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zoom RSS “トランス”から“コーマ”へ―「トランス Trance」

<<   作成日時 : 2013/11/22 18:50   >>

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“トランス”と“コーマ”。両者とも同じように“昏睡状態”という意味を持つ言葉ですが、やっぱり細かい部分のニュアンスは違うのではないでしょうかね。

例えば、人間の“意識”の状態を何層にも分けて捉えるなら、比較的浅い場所にある意識層を出たり入ったりしているのがトランス、深い位置にある意識層に入ったまま外に出てこられない状態がコーマであるような気がしています。厳密にはもちろんそうではないでしょうが、「トランス」観賞後は何となくそんな印象を持ってしまうのですよ。

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「トランス Trance」(2013年)
監督:ダニー・ボイル
製作総指揮:バーナード・ベリュー&フランソワ・イヴェルネル&キャメロン・マクラッケン&テッサ・ロス&スティーヴン・レイルズ&マーク・ロイバル
脚本:ジョー・アハーン&ジョン・ホッジ
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
プロダクションデザイン:マーク・ティルデスリー
衣装デザイン:スティラット・ラーラーブ
編集:ジョン・ハリス
音楽:リック・スミス
出演:ジェームズ・マカヴォイ(サイモン)
ヴァンサン・カッセル(フランク)
ロザリオ・ドーソン(エリザベス)他。

事の起こりは、サイモンが勤める老舗オークション会社Delancy'sでの出来事だった。

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サイモンはそこで、若手ながら将来有望な競売人として働いているのだが、ゴヤの幻の傑作“魔女たちの飛翔”がついにオークションに出品されることになった。なにしろ世界的に注目を集めるオークションとなるので、会場には厳重なセキュリティ体制が敷かれ、サイモンら競売人も、非常時…つまり、絵画を狙って賊が会場に侵入する等の緊急事態が発生したとき…にどのようにして絵画を守るか、そのマニュアルを改めて頭に叩き込む。

“魔女たちの飛翔”を前に、会場は異様な熱気に包まれる。そして、熾烈な競売の結果、なんと2750万ポンドの高値で落札された。だがそのとき既に、怪しい男達4人組がセキュリティを難なくすり抜け、会場内に侵入を果たしていた。会場に催涙弾が放たれ人々がパニックに陥ると、サイモンは迅速に“魔女たちの飛翔”をバッグに入れ、護衛と共に地下の金庫に向かう。ところが、今回の強盗団はよほど用意周到だったようだ。一味のリーダー、フランクが金庫の前で待ち構えていたのだ。

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サイモンは一瞬躊躇するが、銃口をこちらに向けている相手に命を張ることは、マニュアルに含まれていない。絵画の入ったバッグを渋々フランクに渡したサイモンだったが、その場でバッグを開けようとしていて隙のできたフランクの首根っこに、護衛のスタンガンを突きつけて反撃を試みる。だが怒ったフランクに逆に思い切り殴り倒され、昏倒した。フランクはあっという間に外へ脱出して仲間と合流したが、なんとバッグの中身は額縁のみであった。

殴られたショックで頭部にダメージを受けたサイモンは、病院で目を覚ました。記憶の一部が綺麗さっぱり消えている。昏睡状態にある間に、強盗団相手に歯向かった勇気を称えられ、新聞にも記事が載った。ところが、治療を終えたサイモンが帰宅すると、アパートの中はめちゃくちゃに荒らされており、何者かが何かを必死で探し回った形跡があった。ぐったりする暇もなく、サイモンはあの日の強盗団のうちの一人の訪問を受ける。こうしてフランクのもとに呼び出されたサイモンは、“魔女たちの飛翔”をどこに隠したのか白状しろと、拷問を受ける羽目に陥った。
…つまりサイモンは、最初からフランク一味の協力者であり、当初の手筈では、金庫の前で待っていたフランクに絵画入りのバッグを奪われた振りをするという筋書きだったのだ。それなのに、サイモンはフランクの邪魔だてをしたばかりでなく、肝心の絵画を横取りし、どこかに隠した疑いまで濃厚なのだ。

ところが、フランクに殴られた衝撃で本当に記憶の一部が欠落したサイモンは、絵画を隠した場所も、そもそも何のために絵画を横取りしようとしていたのかも、まるで思い出せなかった。業を煮やしたフランクは、サイモンの記憶を取り戻すための方法を探し、やがて“催眠療法”にたどり着く。フランクの指示で、胸に隠しマイクを仕込んだサイモンは、車のキーをなくしたと偽って催眠療法士エリザベスの診療所を訪ねる。

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エリザベスは優秀な催眠療法士であり、患者を催眠状態に置いた上で、彼らが抱える様々な問題を解決できるように導き、さらに強力な暗示をかけることができた。またサイモンはサイモンで、暗示にかかりやすい性質なのか、いともたやすくトランス状態と覚醒状態を行き来することができた。要はエリザベスにとって、自意識の舵取りを簡単に他人に預けることのできるサイモンは、格好の患者であり、また格好の手駒でもあったわけだ。
エリザベスは、彼の消えた記憶を再生させようと試みる。しかし、明らかに挙動のおかしいサイモンを見て、隠しマイクを通じてサイモンの消えた記憶を欲しがっている黒幕がいることを看破した。サイモンが失った記憶を思い出すのを無意識のうちに躊躇しているのは、この黒幕のせいであると。そして、彼の記憶を取り戻すと同時に、彼を現在の窮地から救う手助けをすることを約束したエリザベスは、逆にフランク一味と直に接触することを要求した。

