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zoom RSS 「8月の家族たち August: Osage County コリオレイナス Coriolanus」

<<   作成日時 : 2014/04/26 13:02   >>

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今日は、英国のナショナル・シアター・ライブ上映館にやってきております。目的は、ジョシー・ルーク演出、トム・ヒドルストン主演、マーク・ゲイティス、ハドリー・フレイザー、デボラ・フィンドレイ共演の舞台「コリオレイナス Coriolanus」。

しかし、この度はマチネー公演時間の上映がなくなり、夕方からの上映のみに。余計なお世話かもしれませんが、昼間の上映でなければ観られない人も(実は私もその一人)結構おられるのではないかと思います。ライブ中継というわけではないのですし、出来れば昼間にも上映してくださることを強く願いますね。

「コリオレイナスCoriolanus」を上演したDonmar Warehouse公式サイト内の「コリオレイナス」公式ページはこちらから

当館内の拙記事はこちら

【追記】日本語字幕は所々漢字が間違っていたり、送り仮名が間違っていたり(笑)で、スクリプトを機械翻訳にかけちゃったのかなあと思いました。しかし、芝居の方は素晴らしい出来栄え。

シェイクスピアの、私達人間への遺言とも受け取れる悲壮感漂う作品を、今現在の感覚でパワフルに再現してくれました。これまではある程度年齢を経た俳優が演じていたコリオレイナスを、若いトム・ヒドルストンが演じたことで、芝居全体のスピード感、生々しさが倍増し、現代にも通用する物語の普遍性を観客の身近くに手繰り寄せていたと思います。
いついかなる時でも己が信じる正義と理想が一番だと思い込むのは、ある意味では高潔な生き方かもしれませんが、大義のために自分の信念を曲げることもできないという意味では愚かであり、浅慮でもあります。私自身は、コリオレイナスというキャラクターに特殊な“未熟さ”を感じるのですが、劇中“傲慢”とも“頑固”とも表現されるそれを、ヒドルストンは上手く表現していたと思いますよ。コリオレイナスに若さという要素をプラスした結果、彼の行動に年齢特有の未熟さが加わり、彼が袋小路に追い詰められていく物語の流れに説得力が増したのではないでしょうか。

シェイクスピアの諸作品の中では政治色の色濃い作品だと考えていましたが、現代版の「コリオレイナス」を再構築するにあたり、ルーク監督はことさら政治色を強調していません。一口に政治といえども、政治機構に関わる全ての事柄―議会、選挙の意味、為政者と市民との関係性等―は、所詮人間様がやることです。ならば、立場や意見を異にする人と人とのぶつかり合いを重ねることで、その化学反応の結果、コリオレイナスの運命を飲み込んだ“政治”がどうなったのかをあぶりだせばいい。ルーク監督の今作における解釈は、私にはそんな風に感じられました。

小さな小屋だからこそ、役者の息遣いまで聞こえる“舞台と客席の一体感”が生まれ、この血生臭くも愚かで愛しい人間の物語にリアリティがもたらされたのでしょう。時間と空間を超え、シェイクスピアが私達に最後に伝えたかった物語が、こうして現在の私達に手渡されました。後は、この物語からのメッセージを私達一人一人が考える番ですね。…一つだけ補足しておきますが、この作品に登場する、政治の実権を握ろうと画策する小賢しい政治屋2名と、彼らにあることないこと吹き込まれ、彼らの野望達成に他愛もなく利用されてしまう烏合の衆は、今の私達が置かれている状況そのものです。それを思うと、何百年も前に書かれた今作のテーマを、今一度深く考えざるを得なくなりますね…。

あともう一つ。
私自身が深く反省させられた命題の一つに、コリオレイナスと母親の捻れた関係があります。シェイクスピアの作品には、かなりの頻度で支配的、高圧的な女性が登場しますが、今作の場合はコリオレイナスの母。父親はコリオレイナスが幼い頃に逝去。言ってみれば、典型的な母子家庭における母親と息子の関係ですな。母親は息子に、彼女自身の野望を達成するよう強要し、息子を彼女の思い通りに育て、導こうとします。程度の差こそあれ、子供に対して支配的な母親は今の世にもごまんといるわけで、私も貴女も知らず知らずのうちに己の子供達を追い詰めていないか、自戒する必要があるでしょうね。コリオレイナスの場合は、どのような状況下でも母親の威圧に従ったがために、彼自身の運命を狂わせてしまったという見方もできます。私も母親ですし、せめてこれからは、少なくともコリオレイナス母子の二の舞にはならぬよう、せいぜい気を付けようと思いましたよ。ただまあ、物語の舞台となっている古代ローマでは、貴族の家に生まれた女性たちは大なり小なり、自分の家名を守るため、我が子でも策略のコマにせざるを得なかったという特殊な事情もあったでしょうが。

