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zoom RSS 茨の道をガラスの靴で歩め―「シンデレラ Cinderella」

<<   作成日時 : 2017/12/10 21:29   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

この世界は残酷で、無知と憎しみと苦痛に満ち溢れている。しかし私達は自ら死を選ばない限り、生きていかねばならない。呪いの言葉を吐きながら他人を攻撃して生きるもよし、全てを忘れて無気力に、生きた屍になるのも勝手だ。だが中には、身も心もボロボロに傷つけられても、己の勇気と良心という甚だ心許ない武器だけでこの世界に立ち向かっていく人間もいるのだ。

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(shared from Wikipedia Kenneth Branagh's page, Photographed by Giorgia Meschini, Kenneth Branagh at the 2009 Roma Fiction Fest)
白状しますと、ケネス・ブラナー Kenneth Branaghの監督としての作品群は、彼自身のアイデンティティの拠って立つところであるシェイクスピア劇を映画化したものに関しては特に、肩に力が入りすぎているのではないかと感じることがままありました。所詮、私はシェイクスピアの専門家ではないし、ブラナー監督の熱心な信奉者でもありません。ただの一映画ファンとしての正直な感想しか書けない立場です。でも、ブラナー監督自身、長らく“ローレンス・オリヴィエの再来”と呼ばれることに対して、彼自身も気がつかない深層心理域で重圧を感じていたのではないかという推測は、あながち的外れではないとも確信しています。

実際、彼が俳優として出演した映画作品の中では、個人的には、「ひと月の夏 A Month in the Country」(1987年)や「ヴァージン・フライト The Theory of Flight」(1998年)、「舞台よりすてきな生活 How to Kill Your Neighbor's Dog」(2000年)、「シャクルトン 南極海からの脱出 Shackleton」(2002年)(TV映画)、オスカーの助演男優賞にノミネートされた「マリリン 7日間の恋 My Week with Marilyn」(2011年)、そうそう忘れちゃいけない「刑事ヴァランダー Wallander」TVシリーズ(2009〜2012年)など、シェイクスピアとは直接関係ない作品が大好きです。本当に素敵。特に、手のかかるダメダメな男を演じているとき(「ハリー・ポッターと秘密の部屋 Harry Potter and the Chamber of Secrets」(2002年)のロックハート先生も、相当ダメ男でしたが・笑)のサー・ケネスの輝きようといったら(笑)。

これらの作品に俳優として出演している時と、シェイクスピア劇の映画化作品に監督も兼任して出演している場合との違いは何だろうと考えるに、やっぱり責任とプレッシャーの違いなんだろうなあという結論に達せざるを得ないんですわ。プレッシャーをあまり感じずに演じている時のブラナー監督の演技は、実に陰影に富み滋味深く、それでいてフットワークも軽やか。キャラクターの器の中に入ったり、そこから出てストーリーの脇に一旦身を引いたりといったさじ加減が絶妙だというかね。本来の演技の引き出しの多さに加え、共演者の演技をも受けて立つ充分な余裕すら見て取れます。
役者の演技のどのような部分に感銘を受けるのかは、人によって異なります。演じている役柄に全身全霊を捧げているような演技に、胸ぐらを鷲掴みにされることもあるでしょう。また、ベテラン俳優の年輪を感じさせる余裕綽々の演技に、思わず唸ってしまうことだってありますよね。私の考えるブラナー監督の最高の演技は、シェイクスピアの呪縛から一旦離れたところで発揮されるようです。

実は、映画監督としてのブラナー監督の作品についても、「ピーターズ・フレンズ Peter's Friends」(1992年)、「フランケンシュタイン Frankenstein」(1994年)、「世にも憂鬱なハムレットたち In the Bleak Midwinter」(1995年)、「魔笛 The Magic Flute」(2006年)がいっとう好きです。特に「ピーターズ・フレンズ Peter's Friends」(1992年)、「世にも憂鬱なハムレットたち In the Bleak Midwinter」(1995年)の2作は、地味な内容ですし世に広く知られているとはいえませんが、名作と呼んで差し支えないと思っているぐらいです。映画監督としても、出来不出来の波はあれども、やはりシェイクスピア劇以外の作品の方が生き生きしているように感じますね。適度に肩の力が抜け、演出に余裕が感じられますもん。私の先入観かもしれませんけどね。

