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zoom RSS 「橋からの眺め A View from the Bridge」NT Live 2016

<<   作成日時 : 2016/06/12 22:06   >>

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日本時間で6月13日早朝より開始する第70回トニー賞 Tony Awards受賞セレモニー。本国ではカウントダウン状態に入っておりまして、例年以上の盛り上がりをみせています。今年のセレモニーの司会は人気深夜番組“レイト×2ショーwithジェームズ・コーデン”のジェームズ・コーデン James Corden。以前このブログで、近々彼の時代が来るぜと予言した甲斐がありまして(笑)、ついにトニー賞の司会を務めるまでに出世した晴れ姿をみるのが楽しみです。
「橋からの眺め A View from the Bridge」は第70回トニー賞で5部門にノミネートされており、個人的には、マーク・ストロング Mark Strongの主演男優賞とイヴォ・ヴァン・ホーヴェ Ivo Van Hoveの監督賞を受賞してくれたらいいなあと願っておりますよ。

“There is always some madness in love. But there is also always some reason in madness. 愛情にはいつも何がしかの狂気が潜んでいる。しかし狂気の中にもまた、常に何がしかの理性が隠れているものなのだ。”Friedrich Nietzsche フリードリヒ・ニーチェ

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「橋からの眺め A View from the Bridge」 ナショナルシアター・ライブ2016 National Theatre Live in Japan 2016
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ Ivo Van Hove
原作:アーサー・ミラー Arthur Miller
美術・照明:ヤン・ヴァースウェイヴェルド
衣装:アン・ディフイス
音響:トム・ギボンズ
出演:マーク・ストロング(エディ)
フィービー・フォックス(キャサリン)
ニコラ・ウォーカー(ビアトリス)
イーモン・エリオット(マルコ)
ルーク・ノリス(ロドルフォ)
マイケル・グールド(弁護士アルフィエーリ)
リチャード・ハンセル(ルイス)
パドレイグ・リンチ(移民官)

法律屋というのは、どんな社会でも煙たがられる存在だ。でも、一般市民は大概法律に明るくない。だから、外国から命がけでアメリカまで密航し、不法滞在しているような移民たちは、最終的に私のような者に頼らざるを得なくなるのだ。彼らの敵は移民官であり、彼らの最悪のシナリオは不法滞在が移民官に知れ、故郷に強制送還されることだから。
かくいう私も、アルフィエーリという名前が示す通り、ルーツはイタリアにある。だが私にとってのイタリアは、ブルックリン橋の向こう側に広がる海のそのまた彼方にある遠い国だ。私達イタリア系移民の今の住処はここニューヨークであり、郷に入っては郷に従う世の習い通り、今じゃいっぱしのニューヨーカーなのだ。そして、橋の海寄りの入り江に面した貧民街に多く暮らしている、私と同胞であり、同時に私のクライアントの大半でもあるイタリア系移民たちは、港湾労働者として日雇いの重労働に耐えながら、なんとか毎日をやり過ごしている。そんな状態でも、仕事が全く無く、食べるものにも事欠くような故郷よりは、ずっとマシなのだ。だから私達は皆、豊かな暮らしを毎日夢見てはいるが、結局は“ほどほど”のところで満足しているというわけだ。
私のクライアントであったエディ・カルボーンも、毎日低賃金の重労働に耐えつつ、週末に仲間とボーリングに行くのを唯一の余暇にしているような、“ブルックリン橋の海寄りの入り江”にならごまんといる男たちの中の1人に過ぎなかった。

