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zoom RSS 「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」 NT Live in Japan 2015

<<   作成日時 : 2016/09/20 23:54   >>

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“実はジョン・スタインベックが原作「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」を執筆した当時、この作品に描かれているような季節労働者たちはアメリカ社会からはいなくなっていた。スタインベックは過去の彼自身の経験と見聞に基づいてこのストーリーを創造したけれど、いわばこの作品は、もうその頃にはアメリカから消え去っていた‘幽霊’について語ったものだともいえるの。”―アンナ・D・シャピロ Anna D. Shapiro(「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」演出家)

しかし小さき鼠よ、お前だけではないのだ
先の見えぬ未来を待つのは
人と鼠の立場は
いつ何時逆転するやもしれぬ
私たちとていつか約束された喜びを失い
哀しみと苦痛の中に取り残されよう

お前はやはり私より幸福だ
なぜならお前は今だけを生きれば良いのだから
ところが私ときたら過去に縛られ
後悔と侘しさに打ちのめされ
そして未来は未だ目には見えぬが
私はきっと恐怖に震えているのだろう

But Mousie, thou are no thy-lane,
In proving foresight may be vain:
The best laid schemes o' Mice an' Men,
Gang aft agley,
An' lea'e us nought but grief an' pain,
For promis'd joy!

Still, thou art blest, compar'd wi' me!
The present only toucheth thee:
But Och! I backward cast my e'e,
On prospects drear!
An' forward, tho' I canna see,
I guess an' fear!


"二十日鼠へ To a Mouse" by ロバート・バーンズ Robert Burnsから


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「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」

演出:アンナ・D・シャピロ Anna D. Shapiro
原作:ジョン・スタインベック John Steinbeck

出演:ジェームズ・フランコ James Franco(ジョージ George)
クリス・オダウド Chris O'dowd(レニー Lennie)
レイトン・ミースター Leighton Meester(カーリーの妻 Curley's Wife)
ジム・ノートン Jim Norton(キャンディ Candy)
ロン・シーファス・ジョーンズ Ron Cephas Jones(クルックス Crooks)
ジョエル・マーシュ・ガーランド Joel Marsh Garland(カールソン Carlson)
ジェームズ・マクメナミン James Mcmenamin(ウィット Whit)
アレックス・モーフ Alex Morf(カーリー Curley)
ジム・オルトリーブ Jim Ortlieb(ボス The Boss)
ジム・パラック Jim Parrack(スリム Slim)

1929年に始まった世界大恐慌 World Economic Crisisは、最終的に社会の下層に住まう民衆に最大の打撃を与えることになった。貧しい人々は仕事を失い、次いで家を失い、食べるものにも事欠く状態にまで陥った。家や土地を失った者の中で家族を持たぬ男たちは、季節労働者としてアメリカ中の大手の農場を季節ごとに渡り歩いては日雇い仕事に従事した。彼らは生まれも育ちも年齢も肌の色もバラバラで、季節ごとに違う農場に流れていく身の上だったが、共通する夢が一つだけあった。金を貯めて、いずれ自分だけの土地を持ち、一国一城の主となることだ。だが現実には、農場主が彼らに払う日銭は僅かであり、それを貯めたところで土地を買うなど夢のまた夢でしかない。結局、朝から晩まで馬を駆り、ラバを追い立て、大麦を収穫して搬送する重労働の繰り返しだ。彼らの楽しみといえば、月末に僅かな稼ぎを握りしめて街へ繰り出し、安酒と賭け事と女郎部屋で散財することぐらい。刹那に生きる彼らには養うべき家族はおらず、友人と呼べる者すらいないのだ。

そんな季節労働者は概して皆1人ぼっちで流離うのだが、ジョージとレニーは常に2人一緒に行動する珍しいタイプだった。ジョージは小柄だが要領も人あたりもよく、目端もきく男。もう1人のレニーは大柄な体をいつも申し訳なさそうに折り曲げてジョージの顔色を窺いつつ、彼に従順に付き従っていた。レニーの頭の回転がにぶく、小柄なジョージが母親のようにレニーの面倒を見てやっているのは明白だったが、傍から見ても奇妙な組み合わせではあった。