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「シンデレラ Cinderella」(1950年)アニメーション映画版から。私にとっての“ディズニー・プリンセス”の象徴がこのシンデレラです。両手を優雅に左右に伸ばしてヒラヒラさせる仕草は、今でもまぶたに焼きついています。ディズニーが“理想の女性像”、“理想のエレガンス”に求めるものの顕著な具体例のような気がしてね。そういえば、ティム・バートン監督によるこちらも実写版映画「アリス・イン・ワンダーランド Alice in Wonderland」で、白の女王に扮したアン・ハサウェイ姐さんが、この1950年度アニメ版シンデレラのジェスチャーをそっくり再現しておられて、映画を見ている間中、背中がムズムズする感覚っちゅうか、鳥肌がボツボツたつ感覚に襲われておりましたよ(大笑)。そうそう、これこれ、この芝居がかった仕草こそが、私が大人になってからディズニー・プリンセスやジブリ・アニメのヒロイン像に違和感を感じる要因になったのよ!というね(爆)。

そんなわけで、私にとっての“シンデレラ”といえば、1950年に制作されたディズニーの懐かしいセル画によるアニメーション映画です。確か、絵本も両親に買ってもらった記憶があります。このアニメ映画では、シャルル・ペロー編纂の童話「シンデレラ(灰かぶり)」にかなりのアレンジが施され、オリジナル・キャラが登場したり、ストーリーも子供達の夢を壊さぬよう、原典にあった血生臭い部分には蓋をして一大ミュージカル作品に仕立てられておりました。子供の頃はこのお話に素直に夢中になっていましたが、長じてからひねくれた目で見直し、“ケッ”と唾を吐きかけた痛ましい思い出も同時に甦りますねぇ(苦笑)。ま、しかしながら、アニメならではの美麗かつ幻想的なシーンの流れ、個性的な各キャラクターの描き分け、“ビビディ・バビディ・ブー”等の一度聴けば忘れない名曲の数々を生んだ楽しいサウンドトラックなど、やはり一つの映画としての完成度は非常に高く、名作として映画史に残る逸品であることには変わりありません。

そして現在。ディズニーが、ピクサー、マーベルやルーカス・フィルムなどを買収し、エンタメ世界を支配する勢いの巨大企業にのし上がった後、一体何をするつもりなのかと思いきや、彼らは、ディズニーの典型的名作アニメ映画群を実写化する野望を実行に移し始めました。申し訳ないですが、当初このニュースを耳にしたときの世間様の反応も、私の反応も冷ややかなものであったと記憶しております。なんぼアイデア枯渇の時代だといえ、今現在の感覚ではさすがに古臭く感じるディズニー・プリンセスたちの物語を、今更甦らせたところで何になるのだと。ところがディズニーは、日本でも大ヒットした「アナと雪の女王 Frozen」で“伝統的ディズニー・プリンセスの現代的解釈”を成功させてしまいました。その後、「眠れる森の美女 Sleeping Beauty」のヴィラン、魔女マレフィセントを主人公にした変則版ディズニー・プリンセス実写映画「マレフィセント Maleficent」も大成功に導き、ディズニーによるディズニーのためのディズニーの遺産の実写映画化計画は面舵いっぱいで船出したわけですね。

Have courage and be kind.

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「シンデレラ Cinderella」(2015年)実写映画
監督:ケネス・ブラナー
脚本:クリス・ワイツ
製作:サイモン・キンバーグ&デヴィッド・バロン&アリソン・シェアマー
音楽:パトリック・ドイル
撮影:ハリス・ザンバーラウコス
編集:マーティン・ウォルシュ
出演:リリー・ジェイムズ(エラ/シンデレラ)
ケイト・ブランシェット(トレメイン夫人、継母)
リチャード・マッデン(王子/キット)
ヘレナ・ボナム=カーター(フェアリー・ゴッドマザー)
ノンソー・アノジー(大尉)
ステラン・スカルスガルド(大公)
ソフィー・マクシェラ(ドリゼラ・トレメイン)
ホリデイ・グレインジャー(アナスタシア・トレメイン)
デレク・ジャコビ(国王)
アレックス・マックイーン (延臣)
ベン・チャップリン(エラの父)
ヘイリー・アトウェル(エラの母)
エロイーズ・ウェブ(幼少期のエラ)他。

