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zoom RSS 私達は民主主義の夢を見る―「コリオレイナス Coriolanus」

<<   作成日時 : 2014/12/31 02:59   >>

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…ちょっとだけ政治の話をしよう。まあ、そんな嫌な顔をせずに。あなたにとっても私にとっても、政治は日常生活そのもの。政治は対岸の火事なんかじゃない。私たち国民の生活から切り離して考えられるべきではないのだから。

シェイクスピア最晩年の作品「コリオレイナス Coriolanus」では、かつて繁栄を誇った強力な国家が、“民主主義”の真意を取り違え、自らに課せられた義務を放棄した愚かな民衆によって、如何に弱体化させられていったか理解できる。コリオレイナスという一人の英雄の辿った哀れな運命は、一つの政治形態の終焉と一つの社会形態の終焉を同時に象徴しているんだ。…今の私達にうってつけの題材だと思わないかね?

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「コリオレイナス Coriolanus」(ナショナル・シアター・ライブ 2014)
原作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:ジョシー・ルーク
プロダクション・デザイン:Lucy Osborne
衣装デザイン:Lucy Osborne
音響:Emma Laxton
スタント演出:Richard Ryan
撮影:Andrzej Goulding
照明:Mark Henderson
音楽:Michael Bruce
出演:トム・ヒドルストン(Caius Martius Coriolanus)
マーク・ゲイティス(Menenius)
ハドレイ・フレイザー(Aufidius)
ピーター・ド・ジャージー(Cominius)
デボラ・フィンドレイ(Volumnia)
ビルギッテ・ヨート・ソレンセン(Virgilia)他。

かつては世界の中心とも謳われたローマ。しかし、今やローマの“国体”は明らかに衰え、周辺国家からの侵略に怯えるようになっていた。特にヴォルサイ人とは小競り合いが絶えず、ローマ軍を束ねる若き総大将ケイアス・マーシアスは帰宅する間もない程戦いに駆り出されていた。
また、あまりに度々戦争が続くため、ローマ市民への税負担は増すばかり。市民は毎日の食べ物にも事欠く有様で、食糧危機がローマの政情と治安を悪化させていた。貴族たちが彼らの倉庫を開放せず、市民を助けようとしないことに苛立った民衆は、議場にまで押しかけて暴動を起こそうとしていた。負け戦なしのマーシアスの軍功は素晴らしいものだったが、彼の生来の頑迷さ、貴族の生まれからくる傲慢さ、民衆へのあからさまな侮蔑と嫌悪を隠そうともしない言動、母親への異常な執着が、ローマ市民の彼への不信感をいや増してしまっていた。そのマーシアスの父親代わりでもあった政治家メニーニアスは、市民達が市政の混迷と続く戦乱への不満をマーシアスへの攻撃に摩り替えているのをなだめようと懸命だったが、執政官を目指すマーシアス当人が、“貴族が愚かな大衆を導いてやるのが真の正義であり、大衆をみだりに政治に加担させるべきではない”と市民を挑発し、彼らとの対立を一層深める始末だった。
政情の混乱に乗じ、ヴォルサイ人が軍備を整えて挙兵したという知らせが入る。ヴォルサイ軍の総大将はオフィーディアス。豪胆、傲岸なマーシアスですらその名の重みに敬意を払う軍人であり、これまでに何度も戦ってきた宿敵だが、粘り強いオフィーディアスを完全に攻め落とすことができないでいた。憤懣やるかたないローマ市民と荒れる議会を放り出し、マーシアスは闘志を漲らせて戦場へ急ぐ。