キャサリンは17歳になった。両親は幼くして亡くしたが、母親の姉ビアトリスとその夫エディ・カルボーンに引き取られ、実の娘として大切に育てられたので、これまで一度も寂しさや辛さを感じたことなど無かった。エディもビアトリスも、未来を夢見てアメリカに渡ってきた移民であり、移民官の監視の目をかいくぐりながら毎日身を粉にして働いた。移民の国といわれるアメリカ社会でも、最下層の貧民街での生活を強いられていた夫婦だが、キャサリンには出来る限りのものを与えてきた。彼女のより良い将来のために、時には食事を抜いてでも学費を捻出し、彼女を学校にも通わせた。特にエディはキャサリンを目に入れても痛くないほどに溺愛しており、キャサリンの方も赤ん坊の頃から一点の曇りもない信頼をエディに寄せていた。
子供というものは愛おしいものだ。親に力を与えてくれる。どんなに酷い生活でも、また毎日どんなに疲労困憊して帰宅しようとも、元気いっぱいのキャサリンが飛びついて出迎えてくれる可愛らしい様子を見るだけで、エディは疲労と苦労の双方が吹き飛ぶような心持ちがした。エディにとって、キャサリンとの愛情に満ちた触れ合いこそが、生きる意味と目的の全てであったといっていいだろう。キャサリンはキャサリンで、エディが玄関の前に立つ足音を聞いただけで、その日のエディの体調まで分かるほど、エディのことを深く理解していた。長い間一つ屋根の下で親密に暮らしていれば、良好な親子関係も出来るだろう。

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ところが、女の子は殊のほか成長が早いものだ。すっかり大人になったキャサリンはみちがえるほど美しくなり、幼かった頃の面影はなくなっていた。娘を持つ親御さんなら分かるだろう、年頃になった娘との接し方の難しさを。後になって私も知ったのだが、キャサリンが長ずるに従ってエディとビアトリスが直面しなければならなかった様々な問題―男の子連中が年頃の女の子に性的関心を持って群がってくること―を、エディは異常とも思える執拗さで全てシャットアウトし、キャサリンを大切に箱の中に入れて守り続けていた。本人が成長して大人になれば、いずれは知らねばならぬ事々も、エディはキャサリンに一切教えなかったし、ビアトリスにも口を挟ませなかった。つまり、ごく一般的な基準で考えれば、キャサリンは異性との接し方といった方面では幼い子供同様、全くの無知であったというわけだ。美しいキャサリンには、まあ当然のことながら、何人もの男の子たちがフラフラ近寄ってきていたが、当の本人がそれを感知する前に、エディは彼らを全て追い払ってしまった。そして、エディ自身はといえば、以前と変わらず5歳の子供を相手にしているのと同じように、キャサリンに接していたのだからお笑い草だ。キャサリンが学校で優秀な成績をとり、卒業を待たずして大きな企業の事務職を斡旋してもらったのを機に、家を出たいとエディに申し出た時も、エディは不可解な言い訳を並べて頑なに猛反対した。…ビアトリスもこのエディの態度には困惑したことだろう。

どんなに可愛い花でもいつかは手放さねばならない。いくら可愛い娘とはいえ、いつかは親元を離れて自立するものなのだ。キャサリンが大人と呼べる年齢になっても、いまだ彼女を5歳の幼子扱いするエディのキャサリンへの献身と愛情は、父親の娘へのそれと比していささか過剰であったのは確かだ。が、ある時期をきっかけにそれが異常な執着に変ずるとは、私も思いも寄らなかった。

ビアトリスの従兄弟たち―兄マルコとその弟ロドルフォ―が、故郷のシシリー島を出てアメリカに出稼ぎに来ることになった。如何なる保障もなく、もちろん命がけの密航であり、無事にアメリカに辿り着いたとしても、密航を手引きした業者への莫大な借金を返済することから始まる過酷な日々が待っている。それでも、故郷の家族が飢餓の危機に瀕している状況から脱するには、こうするしか他に方法は無いのだ。
マルコは妻子持ちで、子供の1人が病を得たために薬代が余計に必要な状態だ。実直で我慢強く、頑健な昔かたぎの働き者。弟のロドルフォの方は独身で天真爛漫で陽気、人懐っこく、イタリア男には珍しく金髪色白のハンサムで、料理や裁縫などをこなして手先が器用。おまけに歌が上手いとくる。ほぼ無菌状態で世間知らずに育った若い娘がロドルフォに夢中になるのに、たいした時間はかからなかった。