うーんそれにしても、ルーク監督がオリヴィエ賞にノミネートされなかったのが残念です。あの小さなステージを大変上手くアレンジして芝居を立体的に見せ、パンキッシュなイメージも付加した躍動感溢れる演出はとても新鮮でしたのに。この作品についてはまた後ほど。


「コリオレイナス」は180分に及ぶ上映になりますので、それまで体力を温存しようかと思っていましたが。実は、先週今週と学校関連行事で忙しく、ベネディクト・カンバーバッチ氏がアンサンブルの一画をなす群像劇「8月の家族たち August: Osage County」をまだ観ていなかったので、トムヒ王子の前にベネ兄さんを観ておこうかと思います。主演のメリル・ストリープ、助演のジュリア・ロバーツがオスカーにノミネートされ、役者の演技には一定の評価があったものの、作品自体への評価は海外では惨憺たる結果でした。まあしかし、得てしてそういう作品こそ、自分にとっては逆に面白かったりもしますからねえ。偏見や先入観に惑わされずに、おおらかに観賞しましょうね。

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【追記】いやー、面白かった!見応えのあるドラマでした。私にとっては、自分自身の“機能停止家族”との戦いの日々が思い出されたりして、作品のテーマと我が身のほろ苦い過去がリンクし、色々なことを考えさせられた作品でした。

しかし一方で、今作が海外であまり受けなかった理由も、分かった様な気がしましたね。何十年もかけて一つの家族の中で起こってきた様々な悲劇を、例えば小説であるならば多くのページを割いてじっくり描けるところを、上映時間の制約がある映画では駆け足で紹介しなければならない。家族とその周辺の人々の人生を、数え切れない程の喜びと哀しみの詰まった繊細な物語を、大急ぎで並べていかねばならない。従って、2時間の間に次から次へと家族それぞれが隠し持っていた秘密が曝け出され、さしずめ“田舎町の女系家族による秘密暴露大会”という下世話な印象を持ってしまわれた方も多かったのではないでしょうか。“女達がぎゃーぎゃー大騒ぎする姦しい映画”だと。

今作は本当は、余命幾ばくもない母ヴァイオレットの大きな喪失の物語として始まり、家族皆が全て傷を負うという壮絶な紆余曲折を経て、最後には、そんな母の知られざる慟哭を理解した長女バーバラの再生の物語として幕を閉じるのです。母ヴァイオレットを残し、家族は皆いなくなってしまったけれど、ヴァイオレットが自分の足で踏むべきであった再生の道は、代わりに長女バーバラが歩くだろうことを映画は最後に暗示しました。終始荒んだ、しかも今作が映画化に先立って舞台になっていたように、演劇調の硬い雰囲気を残していた画面が、ここで鮮やかに“映画”になったわけです。同時に、原作や舞台版では救いの無かったストーリーも、ほんの少しの希望の香りを残して昇華していきました。

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残念ながら、家族神話というやつは今は(きっと昔も)存在しなくなりました。そしてどんな人でも皆、痛みを抱えながら、現実と何とか折り合いをつけつつ生きているわけです。そりゃあ、いついかなる時でも何事に対しても、“正義”の名の下に生きることは、さぞかし立派で高潔な生き方ではあるでしょう。しかし、理想論を振りかざすばかりでは、家族や友人を傷つけ、いずれ自分が生きる場所を見失ってしまいます。人が生きるってことは、矛盾も苦悩もあなたの理想と一緒に噛み砕いて飲み込んでしまえということ。
どんなにちっぽけな人間の生き様の中にも、語り尽くせぬ人生があります。仲の悪い家族の人生にも、頭にくる隣人の人生にも、それぞれに悲喜交々のドラマが、美しい瞬間も酷い瞬間もあります。そんな、愛おしくも憎らしくもある家族のドラマと、オクラホマの遮るものとてない平原を対比させることで、人間の無力を痛感しながらも、それでも“生きていく”ことを学ぶ作品なのではないかなあと思いましたね。

詳しくはまた後日。


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