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激戦の末、ヴォルサイ軍は敗走し、自陣であるコリオライ城内に退却した。だがマーシアスはここでヴォルサイ軍を完全に潰すため、さらに城内に攻め入ろうと城門前で味方の兵士達を鼓舞する。しかしさすがに敵陣地内に少数の兵士だけで攻め入る勇気を持つ者はおらず、結局マーシアス1人が城内に突入した。さしものマーシアスもたった1人でヴォルサイ軍を粉砕することはできまい。誰もが彼の戦死を覚悟したとき、屠った敵の返り血と自身が負うた傷からの血にまみれたマーシアスがコリオライ城の門を開放し、自軍に戻ってきた。英雄の奇跡の生還に戦意を取り戻したローマ軍は城内に踊り込む。宿敵を見つけたマーシアスは再びオフィーディアスと刃を交えるが、寸でのところでヴォルサイ兵士が割って入り、またしても彼らの戦いの決着はつかぬまま、コリオライは落城した。自らの居城までもマーシアスに奪われたオフィーディアスの屈辱と恨みは深淵を覗く。彼は終に、例え自身の軍功を穢すことになろうとも、手段を選ばずマーシアスに復讐することを誓う。
一方、勝者となったマーシアスは、コリオライ征服の功労により“コリオレイナス”の名が与えられた。前執政官であったコミニウス将軍の強力な後押しもあり、ローマ議会はコリオレイナスを新しい執政官に選ぶ。ところが、正式に執政官になるためには、ローマ市民を代表する護民官の監視の下、市民の承諾を投票という形で得なければならない。執政官候補者は、純粋に民衆の利益のためだけに奉仕することを誓う儀式に臨む。“謙虚の衣”と呼ばれるボロを身にまとい、身体に残る戦争の傷痕をこれまでの軍功の証として市民に見せるのだ。傷を見て納得した市民は執政官候補者に票を投じるというわけ。これまでどの執政官も、市民に自ら負った傷を見せてローマへの忠誠心を証明してきた。しかしコリオレイナスは、愚かな民衆に傷など見せてもその意味するところすら理解できないだろうし、そこまでして愚民にこびへつらう必要はないと、謙虚の衣を拒絶する。護民官は、ローマ市民に不人気のコリオレイナスの頑固で傲慢な性格を利用し、彼を失脚させ、護民官である自分達が執政官に替わって権力を握ろうと画策する。

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結局、母親のヴォラムニアに叱責されて渋々ローマの広場で市民と対峙したコリオレイナスだったが、市民を見下した横柄な態度は明らか。執政官になっても、考えることは周辺諸国との戦争のことばかりで、困窮するローマ市民を救済することなど眼中にない。早速市民とも議会とも衝突するコリオレイナスは、“市民の声を代表する”という大義名分を掲げ、いちいち彼の前にしゃしゃり出てくる護民官をも愚弄した。護民官の挑発にまんまと乗っかってしまったコリオレイナスは、護民官に焚きつけられた市民達が、いったんは投票したコリオレイナスへの票を全て破棄するという前代未聞の窮地に陥る。またしても、市民のコリオレイナスへの不信感と怒りが高まり、政治家としての彼を弾劾する声がローマ中に満ちた。一触即発の事態に慌てたメニーニアスのとりなしで、何とかコリオレイナスが裁判の場で釈明する機会だけは与えられた。ヴォラムニアも、溺愛する1人息子に“政治”の駆け引きの重要性を説き、ここは一旦、頑固で誇り高き理想が詰まった心とバカが付くほどの真っ正直な舌に封をするよう懇願する。しかしコリオレイナスは、いざ自らが裁かれる場に立つと、護民官の悪賢い策略もあり、自らを非難する民衆へ釈明するどころか怒りを露にした。貴族への敬意を持たず、国に命懸けで奉仕することの真実を知らず、目先の損得勘定にしか知恵の回らぬ愚民をののしる。こうしてコリオレイナスは、涙に暮れるヴォラムニアと家族、メニーニアスら友人達に別れを告げ、罪人のようにローマを追放されたのである。

