラは、上等なリネンの洗濯物をくすねて金に換えようと、自分のアパートまで届けるようにジャコモに言い含める。しかし、そこに現れたプッチ氏が女中の悪事を見抜き、逆に今晩夜伽の相手をするよう迫る。
ジャコモは重い足取りで雑貨屋に向かった。店には、ペローニに拳銃を買い上げてもらえなかった男もいた。手ぶらで帰宅すれば母が悪鬼のごとく怒るだろう。ジャコモが女店主の隙を見て牛乳瓶に牛乳を詰めたのと、腹ペコの男がロールパンを盗もうとしたのは同時であった。女店主が男の盗みを見咎め、騒ぎ立てたため、慌てた男は女店主を射殺してしまう。騒ぎを自分のせいだと勘違いしたジャコモと男は、同じ方向に逃げ出した。殺人事件は即座に警察の知るところとなり、追われる身となった男と、行きがかり上男に同行する羽目になったジャコモは、荒れきったジェノヴァの町を逃げ惑う。
2人は廃墟となった建物に身を潜めたが、警察の追っ手を簡単に振り切れるものではない。夜陰に乗じてそこを逃げ出そうとした男は、警官の発砲を受けて腕を負傷する。いつしか男を慕うようになったジャコモは、アンジェラのアパートに匿ってもらおうと男を連れて行く。誰もいないみすぼらしい屋根裏部屋。アパートを取り囲む警官隊。嫌々プッチ氏を伴って帰宅したアンジェラは、この大捕物劇をみて一計を巡らせる。男を警察に差し出すから、自分に懸賞金をくれというのだ。かくして警察とアンジェラの取引は成立し、彼女は1人で自分の部屋へ戻っていった。
アンジェラは、男を安心させるように傷の手当をし、酒を振舞う。だが、男が眠ったとみてこっそり外に出ようとしたところを男に見咎められ、その裏切りを責め立てる。ジャコモはここでようやく男が雑貨屋の店主を殺した犯人だと気づくが、男は少年をいざというときのための人質にしようと、一緒にアパートを逃げ出す。梯子を渡して屋根へ上り、屋根伝いに隣の建物へ飛び移ろうとしたところ、2人はアパートを包囲していた警官隊に発見された。下の路地には、ジャコモの母親を含む近所の者達が押しかけ、この逃避行の行方を見守っている。下の様子に気をとられたジャコモが足を滑らせ、すわ落下、というところで危うく樋に掴まって宙吊りになってしまった。警官隊の関心も野次馬のそれもジャコモに集中している。男はその隙にこっそり隣の建物の屋根に逃げおおせるが、一瞬の躊躇の後、また引き返してジャコモを引っ張り上げてやる。野次馬から安堵のため息が漏れた瞬間、男は警官に狙撃され、路地に落下して息絶える。


物語の背景やテーマは、まぎれもなくネオ・レアリスモの厳しい精神に貫かれています。戦後の荒廃した町で、老若男女がその日を生きることに必死になっている様子が、非情なまでに丹念に描写されていました。とにかくアルカンのカメラワークが素晴らしい。廃墟となった陰鬱な街並み、港町特有の迷路のごとき路地裏の様子、荷揚げをするための倉庫や運河、名作「灰とダイアモンド」などを髣髴とさせる暗い下水道…。リアルかつスリリングに映し出されていくそれらは、そこになんの劇的なストーリーなどなくとも、逃げ場のない男と少年の絶望を雄弁に物語っているのです。特に、家屋の屋根に逃れようとする2人と、下の路地に詰めかける野次馬と警官隊を俯瞰したクライマックスのシーンは見応えがあります。

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ロージーの社会派作家としての資質は生真面目一辺倒で、映画的にはとかく硬直しがち。アルカンのカメラは、そこに適度な娯楽性を加味させることで、社会から疎外された人間の哀しみをストーリー以上に伝えることに成功したと思いますね。個人的には、アルカンという“目”を得たことで、ロージーは初めてその個性を開花させたのではないかと感じるほどです。処女作「緑色の髪の少年」ほどあからさまでなく、社会を形成する人間の欠点を描ききった上で、わずかに残る希望を最後にさりげなく提示する演出も、優れたスタッフとキャストの支えあってのものだったでしょう。

“子供と男の人間関係に加えて、男が殺人犯であるという事実に惹きつけられた。彼の犯した殺人は激情からもたらされたものであり、私たち誰にでも起こり得る犯罪なのだ”―「追放された魂の物語―映画監督ジョゼフ・ロージー」より抜粋

しかし、原作を脚色したベン・バーズマンの意向もあって、劇中名前を与えられていない男のキャラクター付けに関しては、かなり感傷的なものになっているのも事実。実はカレフもロージーも、バーズマンの脚本は気に入っていなかったようです。おそらくラストのシーン―いったんは1人で逃げようとしていた男が、今まで献身してくれたジャコモへの愛着から、思いなおして彼の危機を救い、そのせいで狙撃されるという一連のシークェンス―を指しているのでしょうが、どうでしょうね。
人によって意見は違いましょうが、私自身はあの解釈でいいのではないかとも感じています。もしあそこで、男がジャコモをほったらかしで自分だけ逃走した挙句射殺されてしまったとしたら。確かに映像はリアルになったかもしれませんが、観客の胸には苦々しい想いだけが澱のように溜まってしまうでしょう。この暗いお話にわずかでも希望をもたらすものがあるとしたら、それは、最後の最後に男が見せた良心であります。このシーンによって、観客は男は気が狂った殺人者などではなく、自分たちと同じごく普通の人間であることがわかるわけですから。

