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zoom RSS 「はじまりのうた Begin Again」をもう一度。

<<   作成日時 : 2015/03/18 12:03   >>

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上手く言葉に出来ない感情というのはやっぱりあるもので、それを映像にするには、音楽に代わりに語ってもらうのが一番ではないかと思います。

ONCE ダブリンの街角で [DVD]
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2014-11-27

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ジョン・カーニー監督が2007年に製作した映画「ONCE ダブリンの街角で Once」が本当に大好き。この作品は、全編これ、男と女の間に生まれるもどかしいほど言葉に出来ない感情を、2人をつなげる最大の縁である音楽が丹念に拾い上げていく映画でした。最近しょっちゅう見かける気がする“ミュージカル映画”じゃないのよ。♪♪あ〜あなた〜を〜愛して〜るわぁぁぁぁ〜♪♪とか声を張り上げて歌うのではありません(笑)。“音楽がドラマの語り手になっている映画”。映像の隙間を音楽がさりげなく埋めてゆくような映画です。
アイルランドはダブリンでミュージシャンを志し、ロンドンに出て成功することを夢見る“男”と、彼と同じミュージシャンであり“男”の音楽に強く共鳴するものの、結局“男”と結ばれることはない“女”。劇中では名前すら呼ばれない、文字通り無名のこの2人の、音楽を介して魂の深い場所で最も強く結ばれるのに、現実にはすれ違ってしまう関係が切ない。まるで、2人の姿ややり取りは映像を通じて私達の目にも見えているのに、肝心の、彼らの間にある“愛情”は、透明の壁に幾重にも阻まれてこちらにまで伝わってこないようなもどかしさです。
愛情には本当に様々な形があり、定型なんぞありゃしません。特に、人種や性差や生活環境、文化の違いを超えて、瞬時に不特定多数の人々の心に触れる“音”によって結び付けられた感情は、もちろん、言葉で説明できる範囲すら超越しています。また、私達が考える以上にその絆は強固で消えないものなのでしょうね。

結局、「ONCE ダブリンの街角で Once」を観た当時は、上記のように考えていただけでした。ところが、私自身がこの作品に何故こんなにも惹かれるのか、その理由が突然分かったのが、カーニー監督の第2作目「はじまりのうた Begin Again」を観たときでした。

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「はじまりのうた Begin Again」(2013年製作)
監督:ジョン・カーニー
製作:アンソニー・ブレグマン&トビン・アームブラスト&ジャド・アパトー
製作総指揮:ナイジェル・シンクレア他。
脚本:ジョン・カーニー
撮影:ヤーロン・オーバック
プロダクションデザイン:チャド・キース
衣装デザイン:アージュン・バーシン
編集:アンドリュー・マーカス
音楽:グレッグ・アレクサンダー
音楽監修:アンドレア・フォン・フォースター&マット・サリヴァン
出演:キーラ・ナイトレイ(グレタ)
マーク・ラファロ(ダン)
ヘイリー・スタインフェルド(バイオレット)
アダム・レヴィーン(デイヴ)
ジェームズ・コーデン(スティーヴ)
ヤシーン・ベイ(サウル)
シーロー・グリーン(トラブルガム)
キャサリン・キーナー(ミリアム)他。

「ONCE ダブリンの街角で Once」では、主役の男女は全く無名の俳優兼音楽家たちによって演じられ、まるでドキュメンタリーでも見ているかのようでした。予算もスズメの涙程度の額しか使えず、シーンによってはゲリラ撮影が敢行された部分もあると聞きます。演奏シーンは、本職の音楽家でもある俳優達自身によって実際に演奏されました。そうしたアングラ臭が、この作品に却って独特なリアリティとリズムを付加することになったのですが、今回は、何もかもがメジャー級に格上げされていますね。主演に、キーラ・ナイトレイとマーク・ラファロという世界的に顔をよく知られた人気俳優たちを起用したし、なおかつカーニー監督自身もホームグラウンドから遠く離れ、大都会ニューヨークに渡りました。完全アウェーでの試合に臨んだわけですな。


ニューヨークには色々な人間が住んでいる。成功している人間も失敗した人間も幸せな人間も不幸な人間も。100人の人間が100人とも他人と違う事情を抱えている有様なので、誰も他の人間の事情には構わない。