キャサリンはロドルフォと年齢も近い。誰が見ても、この2人を可愛らしいカップルだと好もしく思うだろう。実際キャサリンは、ロドルフォのニューヨーク案内役を買って出たり、2人でキャサリンの古着を仕立て直したり、レコードを買いに行ったりと、順調に交際を続けていた。ロドルフォの兄マルコも、キャサリンの母代わりのビアトリスも勿論2人の未来を祝福する気持ちで見守っていた。ところが、エディ・カルボーンだけは違ったのだ。
大切に育てた娘が、何処の馬の骨とも知れぬ若造に掻っ攫われることを恐れる世の父親は、えてして娘の恋人を敵視し、彼への評価を必要以上に厳しくするものだ。ところが、エディのロドルフォへの嫉妬はそういう類のものではない。会社に就職するのを機に家を出たいという希望を持っていたキャサリンが、いずれ自分から離れていくだろうという事実を、エディは頑として受け入れなかった。そう、エディは、ロドルフォとキャサリンが惹かれあっていくことに、激しい嫉妬を燃やしていたのだ。
彼はそれまでの態度を翻し、キャサリンに対して辛くあたるようになった。そして、ロドルフォとマルコ兄弟を移民官の目から匿い、家に居候させてやっているという立場をいいことに、毎日のように兄弟にも辛辣にあたるようになった。立場上、エディに反論できない兄弟は、エディに侮蔑の言葉を投げつけられてもじっと我慢していたようだ。特にマルコは、故郷の家族に金を送ってやらねばならない。ここで忍耐を切らしてエディと揉め事を起こしてしまえば、移民局に突き出されて一巻の終わりだ。マルコはロドルフォにも、エディの前では自制するよう言い含めていた。ロドルフォとキャサリンの交際を、エディが反対しているから尚更だ。兄弟にとってエディの家での生活は、針の筵に座らされるような肩身の狭いものだっただろう。
兄弟がエディ家に転がり込んでくるまでは、エディとキャサリンは文字通り子供の頃と同じように親密な関係を保っていた。それが、如何に不自然なことであったか、当人達は全く気付いてはいなかった。悲劇のそもそもの発端は、そこにあったのではないかと、今の私は考える。

エディが私の事務所にやってきたのは、その頃だ。自分が“男として”ロドルフォに嫉妬し憎んでいることを、他ならぬ彼自身が認めたがっていなかった。その代わり、ロドルフォが、アメリカの永住権欲しさに如何にして狡猾にキャサリンを騙くらかしているかを私に言い募るのだ。エディは、そのロドルフォの魂胆が犯罪に相当することを、私に保障してもらいたがっていた。だがそれは、馬鹿げた言いがかりだ。仮に、ロドルフォが下心をもってキャサリンに近づいたのだとしても、彼女は自分の意思でロドルフォと交際することを選んだのだから。その延長で2人が結婚することになっても、それは犯罪とはなんら関係が無い。寧ろエディが為すべきことは、父親としてキャサリンとロドルフォの門出を祝福し、彼らを助けてやることだろう。裁判に訴えることなどできるものか!私は声を大にして、エディのキャサリンへの執着を、“親子の境界線を越えた間違った愛情”なのだと諭した。親密すぎる親子関係が、時として家族の一線を越えた愛情を産んでしまうことも珍しいケースではない。だから、エディも早くその事実に気付き、受け入れて、キャサリンとの間に普通の親子関係をとり戻すことだ。私は口を酸っぱくして、この頑固者に言い聞かせたつもりだった。エディが事務所から出て行った後は、彼の魂のために祈りさえ捧げたぐらいだ。

…だが、私も薄々分かってはいたのだが、エディは私の忠告に耳を貸さず、それどころか益々頑なに己の殻の中に引き篭もるようになった。ロドルフォと映画を観に行ったキャサリンの帰りが遅いと、夜中まで庭に立ち尽くして彼女の帰りを待ちわびたり、ロドルフォの下心をキャサリンに忠告するも否定されると、今度は態度を変えてキャサリンとロドルフォ両名辛く当たったり。挙句は、男のくせに料理したり、歌を歌ったり、古着の仕立て直しをしたり、ロドルフォは変質的な同性愛者に違いないとまで言いふらす始末だ。

