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zoom RSS 「セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター The Salt of the Earth」

<<   作成日時 : 2015/12/03 00:42   >>

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パリにおける無差別銃撃事件、ベイルートにおける自爆テロ、アフリカ西部の国マリの首都バマコの高級ホテルに武装グループが立てこもり、結局、外国人宿泊客など19人が亡くなった事件。悪意も暴力も騒動も連鎖反応を引き起こし、更なる混乱を招くものですが、とうとうローマ法王が“第三次世界大戦”という言葉を盛り込んだ強い警告を発しました。

世界情勢の緊迫化への日本国内の反応や対応はどうなっているんでしょうね。最近あらゆるメディアから距離を置くようにしているので、一般人のリアクションが今ひとつ実感できませんが、まあ大体において“他人事”的感覚なんだろうなあと思っています。残念ながら日本は、映画の公開日も遅いですが、世界の最新ニュースが入ってくるスピードもこれまた遅い。しかもニュースを伝える手段も内容もお世辞にも素晴らしいとは言い難い場合が多いです。これでは、テロとの戦いという新たな図式の下、世界情勢がめまぐるしく変化し、緊迫の度合いを強めている危機を理解できなくとも無理はないのかなあ。

報道カメラマン: 世界情勢の変化を、写真という一目瞭然の媒体を介していち早く世界に提示するカメラマンのこと。報道カメラマンという仕事を確立し、その重要性を世に知らしめたのは、かのロバート・キャパ Robert Capaが元祖だとされている。


私は相も変わらず映画を見続けているが、近年、エンドマークが出るのをこれほど残念に思った映画も他にない。確かに、この作品で取り上げられる内容や映像は、時に正視に耐えぬほど厳しい現実を突き付けてくるものではあるが、それでも尚、スクリーンから目を離したくないと思ったのだ。そんな映画は最近本当に減ってしまった。

“フォトグラファー photographer”とは、ラテン語で“光で絵を描く人”の意味だ…

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セバスチャン・サルガド(日本語表記では”セバスチャン”だが、発音に近い表記は“セバスチャオ”) Sebastiao Salgado

1944年2月8日生まれ
ブラジル、ミナスジェライス州アイモレス出身

父親が広い農場を経営していたことから、ブラジルの大自然に恵まれた美しい環境でのびのびと育つ。姉妹が7人いるが、息子が1人だけだったことから多少甘やかされていた面も。学校生活の規律になかなか馴染めず、学業に関しては苦労したが、州都ヴィトーリアの高校に進学後は大都市サンパウロに出て、サンパウロ大学で経済学を学んだ。その頃レリア夫人と出会い、彼女の手助けで右も左も分からなかった都会生活を乗り切る。軍事政権下のブラジルが政情不安定だった60年代半ば、レリアと共に左翼の政治活動に参加し、逮捕の危険が迫った。1969年8月、結婚した夫人とパリに脱出。パリ大学に籍を置き、経済学博士号を取得した。

1971年、国際コーヒー機関にエコノミストの職を得て、ロンドンに移住した。開発調査のためしばしばアフリカ諸国に派遣されるようになり、レリア夫人に借りたカメラで撮影し始めた。現地調査の傍撮りためた写真は膨大な数に上り、サルガドはついに一生を賭けて続けるべき天職を見つけた。エコノミストとしての安定した生活を投げ捨て、報道カメラマンとして生きる道に踏み出したのだ。

1973年パリに戻ったサルガドは、カメラ一式を揃えてフリーランスのカメラマンになる決意を固めた。レリア夫人も写真について学び、夫の撮った写真を様々な通信社に売り込む作業に没頭する。1974年には長男ジュリアーノ・リベイロ・サルガドが誕生し、一家の生活は厳しかったが、サルガドはシグマ通信社(1975年まで在籍)やガンマ通信社(1979年まで在籍)に籍を置きながら報道カメラマンとしての活動に邁進する。