幼い頃のエラの家庭は、絵に描いたように幸せなものだった。町外れの静かな農家で優しい父と母に溺愛され、気さくな使用人たちと動物たちとも仲良く、豊かな自然に育まれて育った。母は夢見がちな邪気のない女性で、“どんなときも勇気を持って人に優しく接するように”というのが口癖だった。だが程なくして、その口癖が幼いエラへの遺言になってしまう。
母を喪った悲しみを、エラと父は共に支え合うことで癒していった。ところが、エラが年頃の娘に成長した頃、商人の父は織物商の未亡人トレメイン夫人と仕事を通じて知り合う。夫人の都会風に洗練された知的な魅力はエラの母にはなかったものだ。エラの父は喪失の悲しみを払拭するため、トレメイン夫人との再婚に踏み切る。父のためになるのなら、とエラも反対しなかった。
トレメイン夫人と愛犬ルシファー、2人の連れ子であるドリゼラとアナスタシアがエラたちの住む屋敷にやってきた。到着早々、都会の生活に慣れた女たち3人は、片田舎での暮らしをあざ笑い、垢抜けないが美しい娘になったエラを特に目の敵にする。もちろん、それは父の全くあずかり知らぬところで、密やかに速やかに行われた。田舎暮らしに埋もれるのを嫌う夫人は、毎晩のように町の名士を屋敷に招き、明け方までドンちゃん騒ぎに明け暮れる。夫人の浪費のためもあり、父は以前よりも一層仕事にのめり込み、一年のほとんどを外国で過ごすようになった。父の不在で居場所のなくなった家に置き去りにされる寂しさを振り払い、エラは旅先で一番最初に父の肩に触れた木の枝を手折り、それを必ず持って帰って自分への土産にしてくれと頼む。
父が旅立った直後、トレメイン夫人は本性を現す。自分を“奥様”と呼ぶようエラに命じ、ドリゼラとアナスタシアの部屋が狭いことを理由に、エラを屋根裏の物置部屋に追い払ってしまう。そして、次第に彼女を他の使用人たちと同じ扱いにするのだった。あらためて父の不在を嘆くエラだったが、その帰宅を待ちわびていた父はとうとう旅先で病に倒れ、帰らぬ人になった。戻ってきたのは、エラが父の幸運を祈った木の枝だけ。トレメイン夫人は夫の死ではなく、女手だけで家に取り残された己の悲運を嘆く。しかし、エラにとってはこれからが真の悲運の始まりだった。

夫人の浪費のせいで、エラの家の家計は火の車になっていた。夫人は金の節約を理由に、全ての使用人を解雇し、彼らが受け持っていた家事一切合切をエラ1人に押し付けた。ついでにエラの亡き母の形見である裁縫道具もエラに押し付け、名実共にエラをトレメイン夫人と2人の馬鹿娘の使用人にしたわけだ。エラはこの家から出ていっても構わなかった。しかし彼女は、何があってもこの家を守ると、亡き両親の魂に誓っていた。だからこそ、炊事、洗濯、そうじ、3人の女たちの細々とした言いつけその他の重労働に耐えていた。寒い日は台所の置き火の燃え残りのそばで眠って煤だらけになり、自分用の食事すらない状態で、娘たちから“灰かぶり=シンデレラ”と呼ばれてあざ笑われる毎日であっても。
石に噛り付いてでも、両親の思い出の詰まっている屋敷から離れる気はなかったエラだが、我慢にも限界がある。ある日、思い余って馬を駆って森に飛び出してきたエラは、ちょうどその森で従者たちと共に狩りをしていたこの国の王子と鉢合わせする。銃声に驚いてパニックになっていた大鹿を、彼女がなだめて逃がしてやったのだ。エラは、森の王者である大鹿を殺そうとしていた王子に大変な剣幕で食って掛かる。身分の差をものともせず、自分を恐れず、愛する動物をかばい、己の意見を堂々と口にする彼女に驚いた王子は、咄嗟に自らの素性を隠し、王宮で見習い騎士をしている従者のキットだと名乗った。エラの方も、彼女の意見に耳を傾けて尊重してくれ、“鹿を殺さない”と約束してくれた“キット”の優しさにほだされる。辛いことばかりが続いて心労の絶えぬ毎日の中、“また会おう”と言ってくれたキットの言葉だけが、エラの心の支えになった。

