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zoom RSS 貴族と猟犬ー「フォックスキャッチャーFoxcatcher」

<<   作成日時 : 2016/03/04 23:26   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

“言葉にならない感情”を映像で表現する場合、音楽に代わりに語ってもらうというやり方は有効だよね〜という話を「はじまりのうた Begin Again」でいたしました。そういえば「ブルックリンの恋人たち Song One」も、言葉のない映像の隙間を音符や雑踏が埋めていくタイプの作品でした。閑話休題、アン・ハサウェーが主演したこの「ブルックリンの恋人たち Song One」も、英国出身のミュージシャン兼俳優のジョニー・フリンJohnny Flynnが出演し、プロならではの素晴らしいライブ・パフォーマンスが、見せ場のひとつになっていましたね。「はじまりのうた Begin Again」といい、今作といい、プロの俳優陣に畑違いの音楽家が入り込むことで、映像に予想外のケミストリーが生まれている作品を最近よく見かけます。このタイプの“音楽映画”はきっと今後も増えていくでしょうね。

ことほどさように、音楽は雄弁です。

しかし、放っておけば空気の中に溶けて消えてしまうほど儚い感情の残り香を、音符ではなく、その場の情景そのものに代弁させようとする、大変勇敢な映画監督もいます。
今の映画監督さんたち、特に若い世代の監督たちは、多くが成長の過程で過剰な色と過剰な音と過剰な言葉の情報洪水にまみれるせいか、映画の上で“静寂”の瞬間が生まれるのを怖がっているように見受けられる人も多い。彼らの映像には常に効果音や人の怒鳴り声や音楽がやかましく鳴り響き、止まるのを恐れるかのように、あらゆる人とモノが常にどこかに向かってびゅんびゅん動いている、というように。

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ベネット・ミラー Bennett Miller、私とほぼ同世代(笑)、今が働き盛りであり、映画監督として脂の乗りきった時期にいる、ニューヨーク出身の映画監督。このベネット・ミラー監督の作品には、台詞やBGMや効果音すら消える静寂の瞬間が多々見られます。映画用に脚色された“日常生活”ではなく、きわめて現実に近い状態の日常生活の1シーンが切り取られているのですね。
しかしながら、私たちが見慣れている日常生活の光景は、映画の中に取り込まれた瞬間に“日常”ではなくなってしまうのも事実です。これまた最近の流行である“ドキュメンタリー”映画が、現実とスクリーンの間にカメラを設置した時点で、現実を“現実”から切り離してしまうように。ですから、ミラー監督が切り取っていく情景も、本当はただの日常生活ではなく、彼が描こうとするストーリーの中の重要な役割を担っている駒の一つなのです。
彼は、雪がしんしんと降り積もる光景、馬が広い庭を駆けていく光景、登場人物がテレビを見ていたり車の修理をしていたりする、ごく普通の光景を見せるその裏側で、言葉にならぬ感情が逃げ場を失って極限まで膨れ上がっていることを暗示させます。観客が、この作品を見ている間中、目に見えぬ真綿で確実に首を絞められているような不穏な心地に苛まれるのは、気のせいじゃありません。ミラー監督が、何気ない日常生活の光景に、そのような意図を忍ばせているからなのですね。
私は彼の作品を観る度に、いつも決まって日本の俳句や短歌を思い出すんですよ。極限まで切り詰められた言葉と言葉の間にある目に見えない空間に、千万の言葉を尽くしても語れない感情が茫洋と浮かび上がる、俳句や短歌の世界。これとミラー監督の映像はとても似ていると思います。

しかし彼はまた同時に、かつてのジョージ・ロイ・ヒルGeorge Roy Hill監督のように、生粋のアメリカ人としての価値観とアイデンティティを保ちつつ、モラルと現実の間で、あるいは伝統と未来の間で絶えることのない葛藤といったものを、アメリカ的知性と良心で描くことができる作家でもあるのです。一つの作品のためのリサーチと作りこみが徹底しているため、寡作になってしまうという面もジョージ・ロイ・ヒル監督に似ていますが(笑)、手がけた作品全てが本当に素晴らしく、映画史にも観客にも大きな影響を与え得る監督だといえるでしょう。むしろ、今のアメリカ映画界を代表する監督の一人だと断言してもいいぐらい。