音楽業界の移り変わりの激しさ、速さはニューヨークも同じで、凄腕音楽プロデューサーのダンですら“過去の人”とならしめてしまう厳しさだ。ダンは二昔前は優れた新人を次々と発掘し、人気ミュージシャンに育て上げ、自身のレコードレーベルを設立したものだった。だが今はネットを介して瞬時に情報が共有されてしまう時代だ。YouTubeなどのツールを用いれば、優れた音楽も“無料で”手に入ってしまう。レコードを作ってそれを店で売るという、従来の生産・消費形態の上に成り立つ音楽業界そのものが、存続の危機に瀕しているといえるだろう。ダンもダンで、琴線に触れるような新しい才能を見つけることが年々困難になっており、ヒットチャートから遠ざかっている。ついでに妻とも揉め、家庭からも放り出されている。今では酒だけがダンの唯一の親友だった。酔っ払ったまま1人暮らしの安アパートを出たダンは、そのままレーベル設立の相棒サウルから三行半を突きつけられ、とうとう自分で作った会社からも放り出されてしまった。
無一文だったが飲み歩き、べろべろに酔ったまま偶然入ったバーで、ダンは天啓を得る。暗い顔をした女性シンガーが、外国で孤独を囲つ女性が恋人に去られるという、鬱を発症しそうな暗い歌を歌っていたのだ。客は折角の酒の味が不味くなるとばかりに大声でおしゃべりを始めたが、ダンだけはその歌に必要なアレンジとバックバンドの音を脳裏で同時再生していた。彼が本物の才能と出会った時、必ずそのミュージシャンと楽曲に必要な全てのお膳立てが頭に閃くのだ。瞬時に。その魔法の瞬間をダンは数十年ぶりに体験し、その場に立ち尽くしていた。
その鬱ソングを湿っぽく歌っていたシンガーは、グレタという若い女性だった。グレタがいたたまれずステージから降りると、ダンは即座に彼女に接近し、名刺を渡してアルバム制作の話を持ちかける。ところが、ホームレスに負けないよれよれの服で、シャワーも浴びていないのか酒臭いダンを一目見たグレタは、あからさまに不審がる。仕方ない。ダンはケータイのネットで自分を検索してもらい、なんとか自分が音楽プロデューサーであることを証明した。
グレタは英国出身。恋人のミュージシャン、デイヴと共作した楽曲が映画の主題歌に採用され、デイヴはメジャーレーベルからのデビューも決定。レコーディングのために渡米するデイヴにくっついて、グレタもニューヨークにやってきた。ところが、ミュージシャンとしてレコーディングに参加できるとものと思っていたのに、グレタはただの“デイヴの恋人”扱いで蚊帳の外に置かれ、ツアーにも同行できず。1人きりで半年もニューヨークで待ちぼうけを食わされた挙句、やっと帰ってきたデイヴはレコード会社の女の子と浮気していた。勢いでデイヴと住んでいたマンションを飛び出し、友人の売れないミュージシャン、スティーヴのボロアパートに転がり込んだが、それも限界だ。明日は英国に帰るという。なんとも気の毒だが、まあ、ありがちな話だ。ダンはグレタを説得して帰国を先延ばしにし、サウルに会わせることを約束する。
ところが、グレタには元々、プロとして音楽で飯を食っていく気は無かった。音楽は彼女の自己表現であったが、それを金に換えることはしない。音楽賞も受賞してすっかりスターになったデイヴを見ていると、余計にそう思う。歌を売ることは、イコール魂を売ることなのだ。したがって、グレタは肝心のデモテープすら作っていなかった。グレタはサウルの前でアコギ一本で持ち歌の弾き語りをしたが、あの酷い夜の鬱ソングの再現にしかならず、サウルを納得させることは出来なかった。
さすれば、何とかして自力でグレタのデモアルバムを作り、サウルに一泡吹かせるしかあるまい。しかしグレタもダンも無一文。スタジオを借りることすら不可能だ。窮すれば何とやらで、ダンはとんでもないアイデアを思いつく。スタジオがなければ、外で録音すればいいじゃないか。ニューヨークの街のあちこちで演奏歌入れを同時に行い、ライブ録音する。街のざわめきもグレタの歌の良きバック・グラウンド・ミュージックだ。しかし、グレタのバックで演奏するミュージシャンは必要なので、ダンは昔自分が見出して売り出したスーパースター、トラブルガムの邸宅を訪ねた。トラブルガムはダンへの恩を忘れていず、バックバンドのメンバーと、機材など録音に必要な金を出すことまで約束してくれた。その他にも、グレタの古い友人スティーヴ、音楽学校でクラシックを学ぶものの、クラシック演奏には飽き飽きの兄妹、ダンの知り合いのピアニスト、他にも、その場に居合わせた人たちや、ダンのグレ気味の娘バイオレット、その母でダンの別居中の妻ミリアムまで巻き込み、もちろん無許可で路上ライブ録音を敢行するグレタたち。地下鉄の駅、路地裏、アパートの屋上、公園などなど、時に警察に追いかけられながらも、ニューヨークで生きる人たちの“音”をバックに、グレタの歌は仲間からの助けを借りてどんどん素晴らしく研磨されていった。
今ではパソコンが1台あれば、1人でレコーディングの全ての工程を行うことも可能な時代だ。スティーヴはサイトを作り、グレタの歌も仲間との演奏記録もアップしていった。グレタと仲間達によるゲリラ・レコーディングは、ダンとグレタの距離も縮めていく。グレタもダンも遠慮なく自分の考えを口にするため、時に意見の相違でけんかにもなる2人だったが、素晴らしい音楽を媒介にして心を通い合わせる。しかしダンは“家”に帰りたがっていた。音楽には魔法がある。グレタは、ダンと彼の家族との間にあった不協和音を見事なバンド演奏に変えることに一肌脱いでやる。