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“キット”は王子のあだ名で、国王が機嫌の良いときに王子を確かにそう呼んでいた。王子の傍を片時も離れることのない大尉は、心ここにあらずという王子の落ち着かぬ様子から、森で王子の運命を変えるような出会いがあったのだと感づいていた。しかし病で死期の近い国王は、大国に囲まれたこの小さな国の自治を維持するため、政略結婚に踏み切るよう息子をせっついていた。遠からず国を統べる立場になる王子にとって、結婚は自分だけの問題ではなく、国家の行く末を左右する政治の重要な一部である。王子に相応しい、かつ、この国にとって利益になるような結婚相手を探す目論見で、国王は舞踏会を催すことを宣言する。そして、一目惚れの恋に浮かれる若き王子を諭した。森の中でたった一度だけ出会った女に惚れて全てを投げ出すなど愚の骨頂だろう。現実をよく見るがいい、と。しかしかくいう国王自身も、実は王妃との出会いは猛烈な一目惚れであったのだが。“一目惚れ”は国王譲りなのかもしれない。王子は、“お妃候補お見合い舞踏会”を受け入れるかわりに、国中の未婚の女性も身分の上下なく全て王宮に招待するという条件を出した。国王と王子という公的な立場を忘れ、しばしにらみ合う父子。一度言い出したら後に引かない頑固さも国王譲りなのだ。王宮の舞踏会に平民の娘も招待するという、王国始まって以来の珍事を国王は渋々認めざるを得なかった。

王子様の主催する舞踏会に国中の未婚の乙女達が招待される!このお触れはたちまち国中を駆け巡り、腹に一物ある者もそうでない者も、皆こぞって舞踏会の準備に目の色を変えることとなった。トレメイン夫人もこのお触れに浮き足立った者の1人。おつむの出来は残念だが、見栄えは悪くはない娘たちドリゼラとアナスタシアのうち、どちらかが王子様の目に留まれば、自分も貴族に列せられる。そうすれば、こんな辺鄙な田舎で借金にまみれたこっ恥ずかしい生活ともおさらばできる。夫人はさらに借金を重ね、自分自身と娘たちのドレスを新調するようエラに命じた。

エラは単純にキットにもう一度会いたかった。王子様のお妃候補選びのための舞踏会となれば、彼も王宮の警護だかなんだかの役に就いているだろうから。ちょっとだけ会って話をすることもできるかもしれない。もし彼が自分の顔を覚えていれば。エラは夫人とドリゼラたちのドレスの着付けを手伝いながら、亡き母が遺した古いドレスを仕立て直すことを考えていた。一日の重労働を終え、やっと奴隷の日課から開放されると、エラは布の端切れやリボンの切れ端を引っ張り出し、徹夜でドレスの仕立て直しを行った。子供の頃からの友達である、今は同じ屋根裏住まいのネズミ達も、エラを応援するように傍に寄り添っていた。

ところが、やっと完成したドレスを着たエラを一目見たトレメイン夫人は血相を変える。確かにドレスのデザインは古臭いし少女趣味が過ぎて垢抜けないが、灰まみれの顔をきれいに洗い、腰まで届く長い金髪を美しく結い下ろしたエラの美しさは神々しいほどだった。もし彼女が舞踏会に赴けば、王子はドリゼラやアナスタシアには見向きもしないだろう。危険を察知した夫人はエラのドレスを破り、エラだけは絶対に舞踏会には行かせないと言い置いた。

忍耐に忍耐を重ね、“どんなときも勇気を持って人に優しく接するように”という母の遺言を守ってきたエラだったが、もう限界だった。現実は残酷だ。自分がどんなに優しく接しても、世間はそれを酷いアダで返してくる。親切で優しい人間が報われることは決してないのだ。今度こそ家を出ようと泣き崩れる彼女の前に、みすぼらしい格好をした老婆が杖にようよう縋りながら現れた。老婆はエラがおいおい泣いているのを承知で、何事もなかったようにミルクを一杯所望する。いつもの習慣で、エラは下働きの下女よろしくミルクをボウルについでやる。老婆はミルクを一気に飲み干して盛大なゲップを一つくれ、呆れているエラに、自分はフェアリー・ゴッドマザーなのだと名乗った。エラのためだけに、今のエラの望みを叶えるためだけに、エラの前に姿を現したのだと。エラは吹き出し、このへんてこりんな老婆は、ちょっと頭がイカレているのかもしれないと考えた。良い子の前に現れて望みを一つだけ叶えてくれるというフェアリー・ゴッドマザー。しかしそれは子供の無邪気な夢物語なのだとエラは自嘲した。現実にはそんなものは存在しない。疲れ果てたエラの冴えない返答を聞き流し、老婆は杖を天高く振り上げた。「そりゃ残念だ。あんたのお母さんは私を信じていたんだけどね」