ついこの間まで極めて良好だったエディとの人間関係が急に冷え切り、そのエディが自分とロドルフォを露骨に嘲笑し、陰険な嫌がらせをするようになった理由が、可哀想なキャサリンには理解できない。しかし、1人の女として、エディの変貌を傍で見つめていたビアトリスは、長年不審に思ってきたことが真実であったと確信し、1人心を痛めていたようだ。つまり彼女は、エディが美しく成長したキャサリンを女として意識し、性的な欲求に基づいて彼女に執着していると睨んだのだ。だからこそキャサリンに、エディに5歳の子供のように接するのを自重し、過剰なスキンシップも避け、お似合いのカップルであるロドルフォと早く所帯を持つようせっついた。その目的はただ一つ。一刻も早くキャサリンをエディから遠ざけ、最悪の事態が起こるのを避けること。
ビアトリスはロドルフォとの結婚をキャサリンに急かす一方で、エディはキャサリンとロドルフォの仲を裂くことに執念を燃やしている。長年親代わりだった彼らが、それぞれ正反対のことをキャサリンに強いてくる。キャサリンは混乱し、誰を信じてよいのか分からなくなった。おかげで順調だったロドルフォとも気まずくなり、彼の自分への愛情にすら疑心暗鬼に陥ってしまった。ロドルフォはロドルフォで、エディから公然と侮蔑の言葉を投げつけられるに至り、キャサリンを攫っていこうとしている自分にエディが男として嫉妬していることに気付く。こうして、マルコ、ロドルフォ兄弟、ビアトリスは、皆エディのキャサリンへの異常な愛情を覚り、エディ家には鉛を飲み込んだような重苦しい緊張が張り詰めるようになった。

その年のクリスマスがやってくるまで、エディ家は一触即発の不穏な空気で満たされていたが、法律に触れるような事態は起こらず、結局私は、根は良い人間であるエディを心配しながらも、手をこまねいているしかなかった。

そしてクリスマスの前日。その日は珍しく、エディ家にはキャサリンとロドルフォの2人だけがいた。彼ら2人の仲もすっかりぎくしゃくしており、その日は折角2人きりになれたというのに、禄に目も合わさず会話も無い状態だった。キャサリンはロドルフォに、エディと離れるよう圧力をかけられること自体に嫌気が差し、周囲の全てに懐疑的になっていることを告白した。子供の頃から親密だったエディに対し、手のひらを返したように急に他人の振りなどできるわけが無い。エディにもロドルフォとの結婚を祝福して欲しかった。しかし、ひな鳥は成長すると、自分にとって小さくなった巣から飛び立つ。ごく自然に。誰に強制されるわけでもない。親鳥もひなが無事に巣立つまで、それこそベストを尽くす。それが親子というものだ。キャサリンは、自分がとっくに出ていかなければならないはずの巣にいまだに閉じ込められているのだ。キャサリンは服を脱いでロドルフォにしがみついた。何も知らない自分に教えて欲しいと。
だが運悪く、そのタイミングでエディが帰宅した。自分の気配を察知して慌てて服を着込んだキャサリンとロドルフォを見たエディは逆上し、激情のままにキャサリンに口づけした。そして、ロドルフォが同性愛者であることをキャサリンに見せ付けたかったのだろう、愚かにもロドルフォにも無理矢理口づけしたのだった。エディの行動はもはや常軌を逸していた。キャサリンはエディを恐れるようになり、ロドルフォとの結婚を決意してエディの家から出ていった。