実は、本当の意味でアメリカ人らしいアメリカ土着の映画監督って、思ったほど多くはいないんですよ。現在の映画界が、イギリスやアジア圏、あるいは南米圏、北欧圏から生み出される映画によって動いているようなものなので、アメリカ映画界も世界中から集まった多種多様な民族、人種が入り混じっている状態です。“これはアメリカ映画ですよー”と銘打たれていても、監督やスタッフ、キャストは実はアメリカ人ではないというケースもしょっちゅう。こんな中で、アメリカで生まれ育ち、アメリカ映画の伝統を引き継ぎながらも、次世代を睨んで作品に新風を引き込めるような、高度な技とバランス感覚を持つアメリカ人映画監督は、なかなか見出されないでしょうね。ベネット・ミラー監督は、それらの条件を満たした、貴重な人材だと思いますよ。


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さて。
ベネット・ミラー監督が、今も健在の元レスリング・オリンピック金メダリスト(マーク・シュルツMark Schultz)から脅迫まがいの行為を受けても尚、映画化、公開を強行した問題作「フォックスキャッチャー Foxcatcher」については、どのように感想をまとめるべきか私にも今だに分かりません。書きたいことは多々あるようにも思えるのですが、考えをまとめている間にも、真実がどんどん指の間から零れ落ちていくもどかしさを感じますね。
今作を実際に公開するまでに起こったゴタゴタを取材した海外の映画サイト記事から推測するに、アメリカを代表する名家であり、大富豪一族の御曹司ジョン・デュポンJohn du Pontが著名だったレスリング選手デヴィッド・シュルツDavid Schultzを射殺するに至った、直接の原因となったのだろう出来事を描いたシーンが、おそらく試写を行った後に本編からカットされたのでしょうね。日本で公開された版を観たとき、大切なパーツがすっぽり抜け落ちたような、奇妙な違和感も感じましたから。

残念ですが、まあでも仕方ないかなあ。この奇怪な事件は、刃傷沙汰に至った原因がよく分からなかった(加害者となったデュポン自身ですら、おそらく理由は分かっていなかった)ため、起こった当時も、口さがない人たちの好奇の視線に晒され、多種多様な妄想と憶測を呼んだそうですからね。シュルツ兄弟と同様にフォックスキャッチャーでトレーニングしていたある選手が、デュポンからセクハラを受けた旨の訴えを起こしたこともあり、デュポンとシュルツ兄弟の間にも、三角関係めいた揉め事があったのではないか、など。
ミラー監督は、初の長編商業用映画「カポーティ Capote」では、これまた著名な作家トルーマン・カポーティが呪われた名著「冷血 In Cold Blood」(1965年)を執筆する理由と原動力ともなった、殺人犯ペリー・スミスとの奇妙な友情関係を正面きって描きました。この作品ではもちろん、カポーティのゲイとしてのアイデンティティも明確にしておりましたから、その彼がなぜ「フォックスキャッチャー」では、マークとデュポンの関係を“暗示”する程度に留めたのか指摘する意見もかなりありましたね。

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それに、デュポンがレスリング協会とレスリングという競技の宣伝、普及のために費やした巨額の寄付をもってしても、彼自身の奇行、性的嗜好に関する噂を消し去ってしまうには及びませんでした。当時のアメリカのアマチュア・レスリング界では暗黙の了解めいたことでもあったようですよ。まあ、だからこそ余計にマーク・シュルツ自身も、デュポンとの蜜月の頃に起こった“二者の間で交錯する感情が臨界点を超えた瞬間”については固く口を閉ざし、“自分とデュポンの間には性的な関係は一切なかった”と繰り返すのでしょう。

大筋は自伝に基づいている今作の製作中は、コンサルタントとして撮影現場にも立ち会うなど大変協力的だったマークは、映画完成後に、製作陣、特にベネット・ミラー監督への態度を豹変させます。実は今作を観た複数の批評家が“デュポンとマークの間に同性愛関係があったことを示唆している”と評したため、マークが激怒。彼自身のツイッターアカウントを通じてですが、監督に対し、名指しで脅迫まがいのツイートを連発していたそうです。多くはその後削除されましたが、大変な労力と時間を費やして映画に関わった人達全員を不快にしてしまいました。その後、おそらくは映画に何らかの処置が施され、マークは最終的にミラー監督に謝罪し、一転して「フォックスキャッチャー」を“見事な作品だ”と絶賛したとか。