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ローマを出て数年後。周辺諸国中にいる戦争遺児や戦争寡婦から無数の恨みを買っているコリオレイナスは、常に誰かに追われ、命を狙われる逃亡生活のせいですっかり疲労し、生きる気力を失っていた。故郷に戻る機会も全く無く、気付けばオフィーディアスの根城アンシャムの街に流離れ着いていた。コリオレイナスは一大決心をし、なんとかオフィーディアスの居城に入り込むと、彼に直談判した。自分を裏切り、追放したローマに復讐するため、この身柄と命をヴォルサイ人に預け、ヴォルサイ人のために戦いたいと。オフィーディアスがかつての宿敵と手を組むのを良しとしなければ、いっそこの場で自分の首を切ってくれと。オフィーディアスは、落魄の身となったコリオレイナスが、誇りも頑固さも失った様子を見て彼の言葉を信じ、彼に自らの鎧と自軍の半分を与えて信頼の証とした。
天性の軍人であるコリオレイナスは、ヴォルサイ軍を率いてあらゆる戦を勝ち抜いた。かつての天敵であり、忌まわしい死神でもあった男が、今やヴォルサイ軍に美酒をもたらす勝利の神となっている。コリオレイナスはあっという間にヴォルサイの民からの信頼と人気を得、いわば彼の恩人であるオフィーディアスの影は薄くなる一方。そうなると、生来の彼の悪しき気質である高邁さが再び顔を覗かせるようになる。ヴォルサイ軍の総大将はオフィーディアスの肩書きだが、今はコリオレイナスがオフィーディアスに取って代わってしまった。コリオレイナスは、功績を挙げているのは自分なのだから、自分がヴォルサイ軍の最高指揮官として振舞うのは当然だと嘯いて憚らない。
昔、大切な故郷をコリオレイナスに征服された恨み、刃を交えるたびに負けてきた軍人としての屈辱、そして今はさらに、助けてもらった恩義を忘れてしまったかのようなその礼儀知らずに、オフィーディアスのはらわたは煮えくり返る。確かにコリオレイナスには不思議な魅力がある。気質に百難あっても、それを補って余りある軍人としての偉大さは貴重だ。共に戦ってきて、それには畏怖せざるを得ない。だからこそ、ヴォルサイ人も征服された過去を忘れてコリオレイナスに跪くのだろう。しかしながら、オフィーディアスの中で日毎に強まってくるコリオレイナスへの憧憬は、それを凌駕する嫉妬と怒りでどす黒く塗りつぶされていった。コリオレイナス当人は夢にも知らないが、オフィーディアスは復讐のチャンスが訪れるのをひたすら待ち続けた。コリオレイナスはその傲岸さ、頑固さで、遅かれ早かれボロを出す。ローマからも結局はそれで追い出されたのだから。

