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zoom RSS 「ひつじ村の兄弟 Rams」…突拍子もない愛の行方。

<<   作成日時 : 2016/02/22 15:50   >>

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人が生きることと死ぬことは全く同義であり、切り離して考えることは出来ない。実は人は、母の胎内からこの世に生れ落ちた瞬間から、死を影法師として引き連れている。死は常に生と共にあり、目には見えないがいつも私やあなたの隣にひっそりとたたずんでいる。死が私やあなたの視界の中に現れるようになるのは、病気や不慮の怪我といった場合を除いては、大抵は年老いてからのことだろう。老いて初めて、私たちは死が常に傍らにいたことを知るのだ。

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「ひつじ村の兄弟 Rams / Hrutar」(2015年)アイスランド/デンマーク製作
監督:グリームル・ハゥコーナルソン Grímur Hákonarson
脚本:グリームル・ハゥコーナルソン Grímur Hákonarson
製作:グリーマル・ヨンソン
撮影:ストゥルラ・ブラント・グロヴレン
音楽:アトリ・オーヴァーソン
出演:シグルヅル・シグルヨンソン(弟グミー)
テオドール・ユーリウソン(兄キディー)
シャーロッテ・ボーヴィング(獣医師カトリン)

アイスランドの人里離れた村で、隣同士に住む老兄弟グミー(弟)とキディー(兄)は、生活の全てを羊の世話に費やして生きてきた。先祖代々から受け継がれて来た彼らの羊たちは国内随一の固有優良種とされており、彼らは毎年のように羊コンテストで優勝を競い合い、どちらの羊が優れた本流を受け継いでいるのかを争っていた。
互いに先祖代々の土地や生活習慣を継承し合う一方で、グミーとキディーは40年もの間、全く口をきかないほどに不仲な兄弟だった。
ある日、キディーの羊が疫病スクレイピーに侵され、村全体が恐怖にさらされる。保健所は、感染の恐れがある地域全ての動物を殺処分することを決定。これは、収入源のほとんどを羊に頼る酪農家たちにとって死刑宣告も同然であり、土地を棄てざるを得ない者も多くいた。しかし、グミーとキディーは そう簡単に諦めることはせず、それぞれの方法で窮地を切り抜けようとする――キディーはライフル銃で、グミーはその機知に富んだ才覚で…。
しかし、保健所の立ち入り調査が迫るに従い、兄弟は絶滅の危機にさらされた先祖代々の優良な羊を守るため、そして彼ら自身のため、力を合わせなければならなくなった。40年という長きに渡って兄弟としての関係を断絶してきた彼らにとって、それはとても困難なことであるはずだったが、「愛する羊を守りたい」その思いが彼らを再び結びつける。それは、2人がある重大な秘密を共有することであり、その秘密が彼らを大胆で無謀な行動へとかきたてることとなる。

はたして、グミーとキディーと羊の運命は――?


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人間は追い込まれると、普段なら思いも寄らないことをしでかすものだ。

40年間隣合う敷地に住まいしていながら、意思の伝達は兄キディーが飼っている番犬が運搬する手紙(苦笑)に頼っているというのだから、このキディーとグミー兄弟の確執は修復不可能なほど根深い。本編からは、彼らが日常生活の中でいかに交流を断絶しているか、また、断絶していても生活には何ら支障はない(笑)様子が、よくうかがえる。彼らが住む敷地内には、彼ら自身の小さな家以外に、数キロ先まで他の人家らしきものはない。広大な土地の全てが牧羊に使用されており、彼らの近辺で人間であるのは彼ら兄弟だけという状況だ。なんぼ仲が悪いといっても、そんな環境ではお互い協力し合ったりせにゃならん事態にもなるだろうに、石頭の兄キディーの偏屈と肉親ゆえの意地の張り合いによって、彼らは家族の絆を断ったまま。でも、朝から晩まで羊の世話に明け暮れるグミーの姿を追うカメラによって、彼らの羊漬け生活の中では、もう1人の兄弟との交流に割かれる時間は大変少ないだろうことが伝えられる。

アイスランドの自然というのは、私たちが知っているものとは本質的に全く異なるものだ。近年、精神的にも物質的にも“住みやすい”―技術的に最先端であるとか、腐るほど物質が溢れているような状態を、必ずしも指すわけではない―ことが求められる風潮にあり、アイスランドはこの“住みやすさ”において他の大国と比較してもダントツの心地よさを住人に約束してくれる国なのだ。具体的にどのように住みやすいのか、本作公式サイトにも映画のパンフレットにも明記されていたが、