ことほど左様に、実在の人物、実際に起こった事件を描く映画の製作は、本当に本当に難しいのでありますよ。モデルになった人々の多くが今だ健在である場合は特に。おまけに、セクシュアリティというデリケートな要因をも内包する題材が、殺人事件に直結するのですから、製作陣は細心の注意を払って作品に立ち向かわねばなりませんよね。何しろ、当事者の1人だったマーク自身も、デイヴの未亡人ナンシーも、映画製作に深く関わってもいましたから…。事件の真相はいまだ藪の中なれど、それがどうであれ、マークにとって、自分自身の最も苦しく辛い思い出が映像であからさまに甦るのは、やはり耐え難いことだったのでしょう。

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そんなわけで、劇場公開を楽しみにしていた「フォックスキャッチャー Foxcatcher」については、少しばかりのわだかまりが、胸の奥にシコリのように残ってしまいました。とはいえ、それを踏まえても尚、この作品は観客にすさまじい圧迫感といたたまれなさを強います。孤独から脱却できない者同士、いわば傷を舐めあうような関係の難しさについて観客に考えさせ、運命の不条理について笑えるほどの無力感を観客に与え、最悪の事態を回避できなかったことに対する重い罪悪感までも、観客の心の中に植えつけていくのです。

行き場を失った激しい感情が徐々に温度を上げ、うねり、避けようのない悲劇に向かって転がり落ちてゆく様を凝視する、ベネット・ミラー監督執念の演出力は、これまでの作品の中でも抜きん出た緊迫感を伴って冴え渡っています。思えば、これまでの「カポーティ Capote」にしろ「マネーボール Moneyball」にしろ、本来なら出会うことすらなかったような、全く異なる環境にいた2人の人間が偶然知り合い、奇妙な友情を育んでいくことが両者の運命を大きく突き動かしていくお話でしたね。

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そのように、人と人の間に起こる様々な化学反応によって予想外の方向に転がっていく物語を捉えるには、監督の視点が常に人物の一挙手一投足に密着していなければなりません。そしてそれと同時に、大きな世界の中では、悲喜こもごもに翻弄される人のドラマすら小さな点にしか過ぎないということも、同じ視界の中で示せねばなりません。つまり、カメラ=監督の視点は、登場人物の心象の変化をクローズアップで捉えつつ、ロング・ショットに切り替われば、人物と世界の関わりや人物の置かれている状況を同時進行で見せているわけですね。ミラー監督の演出は、その視点の切り替えが大変巧みなのでしょう。

人間を愛し、人間の全てを映画を通じて語り尽くそうとする映画作家、デヴィッド・ミラー監督。実は、先だってのオスカーで大金星を挙げたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の諸作品にも、私はミラー監督と共通する視線を感じます。イニャリトゥ監督の表現がダイナミックかつエモーショナルであるのに対し、ミラー監督のそれはあくまでも静謐で緻密、日常生活の光景を逸脱しないよう控えめであるという違いはありますが。しかしながら、日常の裏に隠された感情の変化は一瞬たりとも見逃さない厳しさに支配されているようです。


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「フォックスキャッチャー Foxcatcher」(2014年)(配給:ソニー・ピクチャーズ・クラシックス、ロングライド Film Distribution: Sony Pictures Classics, Long Ride)
監督:ベネット・ミラー Bennett Miller
脚本:ダン・フッターマン&E・マックス・フライ
製作:ベネット・ミラー&ミーガン・エリソン&ジョン・キリク&アンソニー・ブレグマン
音楽:ロブ・シモンセン&ウェスト・ディラン・サードソン
撮影:グレイグ・フレイザー
編集:スチュアート・レヴィ&コナー・オニール&ジェイ・キャシディ
出演:スティーヴ・カレル(ジョン・デュポン)
チャニング・テイタム(マーク・シュルツ)
マーク・ラファロ(デイヴ・シュルツ)
ヴァネッサ・レッドグレイヴ(ジャン・デュポン)
シエナ・ミラー(ナンシー・シュルツ)
アンソニー・マイケル・ホール(ジャック、ジョン・デュポンのアシスタント)他。