ある日、暗く思い詰めた目をしたエディが私の事務所にやってきた。顔色は悪く、目は空ろ。彼はまたしても、ロドルフォが同性愛者であり、キャサリンを騙していることは犯罪に相当すると虚しく言い募った。そして、私の必死の説得にも耳を貸さず、とうとう最後の一線を越えてしまった。つまり、移民の人間としての最も忌むべき罪―不法滞在している仲間の移民を移民局に密告すること、つまり仲間を売ること―を犯したのだ。
ニューヨークに暮らしている私達イタリア移民は、故郷から遠く離れた地で独自のコミュニティを作り、故郷を偲ばせる風習の一部を守りつつも、普段は大体において郷に入った生活を営んでいる。しかし、国民性というヤツは、外国に住んでいるからといって簡単には変えられない。シシリー島からアメリカにやって来たなら、いざという時、つまり己の人生に最後通告を渡されたような一大事が起これば、普段は眠らされている“シシリー人の血”が覚醒するということだ。それにこれは、イタリア移民だけの現象ではないはずだ。だれでも皆、一大事には持って生まれた血の本能に従って行動するのだろうから。
だからこそ私達イタリア移民も、一大事には故郷の地に置いてきた“イタリア人社会の掟”を尊重するんだ。アメリカの法律を無視してでも。そしてイタリア人社会の血の掟は、ごくシンプルな論理に基づいて構築されている。要は名誉だ。金ではなく、名誉が何より重んじられる。だから“仲間を敵に売る”という行為は、その人間の出自を問わず、言語道断の大罪になる。それを犯せば最後、罪を贖うには己の命を差し出さねば済まない。ニューヨーク、ブルックリン橋の海寄りの入り江付近に住まう移民たちにとっても、この血の掟は精神の根幹を支配するものだった。エディはその大罪を犯してしまった。自ら移民局に出向き、見知らぬタレコミ屋を装って、エディ・カルボーンの家に不法就労しているイタリア人が2人匿われていると密告したのだ。それもこれも、ロドルフォをイタリアに強制送還させるため。家を出たキャサリンを連れ戻すためだ。

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密告の罪を犯したエディ本人は、イタリア移民コミュニティからの信頼を一挙に失い、つまはじきにされた。この騒動の中、キャサリンは予定を早めてロドルフォと結婚式を挙げることにしたが、自暴自棄のエディは結婚式への出席を拒否し、ビアトリスにも、結婚式に出るならば二度と家に帰ってくるなと吐き捨てた。

マルコとロドルフォは移民局に拘束され、シシリーに強制送還させるかどうかの裁きを待つ身になった。…とうとうここで、正式に私の出番がきてしまったというわけだ。私は兄弟の弁護を引き受けたが、問題はマルコの方だった。ロドルフォはキャサリンとの結婚を控えていたので、結婚を条件に強制送還は免れた。マルコは古いタイプの男で、病気の子供の薬代のため、アメリカでも必死で働いていたのだ。彼の家族の生死は、彼のアメリカでの働きのみにかかっていたといえる。そんな危機的状況だからこそ、エディの嫌がらせや誹謗中傷にもひたすら耐えたのだ。そのエディに最大の裏切り行為を働かれたとあっては、彼はイタリア人社会の掟に則り、エディの血でもって復讐を成し遂げぬうちはシシリーに帰らぬと言うに違いない。案の定マルコは獄中でも怒り狂い、強制送還される前にエディを殺しに行くと息巻いていた。彼の気持ちは充分すぎるほど分かるが、そうなれば、マルコは二度とシシリーの家族の顔を見ることはできなくなる。エディへ危害を加えないと誓えば、私の力で、マルコが強制送還される日にちを数週間先延ばしに出来る。その間少しでも働いて金を稼ぐことを選ぶか、それとも、エディを殺害して残りの人生を牢獄で終えるか。
私だけでなく、ロドルフォもキャサリンも皆必死になって、血気に逸らぬようマルコを説得した。しかし、復讐心に燃えるマルコの怒りを抑えることはできそうになかった。エディはエディで、マルコとロドルフォこそがキャサリンをたぶらかし、エディの顔に泥を塗ったと言いがかりをつけており、こちらの頑固者もマルコに詫びる気なぞこれっぽっちも持ち合わせていなかった。

…坂を転げ落ちる石は、転がるたびに落下する速度を上げていく。人の運命もまた、一度坂を転げ落ち始めると真っ逆さまに落ちていくばかり、途中で止めることは不可能だ。私達人間の手ではどうにもならないほど巨大な力によって、私達の運命は支配されている。結局のところは避けようのなかった悲劇、食い止めることのできなかった最悪の結末。それを目の当たりにした私は、エディの中にあった、例えようも無く純粋で一途で、いっそ愛おしいとさえ言える不器用さが好きだったのだと、改めて思い返していた。

アーサー・ミラー全集 (2)
早川書房
アーサー・ミラー

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「アーサー・ミラー全集(2)」(早川書房版)

