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zoom RSS National Theate Live in Japan 'Frankenstein' 追記!

<<   作成日時 : 2014/02/27 14:54   >>

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英国には優れた演劇作品を生み出す伝統があります。

日本でも、伝統芸能の火を絶やさぬよう、歌舞伎の舞台を撮影したものを映画館で上映する企画“シネマ歌舞伎”が始まってかなりの月日が経過します。この企画は見事に根付き、今では歌舞伎以外の舞台の演目も映画館で観られる時代になりました。これは素晴らしいことですし、シネマ歌舞伎の成功には更なる大きな意義があるとも信じています。歌舞伎の前にはメトロポリタン・オペラのライブ・ビューイング上映がいち早く日本の映画館に根付いており、今では上映館数も増え、すっかり毎年の行事として親しまれるまでになりました。

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このように、次世代の映画館には、“伝統的な芸術をスクリーンを介して広く紹介する”ことが新しい使命として課せられてると思っています。この、映画館の新たなる歴史の流れは、伝統芸術共々絶対に絶やしてはいけません。伝統芸術も映画という芸術の形態も、双方共に次の世代にも伝えていかないとね。

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今年3月からは、2ヶ月に1演目の割合で映画館で上映される予定の、ナショナル・シアター・ライブも始まります。英国内で上演された優れた舞台をそのまま、日本にいながらにしてスクリーン上で観られる絶好のチャンスです。全国のTOHOシネマズ系列の映画館で上映されますが、今後の演目の観客動員数次第では、上映館も増えていくでしょう。英国の演劇に興味のある方々、大好きな英国俳優の演技を見たい方々、きっかけは何でもいいですから、とにかくナショナル・シアター・ライブ上映に足を運んで下さい。お願いします。

この企画のスターターとして、まず日本で上映されたのが、ダニー・ボイル演出、ベネディクト・カンバーバッチ、ジョニー・リー・ミラー主演の舞台「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー原作「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」を下敷きにした新解釈舞台)でした。この舞台の上映も好評だったようで、3月に再上映も予定されています。今回見逃してしまったけれど舞台には興味があるという方はぜひ、ぜひとも、全国のTOHOシネマズ系列の映画館にお運びくださいませ。

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"Monsters are real and ghosts are real too. They live inside us, and sometimes, they win." -- by Stephen King
(怪物も幽霊もみな存在する。彼らは私達の心の中に棲み付いていて、時に、私達を打ち負かしてしまうのだ。―スティーヴン・キング)


スイスの名家出身の青年ヴィクター・フランケンシュタインは、科学者を志し故郷を離れてドイツで自然科学を学んでいた。だが、凡庸な学者連中と時代遅れの学会に嫌気が差し、生命誕生の秘密を科学的に解き明かす研究に夢中になる。この研究が完成すれば、自分の手で理想の生命体を自由に作り出すことも可能だ。しかしそれは、自らが神に成り代わろうとする危険な野心でもあった。処刑場に頻繁に足を運び、死刑に処せられる人々の死の瞬間をつぶさに観察し、墓を暴いて亡くなったばかりの人間の身体のパーツに電流を流し、蘇生させる実験も繰り返した。既に狂気の領域に足を踏み込んだ実験の結果、ついに“理想の人間”を人工的に作り出す設計図が完成する。

そして、闇を切り裂く稲光が辺りを頻繁に照らすある夜のこと。複数の死体から集めた肉体のパーツを繋ぎ合わせ、内臓も全て供えた完璧な人造人間が、ヴィクターの研究室で産声をあげた。生まれたばかりの赤ん坊と同じように、ヴィクターのクリーチャーは床を這い回り、自由にならない手足をばたつかせ、もがき続ける。そしてしばしの奮闘の後、とうとう自分の2本の足で立ち上がり、歩き、一気に走り回れるまでになった。なるだけ良い状態の死体を選んでつないだため、クリーチャーの肉体は頑丈だった。しかし、初めての大実験で、クリーチャーの容姿の点まで気を回す余裕がなかったヴィクターのミスにより、クリーチャーの身体は縫い目だらけの、二目と見られぬ醜い容貌になってしまった。ヴィクターはその醜さに思わず怖気を奮い、クリーチャーには彼自らが植え付けた高い知性と豊かな感情の萌芽があることすら忘れ、その場から逃げ出した。