1984年のロサンゼルスオリンピックに、レスリング種目のアメリカ代表として出場したマーク・シュルツは、激戦を制して母国に金メダルをもたらした。にも関わらず、オリンピック前と何ら変わらぬ厳しい生活環境で鬱屈とした毎日を強いられていた。侘しい安アパートに一人暮らし。兄デイヴの代役で務めた講演会で金メダルを掲げて見せても、空席の目立つ観客席からの反応はゼロ。報酬はわずか20ドル。レスリングは、他競技よりも厳しい心身の鍛錬を要求される、過酷なスポーツだ。しかし、アメリカではマイナー競技の一つに過ぎない悲しさで、他の花形スポーツ選手のように大企業がスポンサーにつくわけでなし、マスコミからロックスターのような扱いを受けるわけでもない。普段トレーニングに使われているジムも、同じくレスリングの金メダリストで、マークより遥かに人当たりが良く人望もある兄デイヴの人脈で辛うじて運営が成り立っている有様だ。
マークにとってデイヴは、共に幼い頃に両親の離婚を経験し、共に極貧時代を生き抜き、共に切磋琢磨しながらレスリングに打ち込んできた、肉親以上の存在だった。自分が精神面で兄に多くを依存していることは承知していたが、その兄が、妻ナンシーと共にささやかながらも暖かな家庭を築いている様子を見るにつけ、最近特に己の深い孤独を思い知るようになった。
そんなマークの元に、ある日妙な電話があった。アメリカ屈指の大財閥デュポン一族のたった一人の御曹司、ジョン・デュポンの代理人を名乗る男からだった。代理人ジャックは、レスリングに大きな興味を持つジョン・デュポンが、至急マークと会って話をしたがっているという。あまりに頓狂な話に戸惑うマークを急かすようにして、ジャックは飛行機のファーストクラスと自家用ヘリコプターでマークをデュポン家の壮麗な邸宅まで案内した。
ペンシルベニア州随一の邸宅の居間で、マークは生まれて初めてアメリカ有数の大富豪と対面した。慈善家で鳥類学者でもあるジョン・デュポンは、マークに途轍もない計画を明かした。かつて独立戦争の激戦地になり、またキツネ狩りのメッカでもあったデュポン家の広大な所有地に、世界有数のレスリング・トレーニング施設を建造し、自らが指導者として率いるレスリング・チーム、“フォックスキャッチャー”を創設したい。そのフォックスキャッチャーが世界大会やオリンピックで勝利をあげるためなら、金に糸目はつけないし、アメリカのアマチュア・レスリング協会にも充分な寄付をする。デュポンは、社交界の名士相手に演説をする時のように、威圧的に一方的に宣言した。アメリカは、伝統的な競技で祖国に栄光をもたらしているレスリング選手たちに、もっと大きな敬意を払うべきだ。今まで兄デイヴへの賛辞の影に隠れ、賞賛を受けられなかったが真の王者たるマークと自分が組めば、ソ連のように、レスリングをアメリカの国家的スポーツにすることができるだろう。2人で偉大なことを成し遂げようじゃないか、と。
デュポンが熱に浮かされたように話す、堕落したアメリカのモラルへの批判、目指すべきアメリカの理想郷とレスリング界の輝ける未来。彼が思い描く壮大な未来予想図に圧倒され、マークは呆然としたまま、レスリング選手として年俸2万5千ドルという破格の契約を結んだ。
マークは帰宅すると、その足ですぐ兄デイヴを訪ね、デュポンがデイヴもコーチとして招聘したがっている旨を知らせた。フォックスキャッチャーに来さえすれば、信じられない好待遇でトレーニングに打ち込める。ところが、マークのデュポンへの心酔ぶりと熱意にも関わらず、デイヴは、裕福でなくともナンシーと子供達と堅実に暮らすことを選択した。そして、マークにとっては自分の影から脱し、“自立する”良いチャンスになると、弟の背中を押してやる。固い絆で結ばれていたシュルツ兄弟が、初めて違う道を歩み始めた瞬間であった。