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グレタのアルバム・サイトが仲間との写真で埋め尽くされる時がやってきた。素晴らしい仲間達との、エキサイティングで創造的で楽しくて、何より優しさと音楽への純粋な愛情に満ちたレコーディングが遂に終わった。グレタの前にはいくつかの選択肢があった。なんと、グレタへの未練から再び彼女の前に姿を現したデイヴ、ミュージシャンとしてのプロ・デビュー、あるいは別の道。彼女は一体何を選択するのだろうか。


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たまたま時間があったので観た「はじまりのうた Begin Again」ですが、あまり事前に期待しなかったのがよかったのか、映画を観ていた間は非常に楽しかったです。やっぱり音楽はいい。本当に。原石に過ぎなかったグレタの歌が、ダンによって正しいアレンジを施され、仲間の演奏のバックアップを受け、ニューヨークの路上で、地下鉄で、アパートの屋上で、最も美しく輝く瞬間のカタルシスときたら。映画冒頭で、ダンがはじめてグレタの歌を聴いたときの天啓を受けるシーンにも、鳥肌が立ちましたね。
地下鉄独特の雑踏をバックコーラスに、グレタたちがライブ録音を敢行するシーンが好き。案の定通報されて、追いかけてきたおまわりさんから皆して逃げ出す羽目になって(笑)。その後、アパートの屋上なら大丈夫だろうってんで、ソファだの持ち出して、ダンの娘さんやら奥さんやらも参加して、すっかり自前のミニ・コンサート会場と化した屋上でのセッション・シーンもアットホームで凄くいい。金をかけたスタジオに缶詰になって録音するより、歌や演奏が本当に目覚めて呼吸して躍動しているような気がしますよ。これは、あのビートルズの映画「レット・イット・ビー Let It be」のルーフトップ・コンサート Rooftop Concert(ビートルズが自社アップル社の屋上でゲリラ撮影した)へのオマージュでしょうかね、やっぱり。いいなあ、ライブって。
劇中では、本職の歌い手でもあるデイヴ役のアダム・レヴィーンがソウルフルに歌いあげる“Lost Stars”はじめ、女性のソングライターが書いたんだろうなあと思わせる、素直で繊細なメロディーのポップ・ソングばかりだったのもよかったですよ。なんかこう、余計に心洗われる気がいたしましたです、はい。たまには綺麗な音楽もちゃんと聴かなあきませんね。マニアックな音楽ばっかり聴かずにね(大笑)。