呆気にとられるエラの目の前で、襤褸を着た老婆は、真っ白のドレスに身を包んだ美しいフェアリー・ゴッドマザーに変身した。エラはその信じられない光景にただただ胸を打たれた。希望も夢もなかった真っ暗なエラの“現実”に、魔法の世界が突如稲光と共に落っこちてきたようなものだ。エラの反応に満足したゴッドマザーは、久しぶりにとっておきの魔法の腕を振るうべく、エラを舞踏会に送り出す準備にとりかかった。かぼちゃは魔法で立派な馬車になり、ネズミ達は美しい白馬に、エラの友達でもあるガチョウは御者に、たまたまその辺を走っていたトカゲがエラの従者に変身した。最後はエラのドレス。ビリビリに破かれた無残なドレスを見て、ゴッドマザーも顔をしかめた。いくらなんでもそのデザインは古臭すぎる。そこで、エラの希望も汲んでドレスはふわりと広がる深い青色のものに変更された。ゴッドマザーは、夢心地のエラの細い足に透明のガラスの靴を履かせると、真夜中12時を告げる鐘の音が鳴り終われば魔法の力も消えてしまうと警告した。そう、文字通り夢のような時間には必ず限りがあるのだ。それまでに必ず戻ってくるよう言い置いて、ゴッドマザーはエラを急き立てた。

国王の側近である大公は裏工作を行い、とある有力な国の姫君と王子との結婚話を秘密裏に進めていた。しかし王子の意識は各国から招待された姫君たちにはなく、目はエラを探し続けていた。招待状もないまま、エラは不安な面持ちで王宮に到着した。魔法で急ごしらえの従者になったトカゲは優しくエラを送り出す。「どうか楽しんできてください。ボクだって元はトカゲなんですし、ね」
これも魔法の力か、エラは招待状を提示するよう求められることもなく、軽やかに裾が広がるドレスとガラスの靴に導かれるまま、大広間を抜け、王子の前に姿を現した。森の中で出会って以来、片時も忘れることのなかった娘が、まるで夢のように目の前で突然実体化した。王子は感無量でエラの手をとり、2人はそのまま床の上を滑るように踊り始める。エラは見習い騎士のキットが、実はこの国の王子であったことに心底驚くが、しっかりと繋がれた手を振りほどくことは、誰にも出来なかった。当の2人ですらも。

トレメイン夫人はドリゼラとアナスタシアを王子の目に留めようと躍起になるが、まるで相手にされていないことを悟った。それどころか、招待状も持たずに突如現れた謎の娘が、王子の寵愛を独り占めにしている事実に危機感を覚える。次善策を練らねばと思案するうち、大公が賄賂と引き換えに王子の縁談を勝手に進めていた事実を盗み聞きしてしまう。王子は、家臣たちと他国の姫君たちからの視線を避けるため、エラの手をとって広間を抜け、幼少期に誰にも邪魔されず1人きりの時間を楽しんだという秘密の庭に彼女を連れて行った。そこには、王子しか乗ったことのないブランコがあり、王子は誰にも触らせなかったそのブランコにエラを乗せる。どんな豪勢な玉座よりも、このブランコは王子とエラにとって大きな意味のあるものだったのだ。フェアリー・ゴッドマザー自慢のガラスの靴は履き心地は抜群だが、滑りやすく、エラの細い足からするりと脱げ落ちてしまう。王子は靴をエラの足に履かせてやる。暖かい愛情と、静かな、しかし喜びに満ち足りた時間があっという間に過ぎてゆく。はたと気付いたときには、ゴッドマザーと約束した12時の鐘の音が鳴り始めており、エラは暇乞いをする暇もなく弾かれるように馬車の待つ場所まで走り始めていた。
広い王宮で迷子になり、エラは国王が控えるバルコニーに出てきてしまった。驚く国王に、エラは最も大切なメッセージだけを一方的に捲くし立てた。キットは素晴らしい人物であり、将来はきっと歴史に残る名君になるに違いない、だからキットを許してあげて、と。それだけ告げると脱兎の如く駆け出したエラの後姿を、国王は今度は唖然と見つめるしかなかった。
大公は、大国の姫君と王子の縁談の邪魔をされてなるものかと、王子を唆しているとして、エラの乗った馬車を衛兵達に追わせた。エラと動物達は、なんとか家に帰りつくまで魔法の効力が切れませんようにと祈るような気持ちで、必死で走り続ける。城門を潜り抜け、ようよう衛兵達をまいたときには、馬車はかぼちゃに、白馬はネズミ達に、御者はガチョウに、従者はトカゲの姿に戻っていた。エラ自身も、もちろん元のみすぼらしい“灰かぶり”になっていた。雨が降っていた。エラの顔に付いた煤や灰は、雨がきれいに洗い流してくれるだろう。結局エラの手に残されたのは、片方だけになったガラスの靴だけ。それでもエラは満足だった。まるで夢だとしかいいようがない素晴らしい時間を、自分は確かに過ごした。キットの正体は王子様だった事実はエラを心底びっくりさせたが、それでもいとしい彼と心を通い合わせることが出来たのだから、それでいいではないか。全ては魔法がもたらした奇跡の瞬間だったのだ。
一瞬の魔法が見せた夢はやがて美しい思い出となり、彼女の胸に永遠に生き続けるだろうことをエラは知っていた。フェアリー・ゴッドマザーが実在したことも。こうして人は、子供の頃に夢見た全てのことを思い出にするのだろう。エラは、今日のこの魔法の瞬間のどんな些細なことも忘れてしまわないように、大切に日記に書き留めておいた。一方、エラに去られた王子の方は、彼女が置き忘れていったガラスの靴の片方をせめてものよすがとし、大切に抱き締めた。