1977年にサルガド一家はブラジルに戻る。ブラジル人であるにもかかわらず、それまで全く知らなかったブラジル以外の南アメリカの表情を撮るため、サルガドは家族を実家に残して1人エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジル北東部を廻る旅に出た(1977年〜1984年)。その撮影旅行は、『アザー・アメリカ Other Americas』と名付けられた写真集に結実する。1979年にはガンマ通信社を離れ、マグナム・フォトに所属した(1994年まで在籍)。1982年、サルガドはユージン・スミス賞など幾つかの賞を獲得した。
この成功に意を強くしたサルガド夫妻は、いよいよ独自の価値観と信念に基づいた自身のプロジェクトに専念することに。『アザー・アメリカ Other Americas』撮影時に目撃した、社会から忘れられ、社会の底辺をさすらう“持たざる人々”の苦境が、サルガドの報道カメラマンとしての生き方を決定した。世界の片隅で誰にも顧みられず飢えて死んでゆく人々の姿をカメラに記憶させ、写真に写し出し、世界中の人々に見せるのだ。世界から忘れられた人々の苦悩と痛みと怒りを、写真を通じて世界に知らしめるのだ。繁栄を享受する富める人々の足下には、飢え、痛めつけられ、殺されていった人々の遺体が積み重なっている。自分はカメラと共に、世界の裏側で起こる悲劇の目撃者、証言者にならねばならない。この使命はその後のサルガドの人生全てを支配することになる。

彼は1984年から1986年まで国境なき医師団に帯同し、エチオピア、マリなど極限の飢餓状態に置かれていたアフリカのサヘル地域(サハラ砂漠南部半乾燥地帯)を回り、骨と皮ばかりになって餓死してゆく難民キャンプの人々をカメラに収めた。雑誌に取り上げられたサルガドの写真は世界中に衝撃を与え、1985年にオスカー・バルナック賞はじめ幾つかの賞を授与された。1986年にはそれまでの撮影の集大成として写真集『アザー・アメリカ Other Americas』『サヘル Sahel: The End of the Road』を出版。偶然テレビで見た湾岸戦争後の油田火災の様子に衝撃を受け、サルガドは休む間も無くレリア夫人と共に次なるプロジェクトの調査に取り掛かる。『ワーカーズ Workers: An Archaeology of the Industrial Age』である。発端は、湾岸戦争後のクウェートで起こっていた大規模油田火災が周辺地域に残した惨状と、未曾有の大火災を食い止めようと、世界中から集まった消防士たちの死闘だった。しかし、サルガドとレリア夫人は、焦点を当てる“労働者”の対象をもっと広げ、ブラジルの金鉱の劣悪な環境下で砂金を運び続け、一攫千金を夢見る男たちの肖像など、種々の過酷な労働に従事する世界中の“労働者たち”の知られざる実態を、カメラに収めていったのである。勿論このプロジェクトにも、高度に発達した社会で多くの人々が恵まれた生活を享受する一方で、誰にも知られることなく、地獄のような場所でひたすら重労働に耐える人々がいるのだという事実を世界に知らしめる目的があった。

この『ワーカーズ Workers: An Archaeology of the Industrial Age』のための撮影には、1986年から1991年まで5年の歳月を要した。1993年、現代社会の歪んだ構図を労働者の立場から訴える“時代の記録”としての写真集『ワーカーズ Workers: An Archaeology of the Industrial Age』が完成。アルル国際写真フェスティバルでの受賞をはじめ、様々な賞を贈られることになった。世界中の労働者を取材していたとき、サルガドは、世界経済が“人の移動”に従って変化している現象に気付いた。大学時代に修めた経済学の知識と、南アメリカやアフリカで見聞したこと、経験を総合すると、世界情勢を動かすのが経済の動向である以上、つまり、世界中の“国境を越えて移動する人々”の足跡をつぶさに追っていけば、世界全体の動きが浮き彫りになるのではないか。ここでサルガドは、レリア夫人と再び綿密なプランを練る。一刻の猶予も許されない状況にあるアフリカ、特に大量虐殺が起こったルワンダだけではなく、ヨーロッパにおける“彷徨える人々”、ユーゴスラビア(当時)難民等の実態に光を当てる一大プロジェクト『エクソダス Exodus』を立ち上げた。

この困難なプロジェクトはその後1999年まで続く。ヨーロッパ内でも、隣にやってきた“よそ者”=“彷徨える人々”に問答無用で銃を発射する状況がある。世界の大半の人々は、サルガドがカメラでその事実を捉えるまでは、それを知らなかったのだ。泥沼状態に突入した内戦で荒廃しきったルワンダおよびその周辺国の内情はもっと酷かった。食料と医療の欠乏で虫けらのように死んでいった人々の遺体がブルドーザーで運ばれ、街に続く道沿いに惨殺された人々の遺体が打ち捨てられ、かつて美しい森が広がっていた場所からは緑が消え、代わりに難民キャンプのテントがびっしりと並び、家や土地を失った数万人とも推察される人々が国を追われ、国連難民高等弁務官ですら足を踏み入れない未開の森の奥に逃げ込んだ。半年後にはその人数は激減。森の中に1人残ったサルガドは、文字通り地獄絵図を繰り広げていた”彷徨える人々”の狂気の姿をレンズを通じて見続け、最後にはカメラを構える気力も失うほど絶望した。