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「ONCE ダブリンの街角で Once」同様、本編のドラマの隙間を埋めるように、言葉にならない感情を代弁するように、音楽が映像に寄り添って鳴り続ける。グレタとダンが1本のイヤホンを分け合ってお互いのプレイリストを暴露し合う(笑)シーンは、“いい年したオヤジと若い娘(…つっても立派な大人の女性)がティーンみたいな真似をしやがって気色悪ぃ”という辛辣なご意見も見かけましたが(笑)、まあ、そんなかたいことを言わずに。方や心細い異国の地で恋人に捨てられ、方や栄光のキャリアは遠い過去の話、落ちぶれて家族からも見放され、お互いにドン底まで落ちた者同士なんですから。彼らが、音楽でお互いの傷を癒そうとしているわけですよ。いいじゃねぇか、誰ぞに迷惑かけているわけでなし、そっとしといておやりよ(笑)。
千の言葉を尽くしても届かない想いも、音楽一つで何も言わずとも瞬時に伝わってくモンなんだ。それでいいんだよ。それに、この時ダンが言う「プレイリストでその人の人間性が分かる」ってのはホントだぞ(笑)。だから、よく知らない相手にむやみに己のプレイリストを晒さん方がいい(笑)。もう一つ、「音楽一つで何の変哲も無い景色が特別なものに変化する」も真実。私にも経験があるので、これはすごく共感したなあ。素晴らしい音楽というのは、実は、日常生活の景色の中に溶け込んでいるものです。それが何かの拍子にひょこっと顔を出す。その瞬間を捉えて歌にするのがグレタ、その瞬間を捕まえてふん縛って歌を完成させるのがダンの役割でしょう。
2人が音楽と共に、夜のニューヨークの街を彷徨うシーンも好きです。カーニー監督がカメラの向こう側でにこにこしながら、憧れの街ニューヨークをめいっぱい素敵に撮ることに夢中になっている様子が目に浮かぶようで(笑)、なんとも愛らしいシーンですよ。

映画初出演だというアダム・レヴィーン(マルーン5)の演技が硬かったのは、まあご愛嬌ということで。最初の方の眼鏡姿がよかったなあ。なんだか、ブレイク間近の初々しいシンガーっぽくて好感度高かったし。ただ、デイヴのキャラがアダム自身そのまんまやんけっちゅうのは、ご本人的にはオーケーだったのかしら(爆)。私はそっちの方が気になるわ。しかし、歌い手は歌ってナンボです。彼がその艶やかなファルセット・ヴォイスを聴かせ始めると、細かいことなんざもうどうでもよくなる(笑)。

「ワン・チャンス One Chance」で実在のオペラ歌手ポール・ポッツを演じて自身も“ワン・チャンス”をものにしたジェームズ・コーデン。ぽっちゃり体型が愛くるしい彼は、今回は、脇ながら“主人公の友人で売れないミュージシャン”というありがちなポジションでも、自慢の歌声を聴かせてくれたり、落ち込むグレタの傍でコミック・リリーフを演じつつ彼女を支えてくれたり、さりげなく活躍(笑)。お人よしキャラ大炸裂で、少なくとも私の心のオアシスになってくれましたよ、ええ。よく考えたら、わたしゃこの人の出てる映画を連続して見てますわ。こないだ見た「イントゥ・ザ・ウッズ Into the Woods」では主役格のパン屋さんでしたし。彼はくるね。ドーンと大きな波が来そうな気がします。要注目。

まるでリック・ルービン(懐かしいな)を髣髴とさせる、“昔(80年代から90年代にかけてはルービンの全盛期だった)はグラミー賞もとったぐらい売れっ子だったけど、今は音楽シーンが激変し、目の覚めるような新しい才能にも出会えず、落ちぶれた音楽プロデューサー”という役柄を多少オーバーアクト気味に演じていたマーク・ラファロは、文句無く可愛くて素敵でした。仮住まいのベッドで黒パン一丁でだらしなく寝こけるシーンは、女性ファン向けのサービス・ショットと考えてよろしゅうございますかね(笑)。私生活はむちゃくちゃかもしれんけど、音楽に対しては純粋で、家族への愛情もたっぷり。でも全体的に不器用な生き方しかできない、どうしようもなくダメな男を愛嬌たっぷりに演じていました。マーク・ラファロって、「キッズ・オールライト The Kids Are All Right」や「グランド・イリュージョン Now You See Me」でもそうですけど、ダメな男を演じると、なぜにこんなにセクシーになるんでしょうね(笑)。
そのダン、最後の最後に、今後の音楽業界を根底から変えるかもしれないある重大な選択を、グレタと共に断行します。これは、劇中で彼が言っていた“音楽は本来無料で提供されるべきなのかもしれない”というセリフが伏線になっているわけですが、現在の音楽業界の変容を眺めてみても、どこまでを“ビジネス”と捉え、どこからを“私的な活動”と考えるのか、見極めが大変困難になっています。“音楽を売る”形態も、ネットによって世界が狭くなり、瞬間情報共有社会と化した状態で、これから益々様変わりしていくでしょう。
グレタとダンの決断が、ダン自身の人生に今後どのような影響を与えるのかは、誰にも分かりません。ひょっとしたら、ダンの人生の前には更なる困難が待ち受けているかもしれない。しかし、家族との絆を取り戻し、自分自身の生き方と音楽に対する真摯な愛情を取り戻した彼は、困難をもなんとか乗り越えていくのじゃないかと思いたいですね。

