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zoom RSS 「ジャングル・ブック The Jungle Book」を読み解く。

<<   作成日時 : 2016/11/01 19:16   >>

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“ジャングルの掟は青空のように古い真実
掟を守るオオカミは栄え、破れば死あるのみ
木に巻きつく蔓のように掟はゆきわたる
群れの結束はオオカミの力 オオカミの結束は群れの力”


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「ジャングル・ブック The Jungle Book」(2016年)
監督:ジョン・ファヴロー John Favreau
原作:ラドヤード・キプリング Rudyard Kipling
脚本:ジャスティン・マークス Justin marks
製作:ジョン・ファヴロー&ブリガム・テイラー Brigham Taylor
製作総指揮:ピーター・トビヤンセン Peter Tobyansen他。
撮影:ビル・ポープ Bill Pope
プロダクション・デザイン:クリストファー・グラス Christopher Glass
編集:マーク・リヴォルシー Mark Livolsi
衣装:ローラ・ジーン・シャノン Laura Jean Shannon
ヴィジュアル・エフェクト(VFX)・スーパーバイザー:ロバート・レガート Robert Legato
VFXスーパーバイザー(WETA):ダン・レモン Dan Lemmon
アニメーション・スーパーバイザー:アンドリュー・R・ジョーンズ Andrew R. Jones
音楽:ジョン・デブニー John Debney
出演:ニール・セディ Neel Sethi(モーグリ)
ビル・マーレイ Bill Murray(バル―)
ベン・キングズレー Ben Kingsley(バギーラ)
イドリス・エルバ Idris Elba(シア・カーン)
ルピタ・ニョンゴ Lupita Nyong'o(ラクシャ)
スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson(カー)
ジャンカルロ・エスポジート Giancarlo Esposito(アキーラ)
クリストファー・ウォーケン Christopher Walken(キング・ルーイ)他。

“As Mang flies between the beasts and birds, so fly I between the village and the jungle. Why? マングが獣の世界と鳥の世界の間を行ったり来たりするように、僕も人間の村とジャングルの間を行ったり来たり。どうして?”


ジャングルに取り残された人間の赤ん坊は、かつて人間に飼われたことのある黒豹バギーラによって助け出され、オオカミの群れを束ねるリーダー、アキーラとその妻ラクシャに託された。彼らは赤ん坊をモーグリ(カエルの意味)と名づけ、他のオオカミの子供たち同様に愛情を込めて育てた。自然の恵みと厳しさ、それを守るための規律を厳しく教え込まれ、モーグリもジャングルの中で生き抜く術を身に着けたが、彼が人間のように道具を使おうとすると、アキーラは、立派なオオカミの心構えと“仲間のために尽くす”というジャングルの掟でもって、彼を諫めるのだった。モーグリ自身も立派なオオカミであろうと努めていたが、自分だけが他の兄弟オオカミたちとは異なる肉体を持っていることは自覚していた。
ある日、人間への復讐に燃える残忍なトラ、シア・カーンが、アキーラの率いる群れの前に姿を現した。彼はかつて、人間の操る“赤い花”によって大怪我を負ったことで人間を忌み嫌っており、ジャングルの生き物の中でただ1人の人間であるモーグリを血祭りにあげようとしていた。シア・カーンは、モーグリがいずれ成長して“赤い花”をジャングルにもたらし、ジャングルを破滅に追いやるだろうと信じていた。アキーラにモーグリを引き渡すよう脅していたのだ。アキーラは群れの仲間とジャングルを守る責務と、モーグリへの愛情の板挟みになって苦悩する。ジャングルの動物たちも、人間と動物は相容れない存在だと信じていて、成長すれば動物たちの脅威となり得るモーグリをジャングルから追放するよう、アキーラに求めていた。育ての父親の苦しむ様を見たモーグリは、バギーラに諭され、自らジャングルを去って人間の暮らす村に行くことを選択する。ラクシャは涙ながらに我が子モーグリを旅立たせた。

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滝を越え、草原を行くモーグリとバギーラに、彼らを尾行していたシア・カーンが襲いかかる。バギーラは身を挺してモーグリに逃げるチャンスを与えた。モーグリはシア・カーンの追跡を逃れるため、移動中のバッファローの大群の中に紛れ込み、そのまま川を渡ろうとした。