とんでもない怪物を作り出してしまったと絶望したヴィクターは、クリーチャーを放置してスイス、ジュネーヴの実家に戻ってしまう。1人取り残されたクリーチャーは強靭な肉体のため生き延び、空腹に耐えかねて街に出ていく。だが、どこへ行ってもその醜い姿を忌み嫌われ、人間達に石を投げられたり棒で殴られたりと差別と虐待に苦しみ抜く。彼の手にあったのは、創造主ヴィクターが逃げ出す前に彼の身体に掛けたボロ布と、その中に入っていたヴィクターの日記帳だけだった。ねずみのように人間達に追い回され、心身ともに傷ついたクリーチャーは山の中に逃れた。そこで彼は、鳥の羽ばたきの軽やかさ、雨の恵み、そして太陽の輝きとぬくもりを肌で感じ、生まれてはじめて生きる喜びで胸がいっぱいになるのであった。

人里離れた山の中に粗末な掘っ立て小屋があった。そこには、老人と彼の息子夫婦の3人が暮らしていた。老人は元学者で音楽にも優れた人物で、突然現れたクリーチャーを恐れもせず、飢えた彼に食べ物を分け与えてやる。老人は戦禍の中で受けた爆撃のせいで盲目になっていた。容姿だけで相手を判断しない彼は、子供のように純粋で無学だったクリーチャーを可愛がり、本を与えて、毎日勉学の手ほどきをした。元々優れた知性の土台があったクリーチャーは、老人との学習でめきめきと知識を増やし、発声にはまだ難を残すものの、「失楽園」を吟ずるまでの教養を持つようになった。また、肌身離さず持ち歩いていたヴィクターの日記も読み解き、自らの出生の秘密も知る。
匿ってもらうお礼として、クリーチャーは、都会育ちで畑仕事に慣れない夫婦の野良仕事などをこっそり手伝った。礼を尽くされれば、礼を返さねばならない。クリーチャーは、純粋な感謝の気持ちから老人一家の生活を裏から助けたが、老人の再三の頼みにも拘らず、息子夫婦に正体を明かすことだけは拒み続けた。まだ何も知らなかった頃、街で人間達に虐待された心の傷はそう簡単には癒えない。しかし、クリーチャーが老人の熱心な生徒になって1年ほど経った頃、息子の嫁が懐妊する。それを好機と考えた老人は、クリーチャーを息子夫婦に紹介した。案の定、その汚らわしい姿を目にして恐れおののいた夫妻は、1年間細々と仕事を手伝ってもらった恩も忘れ、クリーチャーを罵倒し、殴りつけ、家から追い出してしまった。目の見えない老人は為すすべもなく、人間たちの残酷さに涙するばかり。クリーチャーはといえば、またしても人間に裏切られた絶望から、「英雄伝」よろしく一家に復讐することを思いつく。真っ赤な炎に包まれた山小屋が燃え落ちた後、クリーチャーは、ヴィクターのいるジュネーヴに向けて出発した。彼の創造主に会い、ぜがひでも言わねばならないことがあるからだ。

