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zoom RSS 「シングルマン A Single Man」―トム・フォード Tom Ford監督

<<   作成日時 : 2016/07/28 20:16   >>

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“…全てがありのままに清新に見えた時、“それ”もまた訪れるべくして訪れた。”

「シングルマン A Single Man」(2009年)
監督:トム・フォード Tom Ford
製作:トム・フォード&アンドリュー・ミアノ&ロバート・サレルノ&クリス・ワイツ
脚本:トム・フォード&デヴィッド・スケアス Tom Ford
原作:クリストファー・イシャーウッド Christopher Isherwood
音楽:アベエル・コジェニオウスキ&梅林茂
撮影:エドゥアルド・グラウ
編集:ジョアン・ソーベル
製作会社:Artina Films & Depth of Field & Fade to Black
出演:コリン・ファース Colin Firth(ジョージ)
ジュリアン・ムーア Julianne Moore(チャーリー)
ニコラス・ホルト Nicholas Hoult(ケニー・ポッター)
マシュー・グッド(グード) Matthew Goode(ジム)
ジョン・コルタジャレナ(カルロス)
リー・ペイス(グラント)他。

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1962年のアメリカでは、キューバ危機が、国民に核戦争と共産主義への過度の恐怖を植え付けていた。しかし、ロサンゼルスの小さな大学で教鞭をとるジョージにとっては、来るべき核時代に備えてシェルターを自宅に作ったり、共産主義の脅威におびえる国粋主義だのといった騒ぎは、どうでもよいことであった。彼は、まだ同性愛への偏見が過酷であったこの時代に奇跡的に出会った同性のパートナー、ジムを8ヶ月前に自動車事故で亡くしていた。16年間共に暮らした最愛のパートナーを突然喪った衝撃は大きく、ジョージの生きる気力は根こそぎ奪われていった。たった1人で水の底に沈んでいき、雪道で横転した車の下敷きになって死んだジムの遺骸に歩み寄る悪夢を見ては、うなされつつ飛び起きる毎日。眠っても疲労が取れず、鉛のように重い身体を無理矢理ベッドから引きずり出し、壁によりかかるようにして身支度をし、ようよう“ジョージ”という人間に変身する。そして一日中、少なくとも誰かに見られている間は“ジョージ”を演じ続けるのだ。だがそれも、日に日に限界に近付いていた。

ある朝、いつものように底なしの水の中に沈み、実際には死に目にも会えず、葬式にすら出席できなかったジムの事故死現場を夢に見たジョージは、死んでいるジムの唇の血に触れた感触で飛び起きた。唇に感じた妙に生々しい感触は、昨夜ベッドの上に持ち込んでそのままにしてあったインク瓶からこぼれたインクであった。

その瞬間、突如彼は悟った。実は以前から目の前に掛けられていた絵が、今いきなり視界に入ってきたように、明確な真理を突然理解したのだ。

既に魂の抜け殻になっている自分が、他ならぬ自分自身に嘘をついてまで生きている“振り”をすることが、これ以上無理であることに。

棚の引き出しにきっちりと並べられた服や小物を、“ジョージになる”ための儀式の手順を辿るように、一つ一つ慎重に身に着ける。今日の儀式はうまくいった。ところが、朝食用に食べようとしたトーストが冷凍庫内で凍り付いていて使い物にならない。結局コーヒーだけの朝食となった。いつもそうだ。いくら努力しても、それは最後には無為に帰する。この果てしない徒労感は、どんなに眠っても悪夢の中にずぶずぶ沈み込んでいくだけの今の自分の状況を暗示するのかもしれない。

ジョージは今日を人生最後の日にすることを決意した。

一度そう決意してしまうと、今日一日を生き抜くことが気楽に、むしろ心地よく感じられるから不思議だ。この良き最後の日に悔いを残さぬよう、周囲の人たちに精一杯感謝の気持ちを表現しよう。生真面目で不器用で、亡きジムのように簡単に他人に心を開けないジョージだが、今日は特別だ。家政婦のアルマにも、普段は口にしないような感謝の言葉を伝えた。
また、ジョージの不安定な精神状態を見透かしたように、いつもいつも彼の隙をついて電話をかけてくるチャーリー。腐れ縁の“友人”。はるか昔の一時期、彼女とジョージは恋人関係にあり、ジョージがジムという最高の伴侶を得た後は友人関係を維持していた。その後チャーリーも別の男性と結婚したが、程なくして家庭は破綻。追われるように故郷イギリスを出て、新生活を求めてアメリカにやってきたという点で、チャーリーとジョージは共通点が多かった。チャーリーはジョージを夕食に招きたいという。彼女の魂胆は見え見えだ。お互い1人ぼっちになったため、チャーリーはジョージとよりを戻そうと必死なのだ。今日の最後に決行することを考えてジョージは一瞬返事をためらったが、仕事帰りに彼女の家に寄ることを伝えた。これを彼にとっての最後の晩餐にするために。