一方ローマでは、コリオレイナスを追放し、彼と親しかった貴族達をも掌握し、愚かな市民達を上手くコントロールし、策略のみによって権力を手に入れた護民官が、一時の平和に安穏と胡坐をかいていた。しかしコリオレイナスが、なんとヴォルサイ軍と手を組んでローマに攻め入ろうとしているという噂がローマにも飛び込んできた。ローマが火の海となり、攻め落とされるのは時間の問題だ。コリオレイナス追放の先鋒に立った護民官は、復讐の鬼と化した軍神コリオレイナスに真っ先に八つ裂きにされるだろう。護民官は恥も外聞も忘れ、メニーニアスらコリオレイナスの友人達に泣きついて廻った。コリオレイナスにローマ侵攻を思いとどまってくれるよう、説得して欲しいというのだ。メニーニアスは、目先の権勢欲に屈してローマの守護神であったはずの男を敵にまわし、ローマに滅亡の危機を呼び込んでしまった護民官を鋭く叱責する。だが、今更護民官を怒鳴ったところで何の解決にもならない。先にコリオレイナスとの謁見に向かったコミニウスが、当人が口を開く間もなくヴォルサイ軍の陣営から叩き出されていた。そして、父親代わりでもあったメニーニアスの懇願すら、今のコリオレイナスの耳には届かなかった。…いや、そうではない。懐かしきローマを目の前にして、ともすればふるさとの人々への情けに流されそうになる心を、必死で守っていたと言うべきだろう。コリオレイナスは既にヴォルサイ軍と契約を交わしているし、ヴォルサイ人の元老院からの信頼を得続けるためにも、また彼自身の復讐のためにも、ローマ侵攻、制圧は成されなければならない悲願だったのだ。
古い友人達からの懇願も、耳に栓をして聞き流したコリオレイナス。ところが、彼の元に、母ヴォラムニアと妻ヴィルジーリア、可愛い息子が訪ねて来る。コリオレイナスという大黒柱を恥辱のうちに失って以来、ヴォラムニアの家名は傾き、経済的に逼迫していたのだろう、彼らは皆粗末な喪服を身に纏っていた。流離いの日々にあっても、片時も忘れたことなどない家族に再会し、コリオレイナスは激しく動揺する。ヴォラムニアやヴィルジーリア、幼い息子にまで額づかれてローマの命乞いをされては、さしもの頑固者も、そのまっすぐな気性を曲げざるを得ない。遂にローマ侵攻を断念し、和睦に応じる決意を固めたコリオレイナスは、涙ながらに家族との束の間の再会を喜んだ。
ヴォルサイ人元老院が、悲願の勝利を目前にして突如ローマとの和睦に転じたコリオレイナスの行動を、どう捉えるかは分からない。コリオレイナスと家族の様子を固い表情で見つめていたオフィーディアスは、しかし、コリオレイナス本人に“償い”をさせる時が来たと判断した。……



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これはあくまでも私の持論だが、理想を純化した生き方と、政治は両立しない。

なぜなら、政治家が理想を追求しようとすればするほど、私達愚かな民衆のような、思うに任せない現実が彼の眼前に立ちはだかり、その邪魔をするからだ。理想を追求するのも人間なら、現実に妥協し、己の欲望の奴隷になり、保身にひた走るのもまた人間だ。

政治も正義も、一部の特権階級ではなく私達民衆のために機能するべきなのは当たり前だ。しかし同時に、私達は民主主義を運営する大きな組織の一部であることを常に意識し、私達1人1人がその責任を感じながら生きねばならない。それは私達に課せられた義務であろう。だが私達のほとんどはそれを怠っているのだ。
国体そのものが衰弱し、滅亡の危機に瀕しているのにそれに全く気がつかないローマの民の愚劣さを、目先の利益だけに囚われる卑小さを、あなたは嘲笑えるだろうか?…笑えまい。私達だって、護民官ブルータスのような日和見主義、己の利権を守ることだけに必死な“政治屋”を私達の代表者として選び、のうのうとしているのだからおめでたい話だ。この作品の重要なテーマの一つとして登場する、一部の政治屋にいいように踊らされる民衆の愚かさは、今私が住んでいるこの日本でも、そっくりそのまま同じ光景を目の当たりに出来る。
何百年も前に、シェイクスピアは既に“民主主義”に潜む罠と欺瞞、諸刃の剣的危険性を危惧していたのだと思う。民主主義の恩恵に預かる私達自身がしっかりせねば、この「コリオレイナス Coriolanus」で民衆自らが招いたとも言える災難と悲劇は、再び今の世の中で起こるだろう。
…いや、既に手遅れか。私達は、日本の政治史上稀に見る愚かで危険な者どもを、国政の代表として選んでしまったではないか。この悲劇で描かれているのは、民主主義を謳う私達自身への戒めだ。確かにコリオレイナスは、到底優れた政治家になれる器ではないし、生来の気性も共感し辛く、二面性のある人物だと思う。彼の悲劇は、彼自身が蒔いた種だと切り捨てることも可能だ。だがそんな彼も、劇中で間違ったことは一言も言っていない。そのことを、この作品に触れた観客はよく肝に銘じておくべきだろう。

例えば彼のように、理想も頭打ちし、現実も既に手の施しようのない有様で四面楚歌の危機に陥ったとしよう。前進しても地獄、後退しても地獄が待つ。理想も信念も現実も力も全て失い、自分の命以外もう失うものが無くなった場合、それでも人間をこの世に引き留めようとするものは一体何なのだろうと考える。親子の情愛?夫婦愛?友情?自尊心?それとも、何時如何なる時でも生き延びようとする、生き物の生存本能?