ジュネーヴの湖のほとりで、ヴィクターと婚約しているエリザベスとヴィクターの弟、乳母がかくれんぼに興じていた。鬼になって数を数える弟の背後に足音を忍ばせて近づいたのはクリーチャーだった。ドイツからジュネーヴまで徒歩でやってきたのだ。最初は、少年と一緒に魚釣りをしたり山登りをして遊びたかったのだが、少年もやはりクリーチャーのおぞましい姿を見て泣き叫ぶ。そして彼の姓が“フランケンシュタイン”であると知ると、クリーチャーは彼を肩に担ぎ上げて姿を消した。
その夜、失踪した少年を捜索していたフランケンシュタイン家の人々は、ヴィクターの直筆の日記を握り締めた少年の遺体を発見する。遺体はボートに乗せられており、少年の死因は明らかに何者かによる他殺であった。破られた日記のページを見たヴィクターは顔色を変える。なくしたとばかり思っていた、自分しか知らないはずの日記を持っている者が近くに潜んでいる。自分を誘い出すための挑発であろう。
引き留めるエリザベスの手を振り払い、ヴィクターは、化け物が出るという噂が立つ雪山にのり込んでいった。果たしてそこで彼が見たものは、かつて自分の狂気の実験の末に生み出した“失敗作”たるクリーチャーであった。雪山の斜面をこともなく滑り降り、寒さも感じないのかボロを纏っているだけの肉体の動きは強靭そのもの。自分が捨てた“我が子”が執念で生き延びて自分に会いに来たことではなく、その肉体がほぼ自分の理想に近い完成形であったことに感激するヴィクター。彼は、創造物が高い知性と記憶力、鋭い感性や豊かな感情まで持ち合わせていることに感嘆する。創造物がここまで成長するのに、どれほどの苦労と悲しみと怒りと痛みを乗り越えねばならなかったかは、ヴィクターは想像することすら出来なかった。主としてのクリーチャーの保護と養育を放棄したことを棚に上げ、自分をおびき出すためだけに少年を絞め殺したクリーチャーの罪を声高に糾弾する。そして、失敗作を廃棄処分するのは、創造主の権利だと掴みかかった。
しかしクリーチャーは、研究室に閉じこもってばかりの青白いヴィクターが敵う相手ではなかった。あっという間に押さえ込まれ、代わりに異性のクリーチャーをもう一体作って欲しいと懇願される。もう人間に愛情を請うことは諦めた。全世界にたった1人しかいない自分という特殊な存在を理解し、ありのままを受け入れてくれるのは、同じ種のクリーチャーしかいない。生きとし生けるものは皆つがいになる。ヴィクターですら婚約者がいるではないか、ならば自分にも伴侶が必要だと。

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伴侶が完成したら、2人で南米大陸の自然の中に姿を消し、決して人間社会に近づかず、彼らを脅かすことなく静かに暮らすことを約束した。孤独から逃れ、誰かに愛されたい一心で、クリーチャーは創造主の義務を問うた。ヴィクターは、クリーチャーへの義務には無関心だったが、女性のクリーチャーを創造することに新たな意欲を掻き立てられる。女性は男性とは身体の構造も気質も全く違う。理想の男性を作ろうとして、容姿の面で一度失敗したが、今度は材料調達も組み立ても慎重に行い、全ての面において完璧な人造人間を作ってやる。こうしてヴィクターは、父の驚きと悲嘆をやり過ごし、結婚を延期されたエリザベスからの苦情をねじ伏せ、英国の遠い島にこもって新たな人造人間創造に励むことになる。

島では、賄賂をはずんで秘密裏に女性の新鮮な遺体と内臓を届けさせ、おぞましき創造に没頭するヴィクター。その様子を影から監視するクリーチャーは、自らの出生の秘密を目の当たりにして絶句する。腐臭と死臭を漂わせながらも、程なく世にも美しい女性のクリーチャーが完成した。身体にいくつか縫い目は残っているものの、陶磁器のような肌、艶やかな黒髪、彫刻のように美しい身体のラインは生前の面影を凌駕する程。クリーチャーは、いまだ魂が込められていない“器だけ”の状態の伴侶に狂喜する。だが、ヴィクターはここで、“愛する”ことへの心構えと家庭を持つことへの決意を念押しした。クリーチャーは、愛情を感じることを見事に表現したが、肝心の彼の伴侶の方は、彼と同じような気持ちを彼に対して持つとは限らない。この容姿の美しさから驕慢になり、醜いクリーチャーではなく、人間の男を選んでしまう可能性もある。もしそうなったらクリーチャーはどうするのか。またもや人間達を憎んで報復するのかと。

クリーチャーは、伴侶には自分がモラルと理性と愛情を教えると請け負った。自分が真実の愛を注げば、彼女は必ずや応えてくれる。だって自分と彼女は同じ種族なのだから。人間の男になびくなんてありえない。また、どんなことが起こっても、自分は伴侶を最後まで守り抜く。クリーチャーは、気高き騎士ランスロットのごとき情熱で伴侶への愛を語り、彼女を自分の腕の中に返してくれるよう懇願した。