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元々小さな子供が苦手で、隣に住む典型的な郊外家庭の悪ガキどもとも、可能な限り目を合わせないようにしてきたジョージ。身の回りを整理するため、密かに預けていたものを取りに来た銀行で、よりによってその隣家のおませな娘と鉢合わせしてしまった。いつもならさっさと逃げ出すところだが、今日は特別だ。彼女が手に持っていた奇妙な“宝物”を自慢気に解説する間、心なしか楽しい気持ちで彼女の演説を拝聴することができた。銀行に預けていたものは、自分の死後、他人に見られてはならないものだった。恋人ジムの写真、万が一のために用意した銃。写真の中のジムは若く、美しかった。2人でこの写真を撮ったとき、ジムはジョージとチャーリーの親密な仲を半ば嫉妬しながら問い質したのだった。ジョージは、チャーリーとの関係は既に過去のもので、今の自分に異性を愛する余裕はないと伝えた。セクシュアリティーはあいまいだ。ジョージの言い訳も決して論理的とはいえなかったが、仕方がない。これらの品をすべて整理し、銃の弾も揃えた。準備は万端だ。

大学に赴くと、受付嬢がいつもより輝いているように見えたので、その通りの気持ちを素直に彼女に伝えた。ジョージのささやかなほめ言葉に頬を染める彼女を、改めて感心しつつ眺める。言葉の力は偉大だ。彼女はしごく朗らかに、学生たちの中でジョージの住所を尋ねた者がいたと伝えてくれた。大学での文学の講義は空振り続きで、学生たちの殆どは退屈がって彼の話など聞いてはいない。それに、自分自身に関心を持たれたのも初めてだった。

ジョージの退屈な同僚が、共産主義への憎悪と“アカ”たちからの核攻撃への恐怖から、自宅に核シェルターをこしらえた退屈な話を垂れ流している。ジョージは上の空で、キャンパス内でテニスに興じる学生を目で追う。普段から見慣れていた光景のはずなのに、若者の躍動する筋肉にすら、生まれて初めて目にする神々しさを感じて圧倒されるジョージ。今まで全く気付かなったが、こんなにも驚くべき美が日常に埋もれていたのだ。

この日の講義はいつになく熱のこもったものになった。キューバ危機という大事件があったため、アメリカ中が一種の集団パニック状態に陥っており、世論が共産主義への極端な憎悪に染まるのは仕方がない。しかし、この、人一倍大声で叫ぶ者の言に唯々諾々と服従してしまう人間のサガは、キューバ危機だけで説明できる現象ではないだろう。それは、人間が元々持っている本能なのだ。本来の講義の内容を超えて、安易にレミングの群れと化する人間の本能と、それを助長する社会構造に警告を発したジョージ。だが悲しいかな、ジョージの熱弁に耳を傾けていたのは、たった1人の学生しかいないようだった。

その学生ケニー・ポッターは、以前からジョージの講義に熱心に耳を傾けていた。彼にとってジョージはヒーローなのだ。講義後、ケニーは、頬をバラ色に染めた上に目をお星さまでキラキラさせながら、ジョージに話しかけてきた。彼こそが、ジョージの住所を受付嬢から聞き出した張本人であった。ケニーは飼い主の後をついて歩く子犬のようにジョージに付き纏い、売店で他愛もない文具を購入してジョージにプレゼントする。なぜか、彼にそれを持っていて欲しいと思ったのだ。ケニーは誰にも明かしたことがない、彼自身の深層心理をジョージにだけ話した。誰にも理解されない孤独の中での苦悩、しかし、ジョージならばそれを理解できるかもしれないという一縷の望みが、彼を今まで生かしてきたこと。それこそが、ケニーがジョージに執着する理由でもあった。だが皮肉にも、ケニーのその告白は、ジョージ当人の今の心境とぴったり符合した。今更、他者との出会いに運命を感じるような年ではなかったが、ジョージの意識の中にケニーという存在が入り込んできたのも確かだった。