…この作品では、家族への愛情や、理想と現実の葛藤、自尊心という個人としてのドラマが、個をはるかに超越した共同体全体への献身と常に比べられる。どちらの方が尊いのか。どちらを重視するのか。ローマにあっても自尊心という個の感情に走って共同体から放り出されたコリオレイナスは、最終的に共同体への忠誠を完全に捨て、家族愛という個の感情を選択した。そして、まるで罰せられるかのように、彼は共同体から(ストーリー上では手を下したのはオフィーディアスだが)抹殺されてしまうのだ。
この作品が書かれた時代には、共同体への献身や忠誠が何より重んじられた旧世界のモラルが崩れ、個々の人間を取り結んでいた繋がりが薄くなり、それぞれの人々がてんでバラバラに孤立して生きる社会、すなわち現代そのものの社会構造が築かれつつあった。コリオレイナスのように、共同体が要求する規範に上手く馴染めない人間でも生きられる時代になろうとしていたのだ。そんな時代の変化を敏感に察知していたシェイクスピアが、“新しい時代”の中に潜む問題や危険性を未来の人間に警告しようと、逆説的で冷笑的で風刺に富んだ物語を遺言として書いたのではないだろうか。

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ドンマー・ウェアハウスの芸術監督でもある演出家ジョシー・ルーク(Josie Rourke)の演出は、シェイクスピアの原作を、今この瞬間に世界で起こっている物語に置換することに成功している。床に引かれたラインと金属製の何の変哲もない椅子、一度だけステージに下りてくる緊急用のような梯子。現代風とも古代風とも呼べないような衣装、しかし登場人物が腰に帯びる剣だけは“古代ローマ”を強烈にアピールする古風な形。ステージ背後にある壁一面には、物語当時の世相を連想させる落書きが。これらのビジュアルで、ルーク監督はステージ上に“何処でも無い場所と何時でも無い時代”を演出した。
何故、いかにも古代ローマらしい仰々しいセットを作らなかったのか。ドンマー・ウェアハウスは元々、ロンドン中に出荷される輸入バナナを納めた倉庫だった歴史があり、建物の内部はさして広くない。そこに正方形の小さなステージと客席をあつらえたのだから、スクリーンを通じてでも判るほどステージが狭いのだ。理由は物理的な問題だっただろうが、この“時間と空間をあえて明確に定義しない”演出は、演者と観客の想像を充分に刺激する効果をもたらした。観客はステージを見ながら、ストーリーの中で古代ローマ時代と現在の時間軸を各自の頭の中で自在に行き来し、登場人物の経験やそこから得られる教訓、交錯する感情を自分自身の物語として理解できるのだ。
そして、彼女は何も民主主義を否定しているわけではなく、私達民衆が民主主義だと信じているものの多くが如何にまやかしであるかを示したに過ぎない。シェイクスピアが、たとえ誤解を招く結果になったとしても後世に示したかっただろうこの危険極まりないテーマを研磨し、贅肉を全て削ぎ落とした演出で過不足なく、力強く私達観客に伝えたのだ。
シェイクスピアの諸作品の中では政治色の色濃い作品だと考えられているが、「コリオレイナス」を再構築するにあたり、ルーク監督はことさら政治色を強調していない。一口に政治といえども、政治機構に関わる全ての事柄―議会、選挙の意味、為政者と市民との関係性など―は、所詮人間様がやることだ。ならば、立場や意見を異にする人と人とのぶつかり合いを積み重ねることで、その化学反応の結果、コリオレイナスの運命を丸呑みにした“政治”がどうなったのかをあぶりだせばいい。ルーク監督の今作における“政治”の解釈は、私にはそんな風に感じられた。