住み慣れたボロアパートを出て、車を飛ばして単身ペンシルヴァニア入りしたマークは、しかし、最初の会見の時とは違い、デイヴ獲得に失敗したことに苛立つデュポンに振り回される。今まで自分のすべての欲求を金で解決してきたデュポンは、金を積み上げても思い通りにならない人間が存在することが理解できないのだ。それでも、マークはデュポン家の敷地内に建つ一軒家を与えられ、アメリカ国内から有望な若手選手をスカウトし、チーム・フォックスキャッチャーを始動させる。マーク自身はチームの主力メンバーとして、2ヶ月後に迫ったフランス、クレルモン・フェランの世界大会に向けて、デュポン家の所有地内で暮らしながら調整を続けることになった。
マークがフォックスキャッチャーに来てから、デュポンの真の姿が徐々に明らかになってきた。真夜中、マークが就寝していると、正装姿のデュポンが突然姿を現し、自身が執筆した鳥類学の書籍やデュポン家の歴史を収めたビデオを手渡した。“フォックスキャッチャー”のことを、とりわけ自分のことを理解して欲しいと。また別の日には、真っ昼間にデュポン家所有地内に地元警察の一団が到着し、チーム・フォックスキャッチャーの面々が呆気にとられる前で、デュポンはトレーニングウェアのまま、警官たちと突然射撃訓練を始めた。名士が集まる愛国者の集いでは、マークはデュポンの命令で自家用ヘリコプターの中でコカインの吸引を強いられ、ジョン・デュポンを褒め称える歯の浮くようなスピーチをやらされる。金持ちのやることは市民には理解し難い。
気まぐれなデュポンの突拍子もない行動に狼狽えながらも、マークはクレルモン・フェランで、初めてデイヴの助けなしで優勝を果たした。会場で久し振りに弟と再会したデイヴは、弟がレスリング指導経験などゼロの見知らぬ大金持ちと抱き合って優勝を喜ぶ姿を、複雑な表情で見つめていた。

クレルモン・フェランから戻ったチーム・フォックスキャッチャーは、優勝祝賀会で勝利の美酒に酔う。自制できぬほど酔っ払ったデュポンは、名馬の育成に夢中で息子である自分を全く省みようとしない実母ジャンへの不満をブチまける。そして、母親の馬が獲得したトロフィーを下げ、そこにクレルモン・フェランで得たメダルを飾りつけた。デュポンがフォックスキャッチャーを設立してチームの優勝に固執したのも、その実、母親にひとかどの人間だと認めてもらいたかったため。なにもかも上手くいっていたこの時は、マークにはその事実に気付く余裕はなかった。
デュポンのご機嫌を損ねさえしなければ、フォックスキャッチャーでは実際、遊び呆けることも可能だった。デュポンはお気に入りのマークを常に側に侍らせ、真夜中にジムでレスリングのスパーリングの相手をさせたり、酒やドラッグの相手をさせたりした。果ては、自分が主催したレスリング大会に出場し、ジャックが裏で買収した選手に勝利し、子供のように大喜びしたり。クレルモン・フェランで結果を出して気が緩んでいたマークも、ご主人様に命じられるまま酒とドラッグに溺れていく。弟を心配したデイヴが電話をかけてきても、マークは毎日欠かしたことのなかったトレーニングすら疎かにするようになっていた。そんなぬるま湯に浸かったような生活も、気まぐれなデュポンが突如、緊張感のなくなったチームのだらけた雰囲気に激昂したことで終わる。デュポンはチームの面々の前でマークを猿呼ばわりして激怒し、札束を積み上げて絶対にデイヴを引き抜いて来いと鼻息を荒くする。

金メダリストとしての自尊心を傷つけられ、ご主人様の気まぐれで子供のように八つ当たりされ、やはり皆最後には、自分ではなく兄デイヴに頼ろうとする現実を突きつけられ、幾重にも傷付いたマークは、それ以来デュポンにもチームの面々にも完全に心を閉ざしてしまう。執拗なデュポンの説得にようやく応じたデイヴが、妻子を連れてフォックスキャッチャーにやって来ても、マークの心の扉はもはや再び開くことはなかった。デイヴがいくらマークを心配しても、そのデイヴの存在そのものが、フォックスキャッチャーにおけるマークの立場を危うくするのだから無理もないだろう。お義理でジムに姿は見せるが、鬱々と塞ぎ込み、デイヴの指導もデュポンの呼びかけにも応じない。
デイヴはデイヴで、チーム・フォックスキャッチャーがデュポンの気まぐれと、母親ジャンに認められたい一心の行動に振り回されている事実を早々に悟る。弟はこの環境に飼い慣らされ、毒されてしまったのだ。レスリング競技がメジャーになるためには、デュポンのように、潤沢な予算をすぐに用意できるパトロンが必要なのは仕方がない。その代償として、選手たちは猟犬となって地を這い、時に血塗れになってでも、パトロン=貴族のためにキツネ=金メダルを狩り獲ってこなければならないのだ。

…では、もはやキツネを狩る力を失った猟犬はどうなるのだろう?