実はジョージとレニーは以前別の農場で働いていたのだが、ジョージがちょっと目を離した隙に、レニーがジョージの言いつけを破ってトラブルを起こしてしまった。これまで何度も繰り返してきたように、ジョージはむずがるレニーを連れて夜逃げ同然に農場を脱出し、次の仕事がある新しい農場へ向かっているところだったのだ。前の農場からの追跡を逃れるため草原の中に身を隠し、わずかばかりの食料を冷たいまま胃に収めた2人。レニーはジョージに、2人が目標にしている夢を語ってくれるようにせがんだ。これも、2人が今までに何度も繰り返してきた儀式のようなものだった。彼らはこのささやかな2人の夢を語り合うことで、ひととき現状の辛さを忘れたのだ。

ジョージは、母親が幼子の枕元で眠る前のお話を語って聞かせるように、2人の見果てぬ夢を語る。小さいながらも自分たちだけの農場を持ち、そこで野菜を栽培し、レニーのたっての希望で鳥小屋とウサギ小屋も建てて鶏とウサギも飼うのだ。レニーは怪力の持ち主なので、小さな生き物が大好きなのに、彼らをかわいがっているうちにその首を握りつぶしてしまう。それでもレニーは懲りずに子猫だの子ネズミだのをジョージに隠れて飼おうとするのだが、結局は片手で握りつぶし、ジョージに叱られる羽目になるのだ。しかし、2人だけの農場があれば、レニーも伸び伸びと庭で動物たちと遊ぶことができる。それに、短期の仕事を求めてアメリカ中の農場をさまよう必要もなくなる。…ジョージは安寧の定住生活を求め、レニーは動物たちと遊べる庭を求めて、朝になればまた2人は新しい農場で一日中重労働に従事することになるのだ。

翌朝、新しい職場となる農場に辿り着いた2人。農場を経営するボスは、ここに流れてきた2人を格別警戒することもなく、あっさりと雇い入れた。ジョージはひとまず安堵する。新しい仕事と三度の食事、寝床が、これで当分の間保障されるからだ。
これから彼らの同僚となるのは、昔気質のカウボーイで、腕っぷしも強く人望も厚いリーダー格のスリム、スリムの威を借る狐で下品なカールソンと、農場の人々の間の力関係を窺いながら、こすからく動くウィット、実は大変な読書家だが黒人の使用人であり、また子供の頃の怪我が元で背中が曲がってしまったためにボスから虐待の憂き目に遭うクルックス、数年前の事故で左手の手首を切断して以来、農場の下働きとして生きる老人キャンディという面々だ。
ボスの経営手腕は問題なく、現場ではスリムが一癖も二癖もある労働者たちを一つに束ねているため、この大農場は職場としては安定している方だった。労働者たちへの金払いも良いので、ボス自身は使用人たちから一定の尊敬を得ている。だがボスの息子カーリーの方は、農場でこれといってやることもなく、二週間前に結婚したばかりの新妻を監視する以外に暇のつぶしようがなかった。親父の威を借るキツネで、ボクシングの嗜みがあるので空威張りしている小男のカーリーを、労働者たちは内心軽蔑していた。当の本人もそれをコンプレックスと感じているので、労働者たちに要らぬ因縁をつけては暴力をふるっている始末だ。当面のカーリーの悩みの種は、いつもフラフラしていて、ちょっと目を離した隙に勝手に労働者たちのところにやってきては彼らの気を惹こうとする美しい妻のこと。スリムはジョージとレニーに、カーリーと、特にカーリーの妻と関わり合いにならぬよう警告する。彼女と口をきいたりしたら最後、カーリーを怒らせることになり、殴られた上に職を失う危険もあるのだ。

新入りジョージたちに最初に興味を持ったのはキャンディだった。若い頃からずっとこの農場で働いていたが、事故で手を失った代わりに年金をもらい、お情けで農場に置いてもらっている身の上。いつお払い箱になってもおかしくない不安は、他の季節労働者たち以上だ。労働者たちの中には、孤独を紛らわせるため農場内で犬や猫を飼う者もいたが、生まれた時からずっと連れ添っている老犬の存在が辛うじて老キャンディを支えていた。しかしその老犬も、老衰のために身体が弱り、悪臭を放つようになると、仲間内から安楽死を強いられるようになる。老犬に我が身の行く末を重ねていたキャンディも、最後にはそれが犬のためだと悟り、屋外で響く銃声を悲しげに聞いていた。

