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zoom RSS 「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」

<<   作成日時 : 2016/05/25 16:43   >>

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【ご注意】私はノベライズ版の「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」は一切読んでいません。

幽霊は実在する。私には分かる。この目でずっと見てきた。 Ghosts are real, that much I know. I've seen them all my life.

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「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」(2015年)
監督:ギレルモ・デル・トロ Guillermo del Toro
脚本:マシュー・ロビンズ&ギレルモ・デル・トロ
製作:ジョン・ジャッシニ&カルム・グリーン&トーマス・タル&ギレルモ・デル・トロ
撮影:ダン・ローステン
音楽:フェルナンド・ベラスケス
編集:ベルナート・ヴィラプラナ
出演:ミア・ワシコウスカ(イーディス)
トム・ヒドルストン(トーマス)
ジェシカ・チャステイン(ルシール)
チャーリー・ハナム(アラン)他。

20世紀初頭のニューヨークの街の様子は、今とは全く違っていた。人の往来は今と同じく多いが、道は泥だらけでぬかるみ、移動手段は車ではなく馬車であった。
そのニューヨーク州の北西部にあるバッファローに、一代で財を成した実業家カーター・カッシングが一人娘イーディスと暮らしていた。イーディスの母は彼女が幼い頃に既に亡くなったが、感染性の病に冒されていたため、イーディスは最後に母の死に顔を見ることも叶わなかった。葬儀が終わった日の夜、イーディスの枕元に黒い死の影を纏った母の亡霊が現れた。実はイーディスには、死者と意思を通ずることができる不思議な能力が備わっており、このときも母の霊は、娘の将来に立ちはだかる脅威を警告にやってきたのであった。しかし、まだ幼いイーディスにそれを理解するのは不可能であったし、長じて母の警告の意味が分かったときには、既に手遅れだった。

成人したイーディスは、狭いニューヨーク社交界の中では“はぐれ者”で通っていた。同じ年頃の良家の子女たちが、やれファッションだの、やれボーイフレンドだのにうつつを抜かす中、ただ1人、初の小説執筆に夢中になっていたのだ。彼女が完成させようとしていたのは、かのメアリー・シェリーが著した名著「フランケンシュタイン」のようなゴシック・ホラー。女性の小説家に求められるような、通俗的な恋愛小説には全く食指が動かなかったからだ。カッシング氏は、社交界のパーティーにも無関心な変わり者の娘に内心ため息をつきつつも、親心から、彼女のために高価な万年筆をプレゼントし、出版社に彼女の原稿を読んでくれるよう頼み込んでもおいた。娘の将来を案じないわけではなかったが、最近、カッシング氏の会社の事務所と同じ建物内に、イーディスの幼馴染で眼科医になったアラン・マクマイケルが開業したために、多少なりとも氏も安堵できた。なにしろ、娘同様変わり者のアランなら、イーディスの傍にずっとついていてくれるだろうから。

案の定というべきか、出版社からは剣もほろろに突き返された原稿を、手書きではなくタイプ打ちのものにすべく、イーディスは会社の事務所でタイプライターと格闘していた。そこへ、準男爵の称号を持つという青年トーマス・シャープがイギリスから遥々やってきた。自作の粘土掘削機をカーター氏はじめ重役たちに披露し、投資を呼び掛けるためだ。カーター氏は、弁舌さわやかに装置の有用性を訴えるトーマス自身に後ろ暗さめいたものを感じ、投資は断る。ところが、トーマスとその姉レディ・ルシールは、ニューヨーク社交界の重鎮たるアランの母マクマイケル夫人主催の舞踏会に招待されており、しばしニューヨークに滞在するようだ。困ったことに、色恋沙汰には全く縁がなかったイーディスが、その免疫のなさ故に、物腰柔らかくイーディスの小説を褒めるトーマスに惹かれているようでもあった。想定外の事態に備え、カーター氏は探偵ホーリーを雇い、シャープ姉弟の身辺を探らせた。その結果は驚くべきものであった。
マクマイケル夫人の舞踏会に自らイーディスを迎えにきたトーマスは、マクマイケル夫人の娘ではなくイーディスをワルツのパートナーに選び、ルシールのピアノの伴奏で一曲踊り終わる頃にはすっかり意気投合していた。仲睦まじい2人の様子を不安げに見守る者の中には、カーター氏、アランの他にもう1人、ルシールの姿もあった。カーター氏はシャープ姉弟を夕食に招き、自ら小切手を切って手切れ金を彼らに渡し、イーディスに二度と近寄らぬこと、明日の朝一番にニューヨークを発つことを約束させた。
ところが翌朝、クラブのバスルームにいたカーター氏は、音もなく背後に忍び寄った何者かによって頭を滅多打ちにされ、殺害されてしまった。その頃、真相をしたためたトーマスの手紙を読んだイーディスは、イギリスに戻ろうとしていた彼の後を追い、涙ながらに再会を果たしていたところであった。カーター氏の遺体の確認、葬儀と、衝撃的な出来事によって心労が続いたイーディスの側には、当然のようにトーマスが寄り添っていた。結局天涯孤独の身の上になったイーディスは、トーマスと共にイギリスに渡ってしまう。一方、“クラブの洗面台で足を滑らせて頭を強打した”という検死結果に違和感を覚えていたアランは独自に捜査を開始。カーター氏が、死の直前に探偵ホーリーを雇ってシャープ姉弟を密偵させていたことを知り、彼と接触して恐ろしい情報を聞き出した。