程なくして国王は死の床につく。国王は、一度だけ相見えたエラの率直だがいたわりに満ちた言葉に、自分が大きな感銘を受けていたことを認めた。その人柄を知るのに、腹の探りあいだの駆け引きだのは、本当は必要ないものなのだ。たった一言でもいい、言葉を交わすだけで充分なのだ。そして息子に今一度、運命の恋への彼自身の覚悟の程を問うた。「もし私が、国の為に政略結婚せよと命じたら、お前はそれを甘んじて受け入れるか?」と。王子は、死にゆく父の希望に反すると分かっていながらも、苦渋の表情で答えた。「国を守るのは大国の庇護ではなく、他ならぬ私自身が勇気と国民への思いやりを持つことです。そしてそれを可能にするのは、彼女が私の妃になることです」と。国王は王子のその答えに心から満足した。王子が立派に成長し、国王の器に相応しい人間になったことが分かったからだ。そして、慌てふためいて靴を忘れていった、そのそそっかしい娘をなんとしてでも探し出し、妃として迎えいれよと遺言した。

ガラスの靴を片方なくした娘は王宮に名乗り出るようにとのお触れが出される。トレメイン夫人は、舞踏会の夜、王子の心を奪った謎の姫君はエラであろうと勘付いていた。そして、“身分違いの恋”が現実にはどんなに悲惨な結果になるかと聞こえよがしに言い放ち、エラの動揺と混乱を誘う。エラは、夫人の悪巧みに打ち勝ち、自分の運命を切り開くことができるのか?

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…フェアリー・ゴッドマザー曰く、あなたの運命を切り開くのは、“勇気と優しさと、ほんのちょっぴりの魔法”だと。実際その通りだと思います。私達が運命のいたずらだと思っている出来事は、本当は、どこかに存在する妖精の為せるワザなのかもしれません。ですが、私達の人生の根幹を大きく動かしていくのは、他ならぬ私たち自身の勇気と意志の強さでしょう。いつまでも誰かの力に頼ってばかりでは、てめえの人生は前に進んでいきませんもの。これは至極普遍的な考え方であり、これまでの人生において、大きな悲しみや苦悩を経験したことのある人ならば、尚更強く実感していただけると思いますね。
この作品は、ディズニーの伝統的、かつ古典的、最も典型的だと謳われたプリンセス・ストーリーの枠組みを借りながらも、実際には、現在の私達がともすれば忘れてしまいがちな基本的なアイデンティティを、力強く提示し直しています。前述した1950年のミュージカル・シンデレラ映画では、運命にどこまでも受動的で己の意見や気持ちを明らかにすることなく、ただただ泣いてばかりのようにみえたヒロイン、エラ。2015年バージョンでは、その彼女の知られざる深層心理を掘り返し、実際のところ彼女が自らの人生の変遷に何を考え、どのように立ち向かっていこうとしていたかを具体的に描写することに腐心していたように感じました。