帰宅するために乗った車の中で、ジョージは刻一刻と近づいてくる“その瞬間”に備え、銀行から持ち出してきた銃のグリップを握ってみる。ジョージの人生の中で銃に触るのはこれが最初で最後になるだろう。感慨にふけっていると、運転席側の窓ガラスを叩く音がして突如我に返る。ジョージの心に隙ができた瞬間を見計らっていたかのように登場したケニー。ジョージが自殺を企てていることは誰にも知られていないはずだが、ケニーに“先生は危なっかしいから”と軽くいなされてしまった。子供のように無垢な瞳の奥には、ジョージの心の奥底まで射抜くような鋭さも秘められているのだ。

最後の晩餐となる予定のチャーリーとの夕食に飲む酒を、酒店で購入する。酒やたばこが行き交う場所には、必ず肉体サービス業に従事する人々(男も女も)がたむろっている。ジョージの車の近くにも、地中海からやってきたらしい美青年が立っていた。さり気なさを装いつつジョージに話しかけてきた彼の英語には、かすかに訛りの名残りが感じられるが、どこかでトレーニングを受けたと思しき調子も感じられた。いつもなら、街角で客待ちをするこの類の輩は相手にしないジョージだが、今日はいつもとは違う。彼は青年の名前を尋ねた。その“カルロス”という名前は、一度限りのサービスを提供するだけの男と、それを金で買う男という関係から、“記号性”を消し去った。カルロスとジョージ。カルロスは、恵まれた容姿を生かして映画スターになるべく太陽と海の故郷から出てきた。だがハリウッドは、ちょっとトレーニングを受けただけの若者にすぐチャンスをくれてやるほど甘くはなかったのだ。結局は、銀幕の裏で夢破れた無数の若者が辿る運命を、彼もまた追うことに。その恵まれた容姿を日銭に換えるため、通りに立つようになった。折しも今、彼が後にしてきた故郷の陽光を思わせる、まばゆいほどのオレンジ色の夕陽が、車のボンネットにもたれてしゃべる2人を照らしている。再出発を誓って故郷を離れ、遠い地にやってきたはいいが、結局は孤独の毎日に陥る失望は、ひょっとしたら、ゆきずりの関係でしかないカルロスとジョージの唯一の共通点かもしれない。カルロスはジョージと一緒にいたがったが、ジョージはそれを辞した。チャーリーが家で待っている。

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チャーリーは、今日1日かけて念入りに準備したメイクとエレガントなドレスで武装し、ジョージを待ちかねていた。普段はキッチンに立つことすらないのに、ジョージのために特別に腕を奮ったのだろう、お手製料理の匂いがリビングにまで漂ってきた。チャーリーが、ジョージの心から“家庭”という概念を呼び覚まそうとしているのは明白だ。酒の力もあるが、2人きりの最後の晩餐は久しぶりに楽しい時間となった。気の置けない友人との会話が開放感をもたらしてくれるように。
しかし、腐れ縁でずっとつながったまま、お互いに伴侶を失って人生のたそがれ時まで友人関係を続ける羽目になった2人のうち、少なくともチャーリーは、この関係をさらに発展させようと目論んでいた。だから、ジョージに向けて禁忌の一言を放ってしまったのだ。「同性とのかりそめの関係ではなく、女性と本物の関係を築こう」と。

ジムが亡くなったことを知らせてくれたのは、彼の従兄弟だった。ジムが同性のパートナー、つまりジョージと同棲していることを知っているジムの両親は、ジョージの存在を認めず、ジムの実家に足を踏み入れることすら許さない。だから、その従兄弟はジムが急死したことを内密に知らせてくれたのだ。しかし、最愛のパートナーの葬式で涙を流すことも許されないこの痛みを知る者は他になく、ジョージは近所に住むチャーリーに縋り付くしかなかった。
チャーリーもジョージも老いを意識する年齢になった。ジムの死が痛手になり、ジョージ自身も心臓に異変が生じるようになってしまったのだ。別の男と結婚して子供をもうけたものの、9年で離婚に至ったチャーリーとて充分孤独であり、厳しい現実に精神的に追い詰められていることには変わりない。趣味も共通していて教養も高く、遠い故郷の地に複雑な感慨を持ち、とてつもなく孤独。2人が多くを共有しているという事実は、確かに、脆くなっていたジョージの心をぐらつかせるに充分ではあった。だが、ジムとのかけがえのない時間を否定したチャーリーは、やはりジョージと添い遂げる運命にはなかった人間だったのだ。