日本の北海道と四国を合わせた程度の面積で、極寒の北極圏に存在する島国だ。オーロラや温泉、火山や氷河などの印象が強いが、世界平和度ランキングや男女平等度ランキング、世界ご長寿(男性)ランキングで世界第1位、乳幼児死亡率は世界一低く、結婚は100%恋愛結婚という・・・暮らすも生きるも人間にとってとても優しい国であり、実に人口25万人程度に対して羊の数は100万頭という“ひつじ大国”でもある。
「ひつじ村の兄弟 Rams」公式サイトから抜粋

見たことも行ったこともないけれど、こんな噂を聞くだけで心がほんわかふわふわになるよな気がするこの国では、しかし、自然だけは、人間による制御が全く不可能な荒々しく冷厳な姿を保ったままなのだ。なんというか、本編をご覧いただければわかるが、太古の地球の自然の姿を想像するとしたら、おそらく今のアイスランドに残っている自然の光景がそのまま当てはまるだろうと思う。そんなイメージの自然だ。国中に地熱発電所が設けられているのも納得の活火山の多さ、一転して冬には氷点下を下回る気候となり、一歩家の外に出れば文字通り凍りつく容赦なき寒さ。特に冬場、山には近づかぬ方が良い。猛吹雪に吹き飛ばされ、遭難するやも知れないから。
とにかく、そんな厳しい自然環境と、人間より羊様の数の方が圧倒的に多い生活環境の中で、牧羊に従事する人々は最終的に、ある結論に到達せざるを得ないのかもしれない。人間が科学技術を振り回そうとも、自然を跪かせることはできないように、どんなに足掻いてもどうにもならないこともあるのだと。

今作は、牧羊が国の主産業であるアイスランドでなければ絶対に生まれてこないだろうモチーフ(羊と人とのかかわり)を基に、人が生きるということはどういうことなのか、また、生きる術や支えを奪われた時に人は一体どのような行動に出るのか、あるいはまた、生きる上で必要なものを全て失ったり死に直面したりしても尚、人は何かを得ることができるのかという、至極普遍的な命題に取り組んでいるのである。

…とまあ、目を血走らせつつ格好つけたところで、いかんせん、老羊飼いが延々と羊の世話をするというストーリーであるので、ふわふわもこもこの羊たちが『んめぇ〜〜』とスクリーンに登場した時点で、観客としてはがっくりと脱力するのではあるが(笑)。

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映画は、グミーとキディーをはじめ近隣一帯の牧羊業者たちの日常生活を、まるでアイスランドの牧羊についてのドキュメンタリーでも見ているような調子で淡々と綴っていく。冒頭、見渡す限りアイスランドの手付かずの大自然の中で、兄キディーの飼育する羊達のうちの一頭が突然死している様子が映し出される。それは、今後展開していく物語の不吉な伏線となり、その一抹の不安を抱えたまま、牧羊業者たちが年に一度、手塩にかけて育てた自慢の羊を持ち寄り、どの羊が伝統的な固有種の血統として最も理想的であるかを競うコンテストのシーンにつながっていく。羊への愛情では誰にも負けぬ弟グミーが、しかし、羊の養育に関しては兄キディーにいつも一歩及ばないジレンマと鬱屈が示され、台詞で説明されずとも、この兄弟の人生と不仲っぷりは明白だという寸法。

そこで、ストーリーの“転調”がやってくる。兄キディーご自慢の羊―アイスランド固有種の羊の中でも最優良のもの―が、よりによってスクレイピー(scrapie)という羊やヤギ類特有の伝染病にかかっていたことが判明するのだ。それ真っ先に察知したのは弟グミー。ここから、映画は一挙に悲劇的で沈痛な色合いに変化してゆく。スクレイピーというのは羊・ヤギ類には致命的な病であり、瞬く間に伝染し、しかも治療法はない。一頭でもスクレイピーに罹患した羊が発見されたら、その近隣一帯の羊はすべて殺処分され、飼育小屋から道具類から全てを消毒殺菌、牧草も全て焼却しなければならない。その後、その一帯の牧羊は2年間一切禁止される。…これは、牧羊で生計を立てている人々にとっても致命的な出来事だろう。あなたがもし、職業としている仕事を突然取り上げられ、今後2年間はその仕事を絶対やっちゃいけませんと宣告されたらどうする?大抵の人はパニックに陥るだろう。いくら、補償金が支払われたとしても、殺処分で牧羊業者達が被った莫大な損害には、なんの足しにもならない。