しかし、運悪く途中で急流に呑み込まれ、見たこともないジャングルの奥深くに迷い込んでしまった。霧深いジャングルは、モーグリが育ったそれとは異なり、どことなく不気味な雰囲気に包まれていた。お腹がすいたモーグリが木の実を見つけて食べていると、近寄ってきたサルたちに横取りされる。彼らを追って更にジャングルの奥に迷い込んだモーグリは、いつの間にか巨大ニシキヘビに囚われていた。ニシキヘビのカーは、言葉巧みにモーグリを引き寄せて催眠術をかけ、モーグリの過去を見せてやる。赤ん坊のモーグリを連れた本当の父親は、腹をすかせたシア・カーンに旅の途中で襲われ、殺されていた。その際に父親が持っていた松明の火がシア・カーンの顔に傷を負わせたのだ。モーグリも、バギーラに助けられなければ、そのままシア・カーンの餌食になっていただろう。ところが、催眠状態のモーグリは、今まさに大きく口を開けたカーの餌になろうとしていた。近くを縄張りとするクマのバル―が通りかからなければ、哀れモーグリはそこで幼い生涯を閉じるところであった。

色とりどりの花が咲き、暖かい日差しが絶えず降り注ぐ川辺に暮らすバル―は、陽気にお気楽に、そして可能な限り楽して暮らそうとする怠け者。本熊は“♪必要最小限のものがあれば生きていけるのさ〜♪”などと呑気に歌っちゃいるが、実は大飯喰らいなのでハチミツを大量に必要としていた。モーグリを拾って自分の縄張りに連れてきたのも、人間の子供だから動物が使えない道具を器用に操って、断崖絶壁に巣を作ったミツバチのハチミツを採取できるだろうと計算してのことだった。バル―の企みなど知らないモーグリは、助けてもらったお礼に、道具を手作りしてせっせとハチミツを集めた。

バギーラの教えを守り、頑なに村に急ごうとするモーグリを、バルーはやんわりと引きとめる。ジャングルから追放されたのに、そう慌てて人間社会に行く必要もあるまい。少しは道草してゆっくりしてもいいんじゃないか、と。

“人間だからといって常に人間らしくしなくちゃいけないわけではない。育ての親がオオカミだからといって、いつもオオカミらしくなくていい。モーグリはモーグリらしく生きればいい。”

ジャングルの掟すらも無視し、己のルールに従って生きるバルーの自由な生き方は、バギーラとオオカミの群れの掟しか知らなかったモーグリに新たな考え方を示した。一方で、賢くて物覚えも抜群、勇敢で心優しいモーグリの素直さは、自由の代償としてこれまで敬遠せざるを得なかった、他者と深いかかわりを持つことをバルーに今一度思い出させた。

モーグリとバルーの凸凹コンビが友情を育んでいた頃、モーグリの故郷では悲劇が起こっていた。シア・カーンがアキーラ率いる群れを襲い、アキーラを惨殺してしまったのだ。ラクシャは悲しみに暮れる間もなく、夫亡き後の群れをシア・カーンの脅威から守ろうと必死だったが、彼女の抵抗もむなしかった。必死でモーグリの消息を探っていたバギーラは、やっと再会したモーグリに故郷の状況を知らせるのをためらう。とにかく、モーグリの決意が変わらぬうちに、彼を早く人間社会に無事に帰そうと急き立てるのだった。

バルーの楽天家主義を一笑に付し、モーグリが人間の道具でハチミツ採取に励む姿を見て、天を仰ぎつつ嘆くバギーラ。しかし生真面目なバギーラも、モーグリが見事に“人間の使う道具”を操って聖なるゾウ一家の子ゾウを救出した際には、“バルー推奨、本来の自分らしさに忠実に生きる”教えに脱帽せざるを得なかった。賢いモーグリが人間の子供であることは、すでにジャングル中に知れ渡っている。中には、廃墟の寺院に籠って自らを“キング”と豪語する、サルのコロニーの統治者、巨大類人猿キング・ルーイのように、モーグリを使って人間だけが操れる“赤い花”を手に入れようと画策する者もいた。モーグリは、人間の村を目前にしてサルたちの襲撃を受け、キング・ルーイの廃墟に攫われてしまう。

狡猾なキング・ルーイが、モーグリという奥の手を使ってでも手に入れたがった人間の“赤い花”。ジャングルの生き物の中でそれを操れるのは、モーグリのみだ。シア・カーン、キング・ルーイというジャングルの二大脅威が、それぞれ異なる理由でモーグリに迫る中、“ジャングルの掟も知る人間として”生きることを選択したモーグリは、ジャングルの平和の危機を人間の知恵を使って救う決意を固める。果たしてそれはジャングルに平和を取り戻させるのか、それとも新たな混乱を招くのか?