だがヴィクターは、ランスロットを油断させた隙にグィネヴィア妃の身体を斧でメッタ刺しにしてしまう。ヴィクターにしてみれば、クリーチャーが己の自我を獲得し、いともたやすく人間を殺める危険を秘めた生物になるなど、予想もしていなかった。だが現に、今目の前にいるクリーチャーは、こちらがちょっと気を緩めればどんな恐ろしいことをしでかすか分からないではないか。そんなクリーチャーをもう一体増やして、人間社会への脅威を2倍に増やせというのか。しかも、クリーチャーたちが男女ならば、生殖行為によって子が生まれる。人造人間の子供達がまた増えていけば、ねずみ算式に社会に怪物たちがはびこっていく。そんなことになったら人類は確かにお終いだ。ランスロットは不貞を働き、円卓の騎士が分裂した悲劇の元凶だった。クリーチャーも、人類の社会にとっては不吉なランスロットでしかない。

少年を縊り殺した手で、クリーチャーは、元の肉塊に戻ってしまった伴侶の身体を優しくかき抱き、むせび泣く。この身体は科学の神秘によって生命を得て、彼の魂を受け入れるはずだったのに。クリーチャーは、自分に対して最大の裏切りを働いた創造主に必ず復讐することを誓って、姿を消した。心配のあまり、息子の後を追ってきた父親に縋り、ヴィクターはジュネーヴに舞い戻ることになった。どこでクリーチャーが見ているか分からない。人造人間誕生のプロセスを詳細に記録した日記は焼却するよう、父に託した。こんなものが人目に触れてはいけない。神に背く行為を、自分も他の科学者達も二度と犯してはならないのだ。

そしてジュネーヴでは、ヴィクターとエリザベスとの婚礼が華やかに執り行われた。突然気を変えてジュネーヴに戻ってくれたヴィクターとの結婚に浮き足立つエリザベス。“創造物”と“創造主”の最後の対決の瞬間が、すぐそこまで迫っていることも知らず…。


“十一月も雨の寂しい夜、消えかかる蝋燭の薄明かりの下でそれは誕生した。解剖室などから各器官を寄せ集め、つぎはぎされた体。血管や筋が透けて見える黄色い皮膚。そして茶色くうるんだ目。若き天才科学者フランケンシュタインが生命の真理を究めて創りあげた物、それがこの見るもおぞましい怪物だったとは!…”

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「フランケンシュタイン」
著:メアリ・シェリー 翻訳:森下 弓子

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私自身は、この「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」というお話を、古典的な怪奇ロマン作品でもあり、真の人間性が如何に無慈悲であるか、愛情とは何なのかということを説く哲学書でもあり、いずれ人類は新しい生命を人工的に生み出すようになるのではないかと予言した空想科学小説の祖でもあると考えています。今作を執筆当時18歳だったメアリ・ウルストンクラフト・シェリーの早熟な文才が驚きをもってたびたび賞賛されますが、彼女が生きた18世紀から19世紀にかけては、18歳といえば既に結婚して家庭に入り、子供ももうけて立派に一人前の女性になっているべき年齢です。裕福な両親の計らいで、メアリは当時の女性としては珍しく、高い教育を受けていたようですが、詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと大恋愛の末に駆け落ちしたぐらいですから、教養に加えて感受性も鋭く、人の心理の変化に敏い女性だったのでしょうね。

ほぼ一文無しの状態でシェリーと駆け落ち中に、詩人バイロンが所有するレマン湖畔の別荘に招待され、そこで運命の瞬間を迎えるわけです。じとじと雨ばかり降って外出できない退屈しのぎに、バイロンが皆に提案した“みんなで一つずつ怪奇小説を書いていこう”という、通称“ディオダディ荘の怪奇談義”をきっかけに、彼女ははじめての自作小説のストーリーを思いつき、それから約1年掛けてこつこつと執筆し続けました。それが「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」でした。タイトル中のプロメテウスは、元々ギリシャ神話の神でしたが、神のみに使用が許されていた偉大なる力、炎を人間達に授けたことを咎められ、生きたまま鳥に体を食われるという陰惨な刑を受けました。人間が火を手に入れれば、神にも匹敵する強大な力を得てしまうだろうことを、神々は知っていたのですね。人間と神の主従関係が逆転する危険をもたらしたとして、プロメテウスは神の名を抹消されるのですが、それはさながら、人造人間を誕生させて、神の領域を侵したフランケンシュタイン博士の所業と同じだというわけです。

