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zoom RSS 「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」

<<   作成日時 : 2015/10/28 13:38   >>

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「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」が私の町で劇場公開されたのは、今年に入ってからだった。この伝記映画は、英国の名匠マイク・リー Mike Leigh監督が12年の歳月をかけて練り上げたという、名匠念願にして入魂の企画である。作品そのものは2014年に完成し、世界中の映画祭でのお披露目を経て海の向こうでは同年中に劇場公開もされていた。
若い頃から名声を博していたロマン主義の代表的画家にして著名人であったにもかかわらず、また、ロイヤル・アカデミー主催の展覧会等の公的な場における派手なパフォーマンスにもかかわらず、私生活は謎多き人物でもあったジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー。この作品は、彼の生き様と彼の生きた時代―産業革命を迎えたヴィクトリア女王治世下の活気溢れる英国―を克明に活写し、画家としてのターナーの創作の秘密にまでも肉薄した、まさに映画全体が“ミスター・ターナー Mr. Turner”が経験した人生そのままを可視化した、渾身の一大伝記映画である。不世出の天才画家の一生を、凡人である我らも映画を通じて共に歩ませてもらい、その天才ならではの想像を絶する世界をほんの束の間垣間見、ショック状態に陥ったというべきか。スクリーンにエンドマークが出た後も、光を追い求め、光に包まれ、光に導かれたターナーの世界から抜け出せず、しばしの間放心する程、強烈な映画体験であったと断言できる。
一筋縄では済まぬ映像世界の天才マイク・リー監督と、一癖も二癖もある絵画の天才ターナー、ひねくれ具合では両者譲らぬだろう天才2名が、遠い過去の人間がどれ程素晴らしい芸術を有していたか、21世紀の今の時代のへなちょこ人間どもに思い知らせるため、手を組んだとしか思えない作品だった(笑)。

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そんな凄まじい“芸術家の一生”を具現化した映画が日本にやってきたのが、なんと数ヶ月も後になってからという有様。ターナー氏に申し訳が立たなくて顔を上げられない。

実は今、19世紀末から20世紀前半にかけてパリに存在した、“エコール・ド・パリ”という芸術現象について学んでいる。こと絵画に関しては、英国はフランスに遅れをとっていたといわれるが、それはどうだろう。
フランスではない国からやってきた“よそ者”、しかもユダヤ人だという二重の重荷を背負った画家達によって構成されていたエコール・ド・パリの芸術形態は、彼らの背負っていた歴史的背景を反映し、一様に屈折していて内向的でメランコリックで陰鬱で、自己破滅に向かって突き進んでいく。その芸術嗜好は致し方ない面もあるにせよ、いつかどこかで何らかの形で救済されることを常に望んでいる人間にとって、ずぶずぶと死の世界にのめりこんでいくような芸術に最後まで付き合うのは難しいことだ。

翻って、素朴な田園風景と海、太陽を礼賛する、様々な色合いの光に溢れたターナー氏の作品群に、私自身はある種の救済めいた開放感すら感じてしまった。芸術を保守性で塗り固めてしまうことを否定する向きには、“ターナー”という名前が一種の侮蔑の対象であることは理解している。彼が生きていた時代、絵画の価値や美意識の基準が大きく変革したし、その間にターナー氏の作品への評価も変わっていっただろうことは想像に難くない。ターナー氏自身ですら、同じ絵を描き続けて名声の余韻に浸ることを良しとせず、果敢に新しい領域へ足を踏み入れていったのだから。彼が生きた当時もまた現在も、彼の絵画への評価がまちまちであるのは当然だろう。

しかし、時代を経ても変わらない美しさもある。自然の中にありのままの美を見出す行為は、時代の変遷や価値観の変化によって磨耗されない。それは、人間が持つ本能に等しいからだ。太陽の光の明るさと暖かさに顔を向け、その恩恵を存分に享受する喜びは、人間のみならず生き物全般が持つ本能である。それをキャンバスに写し取ることに一生を捧げたターナー氏の生き様は、だから至極自然発生的なものだったと理解できるのだ。才能に恵まれたターナー氏は、太陽の光がもたらす美に神経を研ぎ澄まし、それに感謝するために絵筆をとった。絵筆をとることができない我々凡人は、ターナー氏の絵画を通じて光の美を再確認し、自然に感謝するのだ。その行為が人間という生き物にとって文字通り自然な欲求であることを、この伝記映画「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」は我々に教えてくれる。