怒りの赴くまま自宅に戻ったジョージは、家政婦アルマ、そしてチャーリーへの遺書を確認し、葬式の日に自分に着せて欲しいスーツ―ネクタイはウィンザーノットで―を揃える。そして銃に弾を込め、震える手で銃口を自分に向けた。

ジムと初めて出会ったのは、彼が除隊を目前にしていた時だった。彼は軍服姿で、仲間と一緒にジョージの自宅近くのバーに呑みにきていた。戦争が終わり、無事に生還したことを祝うためだ。戦争帰りの軍人達と、そのガールフレンド達、あるいは軍人狙いの女の子達で、狭いバーはごった返していた。ジョージも一杯呑もうとやってきたものの、バーの入り口さえ見えない状況に困り果てていた。そんな彼の様子を、優しげな、しかし片時も彼から目を逸らさぬ熱っぽい眼差しで見つめていたのがジムだった。白い軍服をスラリと着こなした美しい青年だった。大きな瞳で見つめてきたジムを見つめ返したジョージも、たぶん、一目惚れだったに違いない。ガールハントとボーイハントに精を出す連中から離れ、2人で肩を並べた時を、ジョージは昨日のことのように思い浮かべることができる。

結局引き金を引く決心がつかず、ジョージは混乱したままその思い出のバーにやってきた。とにかく落ち着くために一杯ひっかけるつもりだった。ところが、そこに意外な人物が姿を現した。ケニーだ。ジョージの心に隙ができた時に限って、ケニーは何処からともなく彼の前に現れる。今日一日の間、ひょっとしたら彼はジョージの後を尾けていたのかもしれない。何か恐ろしいことを彼がしでかさないように。熱心に、しかも注意深くジョージを見つめていたケニーには、ジョージの心の動きが把握できているのだろう。

酒のグラス越しに向かい合うケニーとジョージ。ケニーはその若さに似合わず、周囲の世界との間に絶えず生じる違和感を訴えた。同年代の青年と同じようにガールフレンドもいるが、単なるガールフレンドというだけの存在だ。ジムを亡くして以降のジョージも、文字通りひとりぼっちだった。他者との間に確かな繋がりを感じられないという底なし沼のような孤独病は、しかし、親子ほども世代が違うケニーとジョージを結びつける唯一の縁だったのだ。この世から縁を切ろうというときに限って、昨日までは見知らぬ人間だった者との間に不思議な縁を知らされる。ケニーとの会話は、ジムの面影を追って死の底しか映していなかったジョージの瞳を開かせることになった。ケニーはひょっとしたら、この世界に生きる意味をジョージに教えるために遣わされたのかもしれない。この世界に絶望する理由はいくらでもあるが、それでも尚生きていく意味はたった一つしかない。大切な誰かとの間の絆だ。

底なし沼に落ちこんだ気分を解消するには?とびきりバカなことをやらかすのが一番だ。

ケニーは、海に入るには到底寒い時期にもかかわらず、ジョージに海で泳ぐことを提案した。もちろんすっぱだかで。ジョージもワル乗りし、酔っぱらいの大学生時代に戻った気分で海に飛びこんだ。

水。

ジムを亡くしてからずっと、ジョージは、冷たい水の底に為すすべもなく沈んでいく悪夢を見続けていた。今も冷たい海水の中にいる。果たして悪夢の再現になったのだろうか。…ジョージには、そうは思えなかったのだった。例えば昨日、誰とも縁を感じられずに絶望していた昨日、海に飛び込んでいたなら。ジョージはそのまま海底に沈んでいただろう。今日はケニーが一緒だ。歓声を上げて泳ぐ若者のスタミナにはついていけないが、今日のジョージにはケニーがついている。万が一ジョージが溺れてしまってもケニーが引き上げてくれるに違いない。

全身ずぶ濡れになって帰宅したジョージとケニー。ケニーにシャワーの優先権を譲ったジョージの目の前でケニーが服を脱ぐ。肉体は生きた人間の証。その美しさにみとれるジョージ。世界は美しい。今日一日で体験した様々な出会いを反芻しながら、ジョージはシャワー上がりの心地よさと共に、夜空にかかった月の色に感嘆する。ジムを喪った悲しみにどっぷり浸かっていて、ジョージは周囲に日常の情景がとてつもなく美しかったことに気付かないでいた。月の光、夜の空気の匂い、喉の奥にほんのり残った酒の余韻。風呂上りの石鹸の香り。ジョージは自分で用意した死出の装いの隣に置いていた遺書を、全て暖炉にくべた。もう必要ない。先に休んだケニーの様子を見に行くと、彼は、自殺用にジョージが用意していた銃を抱きかかえ、ソファの上で丸まって眠っていた。その様子を見てジョージは苦笑する。やはりケニーにはバレていたのだ。