ジョージは、レニーと2人であちこちの農場で働きながら金を貯めていることを、キャンディに打ち明けた。実は、土地を売ってくれそうな人物を既に見つけてあり、値段の交渉次第では自分たちのささやかな農場を持つという夢が夢でなくなる可能性もあるのだ。キャンディは、事故の際にボスが支払ってくれた年金をすべて渡すから、ジョージとレニーが農場を持った暁には、自分もそこで働かせてほしいと申し出た。終の住処が欲しいのは、キャンディにとっても切実な願いなのだ。ジョージは、キャンディの年金と、今後レニーと2人で稼ぎ出せるだろう金を合わせれば、夢の実現が近づくことを確信。ジョージ、レニー、キャンディは喜びを分かち合う。

レニーは知能こそ幼児並みだが、体格は小柄なジョージの一回りは優に大きかった。頑健な労働者にとっても厳しい重労働を、レニーは人の倍の量こなすことができた。スリムが世話する犬が赤ん坊を生んだことを聞きつけたレニーは、自分も可愛い子犬を飼いたくてたまらなくなる。ジョージからは小動物に絶対に触れてはいけないと、きつく言い聞かされているが、小さな生き物の柔らかくて暖かい毛皮を撫でるのが大好きなレニーは、ジョージに内緒でスリムの子犬を一匹ポケットに入れてしまう。

ジョージは余計なトラブルを招かないために、レニーに誰とも口をきかないよう固く言いつけた。心配なのは、ストレス解消のため短気なカーリーがレニーに目をつけないかということだが、その心配はすぐ現実になってしまった。大きな身体を縮めるようにして、始終おどおどとジョージの顔色を窺っているレニーの様子に勝手に腹を立てたカーリーが、レニーを挑発したのだ。カッとなってレニーに殴りかかるカーリー。ジョージの言いつけを守ってひたすら暴力に耐えるレニー。使用人たちは、余興だとばかり周囲で囃し立てるばかり。このままだとレニーが殴り殺されるかもしれない。恐怖をに駆られたジョージは、思わずレニーに反撃するよう指示してしまう。レニーはジョージが命じるまま、カーリーを一発でのしてしまった。これで農場をお払い箱になるかもしれないと危惧したジョージだったが、叱責された子供のようにひたすら委縮するレニーにほだされたスリムが、レニーとジョージを庇ってくれた。レニーの知能が子供並みだということにスリムは薄々気付いており、2人の事情を慮ってくれたのだ。

ジョージとレニーが農場に馴染んでくると、ジョージがなぜ母親のようにレニーの世話を焼いているのか、使用人たちは不思議がった。ジョージはキャンディだけに秘密を明かす。ジョージとレニーは幼馴染で、レニーの世話をしていた伯母さんのたっての頼みで、ジョージはずっとレニーの傍についてやっていたのだ。だが、子供の頃のジョージは、頭の回転の鈍いレニーが鬱陶しくて仕方なかった。どんなに邪険にしても子犬のようについてくる。しかし力だけは強いので、うかつに怒らせることもできない。ある日ジョージは、冗談でレニーに川の中に入るように命じた。ジョージの言うことなら何でも聞くレニーは、急な川の流れに飛び込んだら、自分がどうなるかなんてことまで頭が回らない。言われるまま川に飛び込み、溺れ死にそうになった。慌てたジョージは必死になってレニーを川から救い出した。その時レニーは、心からの笑みを浮かべ、“助けてくれてありがとう”とジョージに感謝したのだ。レニーを危険な目に遭わせたのは、他ならぬジョージその人だったのに。それ以来ジョージは、これから先ずっと、レニーと共に過ごそうと決意したのだった。

