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zoom RSS 「カッコーの巣の上で One Flew Over the Cuckoo's Nest」 Part 2

<<   作成日時 : 2014/03/10 01:02   >>

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「カッコーの巣の上で One Flew Over the Cuckoo's Nest」の感想です。観る度に違った感想が生まれる、重層的な人間ドラマ。私達に深く思考することを求めてくる、真の傑作だと思います。その魅力は、製作から早40年近くの年月が経過しても、一向に色褪せません。

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「カッコーの巣の上で」のリバイバル上映を観てきた。


今回で、実は4度目の観賞になる「カッコーの巣の上で」。観る度に気になっていたのが、チーフがなぜ精神病院に収容されていたのか、その理由だ。彼は耳もちゃんと聞こえているし、他の人間が話している内容も理解できているし、深い思考ももちろん可能。つまり、至って正常なわけだ。でも、彼は実に巧妙にそれを外部に悟られないよう、カモフラージュしていた…。なぜ?

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マクマーフィがチーフに脱走する決意を告げたとき、チーフが自分の父親のことを漏らす。この時、尊敬していた偉大な父が、結局酒浸りになってしまって以前の威厳を失ったと彼は語る。だから、“(父は)始末されたんだ、ごく自然に”と。…これ、つまりは、チーフ自身が己にしか聞こえない神の声を聞いて、父親殺害を実行したのだとしか思えないのだ。父親殺しはもちろん、私たちの常識に照らし合わせれば、重罪だ。でも、そんな常識とは違う次元のスピリチュアルな世界に、チーフは住んでいる。彼にしてみれば、どんどん卑小になっていった父の魂を、肉体の枷から解き放ってやったという理屈だったのでは?
だとすると、ロボトミーされて生ける屍になってしまったマクマーフィを見て、躊躇なくその命を奪ったチーフの行動が、彼なりの理に適ったものだったことが分かる。私が恐怖を感じるのは、悪党であっても根っからの悪人ではなかったマクマーフィの破天荒さが、結局は全体主義、官僚主義の権化たるラチェッド婦長、精神病院という“体制”に握りつぶされたことではない。それは悲しいかな、現実世界でいくらでも実例を目の当たりにできることだ。むしろ、静かに静かに誰にも気づかれることなく、解き放たれる瞬間を待ち続けていたチーフの真の狂気こそ、恐ろしい。マクマーフィがチーフという人格を覆っていた硬い殻を破って心を開かせた時、それまで眠っていたチーフの狂気も目覚めたわけだ。
マクマーフィという自由の象徴が“権力”に敗北したことを知ったチーフは、“マクマーフィ”の抜け殻から生命を解放せよという神の声を即座に実行した。そしてマクマーフィの“遺志”を継いで、彼がついぞ為し得なかった方法で病院から巣立っていった。カッコーが、育ててくれた親鳥(種類は違う)の卵をすべて蹴散らして殺してから巣立つように。

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チーフの脱走は、権力によっても潰されなかった新たな“自由”の象徴、ようやく解放された魂の旅立ちのように見えるし、実際、このシーンで涙して拍手する観客は多いだろう。マクマーフィの無念を想いながら。しかし私の心には、今回もまた、針を飲み込んだかのような息苦しさと悲しさと苦々しさが残った。重苦しい物語が展開する劇中、観客の心のよりどころとなっていたのが、密やかに育まれたマクマーフィとチーフの友情だった。それゆえ余計に、ラストシーンに込められた皮肉な真意に複雑な想いを抱いてしまう。…ひょっとしたら、良心の呵責すら感じない最も恐るべき殺人者を、この作品は最後に解き放ってしまったのかもしれないのだから…。

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この作品の原作に当たるカルト小説「One Flew Over the Cuckoo's Nest」は、実は60年代に上梓されていた。上の画像は原作者のケン・キージー氏本人で、彼は若かりし頃に退役軍人病院に勤めていた経験があった。そこで彼は、様々な状況下で心と身体の両方に傷を負った人々の話を直接聞く機会を得、時代が時代であったし、また病院という場の特殊性もあって、LSDを試す機会もあった。それらの強烈な体験から、キージーは以降カルトとして熱烈に支持されることになる小説を書くことを思い立った。

カッコーの巣の上で
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ケン キージー

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精神のヒューズが吹っ飛んだ患者達が、悪党ヒーロー、マクマーフィの登場によって、ラチェッド婦長を初めとする精神病院全般の管理“体制”に反発し、メリー・プランクスターズなるレジスタンス組織を結成して戦うお話だ。この奇想天外な反抗の物語の語り手は、かつてその病院の患者であった混血インディアン、チーフ・ブロムデンで、彼の回想という形でストーリーが綴られていく。