ソウル五輪出場権を賭けた国内予選がフロリダで始まった。これに勝ち抜かねば、金メダルはおろか、オリンピックに出場することすら不可能だ。しかし、自尊心も自信も情熱も無くしたマークは精彩を欠き、予選突破も難しくなる。自室で1人荒れ狂い、滅茶苦茶なやけ食いに走った挙句、計量オーバーになったマーク。デイヴは、マークに干渉しようとするデュポンを語気荒く遠ざけると、弟に平手打ちをくらわせて目覚めさせる。食べたものを吐かせ、次の試合までに凄まじい勢いで自転車を漕がせて減量させ、計量をクリア。最終ラウンドで辛くも勝利を収め、ギリギリでアメリカ代表の座を勝ち取った。しかし、母親の訃報を受け取ったデュポンが、その瞬間を見ることはなかった。

ソウルへの切符は手にしたが、マークの神経が事切れるのも時間の問題で、とてもオリンピックで勝てる状態ではなかった。フォックスキャッチャーから離れたがる弟と、彼を引き留めたいデュポンの間で板挟みになったデイヴは、デュポンと弁護士を交えて話し合う。デイヴが妥協案として提示したのは、マークがフォックスキャッチャーを出ても、これまで通りチームの一員としての給料を支払ってやって欲しい。…その代わり、ソウル五輪の試合会場では、マークのトレーナーという肩書きでデュポンがマークの傍らに立つことは許可する。

こうして、シュルツ兄弟とデュポンの間の緊張感は解消されないまま臨んだソウル五輪であったが、チーム・フォックスキャッチャーにとって、結局この大会は屈辱的な早期敗退に終わってしまった。と同時に、危ういバランスの上にようやく成り立っていたマーク、デイヴ、デュポン三者の運命もこれで完全に狂い、予想外の方向へ転がり始めた。


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トレーニング場で、マークとデイヴが特に合図もなしに、阿吽の呼吸で組み合うシーン然り、大会に出場するために滞在中のホテルの通路で、突然次の試合のイメージトレーニングを始めるシーン然り。とにかく、レスリングという過酷なスポーツに人生を捧げた人達の、レスリングと密着した日常の光景が実にリアルでした。また、ただでさえ力瘤の入るレスリングの試合を、ローアングルで舐めるように撮っており、勝敗の行方以上に、別種の不穏さをも誘発する緊張の糸さえ張り詰めています。選手同士の身体がガツンと音を立ててぶつかり合い、体勢がくるくると入れ替わると同時に、勝敗の針の向く先も忙しなく変わる。選手同士は常にお互いに、相手の一手先、二手先の出方を探り合っているようなもので、一瞬先の試合の行方が予測できない。

肉体的にも激痛を伴う辛いスポーツである上に(作品冒頭の方で、マークとデイヴが練習している時にデイヴの方が鼻血出してますよね)、厳しい心理戦の側面も持つレスリングの醍醐味が、上手く再現できていたと思います。チャニング・テイタムのずば抜けた身体能力、高校生時代にレスリングの選手だったマーク・ラファロの経験が可能にしたリアリズムでしょう。

初見時は、前作「マネーボール Moneyball」で、“野球の世界を舞台にしているのに、肝心の試合のシーンが全くなっとらんじゃないか!”という、野球好きの男性方のお怒りコメントを多々目にした記憶があるので(笑)、今回はミラー監督、奮起したんだろうなあと思った程度だったのですよ。でも今は、この作品の尋常ならざる緊迫感と、錯綜する感情がもたらす静かなる混沌と狂気、理想の“ヒーロー”が痛切に求められる世界で、それが不可能であることのやるせなさ、堕ちていくしかない無常感といった、複雑な心理劇の側面をガッチリ支えているのが、他ならぬこのレスリング・シーンのリアリティの積み重ねだったと理解しています。
映画パンフレットには、故デイヴ・シュルツと交流のあった元レスリング選手の方のお話も掲載されていたのですが、それによると、映画の中でクレルモン・フェラン大会の試合として再現されている試合のシーンが、年月日こそ違えどもその方が実際にデイヴと対戦して負けちゃった試合の完璧な再現だったそうですよ。ミラー監督の手がける伝記映画はどれも、何年も費やされた入念な事前調査に基づいていることで知られていますが、レスリングの歴史の古い日本にもシュルツ兄弟を知る関係者は何名かおられまして、製作陣から実際にコンタクトがあったそうです。監督が、“レスリング”というスポーツのリアリティにどれほど神経を使っていたかが伺えるエピソードですよね。