使用人たちに賃金が支払われ、彼らは月に一度のお楽しみのために街に繰り出した。ジョージも仲間たちと一緒に酒場に行ったが、安酒に消える金があれば、野菜の種がどれだけ買えるだろうかと思うと、とても散在する気になれなかった。ジョージはキャンディと共に、黒人の使用人クルックスの住む馬小屋に向かう。表向き、クルックスは黒人であるがゆえに、農場では他の使用人から更に低い地位に甘んじねばならなかったが、読書家で深い教養の持ち主だった。キャンディなどは、身体に障害を持つ者同士、クルックスとは懇意だったのだ。ジョージとキャンディから農場を買う計画を知らされたクルックスは、自分も労働力と知恵を提供するからそこで働かせてほしいと身を乗り出す。こうしてジョージ、レニー、キャンディにクルックスを加えた4名の夢の農場計画は、彼らに覇気を与えることになった。

ところが、そこへまたしてもカーリーの妻が現れる。美しいドレスを着こみ、メイクも完璧、香水までつけて。独占欲と嫉妬心の塊である夫カーリーと義父から、使用人たちとの交流を固く禁じられている彼女だったが、知り合いも話し相手もいない籠の中の生活で、孤独を募らせていたのだ。彼女は精一杯親しげに見えるようにジョージたちに近寄り、馴れ馴れしく話しかけてきた。彼女の置かれている境遇を考えれば、彼女が使用人たちと話したがる気持ちは分からないでもないが、万が一、彼女と一緒にいるところをカーリーに見られでもしたら大事になる。ジョージたちは皆口を閉じ、彼女を無視するよう努めたが、彼女は必死に食い下がってきた。使用人の中でも特にお気に入りのスリムを探していたようだ。しかし、スリムは他の仲間たちと出かけていたし、ジョージたちも彼女の相手をしたくなかったため、その場は気まずい空気に支配される。

一方、ジョージに隠れてこっそりポケットに入れていた子犬の首を握りつぶしてしまったことに気付いたレニーは、パニックに陥る。自分が何か取り返しのつかないことをやってしまった時、農場から逃げ出さねばならなくなった時、それはもちろんレニーとジョージにとって非常事態であるわけだが、万が一、その非常時にレニーが1人きりであった場合、ジョージと後で落ち合う場所をあらかじめ決めてあった。ジョージは、パニック状態のレニーが混乱して失踪しないように、噛んで含めるように2人で合流する場所を教え込んだのだ。子犬を隠し持っていたことがバレれば、ジョージに怒られる。今度こそ、ジョージは自分から離れていってしまうかもしれない。恐怖に駆られたレニーは、緊急避難場所に逃げることを思いつき、農場の外に身を潜めた。自分は小さな生き物が大好きなのに、なぜ生き物たちは自分が触れただけで死んでしまうのか。自分の怪力の加減を知らないレニーは、勝手に死んでしまった子犬に八つ当たりする。

そこへ、スーツ―ケースを持ったカーリーの妻が通りかかった。使用人と口をきいたことをカーリーと義父から酷く叱責され、ついに堪忍袋の緒が切れた彼女は、そのまま家を出てきたのだった。一度は諦めた女優になる夢を叶えるため、二度と田舎町には戻らぬ覚悟だ。彼女は、レニーが1人ぼっちでうずくまっている姿を見つけ、彼に自分自身の耐え難い孤独を投影した。たまらなくなった彼女は、レニーに優しく声をかける。レニーはまたもやパニックに陥る。ジョージから彼女と口をきいてはいけないと厳しく言われていたからだ。しかし彼女の方は、レニーを元気づけようとでもいうのか、なんとかして彼と会話しようと懸命だ。幼い子供のようにうろたえる大男の朴訥さを好ましく思った彼女は、自分の夢を語り、そして自分の髪の毛がどんなになめらかで美しいかを力説する。柔らかい髪の毛。小さな生き物たちの暖かく艶やかな毛皮をめでるのが大好きなレニーは、ここではじめて顔を上げて彼女を…正確には、彼女の髪を…見つめた。彼女は更にレニーの関心を惹こうと、髪の毛に触ってみるよう促す。