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また、これまではある程度年齢を経た俳優が演じていたコリオレイナスを、若いトム・ヒドルストンが演じたことで、芝居全体のスピード感、生々しさ、躍動感が倍増し、現代にも通用する物語の普遍性を観客の身近くに手繰り寄せていたと思う。何時如何なる時でも己が信じる正義と理想が一番だと思い込むのは、ある意味では、高潔な生き方を目指すものかもしれない。しかし、大義のために自分の信念を曲げることもできないという意味では愚かであり、浅慮でもあろう。私自身は、コリオレイナスというキャラクターに特殊な“未熟さ”を感じるが、劇中では、それが“傲慢”であり“頑固”であり“高潔”でもあると表現され、多分に矛盾を孕んでいる。つまりコリオレイナスは、矛盾そのものの“若さ”の中で、自分らしい生き方を模索しようと必死にもがいている人物だと解釈できるのだ。コリオレイナスに若さという要素をプラスした結果、彼の行動に年齢特有の未熟さが加わり、彼が袋小路に追い詰められていく物語の流れに説得力が増したと思う。

あともう一つ。

私自身が深く反省させられた命題の一つに、コリオレイナスと母親の捻れた関係がある。シェイクスピアの作品には、かなりの頻度で支配的、高圧的な女性が登場するが、今作の場合はコリオレイナスの母ヴォラムニアだ。父親はコリオレイナスが幼い頃に逝去。言ってみれば、典型的な母子家庭における母親と息子の関係だ。母親は息子に、彼女自身の野望を達成するよう強要し、息子を彼女の思い通りに育て、誘導しようとする。何故そこまでして彼女自身の野望に固執するのか。劇中では触れられていないが、おそらくヴォラムニア自身が政治の舞台で活躍したかったという野心を持っていたせいだろうと思う。コリオレイナスとのやり取りを見れば、彼女の方が余程政治家としての資質に恵まれているのは明らかだ(笑)。しかし哀しいかな、“女性”であったがゆえに、彼女が政治家になる道はあらかじめ絶たれていた。

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…このように、物語の舞台となっている古代ローマでは、貴族の家に生まれた女性達は大なり小なり、自分の家名を守るため、我が子を策略のコマにせざるを得なかった。しかし、程度の差こそあれ、子供に対して支配的な母親は今の世にもごまんといるわけで、私も貴女も知らず知らずのうちに己の子供達を追い詰めていないか、自戒する必要はあるだろう。コリオレイナスの場合は、どのような状況下でも母親の意を優先し、彼女の支配に従ったがために、彼自身の運命を狂わせてしまったという見方もできる。せめてこれからは、少なくともコリオレイナス母子の二の舞にはならぬよう、せいぜい気を付けよう。

今回、修正の入った日本語字幕で、やっとある程度納得した鑑賞が出来た。とはいえ、原作のセリフの半分程もカットされた字幕では、シェイクスピアを堪能したいという欲求は満たせない。この作品でコリオレイナスそのものに興味を持たれた人は、ぜひ原作戯曲を手にとっていただきたい。

「コリオレイナスCoriolanus」を上演したDonmar Warehouse公式サイト内の「コリオレイナス」公式ページはこちらから
当館内の拙記事はこちら

小さな小屋だからこそ、役者の息遣いまで聞こえる“舞台と客席の一体感”が生まれ、この血生臭くも愚かで愛しい人間の物語にリアリティがもたらされたのだろう。そして、時間と空間を飛び超え、シェイクスピアが最後に伝えたかった物語が、こうして私達に手渡された。後は、この物語からのメッセージを、私達一人一人が現実世界に反映させていく番だろう。“民主主義”を一瞬の夢で終わらせないために。

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