ここ8か月の間ではじめて口元に微笑みを浮かべつつ、彼はベッドに腰かけた。ところがその時、突如予期せぬ痛みが彼に襲い掛かる…。

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“死”というフレーム越しに生者の世界を眺めつつ、ある男にとっての最後の一日に浮かび上がる様々な出会いと生きることそれ自体が、思いがけず輝く瞬間を捉えた作品だ。単調に繰り返される日常生活の中に、驚くべき一瞬が埋もれていたことを発見するとき、誰しも生きていて良かったと思うだろう。この作品はつまり、死の概念に囚われ、死の実体化を目前にした男を媒介として、単調でも退屈でもくだらなくても生きることそれ自体に、私たちの生命の存在理由が存在することを逆説的に証明したお話だといえると思う。

“最後の一日”を過ごすジョージの身の上に起こる、ささやかだがかけがえのない美に満ちた出会いの折々に、ジョージは伴侶ジムとの思い出をかみしめる。ジムとの穏やかな日常、ジムを突然の事故で永遠に喪ったあの日の衝撃、チャーリーとの腐れ縁をジムから指摘されたとき、彼の言葉の裏側に棘と嫉妬が入り混じっていたこと、バーで初めてジムと出会ったときの胸ときめく甘美な思い出。それらの美しいシーンが、ジョージの脳裏で繰り返される“死の予行演習”のイメージによって何度も浸食されるのだ。思い出はいつか消え去り、ジョージも観客も否応なく一つの結末に向かって引きずられていく。甘く刺激的で鮮明な日中夢と、水の底に沈みこんだような不透明で重苦しい死のイメージが絶えず競り合う不穏な美に満ちた映像。これが初監督作品だとは到底思えないトム・フォード自身の、堅固な美意識を感じさせて余りある見事なものだ。

ファッション・センスの半分は、色に対するセンスの良し悪しに左右されると個人的に思っているが、この作品に溢れる“色”は、ストーリーの変化を雄弁に物語るキーポイントだ。最後の一日の朝に、ジョージが悪夢から目覚めたときは、照明も極力光を落とされ、映像全体の色合いは濁ったブルーのような暗いものであった。いけ好かない隣家のおませ少女と鉢合わせるも、彼女の本当の可愛らしさに気付かされるシーンでは、彼女のお提髪も目の色も明るく照らされ、何よりパステルカラーのドレスが日差しに反射して、映像全体も明るく変わり始める。芝生でガールフレンドと語らうケニーの白のセーターが、日差しに照らされてふわふわと輝く様子。ジムと一緒に大切に飼っていた犬にそっくりの犬を駐車場で見つけ、思わず抱きしめるジョージの横顔。車にもたれ、夕陽を見つめつつカルロスと語らうときの画面いっぱいに満ちるオレンジ色の鮮やかさ。ジョージが“生きる”素晴らしさに気付くたびに、画面は明るく輝きを増していった。

冒頭の悪夢のシーンから、ジムに関する“色”は暗く、重いイメージから始まる。くすんだグレーとダークブルー、大破した車の下敷きになって血まみれになったジムの遺体のイメージ。ジムのモノクロの写真から解かれる思い出のシーンも、まだモノクロのままだ。飼い犬とたわむれるジム、レコードを聴きながら自宅でくつろぐジムと他愛ない冗談を交わすシーン…と、ジムとの思い出が、ジョージの心の中で徐々に“死”の暗く冷たいイメージから、淡い明るみを帯びた色合いに変化していくことが分かる。そして、ジョージの一日の最後に、思い出を逆に辿っていくように、ジムと初めて出会った時のことがジョージの心の奥底から掘り起こされてくるのだ。現実のジョージも一日の最後を迎えていたが、彼ら2人の出会いも夜のバーだった。だがその映像は明るく賑やかで、ジムの美しさが際立つような目にも鮮やかな“白”が画面を支配していた。こうして、一日を終える頃には、ジョージのジムとの思い出も、死のイメージからようやく解放されてビビッドな色彩を取り戻すのだ。まさに、キャラクターの心理状態を代弁する役割を“色”が果たしているといえる。