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チーフは、自然豊かな土地に住んでいた部族の族長の息子で、大学教育まで受けたインテリであり、第二次世界大戦に参戦したという、社会的には立派な経歴の持ち主だ。しかし、その血ゆえ、白人社会の中では差別、迫害の対象となり、心を病んでしまった。また、故郷も故郷の人々も白人社会から理不尽な攻撃を受け、部族社会は壊滅してしまう。チーフは、あえて耳も言葉も不自由な人間として振舞うことで自分の周囲から他人を遠ざけ、自らのアイデンティティを守っていたのだ。

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そんなチーフの処世術は、州刑務所から精神病院に送られてくる前から、既に彼の身についた習慣となっていた。だが、チーフと同じように刑務所から病院にやってきたマクマーフィというチンピラは、チーフからのレスポンスがなくとも彼に子供のように話しかけ、自ら道化となって盛んにジャレつき、目の前で大騒ぎしてみせる。チーフは当初、マクマーフィがなぜ自分にまとわりついたり、他の患者達と喧嘩しながらも仲間付き合いをしたがるのかが理解できない。なぜ秩序の象徴、ラチェッド婦長に執拗に反抗するのかが分からない。しかし、彼のそうした天衣無縫な振る舞いが他の患者達を無気力から目覚めさせ、彼らに自立意識と生きる楽しさを示していくことに、やがて興奮と淡い希望を抱かずにはいられなくなる。ひょっとしたらマクマーフィは、この戦後アメリカ社会の体制そのものだといえる病院の管理体制を覆す力を、自分達が自分達の自我と個性を持つ自由を獲得するための力を、自分達に与えてくれるかもしれない、と。
小説は、映画版にもキーパーソンとして登場したチーフが中心となっている物語だ。従って、後に舞台化された作品やこの映画版とは、同じストーリーでありながら語り手、つまり物語の視点が異なるために、受ける印象は相当違う。だが例えば、映画版を観て腑に落ちなかった点があったり、もっと異なる視座からの考え方を知りたいと感じた向きには、小説版はうってつけの資料となるだろう。記憶のあちこちが朦朧としていて、妄想か現実か曖昧模糊としたイメージを引きずりながらも、小説の記述は、チーフが懸命に自身の記憶を辿り、彼の考えも含めながら、彼が見たありのままを客観的に語るという内容だから。

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舞台や映画版はマクマーフィを視座の中央に据えているため、“全体主義”が支配する世界=精神病棟で、人間としての最低限の自由を奪われた彼が苛立って駄々っ子のように暴れることと、それが周囲に与える影響をヒロイックに肯定的に捉えている。逆にラチェッド婦長をシンボルとした管理体制側は徹底して無慈悲に描写し、その“悪”を声高に糾弾している。映画でも舞台でもこの物語を何度も観ていると、その極端な二分化が、いささか図式的、類型的というか、今の感覚では多少の古さを感じてしまうのは確かだと思う。おそらくは、この物語自体を単純化、寓話化することで、その背景を様々な国家や社会環境に転じやすく誂え、伝えたいテーマを世界中の人たちに普遍的に訴えようとしたのだろう。確かに映画版では、物語のテーマは極めて明確になっていた。

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マクマーフィというはぐれ者と、社会からの落伍者たる患者達の間に生まれるシンパシー、深まっていく絆の尊さ、あるいは、体制の圧力を前にした虐げられる者達の連帯の脆さ。体制が、支配、秩序の維持のためなら、個人の尊厳など一切無視して、いかなる反抗の芽も一つ残らず見逃さず、非人道的に潰していくことへの嫌悪感と恐怖。

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また、世間一般で考えられている“正常”と“狂気”を隔てる境界線などあって無きが如しであり、一体どのような現象をもって“狂気”と判断するのかも甚だ心許ない。ある状況下では“正常”“正しい”とされたことが、別の状況では覆されることなんぞ、この世の中ではざらにある。だからこそ、私達は歴史の節目節目で必ず立ち止まり、自分の行動が真実正しいのかどうか、一際大きな声でもっともらしいことを怒鳴る輩に惑わされているだけではないのか、己の頭でよく考えなければならない。それを“社会の敵”である悪党の口から、“社会”そのものに向けて逆説的に語らせたのだ。このシニカルで内省的な要素は、世界で最も“精神分析”が一般に浸透し、“民主主義であること”に最も神経質に拘るアメリカにおいては、かなり勇気の要る告発だったと思われる。なにせ、現代社会の秩序の根幹を成すそれらの根拠を、あっけなく否定してしまう内容だから。…そして悲しいかな、今の日本においても、こういった民主主義の形骸化や善悪の基準の形骸化は、現在進行形の大問題となっている。