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「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」
監督:マイク・リー Mike Leigh
製作:ジョージナ・ロウ
製作総指揮:ゲイル・イーガン &テッサ・ロス&ノーマン・メリー
脚本:マイク・リー
撮影:ディック・ポープ
プロダクションデザイン:スージー・デイヴィーズ
衣装デザイン:ジャクリーン・デュラン
編集:ジョン・グレゴリー
キャスティング:ニナ・ゴールド
音楽:ゲイリー・ヤーション
出演:ティモシー・スポール(ジョゼフ・マロ―ド・ウィリアム・ターナー)
ドロシー・アトキンソン(家政婦ハンナ・ダンビー)
マリオン・ベイリー(ターナー氏の内縁の妻ソフィア・ブース)
ポール・ジェッソン(ウィリアム・ターナー・シニア)
レスリー・マンヴィル(メアリー・サマーヴィル夫人)
マーティン・サヴェッジ(ベンジャミン・ロバート・ハイドン)
ルース・シーン(ターナー氏の前妻サラ・ダンビー)他。

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー Joseph Mallord William Turner

英国ロンドン出身
1775年4月23日生まれ
1851年12月19日没

ロマン主義を代表する英国の風景画家。
ロンドンのコヴェント・ガーデンで理髪店を営む一家に生まれる。もともと精神状態が不安定だった母親は、ターナー8歳の時の事故で妹メアリー・アンが亡くなって以降、完全に精神を病み施設に入った。この母親の病状に振り回されたターナーは、学校に通うこともままならなかったが、絵を描くことに関しては並外れた集中力と情熱と才能を見せていた。13歳の時に風景画家トーマス・マートンに弟子入りし、約一年の間、絵画の基本を学ぶ。翌年14歳の時には早くも英国最高のロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学を許可され、風景画の制作に没頭する。英国の風光明媚な地方を精力的に旅して周り、山や海の風景を愛し、ありのままの自然に太陽の光が輝く様子に心酔し、膨大な数のスケッチを描いた。それらの“記憶”を元に制作された油彩画は高く評価され、1797年にはロイヤル・アカデミーに初出品を果たした。
1799年、24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員に選ばれ、さる音楽家の未亡人であった年上の女性サラ・ダンビーと交際を開始。認知はしなかったが、後年2人の娘をもうけた。とんとん拍子に出世していったターナーには、第三代エグルモント伯爵のような有力なパトロンもつき、深い信頼関係で結ばれていた父親が忠実な助手役となってターナーの画業を裏から支えたこともあり、恵まれた環境で画業に打ち込むことが出来た。
1802年、27歳になった時には、史上最年少でロイヤル・アカデミーの正会員に選出され、「カレーの桟橋」(1803年)のような初期の傑作をものにしている。ターナーの女性関係に深い陰を落としたといわれる母親が、1804年、精神病院で亡くなった。同年、ロンドン市内の自宅にギャラリーを設け、より多くの客の目に触れられるよう自作品を展示した。1822年には、アトリエのすぐ隣に接するようにギャラリーを拡張し、太陽光を取り入れるトップライトの天井、作品を浮き立たせるために赤色の壁紙を施した。
1807年には32歳の若さでロイヤル・アカデミーの遠近法教授に就任し、実際の講義も1811年から始めている。1812年にはロマン主義を代表する大作「アルプスを越えるハンニバルとその軍勢」を完成した。気候が温暖な夏の間は各地を飛び回ってスケッチ旅行に出かけ、冬の間は自宅に設けたアトリエにこもって制作に没頭、ロイヤル・アカデミー主催の展覧会でも、人寄せのための一種のパフォーマンスを交えつつ、常に話題を集める存在であり続け、自宅のギャラリーにも一般の客を頻繁に招きいれるなど、時代を先取りした精力的な画業を展開した。同時代の多くの画家達が貧困に苦しむ状況下で、ターナーの活動は順風満帆だったといえよう。1819年(44歳)には念願のイタリア旅行を敢行し、地中海のからりとした明るい太陽の日差しと、みずみずしい青色をたたえた海に天啓を受け、多くのスケッチ画を残した。
ヨーロッパ旅行を経て画風が変化し、賞賛と批判を浴びる中、1829年、最大の理解者にして最良の助手であった父親が病のため死去。その喪失感は埋めがたく、長年家政婦としてターナーに忠実に仕えていたハンナ・ダンビー(サラ・ダンビーの姪)が、ターナーの助手役とギャラリー及び作品の管理役を引き継いだものの、ターナー自身の足は次第に自宅から遠のいてしまう。
苦手な船を乗り継ぎ、小さな海辺の町マーゲイトへスケッチ旅行にきたターナーは、そこで部屋を借りた宿屋の女主人ソフィア・ブースと知り合った。そこでは当初ターナーは自身の名前と身分を偽っていたが、高齢にもかかわらずソフィアに一目会いたさに何度も船に乗ってマーゲイトまでやってくるうちに体調を崩し、地元の医師の世話になったことで正体がばれてしまう。ターナーが身体を壊してでもマーゲイトにやってきた理由は、嵐の中、4時間に渡って船のマストに身体をくくりつけ、嵐に翻弄される船の様子を観察して完成した苦心の大作「吹雪-港の沖合の蒸気船」(1842年)が酷評されるなど、画業が行き詰まっていたことである。孤独なターナーにとって、ソフィアとの穏やかな交流は、競争と嗜好の移り変わりの激しい絵画の世界の喧騒を忘れさせてくれる慰めとなったのである。しかし、公にはソフィアとの関係は一切伏せられ、1845年、ターナーは70歳でロイヤル・アカデミーの院長代理を務めた。