アーサー・ミラーの戯曲を読み進めていくと、ジョン・スタインベックの鬱々たる悲劇的な作品群を読んだときと同じ無力感に苛まれる。特に「橋からの眺め A View from the Bridge」は、この作品が書かれた1950年代のアメリカという時代背景と照らし合わせてもかなりリスクが高く、且つ極めてデリケートな“性認識”という題材に真っ向から取り組んでいる。そのため、観客の精神へのダメージも一層大きいと思われるのだ。なんといっても、性に関する話題はいまだに、一般的には公にすべきではない、恥ずべきものだという先入観に縛られてしまうから。
いたたまれなさの念押しではないが、今作で語られる“性”は、あらゆる性に関する現象の中でも一般にはタブー視され、その歴史は古く、また根強い“近親相姦”という現象だ。戯曲が書かれた当時の一般の反応は容易に想像できる。今作は、ギリシャ神話のように極限まで様式化された表現を借りながら、そこに作家ミラーの血肉となっている、人種の坩堝たるニューヨークの文化背景を織り込んだものになっている。

舞台こそニューヨークであるが、今作もまた他のミラー作品と同様に、古今東西に共通する人間の業の深遠を観客/読者に垣間見せている。それはまるで、地獄の底に通ずる奈落に堕ちていく人間を、恐々覗き見た時に感じる、恐怖と抑えきれない好奇心がもたらした絶望に似ている。

2016年度のナショナル・シアター・ライブ in Japanのラインナップの中で、大変大きな興味を持っていたのが、オランダ出身気鋭の演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェ Ivo Van Hoveによる舞台「橋からの眺め A View from the Bridge」だった。今年のトニー賞 Tony Awardsでも、作品賞やイヴォ・ヴァン・ホーヴェ、美術と照明を担当したヤン・ヴァースウェイヴェルド Jan Versweyveld、主演のマーク・ストロング Mark Strongがノミネートされたし、また2015年度のローレンス・オリヴィエ賞での受賞という実績からして、この舞台がどれだけ高く評価されているか分かろうというもの。ただ、原作はアーサー・ミラーなので、間違っても“楽しい気分になる”ストーリーであるとか、“ハッピーエンドで大満足”的なカタルシスは、全く期待できない(笑)。そちらの線での“面白さ”は早々に放棄するべきだろう。

主要人物たちが皆“裸足”で物語を演じること、舞台装置といったって、必要最小限度にも全然足らないほどのモノ―舞台と客席を大雑把に隔てる意味を持つ舞台四方を囲む長いす、舞台上の“外界”とエディたちが引き篭もる狭い家の中という“内側の世界”を隔てる壁―しかないステージ。神経質なまでに簡素に、一つの黴菌も雑念も存在することを許さぬよう清潔に保たれているステージは、登場人物達の生活環境が華美を許さない状況にあることも暗示するが、それ以上に、極限まで様式化されたギリシャ神話の精神世界を反映しているようにみえた。ヴァン・ホーヴェ氏は舞台背景を無色透明化し、どの時代のどの世界でも解釈可能な設定にすることによって、このストーリーの核が古い古い時代から受け継がれ、今後もおそらく消滅することのないある種の純化された伝統であることを強調した。

そして、簡素なステージの隙間を埋めるかのように、照明が八面六臂の活躍を見せる。日本の伝統芸能の一つ“能”では、役者は皆表情を変えることの無い“能面”をつけて演じる。面で顔が隠れてしまうので、役者は身体全体の動き、あるいは顔の角度を微妙に変化させることで感情を表現する。面に当たる光の角度が変わると、面の表す感情も変わるのだ。能の舞台では、従って照明、光が果たす役割が大きい。「橋からの眺め A View from the Bridge」では、照明が俳優達の表情と動きを捉え、簡素なステージ全体を光で満たしたり、下部から、あるいは上部からの光の照射でステージに不穏な影の塊を出現させ、ストーリーをマグマのように流れていく感情を代弁していた。エディのキャサリンへの執着が狂気の領域に入り、エディ、キャサリン、ビアトリス、ロドルフォ、マルコたちの関係が緊張の度合いを増し、爆発に向かって加速していくにつれ、俳優達個々人の顔にどす黒い影が痣のように浮かぶ。最悪の結末に否応なしに引っ張られる俳優達の顔に、やがて玉のような汗が噴き出し始めるが、その様子まで照明は捕らえて逃さない。