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1994年、マグナム・フォトを離れ、サルガドは夫人と共同でアマゾナス・イメージズ社を設立した。また、『エクソダス Exodus』プロジェクトの撮影で人間の心の闇を覗き込んでいたサルガド自身の心は、遠く離れた故郷ブラジルの、濃い緑に埋もれるようであった密林に飛んでいた。というのも、彼が子供の頃には農場内で自給自足ができるほど豊かな自然に恵まれていた故郷の森林は、長年の伐採によって多くが消滅していたのだ。サルガド・シニアの所有する農場も例外ではなく、農場内の山はことごとく禿山と化し、続く干ばつの影響で干上がってしまった土地は生き返らなかった。故郷までもが消滅しようとしている現実に打ちのめされた夫と家族を励ますため、レリア夫人が思いついた前代未聞の“アマゾン森林再生計画”が、周囲の不安をよそに実行に移される。計画開始後数年間は植林した木々の大半を失う苦労が続いたが、レリア夫人の執念が実り、植林されたアマゾンの木々は数年をかけてようやく定着し、すくすくと成長し、昔のように緑濃い山を形成するようになった。植林する木の種類も倍増し、1998年には、サルガドとレリア夫人はインスティチュート・テラを設立した。サルガド夫妻が個人で始めた大西洋岸森林再生プロジェクトは、インスティチュート・テラの成功例をモデルとして、その後ブラジル全土に広まっていったのである。昔同様のアマゾンの森林が戻ったアイモレスにあるサルガド農場は、現在は国立公園に指定され、大西洋岸森林再生プロジェクトは国家プロジェクトとなった。

1997年、写真集『テーラ』を出版。アルフレッド・アイゼンスタット賞他を受賞。1999年には、サルガドの心を蝕んだ『エクソダスス Exodus』の苦難の旅がようやく終わり、翌2000年に、写真集『エクソダスス Exodus』を生み出すことになった。翌2001年には、長年に渡り、報道カメラマンという仕事を通じて人道支援を支えてきた功績を称えられ、ユニセフ親善大使に選ばれている。2002年にアンゴラの内戦が終わった時、サルガドは国境なき医師団と共にすぐさまアンゴラ入り。飢餓に直面した現地の悲惨な状況を取材し、写真を通じてアンゴラへの支援を世界に訴えた。アンゴラの人々が置かれていた状況は予想より遥かに悪く、同年秋、日本で写真展『EXODUS 国境を越えて』が開催された際にサルガドも来日して、アンゴラへの支援を呼びかける記者会見を別個に開いた程だった。
しかしその後、著名な報道カメラマンとしても、また1人の人道支援活動家としても、やれることは全てやり尽くした後の虚脱感がサルガドを襲う。というより、あまりの長きに渡り、為す術もなく死に追いやられた人々の嘆きと怒りと絶望を見つめ続けた結果、彼自身もまた、人間の抱える深淵たる闇の世界に囚われてしまったと言い換えてもいい。これまで二人三脚で、サルガドのカメラマン人生を築いてきたサルガド本人とレリア夫人は、次に何をすべきか初めて目標を見失い、しばし途方にくれる。

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だが彼らの足踏み状態も長くは続かなかった。従来の報道写真の概念から離れ、いまだ地球に残された未開の地を探し、環境破壊が続いている瀕死の地球にまだ自然の起源(ジェネシス Genesis)の美が隠されていることを再発見しようというプロジェクトを立ち上げたのである。この、自然回帰、あるいは一種の先祖がえりともいえるプロジェクトは、報道写真家としてのサルガドを支えていた人達の多くから反対されることになった。しかし、故郷に緑を取り戻したいという願いから始まった、環境保護活動家としてのサルガドのもう一つの人生が、大西洋岸森林再生プロジェクトの成功といった形で既に結実していた。長く辛かった『エクソダスス Exodus』の旅を終え、故郷に戻ってアマゾンの森林に再び抱かれたことが、人類に絶望していたサルガドを癒し、彼の目を人類の起源でもある自然に向けさせたのだろう。こうして、“地球へのオマージュ”をテーマに掲げ、自然との絆をもう一度取り戻そうとするプロジェクト、『ジェネシス Genesis』がスタートした。