この原作小説では、造ってくれと頼んだわけでもないのに、科学者のエゴのみでこの世に生れ落ちてしまったクリーチャーの辛酸と苦悩以上に、造ってはいけないものを“造ってしまった”フランケンシュタイン博士の側の葛藤に多くのページが割かれています。確かに、科学の限界をたった一人で突破したにも拘らず、その成果は自分以外の誰にも理解できない、むしろこの世に存在してはならないと否定されるものだったという絶望は、同情に値します。自分の能力があまりに巨大すぎてそれをコントロールする術を知らず、高いプライドでガチガチに塗り固めた己の脆弱な自尊心を守るため、周囲の人間たちから差し伸べられる手を振り払うことしか出来ない苦悩。親も兄弟も心優しい婚約者も皆、神にも匹敵する彼のパワーにひれ伏すべきなのに、社会不適合者とみなし、逆に哀れみと愛情の施しを与えようとする苛立ち。本当の自分をありのままを受け入れ、愛して欲しいと願っていたのは、クリーチャー以上にフランケンシュタイン博士自身であったことがわかるのです。

つまり博士は、究極の人間を生み出そうとしていたのではなく、本当の自分を100パーセント理解できる、完璧なアルターエゴをこそ造りたかったのではないでしょうか。かけがえのない家族に囲まれながら、1人淵から深遠を覗き込むかのような孤独を囲っていたのは、博士その人だったのですから。舞台になったバージョンを見ていて感じたのは、博士がなぜクリーチャーを造る事にとり憑かれたのか、その理由でした。舞台では、女性のクリーチャーを造っている時に博士自身の口から説明させていましたが、それは表向きの理由。彼の真意は彼自身にも分かっておらず、意識下の深い場所に隠されていました。
それがはじめて表面化したのが、クリーチャーと対決をしたエリザベスとの結婚式の夜のシーンでしょうね。丸腰のクリーチャーに銃口を向けていたにもかかわらず、また、いくらでも引き金を引くチャンスがあったにもかかわらず、彼はただ魅入られたように、クリーチャーの残酷な復讐の現場を見つめるだけでした。彼がすぐ何らかの行動を起こしていれば、エリザベスの救助には間に合っただろうに。クリーチャーの所業を見つめる博士の顔には、呆然でも苦悩でも怒りでも憎悪でもなく、むしろ陶然ともいうべき表情が浮かんでいました。このときの博士の心情は、完全にクリーチャーとシンクロしていたと思いますよ。貧相な肉体にコンプレックスを持っていただろう博士は、完璧な肉体を持つクリーチャーと同化し、そのクリーチャーの所業を通じて己の本懐を遂げたのかもしれません。この舞台では、博士は童貞で(初夜のシーンでの侍女とエリザベスの会話から窺える)しかも不能であろう(博士とエリザベスとのぎこちないやり取りで暗示)と解釈されていたようです。

結局、クリーチャーと博士の追いかけっこが続くうち、博士の特徴とクリーチャーのそれが同化してくるのも当然ですよね。彼らは元来、根っこの部分を共有していたのですから。舞台版の最後では、博士とクリーチャーは、お互いがお互いにとって必要不可欠な存在となります。共依存していると言い換えてもいい。憎っくき仇であるお互いの存在こそが、お互いにとっての生きる理由になっているのです。彼ら2人の関係を「私達は二人で一つだ」というクリーチャーのセリフで端的に表現していましたが、ここで、当初の私の疑問だった“博士がなぜクリーチャーを造る事にとり憑かれたのか”に対する回答が得られました。


“…ただ、愛されたかっただけなんだ…”
Frankenstein
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『Frankenstein』(翻案戯曲)
著:Nick Dear 原作:Mary Shelley