レニーは単純に喜び、小さな生き物を撫でる時と同じように力の加減をせず、夢中で彼女の髪の毛に触れた。若い女性の、手入れの行き届いた美しい髪は素晴らしい触り心地で、レニーはすぐに我を忘れてしまった。レニーはその怪力で彼女の細い首を押さえ込み、無心で髪を撫でる。彼女が恐怖と痛みで悲鳴を上げ始めるのに、たいした時間はかからなかった。絹を切り裂くような女の悲鳴は、レニーの意識を唐突に現実に引き戻した。レニーは反射的に彼女の首にかけた手の力を強め、誰かに悲鳴を聞かれる前に声を抑え込もうと、慌てて彼女の口を塞ぐ。身の危険を感じた彼女は、渾身の力を込めてレニーから逃れようと暴れたが、それは却ってレニーのパニックを煽ることになった。怪力をコントロールできず、レニーはついに彼女の首をへし折ってしまう。

急にぐったりと動かなくなったカーリーの妻。まただ!また、死んでしまった!手触りの良い生き物たちは、何故こうも簡単に死んでしまうのか。おまけに、またジョージにこっぴどく叱られる。…ジョージ。そうだ、自分はまたしてもヘマをやらかしたのだ!ヘマした時には、どうすればよかった?ジョージと後で落ち合う秘密の場所まで逃げ、ジョージが迎えに来てくれるまで、誰にも見つからずにじっと隠れているのだ。そうだ、それがいい。

農場では、カーリーが妻の失踪に気付き、大騒ぎになっていた。農場の人間総出で捜索した結果、農場のはずれで首をへし折られた哀れな彼女の遺体が見つかり、カーリーの怒りは犯人をリンチした上、血祭りにあげる復讐へ矛先を変えた。ジョージは、レニーの姿が消えていることと、彼女の遺体の様子から犯人はレニーだと直感した。そしておそらく今レニーは、自分がヘマをしでかした時に行く避難場所”に逃げ込んで蹲り、自分が来るのを待って震えていることだろう。他の使用人たちに見つかってなぶり殺しにされる前にレニーを救い出し、何とかしてここから逃げ出すことはできないか、ジョージは必死に知恵を巡らせる。だが、使用人頭であるスリムもまた、カーリーの妻殺しの犯人がレニーであることに気付いていた。今や農場の人間皆がレニーの行方を追っている。短時間で遠くに逃げることは不可能で、レニーがカーリーたちに見つかってリンチされるのも時間の問題だ。スリムは、自分が時間を稼いでおいてやるから、その間にレニーと最後の時間を持てとジョージに言い渡した。

今度こそ、おしまいだ。何もかも。ジョージも、スリムの最後の親切を諦念と共に受け入れる。キャンディは、レニーがいなくなっても農場を買う夢は諦めないでくれとジョージに縋りつくが、ジョージは今更ながら、レニーと自分が一心同体の関係であったことを痛感するのだった。そう、レニーあっての農場の夢だった。レニーはいつもいつも幼子のように、自分に夢の農場のお話をねだったが、ジョージ自身もいつの間にか“レニーの見る夢”と同化してしまっていたのだ。レニーはジョージ、ジョージはレニー。ジョージの半身であるレニーを、使用人やカーリーたちになぶり殺させるわけにはいかない。せめてレニーに、人間としての最後の矜持を、自分にできる最善の方法で保たせてやりたい。ジョージは拳銃を握り、レニーが隠れている場所へ急いだ。…


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ジョン スタインベック

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おそらく、世界中の人々が知っているといっても過言ではない、ジョン・スタインベック John Steinbeckによる、アメリカの歴史の1ページを的確に描写した小説「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」。と同時にこの作品は、人間が生きることそのものを綴った内容でもありますね。理想や綺麗ごとを並べ立てるのではなく、現実にどん底の境遇にいる人間が生きるとはどういうことを意味するのかという、極めて根源的な問いかけに対する一つの答えです。テーマの普遍性故、アメリカのみならず人種や習慣、歴史の違いを超えて、世界中で読まれる作品になったわけですね。どの社会にだって、富める者があれば貧する者があるし、今作中のスタインベックの視点は、持たざる者たちの傍を片時も離れません。今も昔も、世界中の人口のほとんどが持たざる者で占められている以上、この作品に描かれる人の生き様とは、つまるところ、世界中の持たざる者たちを象徴するものであったと思いますね。“人が生きること”そのものを、余分な虚飾を排し、極限まで研磨された最小限の言葉で最大限効果的に語っているのです。