トーマスの屋敷にやってきたイーディスは、廃墟のごとく荒れ果てた建物そのものにも驚いたが、人里離れた何もない荒涼とした土地の厳しさにも驚く。そして、今にも崩れそうな陰鬱な屋敷の中では、“よそ者”の心をさらに憂鬱にする、ルシールの敵意に満ちた歓迎が待っていた。イーディスは程なくして、屋敷内で新たな霊の出現に悩まされるようになる。彼らはイーディスに付きまとって離れないのだ。イーディスに付き纏っているのは霊だけではない。ルシールは屋敷の家事全般を取り仕切っているが、それはつまり、イーディスとトーマスのやり取り全てを監視することも意味するようであった。彼女はイーディスの一挙手一投足を見張り、弟と彼女が必要以上に近付き過ぎないようにしていた。

霊たちが自分に何を訴えたいのか分からないイーディスは怯え、憔悴し、トーマスに訴えるも、粘土掘削機の実現に夢中になっているせいか、あるいは別の思惑があるのか、彼は妻に奇妙な苦みのある茶を与えて気のせいだと言うばかりだった。屋敷で暮らし始めてから体調が悪くなり、相変わらず付き纏う幽霊の気配が切迫したものであることから、イーディスは危機感を覚える。掘削機の試運転中に手を負傷したトーマスが、この屋敷周辺の土地一帯を、“クリムゾン・ピーク”と呼び習わすと漏らしたことが彼女の恐怖を加速した。遠い昔、母の霊が警告しにやってきたのは、このことであったのだ。またその頃アランは、イーディスを救うためにイギリスに向かっていた。

イーディスは衰弱しつつも迷路のような屋敷内を調査し、とうとうシャープ姉弟の秘密に辿り着く。姉弟は掘削機への資金援助を求めて複数の都市に赴き、その実、身寄りのない裕福な女性を騙して結婚し、屋敷に連れ帰って殺害していた。屋敷の維持と装置の開発に必要な莫大な金を捻出するため、無一文の姉弟は彼女たちの財産を奪っていたのである。自分も毎日毒入り茶を飲まされていたことを知ったイーディスだが、一日中ルシールに監視されている上に冬が到来し、雪に埋もれた屋敷から脱出することは不可能になってしまった。
ある夜、夢に出てきた幽霊が、赤ん坊の霊を抱いた姿でイーディスの前に出現した。彼女はトーマスと結婚して屋敷に来た挙句、毒殺された“花嫁”の1人だったのだ。彼女が悲しげに指差す場所ではルシールとトーマスが同衾しており、ついに姉弟の秘密が全て露見した。殺人鬼の正体を現したルシールはイーディスを最上階から突き落とす。天井の穴から屋敷内に降り落ちた雪がホールに積もっており、かろうじて一命はとり留めたイーディスだったが、カーター氏の遺産の相続を完了した彼女には、殺害されるまで一刻の猶予もなかった。