…とはいえ、やはりフランケンシュタイン博士の孤独というのは、多分に彼自身の傲岸不遜な気質に原因があるわけで、本人も無意識のうちに自分の周囲に高い壁をこしらえていただけに過ぎないでしょう。周囲の人々の好意を感じながらも、素直にそれに応えられない不器用な人間だったのです。また、科学を発展させるために犠牲はつきものだという大義名分をもってしても、博士の科学者としてのエゴとジレンマは共感を呼びません。彼はただ、人間が侵してはならない領域に無遠慮に足を踏み込んでみせ、己の力を誇示したかっただけなのでは、と勘ぐってしまいますね。

したがって、このニック・ディアー脚本・ダニー・ボイル監督版の「フランケンシュタイン」で、原作の冗長な部分を削り、博士の苦悩ではなくクリーチャーの悲しみの物語に焦点が絞られていたのは、極めて現代的で有効な演出でありました。天才的な頭脳を持つが精神的に未熟で、人間の感性に疎い博士を、急速に学習して成熟するクリーチャーが凌駕してゆく過程が鮮やか。彼ら2人の境遇の対比を明確にすることで、分かりやすく描いていました。生まれ落ちたばかりのクリーチャーを捨て、博士がジュネーヴに逃げ帰った後、舞台版では博士の描写をばっさりカットし、クリーチャーの味わう辛酸と“人間”として成長する過程を強調。多少のアレンジを加え、クリーチャーを“教育”してくれた人間との交流も、必要最小限の表現に留めておかれていました。これはどのシーンでも感じたことですが、とにかくお芝居全体のテンポが速く、小気味よい演出リズムで流れていくために、観客としては本当に舞台上に集中していられるのです。かといって、長大な原作を“端折った”印象は皆無。様々なテーマを掲げる原作の中で、特にフォーカスしたいテーマを拾い上げて濃縮したエッセンスを、舞台に映える表現でステージにばら撒いた、という感じですね。その代わりといってはなんですが、フォーカスすべきテーマを表現するのに、躊躇も遠慮も容赦も一切しないという、断固とした姿勢も感じました。博士の隠された気質、最後の対決のシーンで本当は何が起こったのか、臆することなく見せていました。

シンプルな背景ながら、シアターを縦横無尽に使い、天上、壁、回る舞台、ステージの奥行きを利用して遠近感を見せ、客席まで巻き込み、音や音楽を効果的に用いて、立体的、体感的に演出する手練れはさすがの切れ味。特に、アンダーワールドが担当した音楽にはしびれましたよ。私も思わずサントラ盤を購入してしまいましたもん(笑)。ところどころ、ロンドン・オリンピック開会式のような雰囲気があったのは、まあ、ご愛嬌でございます(笑)。茶目っ気も遊び心もふんだんに、芝居全体をボイル監督らしさで統一しつつ、観客にも想像する余地をちゃんと残しておいてくれているのは、本当にありがたかったですね。

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躍動感溢れるエネルギッシュなボイル流演出に呼応して、フランケンシュタイン博士とクリーチャー役を交互に演じた2人の主役、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーの演技も本当に見応えがありました。異なる役柄を交替で演じるというアイデアは、いかにもボイル監督が思いつきそうな(笑)奇想天外な発想ですが、面白い試みだったと思います。お芝居全体のバランスの良さは、おそらくは、ジョニー=クリーチャー、ベネディクト=博士のバージョンだったでしょうが、ジョニーがクリーチャーを演じた場合とベネディクトがクリーチャーを演じた場合の、彼らの演技の色合いの違いが分かって、興味深かったですねえ。
どちらかというと、ジョニー=クリーチャーの方が邪気がなく、ピュアで本当に気の毒なイメージが増していました。対比されるベネディクト=博士の傲岸不遜さと冷酷さ、脆さも強調され、上手くバランスが取れていたと思いますよ。ベネディクト=クリーチャーの方は、出てきた瞬間に周囲を威圧するような壮絶なパワーが発揮されていて、クリーチャーが成長するにつれ、人間を超越した偉大で優雅な存在になっていく印象を受けました。むしろベネディクト=クリーチャー版の方が、原作で描写されるイメージに近いですね。

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