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マーゲイトの家を引き払ったソフィアがチェルシーに出てくると、ターナーはソフィアの家で暮らすようになり、ハンナがあるじの帰りを待ちわびるクィーン・アン街の自宅はますます荒れ放題になった。晩年、時代を先取りしすぎたかのような画風に進化したターナーの作品はアカデミーや顧客からの理解を得られず、酷評されることが多くなった。アメリカの大富豪が、自宅にためこまれていたターナーの作品を全て買い上げる商談を持ちかけたがそれも断り、ターナーは自作を手元に置いておく決断をする。そして遺言により、自らの死後には、全ての作品を“一つの入れ物で展示”することを条件に、所有していた自作全てを国家に寄贈したのである。
晩年、体力が衰えても絵筆をとり、新たな題材と表現方法を求めて描き続けたターナーは、スケッチに代わる“記憶装置”になるであろうカメラ技術にも強い興味を示した。描くことへの情熱は死の直前まで衰えず、生活の全てが描くことに繋がっていく激しい生き様も、新しいものに対する子供のような好奇心も、最後まで変わることはなかったといわれる。1851年12月19日、チェルシーのソフィアの家で、ソフィアと旧知の医師が見守る中、ターナーは静かに世を去っていった。享年76歳であった。

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ターナーの遺言の一つであった“自分専用の展示コーナー”は、現在テート・ブリテン美術館に増設されたクロー・ギャラリー Clore Galleryで実現した。そしてもう一つの遺言は、ナショナル・ギャラリーにて執行中だ。彼の作品2つ「カルタゴを建設するディド」と「霧の中を昇る太陽」が、彼が生前最も尊敬していた画家クロード・ロランの作品の隣に今も展示されている。

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しばらく前、今年のオスカー戦線予想をしていたとき、いわゆる伝記映画 biopicが例年に比して量産されている現状に驚いた。まあ、それ自体は昨日今日に始まった現象ではないが、毎年リリースされる映画の中で、伝記映画が占める割合が右肩上がりに増している状態に歯止めがかからない。そのことをこそ最も憂うべきだろうと思う。猫も杓子も伝記映画という状態から、いい加減脱して欲しい。これが今の映画界に対する私の切なる願いである(笑)。

とはいうものの。今作のように、製作側が描く対象に深い愛着と敬意を持ち、対象の人生を最も効果的に描く完璧な軌跡を求めて下描きを繰り返し、入念に準備された果てに完成した伝記映画は、ジャンルの壁を超えて多くの観客の心を掴む。なぜなら、その作業の工程で、映画のテーマである対象の人生という“絵”の中に、あらゆる層の観客が共鳴するような普遍性が生まれるからだ。
フィクションであれノン・フィクションであれ、伝記映画であれ非伝記映画であれ、良い作品になる最後の決め手はやはり、その作品の中の普遍性なのだ。観客は皆無意識のうちに、自分が対峙する作品の中に、何らかの共通点や共鳴できる部分を探している。それが一つでも見つかれば、その作品は観客の近くにぐっと引き寄せられることになる。だから、共鳴する観客の数が多ければ多いほど、その作品は時代や嗜好の変化に侵食されない確固たる普遍性を備えたものだといえるだろう。絵画も映画もそうだが、異なる作品間に優劣をつける作業というのは、本来あってはならない禁忌だと思う。しかし、観客が作品の中にある普遍性に反応しているならば、その普遍性を大きく力強く有する作品は、時代を超えて多くの人々に愛される作品になり得ると言い換えることは可能だ。