雪を掻き分けシャープ邸にようやく到着したアランは、ルシールが少女の頃に実母を殺害した事件を掲載した新聞記事をイーディスに見せる。衰弱しきったイーディスを連れ出そうとするも、過去の殺人の口封じのため、姉弟によって刺されてしまった。退路を断たれたイーディスは、ナイフを振りかざすルシールに遺産の譲渡を迫られる…。

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パシフィック・リム Pacific Rim」から2年後、かねてからの希望通り、ゴシック・ホラーの古式ゆかしい世界観を現代風に復活させた意欲作を完成させたギレルモ・デル・トロ。このブログで彼の作品を取り上げるのは4作目になりますね。本日は「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」のお話をしたいと思います。

ギレルモのフィルモグラフィーの中でも、「デビルズ・バックボーン El Espinazo del Diablo」や「パンズ・ラビリンス Pan's Labyrinth」といったアート色濃い作品群は、これまではスペイン語で製作されてきました。ハリウッド資本の下で製作された「ミミック Mimic」や「ブレイド2 Blade II」、「ヘルボーイ Hellboy」などの一連の作品群とは趣が異なり、ギレルモ自身のパーソナルな世界観がより強く反映された作品ばかりですね。この流れを汲む作品を、ギレルモ自身はじめて英語で撮りあげたのが、この「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」です。

科学の黎明期には、それはまだ“魔法”の世界とへその緒でつながっている状態でした。19世紀から20世紀にかけて、現在の私たちが享受しているような姿の科学の雛形が産声を上げた頃、この、科学と魔法の間の軋轢は最も激しくなりました。その葛藤の後、科学は魔法から完全に切り離され、独自の成長を続けることになるのです。「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」の舞台は、科学が魔法から自立しようともがいていた時代。言い換えれば、現実世界と非現実世界の境界線が乱れ、時に両方の世界が浸食し合ったり、またある時には隔離されたり、混とんとしていた時代でした。ですから、幽霊というこの世ならざるもの達が、私たちの住む世界に侵入してきた、なんてことも、実際に起こっていたのかもしれませんね。

“ゴシック・ホラー”の定義については、はっきりした基準が設けられているわけでもないので、私ごときに解説できるものではありませんが、ギレルモ自身やスタッフ、キャスト陣がインタビューで明らかにしたヒントを辿っていけば、ギレルモがこの作品で何を復活させたかったのかは、自ずと理解できると思います。日本では、その辺りの情報もきちんと網羅された映画用のパンフレットが発売されていますので、入手できる人は映画パンフレットを購入し、滝本誠氏の記事など読んでみるといいと思いますよ。面白い内容ですし、読みごたえもあります。

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また、本編に登場する美術や衣装、小道具等が、どこから着想を得て創られたのか、そのインスピレーションの源泉を探索することも、ギレルモの作品では殊の外重要な作業となります。これらについても、日本版の映画パンフレットは実に有用な手引書です。興味を持たれた方は是非、パンフレットで紹介されている“クリムゾン・ピーク Crimson Peak”を形作った要素たるゴシック・ホラー、ゴシック・ロマンスの名作小説、ラファエル前派 Pre-Raphaelite Brotherhoodの画家たちの作品群にも触れてみてください。そうそう、このブログでも以前とりあげた、ロマン主義の代表的風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー Joseph Mallord William Turner (「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」)の諸作品も、映画の背景を理解する手助けになるかもしれません。探っていくと、大変興味深い世界が四方に広がっていくので、面白いと思いますよ。

さて、この作品が公開された後に出てきた批評は、実際のところ賛否両論分かれていたように思われます。理由は明白。映画配給会社側が映画のセールスポイントにしようと目論み、また多くのホラー映画ファンが今作に期待していたのであろう、“ホラー映画”ジャンルの中の“お化け屋敷”要素が、この作品にとっての主題ではなかったことですね。ギレルモはじめ、作り手側は、この映画を“ゴシック・ロマンス”、あるいはサスペンスフルな要素も加えた心理ドラマと位置づけていたのに、配給会社とホラー映画ファンはお化け屋敷映画と認識しようとしていたことで、混乱した観客がかなりの数いたのではないでしょうかね。普段から、ぐちゃどろゾンビ映画だの、人体がぶった切られるスラッシュ映画を見慣れ過ぎているホラー・ファンにとっては、この作品は彼らの要求にはそぐわない映画だったでしょう。