長いすで小さく仕切られた“密室”同様の狭い空間内で、近親相姦に瓜二つの報われることの無い執着心、嫉妬、怒り、絶望といった負の感情が逃げ場を失い増幅していく。舞台を見つめている観客席の酸素も奪われていく勢いで、沈鬱さと息苦しさを増す舞台は、しかし、当初は“部外者”で、物語の語り部であった弁護士アルフィエーリが、ストーリー半ばで“傍観者”“観察者”の立場をかなぐり捨てた程、抗し難い魅力をも増していく。加速していた悲劇が最悪の形で具現化するラスト、絡み合ってもつれた糸が切れてしまう瞬間の舞台効果は、舞台ならではの壮絶な視覚ショックを観客に与える。いや、確かにこの幕切れは最悪だが、高まっていたマグマが大爆発したという意味では最高のカタルシスをもたらすかもしれない。ナショナル・シアター・ライブ NT Liveで、今作が日本で再上映されることを願い、あえてタネ明かしはしない。ぜひ劇場に足を運んでご自分の目で確かめられたし。

エディはじめ、アルフィエーリが回想という形で語る物語の登場人物たちは、長いすで仕切られた空間の中でみんな裸足になる。この、ある意味無菌状態で外界から隔離された空間では、裸足でいることは無防備さも感じさせると同時に“何も隠しごとはない”ということで自然なのだ。“裸足”は、“裸”を観客に連想させ得る。原始時代の人間は、皆裸足(裸)だった。人間としての弱さも強さも本能も全て無防備に晒していた時代の太古の人間は、皆裸足(裸)だったのだ。…しかし、文明時代の人間にとって完全な無菌状態の中で生きることは不可能だし、それは全くもって不自然なことだ。エディがいかに異常な環境でキャサリンを守っていたかが分かる。
開幕から終幕まで、この舞台上には濃密な性の気配と暗示され続ける死の臭いが充満する。太古から連綿と続いてきた人間の最も根源的な本能の臭いが、満ち満ちている。それは、文化の発展によって高度に進化した社会を支配する現代人にとって、受け入れがたい違和感―羞恥心と恐怖―を強いるが、アルフィエーリは途中で“先祖還り”した。どんなに進化し、洗練された現代人でございと構えたところで、所詮は卑しい本能に支配される運命の人間の愚かさが、アルフィエーリの行動にも現れている。
余計な装飾は全てそぎ落とし、物語のエッセンスだけを取り出して剥き出しにしたかのような、ヴァン・ホーヴェ氏の大胆不敵、革新的な演出に感服する。それは、その物語を完璧に理解していなければ出来ないアレンジだからだ。

エディがキャサリンに寄せる執着は、果たして近親相姦的感情の増幅されたものだったのか?私にはどうもそうは思えないのだ。エディはキャサリンに対し、肉体的な欲求を持っていたのではなく、ただただ、誰にも何にも邪魔されず、キャサリンを汚すことなく無菌状態のまま慈しみたかっただけなのでは。キャサリンを、標本にされた蝶のように、美しい姿のまま守りたい。もちろんそれは、いい年をした大人の持つ愛の形としては、世間の理解を全く得られない類のものであるが。


この舞台がいかにアーサー・ミラーの原作のエッセンスを濃縮して抽出していたか、シドニー・ルメット Sidney Lumet監督が1962年にフランス資本で映画化した同作の翻案映画「橋からの眺め Vu du Pont」を観て、比較してみるとよく理解できると思う。

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「橋からの眺め Vu du Pont」(1962年)(フランス、イタリア製作)
監督:シドニー・ルメット Sidney Lumet
脚色:ノーマン・ロステン
原作戯曲:アーサー・ミラー
製作:ポール・グレーツ
撮影:ミシェル・ケルベ
音楽:モーリス・ル・ルー
出演:ラフ・ヴァローネ(エディ)
モーリン・スティプルトン(ビアトリス)
キャロル・ローレンス(キャサリン)
レイモン・ペルグラン(マルコ)
ジャン・ソレル(ロドルフォ)
モーリス・カーノフスキー(弁護士アルフィエーリ)


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