話が脱線したが、つまりウィリアム・ターナーの人生を完璧に映像に移植したこの「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」とは、ターナーや伝記映画に格別関心を持っていない人でも、観れば何かしら心を揺さぶられる、実にパワフルな映画だということだ。ターナー自身の作品への評価についても賛否両論分かれるジレンマはあるが、映画「ターナー、光に愛を求めて Mr. Turner」は疑いようもなく、見る者の心に強く作用する力を備えた優れた映画であった。

伝記映画に対する個人的な見解をここで正直に白状しておく。まず第一に、伝記映画は、テーマとなる対象の生き様を断罪してはならない。たとえその人物が、一般的な意味での常識に欠ける言動をしていたとしても、そのことを映画の中で否定してはならないと思う。その対象の周囲で起こった出来事を、できるだけニュートラルな立場で私的感情を交えずに描くのが望ましい。しかし、それを観た観客が、その対象の人となりについて悪い感情や良い感情を持ったりするのは、もちろん観客の自由だ。対象の言動と、彼が歴史の中で成し遂げた役割との関連性について議論するのも、大いに結構。だが映画は、対象の人生をジャッジするものではない。

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ターナー氏について考えれば、おそらく女性の観客の多くが彼の女性への接し方に反感を抱かれると思う。精神を病んだ母親に苦しめられたことを言い訳に、まるで使い捨て容器のように女性を使役し、彼女達の自分への好意や献身に報いようともしない傲慢で冷酷な男。結婚もせず子供の認知もしなかったサラ・ダンビーとは、おそらく過去に相当揉めたのであろうなと想像できる演出があったが、彼女よりもっと悲惨な運命を強いられたのは、家政婦ハンナだろう。容姿に問題があって本人もコンプレックスを抱いていたが、気立ては良く我慢強くて働き者。映画では、ターナーの父ウィリアム・ターナー・シニアに大切にされていたように描かれていたが、精神病の妻と気難しい息子を上手く操ってきたあの父親なら、ハンナとも礼を失することなく接していたであろう。問題はやはりターナー本人だ(笑)。
彼女からの純粋な好意を知っていながら、また、彼女の忍耐や献身の恩恵に甘えながら、彼女に性欲処理係以上のポストを与えなかった。最後まで使用人として彼女をこき使い、自分は一目惚れした未亡人とのままごとのような生活にさっさと乗り換える始末。

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ターナーが、自宅にサマーヴィル夫人を迎えた時のシーンを見ていて感じたが、とにかく確固とした自分自身の世界を持つ、一本筋の通った女性に彼は惹かれる傾向があるのだろう。サマーヴィル夫人は、当時の女性に与えられていなかった高等教育を自力で、独学でものにした根性のある女性だった。ソフィアも、夫を2度も亡くす不幸に遭いながらめげず、女手一つで宿屋を切り盛りしてきた女性だ。翻ってサラ・ダンビーは、捨てられたターナーにいつまでも金の無心にくる他力本願な女性であり、気の毒なハンナは自分の意見も口にすることすら出来ない有様だった。サマーヴィル夫人とソフィア、サラ・ダンビーとハンナへのターナーの態度は真昼と真夜中ほどに異なる。こういった史実から浮き彫りになる、ターナーが女性に抱いていた心理的抑圧と屈折具合は興味深い。

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私自身は母親なので、このターナー父子の強く思いやりに満ちた絆を見せられるだに、実をいうと大変悲しい気持ちになってくる(苦笑)。だがまあ、これも致し方ないことだ。息子が母親を必要とするのは子供時代まで。成長すればするほど彼らは母親の手から離れ、同じ男である父親と新しい絆を結ぶようになるものだ。ターナーが幼かった頃、妹が亡くなったり母親が狂乱したりといった辛い出来事が、彼から純粋な子供時代を奪ってしまった。父親はそのことを生涯悔い、死ぬまで息子を献身的に支えることで、過去に実現できなかった“家庭の温もり”を息子に与えようとしたのだろう。生涯、ごく一般的な意味での“家族”を持つことは叶わなかったターナーだが、しかしその実、彼の傍近くに控えて彼を支えてくれる人たちには、常に恵まれていたといえる。