ことほどさように、この作品はシンプルな筋立て故、英語圏以外の多くの国でも親しまれました。また、スタインベック自身が、舞台上で演じられることを意識して、最初からこの物語を戯曲スタイルで構築したこともあり、出版後すぐ、書籍の世界を飛び出して舞台で上演されるようにもなりました。アメリカでの上演の評判は上々であったそうです。

舞台化が可能であるならば、映画化ももちろん可能。ルイス・マイルストン Lewis Milestone監督が1939年に発表した「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」では、バージェス・メレディス Burgess Meredithがジョージに扮し、ロン・チェイニー・Jr Lon Chaney Jr.がレニーを演じました。また、俳優ゲイリー・シニーズ Gary Siniseが自らメガホンをとったバージョンでは、ジョン・マルコビッチ John Malkovichがレニーを演じ、ゲイリーはジョージを演じています。私は、ルイス・マイルストン Lewis Milestone監督バージョンとゲイリー・シニーズ Gary Sinise監督バージョンの両方を以前見ていたのですが、このアンナ・D・シャピロ Anna D. Shapiro監督バージョンも含め、どの作品も、ジョージとレニーを演じる俳優たちの個性によってそれぞれ少しづつ異なるニュアンスが物語に加味され、興味深い解釈の違いを生み出していました。興味のある方はぜひ、この2作品だけでもご覧になってみてください。それぞれに素晴らしい仕上がりの作品ながら、纏っている雰囲気は違い、面白い発見ができるかもしれません。最小限の言葉で最大限の物語を描く原作は、ここから新たな舞台や映画を作ろうとする者に無限のインスピレーションを与えます。従って、この「二十日鼠と人間 Of Mice and Men」にも、自由に物語を解釈し翻案する余地がたくさん残されているわけですね。

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個人的には、これらの作品を見比べてみて、原作を読んだ時に最初に頭に浮かんだジョージとレニーの容姿、佇まいに最も近いイメージだったのが、今回のアンナ・D・シャピロ Anna D. Shapiro監督バージョンだったかなあとも思いますね。それはおそらく、レニーを熱演したクリス・オダウド Chris O'dowdの瞳があまりにも、あまりにもつぶらであったためでしょう。大柄でがっしりした身体で上から見下ろされると、威圧感を覚える程でありながら、大きな体をいつも申し訳なさそうに折り曲げ、始終俯いている顔には子供のようなつぶらな瞳が鎮座ましましているというね(笑)。クリス・オダウド Chris O'dowdはこの作品の演技によりトニー賞にノミネートされましたが、アメリカ人ならだれでも知っていると言っても過言ではない超有名なキャラクターを演じる困難を乗り越えるのに、彼自身の丸っこい可愛い瞳が随分と助けになったんじゃないかと思ってますよ。いや、冗談ではなくて。この大柄でもっさりした身体と、それには不似合いな可愛らしい瞳のアンバランスさでもって、オダウドは、ほんの少しでもオーバーアクトをしでかしてしまうと途端にリアリティを失ってしまうレニーというキャラクターに、信じられないほど自然に魂を吹き込み、同時に強烈な個性をも与えることに成功しました。

幼児のごとく純粋なのに、まさに幼児レベルの知性しか持たず、また生まれ持った恐ろしい怪力のせいで、周囲に誤解と危害を与えてしまうレニー。彼のやった行為を辿っていけば、なにも本人が好き好んで自ら危険な存在になっているわけではないことは明白だし、ジョージなど彼の周囲にいる人々が悪いわけでも、何でもないはずなんです。誰も悪くはない。なのにレニーは、「フランケンシュタイン Frankenstein」の怪物のような存在になってしまう。その原因を無理矢理求めれば、社会の不条理であるとかなんとか、適当な理由をこじつけることも可能かもしれません。しかし結局は誰にも責任はないし、レニーが引き起こした悲劇による怒りと絶望の矛先を、他者・他所に向けることはできないのですよ。ジョージがレニーに対して抱き続けただろうこのようなジレンマは、ラストでジョージがレニーに示した最後の“いたわり”の行為そのものによって、雄弁に語られます。私たち観客もまた、それを理解し、ジョージ自身の無念の慟哭にいたたまれなさを感じるのですね。