映像技術を駆使して映像化された幽霊たちの造形、あるいは幽霊の住む屋敷の陰惨な雰囲気といったものが呼び覚ます恐怖の演出は、このお話の主題であるイーディス、トーマス、ルシールの間の緊迫感あふれる心理戦を盛り上げ、時にストーリーを先に推し進める推進力の役割を担っているのだと、個人的には考えています。間違っているかもしれませんけどね。ある映画サイトで、この幽霊の映像があまりにCGっぽくて興覚めだったと評されていたのですが、後にギレルモやスタッフのインタビューをみてみると、CGオンリーの映像ではなく、ギレルモの盟友にして彼の監督作の常連俳優であるダグ・ジョーンズ Doug Jonesがどえらいメイクを施して(後で画像を見たのですがホンマにものすごいメイクでした)実際に演じている映像がメインになっているとのこと。その通りだと思いますよ。イーディスの母親の幽霊や、ルシールにぶっ殺された姉弟の母親の幽霊などのリアルな動きを見た瞬間に、私などは“これはダグ・ジョーンズさんに違いない”と直感しましたからね(笑)。

壮麗なお屋敷なのだけど、死臭と霊気が漂うような不気味な館を舞台にしたゴースト・ストーリーときくと、私たちは反射的に「アッシャー家の末裔 La Chutte de la Maison Usher」(1928年)のような、何もかもがぼんやりとした霧に包まれたような、夢遊病者の見る夢のような曖昧な世界を連想しがちです。でも、ギレルモの内的世界というのは、例えば「パンズ・ラビリンス Pan's Labyrinth」でも明らかなように、全ての事象の輪郭がくっきりと明確であり、それぞれに質量を伴っていることが特徴。それらの、原色、明快な輪郭、リアルな質感という映像イメージと、死と生、過去と未来の曖昧な境界線上でゆらゆらと彷徨っているかのような霊魂の世界とは、一見すると相容れないようでもあります。

ところが「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」では、トロントのスタジオ内に実際に建てられた巨大な屋敷のセットの、細部まで凝りに凝った内装、例えばトーマスの作業部屋にある大小さまざまな装置の部品、からくり人形の頭部などの小道具、イーディスとルシールのドレスのデザインの差異とその布地の肌触りの違いまでが、こちらに伝わってくるような極めて立体的な衣装、そういった、映像を構成する一つ一つのピースを細部に至るまですべて完璧に作り込むことで、却って、外界のノーマルな世界との違和感が増していく作りになっていました。そんな、あまりにも人工的な美を極めた人工美の世界は、私たちが知る現実世界とは明らかに相容れませんし、仮にあったとしても周囲から浮いてしまうでしょう。そこへ、“この世ならざる存在”が出現したとしても、不思議はないわけですね。
この映画では、舞台となる屋敷の壁、床、天井、柱といったものが、屋敷にやってきたイーディスが元気だった頃に身に着けていたドレスの華やかさ、あるいは、衰弱してから纏うレースの部屋着の儚げな軽さ、今にも朽ち果てそうな屋敷の陰鬱さと一体化しているような、ルシールの重々しくて古びていて大仰な意匠を凝らしたドレスの暗さが、時には登場人物のセリフのやり取り以上に雄弁に、彼らの内面やそのシーンの空気を“解説”してくれるのです。それらは、“意図的に外界から切り離された屋敷内”という異世界の異常性を、映画上映中ずっと暗示し続けることになるわけですね。それがつまり、ギレルモにとっての“幽霊の世界 another world”の表現の一形式なのだろうと思いました。

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シャープ姉弟の屋敷が、意図的に外界から切り離され、孤立した世界を構成していたのには理由があります。第一は、人里離れた寂寞とした荒地にひっそりと建っていたという地理的な理由。由緒正しい古いお屋敷にはありがちなことですね。第二の大きな理由は、ルシールの存在です。外界から、社会から、俗世から切り離され、無責任で無神経で無能な両親を持ったばかりに、まともな子供時代を過ごせなかったルシールとトーマス。一家の金を湯水のように使い果たした放蕩者の父親、その父親から家庭内暴力を受けていたらしい非力な母親は、我が子である姉弟を、思うに任せぬ現状への不満の捌け口にしていたようです。本編で明かされたことと、トーマスとルシールの力関係を示す2人の行動から鑑みるに、子供の頃特別扱いされ、甘やかされていたのはトーマスの方であり、ルシールは恐らく、トーマスを溺愛する母親から目の敵にされていたのでしょう。トーマスが悪さをしても、母親がお仕置きをするのは姉のルシールだったのですから。それでも子供のルシールは、母親に反抗することはできませんでした。彼女が母親を倒すにはまだ力が足りなかったから。親からの愛情を得られず、狭い空間の中で息を潜めるようにして暮らしていた姉弟にとって、頼れるものはお互いのみ。先日ブログで取り上げた「橋からの眺め A View from the Bridge」同様、密室の空間内に幽閉されていたも同然の彼らが、一般的な意味での姉弟の関係を超えてしまうのは、まあ予想できる成り行きですね。