サルガドの長男ジュリアーノ・リベイロ・サルガド Juliano Ribeiro Salgadoは、世界各地の紛争地に出かけたきり、ほとんど家にいなかった父親と、思春期を迎えた時期から疎遠になっていた。サルガド夫妻の次男がダウン症を患っていたことが、両親を悩ませ、家庭の中の雰囲気を変えたせいもある。また、ジュリアーノ自身は両親の故郷ブラジルを全く知らず、パリの自由な空気の中で伸び伸びと育ったため、家庭内では大変厳格だった父親と全くそりが合わなかった。法律を勉強していた時期もあったが、1996年にフランスのテレビ局アルテ Arteのために、アンゴラの対人地雷を取材した短編ドキュメンタリー『Suzana』撮りあげたのをきっかけに、映像の世界に身を投じる。エチオピア、アフガニスタン、旧ユーゴスラビア、ブラジルでドキュメンタリー作品を撮り、フランスのテレビ局カナル・プリュス Canal+やブラジルのテレビ局のためのニュース番組を制作。独自の道を確かな足取りで進む息子を、父親は手放しで喜んだ。ロンドンの映画学校に入り直し、本格的に映像を学んで2003年に無事卒業。それを待っていたかのように、父親は彼に『ジェネシス Genesis』用の撮影旅行に同行するよう要請した。短編作品とテレビ用のドキュメンタリー制作に追われる傍ら、ジュリアーノは初めて本格的に父親に密着し、その仕事振りを間近で見つめることになる。
ブラジル奥地で旧石器時代の生活を今も守っているゾエ族と1ヶ月共同生活し、インドネシアの西パプアに住む、伝説上の種族と思われていたヤリ族と対面、彼らの女性上位の生活様式に驚き、極寒の北極圏ではセイウチの群れと人懐こいホッキョクグマに遭遇、氷の上のカウボーイたる遊牧民ネネツ族と共にツンドラを疾走した。この冒険の合間に、父子の間には自然と会話が復活し、2人はこれまでの隙間を埋め、息子は父親を、父親は息子を対等の立場で認め合った。最初はゴールも目的も定まっていなかった『ジェネシス Genesis』の映像撮影は、ジュリアーノの中でもう一つ別のプロジェクトの形をとりはじめる。彼が父親の傍近くで撮りためた父親の膨大な映像は、“セバスチャン・サルガド”という人間自身を物語る、ドキュメンタリー映画になるべきだと。

ドイツの映画作家ヴィム・ヴェンダース Wim Wenders監督がセバスチャン・サルガドの写真を購入したのは、かれこれ25年も前のことだ。アフリカの難民トゥアレグ族の盲目の老女を正面から写した美しいポートレート写真など2点。彼は今でもその写真をデスクの上に飾っている。その後、パリのサルガドのオフィスで写真家本人と対面し、写真やその他様々な話をして交流を深めた。ヴェンダース監督は、既にスタートしていた『ジェネシス Genesis』プロジェクトのこと、そしてそれと平行して、サルガドが息子ジュリアーノと共同で始めていたもう一つの新しい映像プロジェクトのことをサルガド本人から聞き、後にジュリアーノとも面識を持って話し合う。ヴェンダース監督は、彼らの映像プロジェクトに“外部からの第三者の視点”を提供する役目を快く引き受けた。しかし残念なことに、当時まだ進行形だった『ジェネシス Genesis』プロジェクト用シベリア北部への旅とナミビア上空の気球の旅へのヴェンダース監督本人の同行は実現せず、代わりに、監督はサルガドの人生を物語る膨大な写真と大量の資料映像の選別と配列作業に専念した。

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40年もの間自身も危険に身を晒しながら、極限状態に置かれた人々の苦難に寄り添い、彼らをカメラを通して見守り続けたセバスチャン・サルガドの経歴は、実はあまり詳しくは知られていない。偉大な報道カメラマンとして著名ではあったが、世界の人々が見るのは写真であって写真家本人ではないからだ。サルガドという稀有な才能を持った写真家が、被写体とどのように向き合い、彼らに尊厳と愛情を差し出す代わりに、彼らの歴史と魂を写し取ったたくさんの写真が、飢餓、難民、紛争、暴力、貧困等に無関心な世界に、どのような影響を与えてきたのか。またその結果、写真家自身の人生がどのような変化を強いられたのか。