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天涯孤独の身の上になったエラには、中世の時代の同じ境遇の若い娘たちがそうであったように、他に行き場所がありませんでした。でも、彼女が家に留まった理由は、劇中でエラ自身が元使用人の娘に語っていたように、父と母の思い出の残る家をなんとしても守りたかったからだと思います。彼女が家を離れれば、古き良き父母の思い出もまた、あの継母に踏みにじられてしまうでしょう。どんなに自分自身が理不尽に傷ついても、どんなに苦しくとも、亡き母の遺言“勇気を持って他者に親切にしなさい。 Have courage and be kind.”を文字通り実行することは、エラにとって彼女自身の不運への強い意思表示だったのではないか。この作品の脚本家クリス・ワイツはそう分析したようですね。エラにしてみれば、さっさと他の地に移った方がよほど楽な人生だったでしょうに、それを選択しなかったのはやはり、理不尽な痛みを与える継母への無言の抵抗行動だったという意味合いが強いと、私も思いますよ。我が身に降りかかる危険を避けるために他へ逃れる、つまり、“戦略的撤退”は確かに、人生の舵取りにおいては重要なことであります。それを理解するだけの頭脳を持っていながら、あえてエラはそれをしなかったのですよ。エラ自身の意志の強さ、精神的強さ、またそれ以上に、理不尽な仕打ちへの怒りが大きかったことを暗示するものでありましょう。

両親も幸せな生活も何もかもを奪われたエラの唯一の宝物であった王子への愛情を、当然の権利のように踏みにじろうとする継母に、エラは食って掛かっています。彼女としても、決してやられてばかりではなかったわけですが、当時の時代背景を考えれば、エラにできる表立った抵抗行動は、あれが限界ではないかとも思いますね。王子が王子としての責務から自由になることができなかったように、男性にとってすら生き難く、女性にとっては尚更厳しかった世界で、あえて“勇気を持って他者に親切にする”生き方を貫くのは、大変な苦難に満ちた生き方だと分かりますね。どんなときでも自分のことはさておき、他者に親切にする生き方は、弱虫には到底真似できません。自分の身も心もボロボロに傷つけられても尚、己の勇気と良心という甚だ心許ない武器だけでこの世界に立ち向かっていこうとする崇高な生き方なのですから。

この作品は、従来の伝統的ディズニー・プリンセスを現代的な感覚で解釈しなおすという、「アナと雪の女王」以降のディズニーの目標に沿った内容になっています。ですから、エラのキャラクターにも、1950年当時とは違って、王子様に堂々と自分の意見を表明する姿が描かれます。“狩猟”と称して無益な殺生をすることを戒めたり、人が人として生きる上で最も大事なのは“勇気を持って他者に親切にする”ことだと諭したり。王子も国王も大尉も、そんなエラの静かなる意志の強さに感銘を受け、知らず大きな影響を受け、考えを改めていく過程が説得力を持って描かれていました。私自身が感銘を受けたのは、このように、エラの人物造詣だけではなく、王子様、国王、大尉、大公、エラの両親、トレメイン夫人と2人のアホ娘に至るまで、各登場人物のキャラクターの心理描写をきめ細かく行い、彼らの心情の変化をさりげなく、しかし大変丁寧に追っている点ですね。クリス・ワイツのバランスのとれた脚本も良いのですが、ブラナー監督の演出もユーモアたっぷりの軽妙さを纏いつつ、キャラクターへの愛情に満ちた滋味深いものでした。先程の話を蒸し返すようで申し訳ありませんが、今作におけるブラナー監督の采配をみるにつけ、やっぱり監督は、シェイクスピア劇以外の題材を扱った方が却って良い作品になるよなあと思ってしまいますね(笑)。