スクレイピー第一号ということで、兄キディーの羊達も皆殺されてしまう。弟グミーは、牧羊以外には取り柄のない兄と違い、先祖代々の土地と家を親から相続しているだけあって、実に周到な計画を立てる。愛する羊を全て守ることは不可能でも、伝統ある固有種の血筋を絶やさぬようにすることはできるのだ。グミーは保健所の決定に従い、手塩にかけた可愛い羊達を自ら銃で“殺処分”する。他人に殺されるよりは、自分の手で葬ってやりたかったというグミーの悲嘆は、百頭を超える羊たちの死体が血に濡れて折り重なる信じがたい光景で、観客にも痛いほど伝わる。グミーはその痛手を、“固有種の血筋を絶やさない”という大きな使命のために乗り越え、表面上は務めて如才なく振る舞うのだ。不仲の兄キディーが、生きがいの羊を失って荒れに荒れるのを放っておくこともできたが、“ある秘密”を誰にも知られず抱えている疚しさからか、キディーの財政上のピンチも救ってやったりする。

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この、キディーとグミーが不仲になった直接の原因を、映画は具体的には説明しない。だが、彼らの両親が弟グミーの方にのみ財産を残したことが語られるし、羊の養育に関しては兄キディーの方は天才的な才能を発揮するが、他の面では破天荒な、てんでダメ人間なのだろうなあと察せられる描写も随所にはさまれ、なんとなく2人の関係が理解できる仕組みになっている。そして、グミーがなんとか上手く隠蔽してきた“ある秘密”がとうとう保健所に暴かれてしまう時が来る。それまで、グミーの秘密がバレるか否かの綱引きで緊張感を保っていたストーリーの糸が、ここで一気に断ち切られ、予想だにしないクライマックスに向けて転がり始めるのだ。なんというか、この物語のラストをどのように解釈するかは、おそらく見る人によって全く違うと思う。ただ、この意外性は、私にはむしろ爽快にすら感じられた。

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生きがいや生きる糧を全て失ってしまっても、人間というやつは一縷の希望に賭けるバカな生き物なのだと分かるし、何もかも失ってはじめて、自分にとって生きる上で最も大切なものは何だったのかを知ることだってあるのだ。例えそれが“時既に遅し”の状況であったとしても、この作品の中で最後に示される“人生で最も大切なもの”とは、人間が人間らしく生きる上でおそらく最も大切なものであり、洋の東西を問わない普遍的なものでもあるだろう。一縷の可能性に賭けるために40年間もの不毛の時間を一挙に乗り越え、後先省みず突進した兄弟が最後に辿った皮肉な運命は、希望と絶望がごちゃ混ぜになって空から落ちてきたような、喜びと悲しみが一緒くたになって吹っ飛んできたような、あらゆる感情が全方向に迸るかの如き、凄まじいクライマックスだった。…これは私自身、久しく経験していなかった新しい感覚のクライマックスだといえる。

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予断だが、この作品の監督、グリームル・ハゥコーナルソンは今作の舞台となったアイスランドの出身で全くの無名、今作が長編第2作目なのだという。初見時、正直言ってこれが2作目の監督作品だとは思えないほどの落ち着きと自信を、演出の端々から感じたものだ。アイスランドの荒々しい自然をそのまま切り出した荘厳且つ冷厳なる風景と、ふわふわの羊達が対比され、彼らに襲い掛かる悲劇的な運命を浮き彫りにする。また、老いた2人の兄弟の子供じみた確執と、絆の復活劇の激しさもうまく対比され、生と死が隣り合っている現実を最後に暗示する。この語り口の絶妙さは、忘れられない感慨を与えてくれる。第68回カンヌ国際映画祭 The 68th Cannes International Film Festivalの“ある視点部門 Un certain Regard”が今作にグランプリを授与したのも納得だな。

映画の中で、観客が歩むべき道案内はちゃんと出されている。…ただし、途中まで。最後、この道行きがどこに行き着くのかは、観客自身が探さねばならないのだ。近年の映画を見ていて感じるのは、そのように最後の判断を観客に委ねるタイプの作品が増えてきたこと。しかしながら、もし仮に映画を作る側の人間が、自分達にも出せない結論を観客に丸投げしたのだとしたら、その意図は観客の側にも漏れてしまうだろう。作り手が自身の結論をしっかり出した上で、観客に熟考を促したとしたら、その映画はきっと深い余韻を残すはずだ。さて、あなたはこの「ひつじ村の兄弟 Rams」の最後を、どのように判断されただろうか。

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