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今作は、クリント・イーストウッド監督の「パーフェクト・ワールド A Perfect World」にも通底する雰囲気を持っています。ただ異なる点は、子供を人質にとって逃げる男が、根っからの犯罪者ではないことと、男も子供も共に戦争の愚かしさを遠く暗示する存在であること、彼ら自身も彼らを取り巻く人々も、その思惑は必ずしも善意だけではないということでしょう。結果的にジャコモ少年を助けることになるアンゲラとて、自身の利益のために腹に一物抱える女であると描写されていますし、飢えに耐えかねてパンを盗もうとした男を責め立てる雑貨屋も、見方によっては酷い人間ですね。
しかし、社会から疎外された者から見れば敵である彼らもまた、自分たちが生きのびるのに必死であるだけなのだと解釈すれば、“社会とは何か”という問いかけが、結局は“人間とは何か”という究極の問題へと転換されることになると思いますね。あるいは、“一個人の資質”と“それが集団化した社会”の間にある溝がいかなるものかを考えるとき、社会の非寛容が犯罪者を生み出すのだという単純な結論には達せられないでしょう。
やむなく人を撃った男も、そんな男の良心を信じてついていった少年も、一個人としてその人柄を見る場合と、社会の中の1つの歯車として判断する場合では矛盾をきたしてしまいます。個人と社会の関係性については、永遠に解明できない命題が含まれており、それが今作をはじめロージーの作品群にどうしようもない虚無感を与えていると思うのです。だからこそ、ロージーの作品には現代でも普遍性をなお失わない魅力があるのでしょうし、ロージー自身も、最後のフィルモグラフィーまで“人間”を追及して止まなかったと思われます。

先ほど、今作が素晴らしい出来栄えになったのは、アンリ・アルカンの才能の果たした役割が大きいと書きました。しかしさらに付け加えるならば、ネオ・レアリスモのロージーに与えた影響も大でしょうね。ジャコモを演じたヴィットリオ・マヌンタ少年をはじめ、“男”とアンゲラ役の2名のアメリカ人俳優以外全てのイタリア人・フランス人俳優の存在です。彼らは英語を話すことができず、台詞を音として覚えるしかなかったとか。

“そんな状態で演技などできるものではない。だがジョーン・ローリングとポール・ムニの場面は素晴らしかった。マヌンタ少年も同様だ。私たちはピサとトスカーナで殆どの場面を撮影したが、部分的にローマでも撮影した。ロケ場所は言うことなかったよ”―「追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー」より抜粋

ですが、彼ら多くのエキストラの訛りのある英語が、逆に作品に生々しさを付加しているとも言えますね。思えば、多くのネオ・レアリスモ映画の傑作は、素人俳優たちの巧まざるリアルな演技によって生み出されてきました。今作もその流れにあると考えていいと思います。物語のキーパーソンであるマヌンタ少年ですら、当時は演技経験など全くない状態だったのですからね。また、劇中画面に登場する自転車をこぐ僧侶にアルカンが扮し、笛を吹く男にはカレフが扮しているそうです。

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この映画に関わった共産主義者とファシストたちは、ことあるごとに全面的に衝突しました。映画はなんとかクランクアップにこぎつけたものの、左翼側の製作者はロージーを含めたスタッフ達全員にギャラの支払いを拒否。ロージーは仕方なくストライキを打ち、泥沼の闘いを製作側と繰り広げることになりました。マッカーシズムに萎縮していた配給元のユナイテッド・アーティスツは、映画に検閲と編集を加え、ブラックリストに載った人々の名前を全て消すことで公開にこぎつけたそうです。監督のクレジットには、撮影所の持ち主の息子であるアンドレア・フォルツァーノの名前が残り、オリジナルネガは破棄されてしまいました。そんな苦労を経て完成された今作ですが、B級サスペンスとして売り出そうとしたユナイテッド・アーティスツの安っぽい思惑が裏目に出て、結局興行的には失敗してしまったのです。

“この映画への批判のひとつに、外国人から見たイタリアだというものがあった。もちろんその通りだ。しかし私にとっては、これはとても重要な特権なのだ。同じ意味で、イギリスに関する外国人としての視点がハンデとなったことはない”―「追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー」より抜粋

この作品の後、ロージーはフランスのマントンに赴き、息子に会いに行きました。ところが息子を伴ってイタリアに戻ろうとすると、国境で出入国管理事務所からイタリア入国を拒否されてしまいます。アメリカ領事館に連絡すれば、パスポートを取り上げられて一巻の終り。途方に暮れたロージー親子はカレフ家に数週間厄介になり、1952年8月の終わり頃、イギリスへと渡ります。ロージーの放浪人生は実はここから始まるのですが、なんとこの後彼がイタリア再入国を果たすまで、約10年の歳月を要しています。彼の人生がいかに政治に翻弄されたか、よくうかがえるエピソードですね。

“賄賂を渡したり資料を破棄したり、その他諸々の工作をした末に、ようやくイタリアへの入国が可能になったんだ。私の名前がイタリアのブラックリストに載ったのは、CIAと「拳銃を売る男」のイタリア製作陣のファシスト達の謀略のせいだと後に分かったよ…”―「追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー」より抜粋

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー
日本テレビ放送網
ミシェル シマン

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