そして、その“レスリング”に、今回の作品のテーマである殺人事件の核心に触れる部分を代弁させているのです。真夜中のトレーニング・ジムで、デュポンがマークを相手に練習に打ち込むシーンでは、デュポンから明確にマークに向けられた強い執着心と、無意識のうちにそれを容認しているマークの、限りなく受身に近い感情が交わっているのが分かります。この時はまだ、マークに有り余る力があったので、デュポンから一方的に強い感情をぶつけられても受け止めることができたわけですね。
それに比べ、“デュポンの一番のお気に入り”の座を降りた後の、覇気を失ったマークの試合のシーンの味気なさときたら。現役時代も決してテクニカルなタイプではなかったマークは、多彩な技を駆使する兄とは異なり、屈強な肉体が放つパワーとスピードで敵を圧倒してきました。その彼が、デュポンの執着に深入りすればするほど、デュポンに精気を吸い取られて“力”を失っていったことが、彼のレスリングの動きで分かるのです。
また、今作における“レスリング”は、単に映像を飾る添え物ではなく、登場人物の人柄をも暗示する役割を担っています。マークは口数が少なく、人付き合いも下手で友達も多くはなかったそうですが、兄デイヴへの愛憎入り混じる感情に常に翻弄され、コンプレックスを克服できずに苦悩していただろうことは、デイヴがフォックスキャッチャー入りして以降のレスリングシーンからひしひしと伝わってきます。

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娯楽映画で、激しいアクションやらすんごいダンスやら肉体美やらを誇るのがお約束になっているチャニング・テイタム、今作では一転して、マークの鬱々とした内面とパワフルな外見のギャップを見事に表現していたと思いますよ。オスカーにノミネートされたマーク・ラファロ、要のデュポンを不気味な存在感で怪演したスティーヴ・カレルの演技が圧巻なのは、まあ当たり前です。演技巧者が難しい役柄とよつに組み、演技の火花を散らしているのですからね。
私が個人的に最も心を打たれ、かつ猛烈に共鳴したのは、おそらく死ぬまで癒されることはないだろう屈折したマークのキャラクターと、それを繊細かつ痛々しい演技で演じ切ったチャニングその人でありました。マークは己の内面を周囲に悟られぬよう、ひた隠しにしようとする哀れな自尊心を抱えていましたが、大きな身体を折り曲げて小柄なデュポンの足元に跪いていた蜜月の頃だけは、兄以外打ち解けられる友人はいなかったことを素直に認めました。マークと同じく、大財閥の家柄に生まれついた特殊な環境によって孤独を強いられていたデュポンもまた、マークと一緒のときだけは、自分には生まれたときから1人も友達がいなかったこと、寄ってくるのは金目当ての連中だけであったことを告白できました。つまりこの2人は、生まれも育ちも生きる世界も何もかも違う人間同士ながら、唯一、“長い間孤独だった”という一点においてのみ繋がった関係だったのですね。
そんな風に結びついた関係が、果たして健全な友情だと呼べるかどうか。デュポンは気がついていませんが、マークすら結局は2万5千ドルという大枚をはたいて“買った”お友達だったわけで、早晩この2人の関係が崩れていくのは火を見るより明らかでしょうよ。映画を観ている私たちは、彼らの友情が幻影であることが分かっているのに、肝心の2人はまるで理解していないのが哀れを誘います。

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本当は自分のことなど歯牙にもかけていない連中相手に、生まれ落ちたときからずっと、自分の存在を認めさせるためだけに大金をばら撒き、気まぐれな欲求を満たすために戦車を買い、警察も買い、無駄に威圧的に振舞う日常に倦めば、どんな聖人君子でも発狂していくでしょう。本人も気付かぬうちに。金は腐るほどあっても、自分が本当に欲していたもの―母親の愛情、本当の友達―はついぞ手に出来なかったデュポン。彼が無意識のうちにデイヴを殺めたのは、自分の力で何かを成し遂げたくても、その力がハナから自分に備わっていないことに、生まれて初めて彼自身が気付いたせいではなかったのでしょうか。

フォックスキャッチャー Blu-ray
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