サルガド自身の人生を、彼が撮ってきた膨大な数の写真とサルガド本人の回想と語りでもって年代を追って振り返るこのドキュメンタリーは、2人の監督を得ることで作品のテーマを明確にすることができた。サルガド本人に密着してその一挙手一投足を捉えたジュリアーノの、家族ならではの、サルガドの息遣いすら聞こえてきそうなリアルな視線とは別に、客観的にサルガドの人生全体を見渡し、サルガドと対等に会話してその内面を引き出し、彼の歩んだ歴史と精神面の双方を冷静に解析し、サルガドと世界のかかわりを少し離れた場所から俯瞰できる別の視線である。

人間を愛し、それ故虐げられる人々を放置できず、その人間の魂の奥底までをひたむきに見つめ、人間性を追求し続けてきた写真家が、人生の最終章に差し掛かってなぜ人間から離れて自然に戻ることを決意し、故郷のアマゾンの森林の中で彼自身と妻レリアの人生を完結させることを願っているのか。実はその疑問への答えと、これまでのサルガドの人生そのものが、人類全体の未来への希望にまっすぐにつながっていることが、このドキュメンタリーのラストで明確に理解できる仕組みになっている。

“第三者の視点”であるヴェンダース監督映画はまた、客観的な立場から、ダウン症によってサルガドやジュリアーノらとは別の静寂の世界に生きる次男の存在や、亀裂が入っていたジュリアーノとサルガドの間の父子関係が、映画製作を通じて修復されていく感動的な情景、サルガドと一心同体であるレリア夫人自身のパワフルな肖像にもさりげなく言及している。サルガドの人生が、難民や紛争、貧困、飢餓といった地球規模の事象だけではなく、彼自身の家族のごくごく私的な歴史によっても編まれ、支えられていることを暗示するためだ。

サルガドが報道カメラマンとして最後にたどり着いた結論は、おそらく、世界の、人類全体の最悪の未来像であったと思われる。しかし映画は、環境保護、環境改善に、地球と人間との間の絆を復活させられる可能性を見出したサルガドが、そこに人類の未来への希望をも見出し、同時に、彼自身が失っていた人間性への信頼と親愛も取り戻したことを示した。そして、地球環境保全という地球規模にまで膨らんだ命題が、家族を含めたサルガド個人の人生の物語に収束してゆくのだ。人間という存在を極限まで突き詰めた果てに、原始の自然への回帰という希望を見つけたサルガド。彼の歩んだ人生は、そのまま私達人類全体への教訓となり、未来を構築するヒントにもなり得るだろう。


いつか、ふるさとの大地に還る日。

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「セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター The Salt of the Earth」(2014年)
監督:ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド Wim Wenders, Juliano Ribeiro Salgado
製作:ダヴィッド・ロジェ
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ジュリアーノ・リベイロ・サルガド、ヴィム・ヴェンダース、ダヴィッド・ロジェ
撮影:ユゴー・バルビエ、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド
音楽:ローラン・プティガン
配給:ソニー・ピクチャーズ・クラシックス Sony Pictures Classics

ところで、かつてサルガドの報道写真を“カメラの前の真実を美化しすぎている”と批判する人が多かったこと、そしてそういった非難や偏見はいまだに根強いことに落胆せざるを得ない。対象を“美化する”ことと、対象が失ってしまった人間としての尊厳や美を、本来あるべき場所に返してあげる行為とは、根本的に異なるからだ。そして、サルガドの被写体との関係は、もちろん後者に相当する。サルガドは目の前の被写体がどんなに悲惨な状態にあろうとも、彼らへの共感(compassion)と純粋なる愛情を保ち続ける。上の立場から被写体を哀れんで救いの手を差し伸べるのではなく、パパラッチ写真のような、被写体の状況を面白がる冷酷さとも無縁だ。あくまでも対等の立ち位置で、彼らに寄り添い続ける。だからこそ、サルガドの撮るポートレートには、気品と敬愛が宿るのだ。それは、人種や社会環境の違いを超えて、被写体の持つ普遍的な美を見る者に喚起させる。