ジャングル・ブック (新潮文庫)
新潮社
2016-06-26
ラドヤード キプリング

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ジャングルには数え切れないほどの異なる種族が共存している。原作を執筆したラドヤード・キプリングが生まれ育ったインドにも固有の密林があり、彼の創造源の水面には、常にそのインドの密林の光景が鮮やかに映っていたことだろう。キプリング本人がインドで暮らしたのが、実際には5歳までだったとしても。多彩な種族が、それぞれ固有の文化背景を保ちつつ混在する世界は、ジャングルだけではなくインドの人間社会にもみられた。“アングロ・インディアン”を自認する両親の教育方針の下、キプリングと彼の妹は…

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“午睡をとる前に乳母か現地人の使用人が、伝えられている物語やインドの童謡を語ってくれて、正装してダイニングで過ごす時になると『パパとママには英語を話すのよ』と注意されるのだった。つまり、かたや現地語で考え、夢を見て、かたやそこから翻訳しながら英語で話すのだった。”―キプリングの死後に出版された自伝『Something of Myself』(1937年)から

…という環境で成長したのだから、キプリング本人の精神の中に2つの異なる文化が同時に息づいていたことが理解できる。反発しあうばかりで、いまだに融合できない東と西の文化の双方の魂を抱えることは、自分自身の中に終わりのない葛藤を見出すことを意味する。それは当人にアイデンティティの混乱と耐え難い苦痛をもたらすだろう。後年、世界情勢が激変し、人々の持つ価値観も変わってくるにつれ、キプリングの小説や詩への評価も度々変わっていったが、彼が人種差別、東洋蔑視的考え方の持ち主だったという非難は、彼が“2つの文化”の双方を理解し、その双方を歩み寄らせ、融合させようと心を砕いていた史実から否定できる。もし仮に、彼が、元の文脈から切り離されて曲解された“East is East, West is West.”が象徴する人間だったなら、果たして「ジャングル・ブック The Jungle Book(短編集)」(1894年)や「少年キム Kim」(1901年)などの作品が書かれただろうか。

今回、モーグリを生身の俳優が演じる新バージョン「ジャングル・ブック The Jungle Book」を見て改めて感じたのは、キプリングの著した原作そのものが、19世紀末に生まれたとは到底信じられないほどの普遍性を持った、現代社会にも大きな影響を与えうる、そしておそらく未来の人間社会にも警告を発することのできる力強い作品だったということだ。
その意味で、「アイアンマン Iron Man」(2008年)、同第2作目などで、最新映像技術を駆使した一大エンターテインメント映画を監督する一方で、文字通り、完全手作りの愛すべき小規模インディペンデント映画「シェフ 三ツ星フードトラック始めました Chef」(2014年)や、大ヒットをかっ飛ばした「アイアンマン」の前に実はファンタジー小品「ザスーラ Zathura: A Space Adventure」(2005年)を監督していた経験も持つジョン・ファヴロー Jon Favreau監督がこの作品のメガホンをとったのは、実に正しい人選だったと思う。
ウォルト・ディズニーは、自身の遺作となった1967年公開のアニメ版「ジャングル・ブック The Jungle Book」(ウルフガング・ライザーマン監督)では、原作に影響を受けすぎて大胆な翻案が出来なくなることを恐れ(つまり、それだけ巨大なパワーが原作には秘められているのだ)、あえて脚本家ラリー・クレモンズに原作を読ませなかったそうだ。従って、アニメ版「ジャングル・ブック The Jungle Book」(1967年)は、“ディズニー翻案のジャングル・ブック”として、キプリング原作小説とは異なる次元に名作として君臨することになる。現にファヴロー監督も、そしてこの私も、“ディズニー印のジャングル・ブック”を子供の頃に見て育った世代だ。この名作アニメーションは今見ても、ドキドキ、ワクワクする冒険譚として、初めてこの作品を見た頃の童心に戻れる楽しい作品だ。だが、キプリング原作が伝えたかった深淵なるテーマには、あまり深く言及できていないとも感じる。
ファヴロー監督版の「ジャングル・ブック The Jungle Book」は、“ディズニー印のジャングル・ブック”で提示されたアニメーションならではの自由奔放なアイデアを、実写ならではの迫力とリアリティで再現しつつ、そこにキプリング原作のシリアスなテーマ、神秘的で厳粛ですらある原作のトーンを付加した。原作は、異種との平和的共存のために何をどのように為すべきか、それら異種の生物全てを育み、慈しむジャングルを畏怖し、生きとし生けるものは皆、母なる自然の一部であることを自覚すべきであることを、読者に促すものだった。ファヴロー監督版「ジャングル・ブック」では更に、その原作からのインプレッションすらも、映画でしか出来ない表現で意外な形で裏切っていく興奮があちこちに見られる。原作の精神性、アニメーション版の、ある意味現実離れした楽しさ、それらが最新技術を得たダイナミックな3次元表現の中でミックスされ、ファヴロー監督による新しいバージョンの「ジャングル・ブック」として生まれ変わったのだ。