ルシールたちが成長し、身長も知恵も大人と拮抗するようになってくると、屋敷内でのヒエラルキーが変わります。実の親によって、愛情の代わりに恥辱と暴力を与えられ続け、ルシールの誇大妄想と被害妄想は肥大化しました。年頃になるまでには彼女は立派なサイコパス Psychopathと化していましたが、当初は純粋に、彼女の唯一の生きがいにして生きる理由そのものだったトーマスを守るためだけに、両親の理不尽な仕打ちにも耐えていたのでしょう。子供の頃のトーマスとルシールは、そうやってお互いに支え合いながら最悪の環境を生き延びたわけですが、長じてからは、ルシールはトーマスと身体の関係を結ぶことで彼を“共犯者”に仕立て、自分の人生に永遠に繋ぎ止めようとします。彼女にとって既に母親は敵ではなくなりましたが、トーマスと2人だけの世界を完成・維持するために、彼女は弟も母親殺しに加担させたのだろうと思います。実際に手を下したのはルシールでしたが。

アランが暴露したように、ルシールは実母殺しで精神病棟行きになりますが、再び屋敷に戻ってからは、ルシールは屋敷を大きな繭に作り変え、その中に自分もろともトーマスをも閉じ込めてしまいます。その後は映画本編で描かれている通り、トーマスの発明を実現させるため、また、2人の世界のすべてである屋敷を維持するため、ルシールはトーマスを使って青髭 La Barbe Bleueよろしく金持ちの女と偽装結婚してはその財産を奪う犯罪に手を染めたというわけですね。屋敷内にあった売れる調度品はすべて売り払った挙句、万策尽きて恐ろしい犯罪に突き進んだようにも見えますが、その実、“殺人”は成人したルシールが得た新たな自己存在証明の方法、第2の生きがいになりましたから、新妻殺しには多分に彼女の趣味を兼ねていた部分もあったでしょうね。

余談ですが、他者の命を自分の手で無理やり奪うという行為は、ある種の人間にとり、最高の自己確認の儀式になりえます。人を殺す行為は、その被害者が象徴する“自分以外の大勢の人間たち”、もっといえば“自分を傷つける大勢の人間たち”にも同時にとどめを刺していることを意味します。殺人者は、被害者を通じて目に見えぬ彼/彼女の敵に“勝った”ことになるわけです。だからこそ、常に何かの形で自己存在を証明する必要がある人間の中には、殺人という方法を選んでしまう者もいるのです。

もし私やあなたがルシールの立場にあったらどうするか。自分が家族の誰からも愛されない、最愛の弟さえも自分を怖がりこそすれ、敬意を払ってくれているわけではない、そんなクソッタレの家に生まれついてしまったら?普通の人は、そんなクソッタレな家からはさっさとおさらばして、どこか新しい場所で新しい人生をやり直そうと考えると思います。なぜルシールはそうしなかったのでしょうかね。生まれ落ちた時からずっと、現世とあの世を結ぶ屋敷で常に死の淵を見つめつつ生きてきて、いつの間にか死そのものに魅了され、支配されるようになってしまったのか。もしそうであるならば、成長の代償として人間が背負う“恐怖”の概念が、ルシールの足を屋敷に引き留めてしまったとも考えられますね。ルシールにとっての恐怖は、屋敷という繭から外に出てトーマスとの絆を失うこと、もっといえば、トーマスの関心が自分から離れていくことでしょうから。