今作に於いて、ディズニー十八番の“魔法”は、あくまでも王子とエラを近付ける為のキッカケに過ぎません。当事者2人がお互いの愛情を確かめ合った後、その後の運命を変えていくのは、彼ら自身の努力に任されています。“最後の仕上げ”に関しては、魔法はノータッチね(笑)。実はこれ、親である私が見ていても、実に上手い解釈ではないかなあと思います。ほれ、『何とかしてよぅ〜ドラ◯も〜ん』のあの国民的マンガ、アニメ作品が何故PTAに毛嫌いされるか、考えてみたらいいですよ。何でもかんでも人知を超えた驚異的な力に頼ってばかりでは、子供は成長せんやないけー!という親御さんたちの心配も分からんではないのね。魔法って、そのドラえ◯んのポケットもそうですが、一瞬の夢を具現化する為だけにあるからこそ貴重なわけであってね。いっつもかっつも魔法で全てを解決してしまっては、魔法は魔法の純粋さと希少価値を失い、堕落してしまいます。

従って、エラも最後の決断ー自分の本来の姿、惨めな境遇を、愛する相手に正直にさらけだすことーは、魔法に頼るのではなく、彼女が彼女自身の力で行うべきであるとする展開には、深く納得。そもそも王子はエラの内面に惹かれたわけで、ボロを纏った彼女を見たところで動じるわけはないんですよ。その愛情がホンモノならばね。わざわざガラスの靴を履かせんことには、それが本人かどうかも判断できん程のおヴァカ足フェチでもないでしょうし(笑)。エラと王子の最後の対面シーンでは、相手の外見に惑わされないという王子の度量が試されたと同時に、寧ろ、エラが本来の自分に自信を持てるかどうかの方が強く問われている気がしました。

今作では、映画を見る子供たちの夢を壊さぬよう、悪をなした者に対し懲罰的な酷い報いを受けさせる原典の最も血生臭いくだりは、別の解釈に置き換えられています。しかしこれ、考えようによっては、これ以上ない程厳しい懲罰だったかも知れませんね。エラは苦痛に満ちた家を出て行くとき、継母に“貴女を赦すわ”と言うんですね。表面上こそ慈悲に満ちていますが、その“赦す”という言葉は切っ先鋭い復讐の刃と同義。“赦された”夫人がその途端、蒼ざめたのはそのせいですね。実際、憎っくき仇をボッコボコにやっつけちまう方が遥かに簡単なんです。そうしたい誘惑を抑え、あえて仇の罪を赦すには、相手をぶちのめしたいという根源的な暴力衝動に打ち勝つ強い自制心が必要になるからです。憎い相手を赦すには、自分自身が相手よりもっともっともっと強くないとダメなんですよ。ですから、エラがトレメイン夫人の罪を赦した段階で、エラと夫人の戦いの勝敗は決していたわけです。この作品って、単にディズニー・プリンセスを現代的に解析しただけのお話ではなく、人間心理の襞を緻密になぞった、なかなかに思慮深い内容だと感じました。

王子が森の中でエラと出会った後、国王と“お見合い舞踏会”について話し合うシーン。王宮内の部屋で、立派なひげを蓄えた宮廷画家が、王子が馬に乗った姿の肖像画を描いていましたね。これ、ディエゴ・ヴェラスケス Diego Velázquez(1599年生まれ1660年没)というハプスブルク・スペインで重用された宮廷画家が、スペイン皇太子バルタサール・カルロス Prince Baltasar Carlosをモデルに描いた肖像画『皇太子バルタサール・カルロス騎馬像』にそっくりなんですよね。

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そして舞踏会の夜、エラと王子が初めて2人きりになったときのシーン。王子が、自身の大切な思い出の一つである小さな庭のブランコにエラを招待するという、ロマンチックもここに極まれりという美しいシーンでしたね。これは、18世紀に大いに流行ったロココ美術を代表する画家ジャン・オノレ・フラゴナール Jean Honoré Fragonard(1732年生まれ1806年没)の最高傑作と謳われる『ぶらんこの絶好のチャンス(ブランコ) Hasards heureux de l'escarpolette』へのオマージュだったかもしれません。若い娘が乗っているブランコを男性が後ろから押してやり、娘の足から靴がするりと脱げてしまっています。性的な意味でも感情的な意味でも解放を意味する、奔放で明るい作品です。…そういえば、映画でもここでエラの足からガラスの靴が脱げ落ちてしまいますものね。

本編とは直接関係ないシーンでも、このように過去の芸術へのリスペクトがさりげなく払われていて、映画自体がひとつの美術作品のように美しく機能していました。もちろん、衣装、美術、小道具等のスタッフの仕事ぶりの見事さは改めて指摘するまでもありません。

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茨の道をガラスの靴で歩め―「シンデレラ Cinderella」 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
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