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売れる寸前のミュージシャンの恋人と共にあこがれのニューヨークにやってきた女の子が、恋人に手ひどく裏切られて国に帰ろうとするも、どん底の状況で天才プロデューサーに偶然発見され、共に素晴らしい音楽を作っていく間に音楽への愛情と情熱、もう一度自分自身の人生を生きようとする力を取り戻し、新しい第一歩を踏み出していく…というストーリー。“ありがち”だとかいう批判は簡単に出来ますが、一度はどん底まで落ちた人間が、自力で這い上がろうとするお話は、誰がなんと言おうとも私は好きですよ。それが生きることに繋がるのだし。

ところが、です。

映画が終わってしまうと、音楽への愛情と音楽を生み出す喜びに包まれた多幸感は、割と早く醒めてしまいました。映画観賞中は、確かにスクリーンから受けとっていた興奮もパワーも、映画が終わったとたんにしぼんでしまう。そして映画を観ている間じゅう、喉奥に小骨が引っかかったようにずっと気になっていた違和感に、はたと気付くわけです。…違和感の原因がキーラ・ナイトレイにあったということを。

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キーラの歌声が素人臭いのは全然問題ありません。彼女の本職は俳優ですから。むしろこの素人臭い声が無ければ、彼女がグレタという役柄を演じることは出来なかったと思いますよ。プロデビューする前の“才能の原石”を演じるのですからね。彼女の訥々とした声を聴いて、私はあの懐かしきスザンヌ・ヴェガ Suzanne Vegaを思い出しました。1987年にリリースされた彼女のアルバム「Solitude standing」は名盤でしたね。その中の名曲“ルカ Luka”、覚えておいでの方も多かろうと思いますよ。歌に対してクソ真面目で誠実で真摯で、でも自信もしっかり持ち合わせていて。声にはいつも、1本筋が通った確かさと透明感、浮薄な流行からは距離を置いた孤高の気高さがある。…アーティストとしてのスザンヌ・ヴェガが今も持っている雰囲気を、キーラの歌声の中にも見出すことができます。

しかし彼女の顔を見てしまうとどうしても、“あの有名女優が演じている”という余計な情報が頭の中に入ってくるんですわ。“「パイレーツ・オブ・カリビアン」の女優さんだよね!”とか。彼女がどんなに自然体で演じていてもね。グレタ役には、もっと無名の女優さんか、映画に出たことが無い歌手のような人をキャスティングするべきだったのでは、と無いものねだりをしてしまいます。繊細さと、肝の据わった豪快さ、さっぱりした性格といった、グレタのキャラは、キーラの十八番のような気がしますけれども。

はじまりのうた-オリジナル・サウンドトラック
ユニバーサル ミュージック
2015-01-21
サントラ

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結局、「ONCE ダブリンの街角で Once」の中で私が惹かれていた部分というのは、“俳優の無名性”に起因するのではないかと考えた次第です。確かに私は、映画を観ている間じゅう、劇中の俳優との非常に強い一体感を感じておりましたし、それは映画が終わった後も長い間続きました。映画の世界から中々戻ってこれない、というね。しかしそれは、“この映画を観たとき”に限った体験だったのでしょう。「はじまりのうた Begin Again」を見てはじめて、そのことに気付かされましたね。
「ONCE ダブリンの街角で Once」はその後2011年にミュージカル化され、ブロードウェイで何度も上演され、トニー賞まで獲得し、大ヒット作品に成長しました。そうなれば、作品としての「ONCE ダブリンの街角で Once」からは、“無名性”はなくなります。名も知らない男女の、消えそうで消えなかった愛情の細い糸の物語は、どこかに放置されたまま忘れられてしまうのがいいのかもしれません。「はじまりのうた Begin Again」がダブリンのラブ・ストーリーを繰り返す("Once" more)お話にならなかったのも、分かる気がします。

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