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実は私自身は、小説の方も読んでみて、ラチェッド婦長と彼女が体現する“体制”側の存在意義について、却って興味を深めた次第。果たして、病院やラチェッド婦長は、一方的に患者達を搾取するだけの圧制者であったのか。…今、自分が住んでいる社会の歪な構造や矛盾点を省みるに、必ずしも“ラチェッド&病院の体制側=絶対悪”ではないのでは?…と結論せざるを得ない。

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まあそもそもからして、マクマーフィはてめぇのオイタでパクられたくせに、気狂いの振りをして警察と医師達を騙くらかし、楽して強制労働を逃れようとしたチンケな悪党だ。心、精神に関わる病が如何に奥深く繊細で複雑で、計算通りに事が運ばないものか、マクマーフィこそ、自身の都合の良いように現実の方を変えようと、エゴイスティックな行動に走っていたのではないか。正気と狂気、あるいは善悪を分かつ判断基準が、時と場合によってコロコロ変わるあてにならないものだとしたら、マクマーフィが周囲にゴリ押しする“正義”だって、本当に正しいのかどうか誰にも分からないだろう。
最も大切なことは、周囲の環境の変化に際し、“自分で考える”作業を放棄しないことだと思う。ラチェッドに命じられるがまま、あるいはマクマーフィにけしかけられるまま、風見鶏のようにクルクル態度を変える患者達は、まるで今の私達そのもの。年がら年中、体制に不満を持ちつつも、結局は体制の導くマジョリティから除け者にされないよう、体制側の管理から逃れられない。その管理が明らかに間違っていると感じても、排除されるのが怖くて、誰も声をあげようとしない状況まで、嫌になるぐらい、今の私達にぴったりと当てはまる。病院=体制は悪で、患者及びマクマーフィは善だと言い切れるだろうか。

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ラチェッドは体制側の悪の権化のように描かれ、映画を観た人も大概はそのような感想を持つ。威圧的で支配的で、自分の行動が絶対的に正しいと信じて疑わない女。あんなにまで人の心の機微を否定する人間に、よく精神病院の婦長が務まるもんだとも思うが、まあ何処へ行っても組織というのは、強くて自信満々で人を操る術に長け、世渡りの上手い者が勝ち残っていく仕組みになっている。それが体制側の組織になればなおさらだ。そう考えれば、ラチェッドは体制側の人間として極めて有能な人材だといえる。それに現実にも、ラチェッド的な人物はあちこちに発見できる。方法論の良し悪しに関係なく、とにかくコミュニティーの秩序を維持するために、どうしてもラチェッドのような存在が必要だからだ。体制というよりも、むしろ“秩序の維持”という使命に絶対忠誠を誓い、一片の雑念も差し挟まない、有能で威厳に溢れる存在が。

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マクマーフィは一見すると、魅力的な人物ではあるものの、勝手気ままに周囲を振り回すトラブルメーカーのようだが、実のところ、他者への潜在的な影響力やリーダーシップといった意味で、ラチェッドと同じ資質を持っている。だから余計にマクマーフィはラチェッドを忌み嫌ったのだろうし、ラチェッドはラチェッドで、マクマーフィをどうしても自らの管理下に置きたかったのだろう。マクマーフィは、彼のやり方でラチェッドの患者達への支配力を弱めようとし、ラチェッドは、彼女のロジックに無理矢理マクマーフィを当て嵌めるために、最後は禁じ手を使う。恐ろしいのは、マクマーフィが自身の反抗の理由(ラチェッドがいけ好かねぇ)をはっきり認識しているのに対し、ラチェッドの方は、患者を救おうとしていながら、結局は管理できない患者の人間性を奪ってしまうという自身の行動を矛盾だと思わず、全くの善意と職業柄の犠牲的精神から生まれたものだと信じている点だ。マクマーフィの担当医ですら、彼の気狂いが嘘であると見破っていたのに、ラチェッドがそれに気付かぬはずはない。それでも、マクマーフィを病院に留めておこうとしたのは、純粋に、彼の反社会的性格を治療したいと思ったからなのだ。その結果が非人道的な所業を招いたとは、彼女は考えもしないだろう。意識して為される悪と、無意識のうちに為される悪。どちらがどれぐらい罪深いかは、それこそ時と場合によって変わってくると思う。