ただ、ルシール自身はトーマスの手を血で汚させてまでも、彼と一緒にいることに固執しましたが、たとえイーディスという異分子が彼らの世界に割り込んでこなかったとしても、弟と2人だけの、純粋培養のような生活は長くは続かなかったと思います。トーマスは、姉にばかり心身双方の苦しみを背負わせてきたという負い目が強烈にあったでしょうから、ほとんど彼女への贖罪のためだけに彼女が主導する犯罪にもおとなしく従ってきたのでは。それまでは女といえば姉しか知らず、別の女性に愛情を抱いた経験もなく、財産目当てに騙した女たちは、単なる金づるでしかありませんでしたから、ルシールとトーマスの共犯関係も、男と女としての関係もうまくいっていました。

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ところが、イーディスが現れてルシールの作った繭の世界に綻びを生じさせると、そこから垣間見える“繭の外の世界”がトーマスを変えていきます。ルシールへの罪悪感からあえて封じ込まれていたトーマスの自我が、とうとう目覚めたわけですね。彼は初めて自分の意思でイーディスを選び、当初こそ“ターゲット”でしかなかった彼女を愛するようになりました。文豪スタンダール Stendhalいわく、“人は、恋をしてはじめて、すべての子供らしさから脱皮する”と。ならば、トーマスはイーディスを愛してはじめて、これまで彼が唯一知っていた世界―子供時代から続く姉と2人だけの世界―から脱皮しようとしたのでしょう。彼は姉に殺される直前、当の姉に、この屋敷を出てどこか別の場所でやり直そうと懇願しました。これこそは、ルシールの世界が存在意義を失うことを意味する言葉であり、彼女が最も恐れていた言葉、彼女への死の宣告にも等しい言葉でした。それが現実になるぐらいなら、ルシールは自らの手で最愛の弟を殺すことに躊躇しなかったはずですね。

“無知”は何よりも、誰よりも強力な武器です。何故ならば、それは恐怖を知らぬから。ルシールとトーマスの繭の世界に風穴を開けたイーディスは、無知かつ無防備な人間でした。彼女こそ、安全で快適な繭に包まれて安穏と生きてきた、世間知らずのお嬢ちゃんです。なるほど、彼女に憑りつく幽霊たちを怖がってはいましたが、当初彼女がそれら幽霊に対して抱いていた怯えは、子供のそれと全く同質のもの。その後の彼女が、愛する夫から受けることになる恐怖と苦痛と悲しみに比べれば、蚊に刺される程の衝撃でしかありません。

イーディスというキャラクターは、真っ白な無の状態から、恐怖、苦痛、怒り、悲しみといった激しい負の感情を経験し、一度はボロボロに傷つけられながらも、そこから再び立ち上がる力を得ます。いわば、大人になるための通過儀礼を潜り抜け、立派にサバイヴしたわけですね。「パンズ・ラビリンス Pan's Labyrinth」のヒロイン、オフェーリアを連想させますが、オフェーリアと違い、イーディスの強みは自らの手で“おとぎ話”を書けることでした。オフェーリアもイーディスも、現実と戦い、周囲の人たちの目には見えない彼女たちだけの“王国”を自らの心の中に築こうとしました。オフェーリアは、自分だけの王国の世界を自ら実際に生きるために、イーディスは、彼女の王国に自らの経験を吹き込んで文字という形で可視化するために。イーディスは現実世界での戦いに辛うじて勝利し、心の中だけに在った彼女の世界に命を吹き込み、文字によって実体化することに成功しました。
この「クリムゾン・ピーク Crimson Peak」という映画の面白いところは、主人公が文字を使って目に見えない世界―幽霊が彷徨う異世界も含め―を実体化できる点です。映画の最後に、この陰惨で悲哀に満ちた恐ろしいおとぎ話が、その世界から無事に生還した主人公自身によって書かれた物語だったことが分かる仕掛けになっており、その古式ゆかしいゴシック小説、ゴシック映画の形式に則った語り口は、私は好きですよ。

ともあれ、ギレルモによる妖しくて美しい異世界に命を吹き込んでくれた、ミア・ワシコウスカ(イーディス)、トム・ヒドルストン(トーマス)、ジェシカ・チャステイン(ルシール)、そしてチャーリー・ハナム(アラン)の競演に感謝したいと思います。彼らの緻密かつ繊細な演技のアンサンブルがなければ、この映画自体が、生きて呼吸することも不可能だったでしょう。

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