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画家としての人生は孤高であり、共に歩んでくれる人間は基本的にはいない。ターナーもそうであったように、己の芸術とは常に一対一で向き合い、そして時には、理解者や支援者全てを失うリスクもつきまとう。それでも前を向いて突き進まねばならないのだ。それを恐れるようなら、芸術の道は諦めた方が良い。ターナーの晩年は世間の無理解に苦しめられた辛いものだったが、彼は死を前にして、何ら己の芸術の道に悔いも恥じ入ることもなかっただろう。前進することをやめず、変化することを恐れず、進化し続けた真の意味での芸術家の一生を、立派に全うしたのだから。晩年のターナーにその力を与えたのが、ソフィアだった。ハンナでは無理だったのだ。…男女の関係性とは本当に奇怪で繊細で、思わぬ難しさがある。

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今作を見ていて感心したのは、ターナーが愛した光の色に最も近い黄色をベースにした、まるでターナー絵画そのものを映像にしたような、3次元的で流麗なカメラワークだけではない。カンヌでも受賞したディック・ポープによって可視化した、自然の中を気ままに歩くターナーの身体に、また、屋内で制作に没頭するターナーの頭に空から光が降り注ぐ背景の美しさたるや、筆舌に尽くしがたいのだが。

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この作品の優れて美しい部分は、なにもポープのカメラワークだけではない。ヴィクトリア調時代の風俗が実に緻密に再現されている美術、大道具、小道具、衣装に至るまで、映画を構成する全ての要素の年代考証が正確である点だ。これらが醸しだすリアルかつ独特のアンサンブルを、ポープのカメラが見事にレンズに捕らえた。個人的には、ターナーの父が、息子が大量に使う黄色の染料を買い求めにいくシーンも面白かった。当時の染料がどれぐらい高価なものだったかが具体的に分かるからだ。まあ、画家稼業といえば今もそうだろうが、キャンバスや絵の具といった道具に金を吸い取られてゆく、これで食っていくには実に厳しい道であったのだ。だから、ロイヤル・アカデミーと折り合いが悪く、スポンサーもつかずに貧窮する、ターナー同時代の画家ハイドンの苦悩が笑えないほどリアルに感じられるのだ。

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その画風と同じく、ターナーの人となりにも独創的で破天荒な部分があったという。権威が全てを支配した時代、ロイヤル・アカデミーの展覧会で、今でいうところのスタンドプレー、“目立ちたい”気持ちもあっただろうワンマンなパフォーマンスを繰り広げたり、嵐に翻弄される船の様子を観察するためだけに、船のマストに4時間括り付けられたまま過ごしたり。"映像向き”な奇抜なエピソードには事欠かない人物だったそうだ。この映画でも、この2つの有名なエピソードが印象的に挿入される。後者のエピソードにみられるような、己の信じる芸術のためなら命をも投げ出す、その極端で苛烈な探求精神に支えられ、歴史に名を残した天才たちは一様に高いプライドを持つ。負けん気も強かったターナーは、その天才の証たるプライドは一際高かっただろう。そんな彼の気質が前者のエピソードのような行動に現れた。こんなターナーのセルフ・プロデュース能力はなかなかのもので、当時としては珍しかった個人ギャラリーのアイデア共々、やはり時代の一歩も二歩も先を突っ走っていたターナーの斬新さに感心する。

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若い頃から才能を認められて恵まれた芸術家人生を送り、新しい領域への果敢な挑戦を繰り返し、美を求めて常に旅を続け、新しいものへの好奇心、描きたいという本能に最後まで忠実に生き抜き、膨大な数の作品を残し、貪欲に、しかし豊かに、強烈に生を全うしたターナー。もしも今、目の前にターナーがいたとしたら、おそらく私はこんな質問を彼にするだろう。

『何があなたをそこまで絵に、光をキャンバスに封じ込めることに、駆り立てるのか?』

ターナーは生涯をかけて、自然の中に溢れる美を複雑な光の変化に託し、その光そのものをキャンバスに描き続けた。光は神の化身であり、実は私達の平凡な日常生活の中にも常に存在している。朝、日の出と共に起き、夜空を切り開いていく光の明るさに圧倒され、太陽が光線の角度を変えながら動くのと同じように移動し、時間ごとに様々に変化してゆく光の表情を捉え、闇に消えてゆく光の残像に胸を痛めつつ祈りを捧げる。自然のリズムと同じように生活し、その自然の光をありのままにキャンバスに再現することは、この地上で最も美しい美を尊ぶ行為であり、人類共通の、また最上の宗教儀式だともいえる。そしてもちろん、人間が本能として持っている欲求なのだ。人は太陽の光なくして生きてはいけない。

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