さて。

今作が単なる1967年のアニメ版の焼き直しに留まらなかったことに、主人公モーグリ少年以外の全ての動物キャラクターとインドのジャングルを、なんとフルCGで描き切った恐ろしいほど緻密な最新技術が大いに貢献しているのは否定できない。この作品でのCG技術は、ジャングルに生息するすべての生物、川、キング・ルーイが立て籠っている廃墟、動物たちの毛の一本、植物の葉一枚、あるいは弾かれる水の一滴、今にも崩れ落ちそうな石畳の一つに至るまで、全くの本物と見分けがつかないレベルで再現している。

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それらが、スクリーンを凝視している私たち観客に薄気味の悪さを感じさせないレベルを奇跡的に維持し続けるのだ。おまけに、唯一生身の人間であるモーグリとCGが全く違和感のない状態で融合する。従来の技術では、CGが本物に近づけば近づくほど観客が奇妙な違和感を覚え、生身の人間とCGが同じシーンに登場する際には、観客の目は無意識のうちに“人間とCGの継ぎ目”を探していた。今作ではそんな“違和感”は皆無。私たちは、“あれ、この画面、なんだか変だぞ”と余計なことに意識を奪われずに済む。だから、観客は物語に集中できるのだ。
昔、「ベイブ Babe」(1995年)という“人間の言葉をしゃべる子ブタ”が主人公の映画がヒットしたとき、動物が口を動かすタイミングと声優がしゃべるタイミングを完璧に擦り合わせた映像技術が随分称賛された。しかし、あの作品にしたって、観客の側にはあらかじめ“これは映像トリックだ”という意識があったからこそ、受け入れられたのではないかと思う。動物の動きを全てCGで表現した今作では、観客の側に、そういったある種の心の準備も必要ない。モーグリと彼の兄弟オオカミたちがジャングルの中を疾走する冒頭から、私たちは目の前に見えている世界が本物なのだと信じるとこができるのだ。

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加えて、上記したようなファヴロー監督の語り口の上手さも特筆すべき。モーグリとオオカミたちによる、映画冒頭の躍動感あふれる競争シーンで観客の心をつかんだかと思うと、彼が育ての親であるオオカミの群れを離れねばならなくなった理由、ジャングルの動物社会の均衡を保つために、彼が人間社会へ向かう旅の途中で遭遇する様々な事件と冒険をテンポよく見せてゆく。モーグリと大蛇カーのくだりや、陽気なクマ、バルーとの交流は、原作を改変したディズニーアニメ版からの引用だが、カーに妖艶な女性キャラクターを与えて危険な存在にしたり、“社会の掟”から少しく離れた場所にいるバルーに、生きることの哲学をモーグリに教える仙人的なキャラクターを与えたり、原作におけるバルーの役柄の一部を担った黒豹バギーラの、モーグリを守り、教え導いてゆく厳しい父親像を強調したり、映画版ならではの解釈の違いも興味深い。