“小柄だが目端がきき、鋭い目つきの計算高い男”ジョージを演じたジェームズ・フランコ James Francoも、普段ご本人が見せるインテリ・ハンサムっぷりからは想像できないほど、外見のしたたかさとは裏腹に社会の最下層で生きる弱者の悲哀を完璧に醸し出していました。これには驚きましたねえ。しかもオダウド同様、本物の流れ者にしか見えない程、ごく自然に。
前述したように、ジョージのキャラクターも実はかなり複雑です。彼がレニーに抱いていた気持ちが愛憎半ばするものであったのは劇中でも語られますが、もし仮にレニーがいなければ、彼の人生はもっと楽に安定していただろうと考えられますよね。ジョージ自身も数え切れないほど自問を繰り返したはずです。“自分の人生を犠牲にしてまで、何故実家族でもなんでもない人間の全人生に責任を持たねばならないのか?”と。そして、ジョージがレニーのせいで要らぬ苦労を強いられ、ジョージもそれを苦痛に感じていることは、当のレニー自身もわかってはいました。第1幕の最後、レニーは“誰にも迷惑をかけないようにぼくは1人で洞窟の中で暮らしてもいいんだ”とつぶやきますものね。
しかしジョージの葛藤への解答は、レニーを永遠に失うことになってはじめてジョージ自身が悟ることになりました。ジョージとレニー、そしてキャンディ、クルックスを加え、折角実現が現実味を増した農場の夢を、彼はレニー1人の所以で諦めてしまうのです。ジョージはこの時、レニーの厄介な存在こそが、彼自身の生き甲斐だったのだと理解しました。もし仮にレニーがいなかったとしたら、おそらくジョージは、他の大勢の季節労働者同様に、家族も自分の農場も持てず、もっと早い段階で自暴自棄になっていたでしょう。世話をしなければならない人間がいるからこそ、自分は壊れるわけにはいかない。自分よりも社会的に非力な人間を支えるため、自分がもっとしっかりせねばならない。親が子をもった時にはじめて自覚するそんな感情を、ジョージはレニーによって予め授けられていたのです。

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シャピロ監督の演出は、舞台装置、照明、衣装、そして役者陣の演技に至るまで、一切の無駄をそぎ落としたソリッドなもの。派手なこけおどしを嫌う彼女の舞台は、実にシンプルでありながら、全てがリアル、そして力強さに満ちています。特筆すべきは、オダウドと共にトニー賞にノミネートされた照明の幻想的な美しさ。1930年代のアメリカの農場での一日を彩っていただろうと思われる様々な“色彩”が、少しくすんだ光と共に舞台を照らし、役者たちが立っている場所がただの舞台ではないと錯覚を覚えさせるに充分でした。

遠い昔を思い出して懐かしんでいるかのような、繊細に色を変えていくその光の中で、ジョージとレニーは過酷な環境を生き延びようとします。彼らは精一杯生きてきましたし、今も生きていますし、これからも何とかして生きていこうとしています。彼らが理想的な人生を歩んでいないからといって、それを咎めることは誰にもできません。彼らの夢は、小さくても構わないから自分たちだけの農場を持つこと。農場経営が難しいのは古今東西を問わずどこでもいつでも同じ事情ですが、不安定なその日暮らしの2人には、“自分たちだけの居場所を持つこと”は究極の夢であり、しかしたったそれだけのささやかな夢のために必死になっているわけです。この物語は、人間が如何にして生きる“べき”かと説教を垂れるのではなく、人間が生きている実態とはどうなのかを明らかにする告発のようなものですね。

老いたキャンディと、彼以上に老いさらばえた老犬の安楽死。生まれたばかりの動物の赤ちゃんと、彼らの首を一瞬で捻り潰してしまうレニー。若く美しく、無邪気で無知なカーリーの妻と、彼女をうっかり絞め殺すレニー。この作品の中では、生と死は常に対比され、背中合わせにくっついているものだと示されます。生きることとはすなわち、死ぬことに直結します。原作小説が書かれた時、小説に登場するような人々は既に社会から消え去っていたわけですが、この世とあの世の境目での顛末を描いたようなこの舞台を見ていると、1930年代のアメリカに確かに生きていたはずの人々の霊魂が、舞台の上のかすかな気配となって彷徨っているような感慨を覚えますね。

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