ヘビーな題材ながら、この物語は全般に軽快なリズム感がある。上記したように、描かれる対象がきれいに二分化され、両者が常に対比されているせいだ。マクマーフィ vs. ラチェッドという構図が常に全てのシーン、映像の背後に青写真のように存在している。そんな中で、マクマーフィ自身と、彼を取り巻く患者達の間で繰り広げられるドラマは多分に人間臭く、エモーショナルで、予想外のハプニングの連続によって多彩さを強調している。
そしてもう一つ、マクマーフィと映画後半で重要性を増すチーフの関係性もまた、“対比”によって描かれている。冒頭、遠くにマクマーフィを乗せた車が姿を現し、森を抜け、病院を目指して走る姿が映し出される。しかし映画の最後では、チーフがカッコーの巣=病院から脱出し、森を抜け、地平線を目指して走り去る姿が映る。夜中、皆が寝静まった頃、マクマーフィがチーフに病院からの脱出を持ちかけた時にはチーフが渋るが、看護人が去った夜半、チーフがマクマーフィに脱走を促したときには、既にマクマーフィは実行不可能な状態になっていた…。結局マクマーフィが持ち上げられなかった水飲み台を、チーフは怪力でもって持ち上げ、まるでマクマーフィの遺言を実行するように奇跡を起こす。
ストーリーの中の何気ない出来事が思いもかけない伏線となって、背景が変化してもリフレインのように後で繰り返され、なんともいえない余韻が残る。そういえば、冒頭に出てきた患者達のカード遊びも、後半ではマクマーフィ式にタバコを賭けたゲームに変わっており、患者達自身の変化と時間の経過、そこにいるべき人物の不在を強調していた。

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実際に精神病院でロケして撮影したにも拘らず、カメラが複数の役者の表情の変化を細かく追って寄っていくため、必然的に“顔”のアップが多くなり、空間の立体的な広がりはあまり感じられない。しかし、それが却って、狭い部屋の中に大勢の患者が無理矢理押し込められているような、不快な圧迫感を醸し出す結果になり、効果的だったと思う。現に、屋外レクリエーションのために患者達が部屋の外に出る際には、周囲の風景が多少なりとも視界に入ってきて、患者同様、心底ほっとした気分になる。病院内の閉塞感とラチェッドの威圧感と対比されているのが、バスケのミニゲームでの皆の子供のような笑顔であり、釣り船をかっぱらって海に乗り出すシーンの大騒ぎである。その対比が鮮やかであればあるほど、ストーリーの悲劇性も増す仕組みになっている。こと、クリスマスの最後の乱痴気騒ぎのシーンは、狭い病院内で強行したシーンであるから余計に切ないものとなった。やっと、“病院の外でのみ可能だった非現実的な楽しいひと時”を、病院の中の日常で実現できたというのに。

映画版は、原作小説を舞台用に翻案したものをベースにしているため、役者間の演技のケミストリー、アンサンブル演技の調和が前面に押し出されている。後年エンタメ界の重鎮になる、若き日の著名俳優達が集結し、演技合戦を繰り広げているのだから、それを映像に残さない手はない。あたかも舞台を観ているかのような錯覚に陥るのは、そのためだ。いつもニコニコしている小柄なマーティーニはダニー・デヴィートが演じ、ぎょろ目でのっぽ、短気なテイバーを「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズのクリストファー・ロイドが演じ、インテリをひけらかすハーディングは、「ミクロの決死圏」や「狼よさらば」等のウィリアム・レッドフィールドが扮している(レッドフィールドは「カッコーの巣の上で」完成の翌年急死した)。最も若く可愛い患者で、心の病というよりは重度のマザコンのため、自分に自信が持てないビリーを演じたのは、後に「チャッキー」シリーズで人気者になるとは到底信じられない(笑)、繊細な美青年(病的だが)真っ盛りの頃のブラッド・ドゥーリフである!

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いやもう正直、この可愛らしいドゥーリフを見るだけでも、今作を鑑賞する意義があるだろう。まるで、路地裏に間違って咲いてしまった可憐な花のごとく、ビリー青年の悲劇を見事に体現している。

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地そのままかとおぼしき自然体で、マクマーフィを演じていてもやっぱり“ジャック・ニコルソン”だったニコルソンと、今作で名コンビっぷりを見せてくれたのは、後に「ポルターガイスト2」や数々の西部劇、テレビ・シリーズですっかり人気者となるウィル・サンプソンだ。アメリカン・ネイティヴとして初めてメジャーな俳優になり、後進に道を開いた偉大な先駆者だ。彼も既に鬼籍の人になっているが、今作のチーフ・ブロムデンの演技は、本当に演技と思えぬほどナチュラルで、その大きな存在感は時にニコルソンを圧倒するほど強烈であった。

そのニコルソン、サンプソンはじめ、クセモノ揃いの俳優陣のパワーを1人で受けて立ち、互角に戦った名女優ルイーズ・フレッチャーは、今作のラチェッドの演技でオスカーを獲得した。それも納得の、すさまじいオーラを放つただならぬ名演だったと思う。

原作の60年代、あるいは映画版の70年代という時代性を、聴覚から強く印象付けたジャック・ニッチェのスコアも忘れがたい。冒頭とラストに流れる、奇妙に湾曲した音色の楽器はテルミンだ。このテルミンを聴くたびに、私は複雑な気持ちでチーフの後姿を見送ることになる、今作のラストシーンをありありと思い出す。

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