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ファッション・デザイナーの中には映像世界に自然に足を踏み入れていく人が多いかもしれない。服も映像も極めて視覚的アートだから、共通する要素が多いと思う。加えてトム・フォード監督は元々大変な映画ファンで、膨大な映画知識を持っている傍ら、自身のブランドのスチール写真や宣伝等のアイデアも自ら監督していたそうだ。その片鱗はこの初映画監督作品にもよく表れている。例えば、ジョージの孤独をセリフではなく視覚で表現するために、カメラをコリン・ファースの顔に接近させ、超至近距離で表情の微細な変化をつぶさに捉える手法。あるいは、老いが忍び寄る中年女性の顔に容赦なくカメラを近づけ、チャーリーが念入りにメイクを施して老いを隠していくシーンに、チャーリーのこれまでの人生の哀れを集約させる手法。またその表現を、彼女の目のアップだけで見せてしまう技など、なかなかどうして初映画製作とは思えない手練れだ。

また、原作となったクリストファー・イシャーウッドの小説を読み返してみて驚いたが、今作の脚本は、原作の設定を映像向けにかなり大胆に脚色していることに気付いた。ジョージの最後の1日に種々の“出会い”を用意したり、ジョージと“女性”の関係性を、原作の女性像にフォード監督自身の女友達のキャラクターも投影させてチャーリーという新たなキャラクターに集約させたり。そのアレンジは、極めて詩的で曖昧な文学性を有する原作を映像に変換させるために上手く機能している。また、“日常生活の中に眠る美の瞬間に感謝し、生きる大切さ”という普遍的なメッセージの輪郭を、より一層明確にすることに成功もしている。また原作同様、“大切な誰かを亡くした喪失感の痛み”、“現代社会の中で容易に取り残されてしまう孤独感”を、映像でもって痛烈に物語っている。原作を書いたイシャーウッドも、トム・フォード監督もゲイで、主人公ジョージもゲイという設定だが、今作はセクシュアリティーの問題を追求するものではない。仮に、ジョージが最愛の妻を亡くした人物だという設定でも十分成り立つストーリーである。要は、大切なものを失って初めて気付かされるものは何か、ということだ。この作品では、ジョージは、普段は見過ごしている周囲の世界にあるささやかな美を再発見し、他者との絆を見つけて孤独を脱却し、生きる意味と喜びをそこから見出してゆく。それこそが、この作品の最も大きなテーマであるといえる。

インタビュー等でフォード監督が語っていたが、今作のジョージの物語にはフォード監督自身の半生も投影され、半自伝的な内容になっているそうだ。トム・フォードといえば、私ですら名前を知っているほどの著名なデザイナーであり、若くして大きな成功を収めた人物。名誉、金、地位、最高のパートナー…、全てを手に入れ、人もうらやむほどの人生の勝者であった。だからこそ、中年期に差し掛かった時に誰もが襲われる“ミドルエイジ・クライシス”の影響を、フォード監督は誰よりも強烈に受けたのだろう。物質的な成功に長時間囲まれ過ぎ、精神面での成長がすっかりストップしてしまっていたことに、中年期になって初めて気付いて衝撃を受け、壊れてしまったのだ。ジョージが本作中で苦しむ“巨大な喪失感”は、ミドルエイジ・クライシスに苦しんでいたフォード自身の底知れぬ喪失感と共通する。原作者イシャーウッドはインド哲学に傾倒することで孤独の試練を乗り越え、フォード監督も自らの内面に向き合い続けることでようやく自分自身を取り戻した。ジョージが、日常生活の中で出会う様々な美、絆の美しさに触れ、やっと生きる自信を取り戻したように。

このような非常に内省的なストーリーを語るうえで、4人の登場人物を演じる役者陣には、極めて高い演技力と存在感が同時に要求されるのは明らか。主人公ジョージは肉体的な動きも少なく、演じたコリン・ファースは全編ほぼ顔の表情の微細な変化のみでジョージの内面の変化を表現せねばならなかった。それは、チャーリーに扮したジュリアン・ムーアも、ケニーを演じたニコラス・ホールトも、物語の要所要所で登場して場をさらっていったジムを演じたマシュー・グッドも同じだ。一目で観客の目を惹きつけるチャームと、目の動きだけでキャラクターの感情を伝える才能。4人の役者陣の素晴らしさがあったからこそ、今作は成功したといえる。


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