このように、それぞれのキャラクターに、ファヴロー監督らしい肉付けが繊細に施されているために、物語の説得力がいや増しているわけだ。一番わかりやすい例は、原作でもアニメ版でも大した言及がなかったモーグリの育ての母、ラクシャだろう。オオカミの群れを理性とジャングルの掟と勇気で守る傍ら、モーグリへの愛情にも心揺れるアキーラは、文字通り動物社会と人間の間の板挟みになるが、ラクシャはそうではない。母親らしい無償の愛情を、モーグリに一直線に注ぐのだ。そこには一寸の迷いもみられない。その堅固な愛情は、アキーラがシア・カーンに惨殺された後も、彼女の誇り高きオオカミとしての矜持を守り続ける。と、同時に、モーグリがジャングルの脅威となったシア・カーンと戦うために、“人間として”再びジャングルに戻ってきた際も、他の動物たちがモーグリを恐れる中、ラクシャは真っ先に何の迷いもなくモーグリの側に立つ。父性の愛情は理性がブレーキをかけるが、母親の愛情は本能に根差している。ラクシャのキャラクターからは、そんな複雑な女性性すら読み取れる。

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モーグリの母親がラクシャなら、アキーラの代わりにモーグリの父親の役割を担うのは、黒豹のバギーラとクマのバルーだろう。バギーラは真面目一徹、モーグリにジャングルの掟と動物としての誇りを教え込む、厳しい指導者だ。彼は、人間的な生き方をずる賢いと思い込んでいる石頭ではあるが、モーグリのためにいつでも命を捨てる覚悟もできている。楽して毎日を飄々と生きているバルーとは対照的だ。
だが、融通の利かないバギーラとはまた一味違う教えを、バルーはモーグリに与える。モーグリは“動物社会を選ぶのか、はたまた人間社会を選ぶべきなのか、答えは二つに一つ”という、自らのアイデンティティの重大な危機に瀕していた。そんな時に、違う種族に無理矢理自分を嵌め込むのではなく、自分らしさを保ったまま異なる者たちと共存する道を探るべきだし、いつでも自分の道筋を変えることも可能だと、“別の視点”の存在を示すバルーは、モーグリの人生の中で重要な役割を担った“父親”に他ならない。つまりモーグリは、バギーラとバルーという2人の父親を持ち、彼らから生きる術を教わったわけだ。
バギーラの声を、権威の象徴的キャラクターに扮すると、すさまじいオーラを発揮する名優ベン・キングズレーが誇り高く演じ、呑気なバルーの声を、名コメディアン、ビル・マーレ―が演じた。バルーといえば、ディシーランド・ジャズ風の名曲“ザ・ベア・ネセシティー The Bare Necessities”を、モーグリと一緒にデュエットするシーンがあまりに有名だが(ディズニーアニメ版のオリジナル)、今作でもその名シーンは見事に再現された。ビル・マーレ―の歌声も味があって良いのだが、エンド・クレジットで流れるドクター・ジョン Dr. Johnによる同曲のパフォーマンスもクールだ。

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人間であるモーグリがなぜたった1人動物たちに囲まれてジャングルの中で暮らしているのか、成長しつつある彼が異種族の世界の中でなぜ孤立を深め、それでも本来いるべき場所に戻るか否か逡巡するのか、そもそもモーグリのアイデンティティは動物の側にあるのか、それとも人間の側にあるのか、等の重要なテーマが、ディズニー・アニメの名作の世界を借りて鮮やかに、しかし真摯に描かれる。この作品の最も美しく光り輝く部分は、人間のせいで心に闇を抱えることになった、人間を嫌悪する虎シア・カーンと、動物ではなく人間そのものになりたい類人猿キング・ルーイという、対照的な2つの敵と戦う過程で、モーグリが葛藤し、苦しみながらも成長することだ。おそらくそれは、ラドヤード・キプリング自身が、西洋と東洋という2つのアイデンティティに引き裂かれながらも、その2つが共存できる道を生涯を通じて模索し続けた姿そのものであっただろう。また、ジャングル社会を根底から変えるカギとなったモーグリを支えたのが、ラクシャ、アキーラ、バギーラ、バルー、兄弟オオカミたち、ジャングルの仲間たちといった、“疑似家族”だった。映画の最後、モーグリと動物たちは、共に立ち上がって戦うことによって“疑似家族”から本物の“家族”になる。それこそは、キプリングが人生の最後に見出した“West is West, East is East.”への回答と結論であったのだろう。





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