思うにサルガドというカメラマンは、“人間とは何ぞや”という究極の問いへの答えを探すために、極限状態に捨て置かれた名もなき人々の肖像と向き合い続けたのだろう。この世界で繁栄を謳歌する人々がおれば、その足元には必ず、搾取され、暴力や貧困に蹂躙される力なき人々が存在する。無責任で享楽的な現代社会は、それらの人々の存在さえ認識しないが、サルガドは40年の長きに渡り、社会の最下層の人々に寄り添い続け、写真を武器に彼らを死から守ろうと戦いさえした。何かに駆り立てられていたかのような彼のその熱意は、人道的義侠心からのみ生まれたわけではないと思う。サルガドは彼らの中に、自身の真の姿や存在意義を見出していたのではなかろうか。彼らと向き合ってカメラのシャッターを切ることで、サルガドは彼らの存在の中にボウッと浮かび上がる彼自身の魂をエコーロケーションのように反響させ、それを再確認していたのかもしれない。写真を撮る行為は、被写体の美と撮影者が一体となる至高の瞬間を捉えるものであり、且つ、被写体を鏡としての自己のアイデンティティーの確認作業でもあると思う。

…画面全体をセバスチャンと、そして何よりも彼の写真のために使うべきだと。作品自体に(サルガドの歩んだ人生を)語らせるべきなのです。そこで思いついたのが、一種の暗室を使った演出方法です。セバスチャンはスクリーンを前にし、写真を見ながら私の質問に答える。カメラはこのスクリーンの背後から写真越しに撮る。つまりセバスチャンは、自分の作品と観客を同時に見ていることになります。(観客は)彼が自身を語るのを聞くと同時に彼の作品を発見できる、…―ヴィム・ヴェンダース Wim Wendersのインタビューから抜粋

ヴェンダース監督の“暗室インタビュー”演出は、観客と映画の“被写体”であるサルガド本人との距離をぐっと近づける。観客をして、サルガドの懺悔を狭くて暗い告解室で聞いているような気分にするのだ。彼の壮絶な半生を聞く観客の姿勢も、だから自然と膝を正したものになる。人間が最低限の尊厳すら奪われ、常に死と隣り合わせにある南米、アフリカや中東、東欧等で撮られた写真を前に、当時を回想するサルガドの目は哀しげに伏せられ、声には苦しさが混じる。彼が愚直なまでに“世界から忘れられた人々”と共有し続けた悲しみや怒りが、一切の嘘やごまかしもなく、スクリーンのこちら側で彼と対峙する観客にも直に伝わるのだ。

ヴェンダース監督自身はナレーターとして、必要最小限の解説を控えめに映画に加えるに留まっている。監督がサルガドと一緒に選んだ写真についてサルガド自身が語る映像と、当の写真を撮影する現場でジュリアーノが撮った記録映像、サルガドが自身や家族を撮った過去のプライベートな写真、また、アマゾンが復活した故郷ブラジルでカメラと戯れる現在のサルガドを、広大な背景をバックに捉えたヴェンダース自身の映像が、時間軸を往復しながら映画本編を埋め尽くす。ジュリアーノが捉えた撮影現場でのサルガドの映像も、ブラジルで森林再生作業にまい進するサルガドとレリア夫人を捉えたヴェンダース監督による映像も、サルガドの写真と同様、被写体の姿を真摯に伝える純粋さ、被写体への共感と友愛、敬意に満ちている。サルガドの写真を紹介するドキュメンタリーとして、これほど正しい演出、スタイルを伴った映画は他にないと思う。
このブログでは、これまでに何度も繰り返し書いてきていることだが、基本的にドキュメンタリー映画は、扱う対象について観客が容易に理解できるよう、明快な演出が施されるべきだと思う。また、対象について分かっている事実を、出来る限り客観的に解説する義務も負っている。映画が対象について勝手に独自の判断(judgment)を下してはならない。それは、観客の誤解(misleading)を招く恐れがあるからだ。そして、扱う対象がたとえ共感し難いものであったとしても、映画は対象に対し、最大限の理解とリスペクトを怠ってはならないとも思う。この「セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター The Salt of the Earth」は、私がドキュメンタリー映画に求める基本的条件をクリアしているのはもちろんのこと、“真実を伝える”ドキュメンタリー映画ならではの、作り物ではない本物のドラマをも垣間見せてくれる。

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生まれて初めて巨大な鯨を撮った際の思い出話を、子供のように目を輝かせながらヴェンダース監督に話すサルガド、緑が戻った故郷の森を満足げに散策し、森の中に差し込む日の光に目を細め、“人生は円環だ”と達観して語るサルガド。彼とレリア夫人が丹精こめて撒いた種が何年もかけて大きな木に育ったように、彼の人生を振り返るこのドキュメンタリー映画を通じて世界中に撒かれた“未来への希望”という名の種は、観客の多くの心の中に宿り芽吹いていくことだろう。

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セバスチャン・サルガド Sebastiao Salgado公式自伝。

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