エリザベスは、サイモンの記憶を取り戻す見返りとして、なんと彼女自身にフランクと同等の権限を与えることを望む。サイモンの記憶が戻るということは、同時に彼自身の身が危うくなることを意味する。エリザベスは、彼女がフランクと同じ力を持っていることをサイモンに示し、彼の根強い不安を取り除こうとしたのだ。

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エリザベスによるサイモンとギャング一味への催眠誘導が始まった。記憶をブロックしている警戒心が薄れていく過程で、サイモンは失われた記憶の欠片を徐々に元の位置に戻していくのだが、肝心の部分がなかなか思い出せない。サイモンのジレンマは続き、フランクも一進一退を繰り返す催眠療法の行方に不信感を抱き始める。それどころか、サイモンと催眠術を盾にフランク一味をも操ろうとするエリザベスに、フランクは反感と同時に不可解な感情を持つようにもなった。犯罪者どもを前にしても微塵の恐れも見せないエリザベスの傲慢さに呆れ、感心し、お宝探しのための一時的な同盟以上の興味を覚えたのだ。フランクはフランス出身、エリザベスはニューヨーク出身、ここロンドンでは共に“よそ者”の立場だ。共通する寂しさを抱えるよそ者同士が懇ろになるのに、時間は必要なかった。

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催眠誘導の影響か、エリザベスに自我の全てを委ねていたサイモンも、彼女に“患者と医者”という立場を超えた関心を寄せるようになる。記憶の空白部分が埋まらない焦りを、彼は“エリザベス”に固執することでなだめようとしたのだ。エリザベスはフランクを説き伏せ、サイモンと2人きりになり、彼に彼自身が密かに持つ“ある秘密”を打ち明ける。ショックを受けたサイモンは、トランス状態の中で記憶を辿る途中、いつも躓いていた箇所の詳細を思い出すようになった。記憶の完全復活は近い。しかしそれは同時に、エリザベスを間に挟んで緊迫した心理合戦を繰り広げていたサイモンとフランクの戦いに、いよいよ決着がつくことをも意味した。サイモンの記憶の最後のピースを巡って、サイモンとフランク、エリザベスそれぞれの運命は、予想外の方向へ大きく変わっていく。


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“伝統的なフィルムのリズムを破る自由を僕は楽しんでいる。デジタル撮影を通じてその魅力を知った。求めていたものだと思った。 「サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ」”―ダニー・ボイルのコメント


“トランス”と“コーマ”の間で、舞うように、飛ぶように、自在に遊ぶ男、ダニー・ボイル。思えばボイル監督は、「シャロウ・グレイブ」の頃から、映画の既成概念の殻を破ることに生き甲斐を見出しているようでしたし、実際、“既成概念を壊そうとする人間”や“既成概念を打ち破ること”を描こうとすると、大変に生き生きするタイプの映画作家です。私は彼の「シャロウ・グレイブ」が大好きで、それ以降の作品も観てはきましたが、やっぱり一押しはこの処女作になりますね。緊迫するサスペンス調でスタートしたストーリーが、思わぬアクシデント発生によって誰も予想し得ないラストに向かって跳ぶように進んでいく、その自由闊達な語り口。素っ頓狂に見えるアイデアも、時に観客をミスリードすることも辞さない巧みな演出(音楽の選択と用い方含む)で、いつの間にやら説得力を持つ真実にすり替えてしまうのですから、観客は翻弄されるばかり。この際、ボイル監督の仕掛けおもちゃ箱世界に、心地良く身を委ねるしかないのですよね。そんなボイル監督の“軽やかさ”は、失った記憶を辿る旅を描く「トランス」でも、もちろん健在。

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今は遠くになりにけりな90年代、英国で生み出された映画が世界的にもてはやされ、大変勢いがあった時代がございました。私なんぞは、年齢的にこの“ブーム”をリアルタイムで目撃している世代です。その私が証言しますが、ボイル監督という御仁、作品数を重ねるごとに、つまりキャリアを重ねてベテランと呼ばれるようになればなるほど、作る映画が若返っていくんですよ。これはどうしたことか(笑)。大抵の人間は、ある分野において秀でた才能を伸ばせば、やがてそこでベテランと呼ばれ、若い頃はとんがっていた才気も年月と経験と共にまろみを帯び、とがった派手さはなくなっていく代わりに熟成した酒のような味わい深い存在に変じていくものです。それなのに、ボイル監督は一向に落ち着こうとせず、作る作品は当世の最新技術と時代の空気を貪欲に吸収し、瑞々しく軽やかになっていくばかり。長年の経験というやつが、時にベテラン映画監督の作品を重く、古臭くしてしまうのとは対照的です。老齢に入った今も、果敢に未知の分野に、未知の表現方法に挑んでいく私の師匠クローネンバーグ監督とは、ちょっとタイプを異にはしますが、一箇所にて安寧することを良しとしない映画人であるという心意気は共通しますよね。

ボイル監督はおそらく、子供の精神をずっと持ち続けている人なのでしょう。子供のようなではなく、子供そのものの精神です。子供は飽きっぽい。だから、一つ所にじっとおとなしく留まっていることができませんし、今やっていることにもじきに飽いて、すぐに新しい何かを始めたがるものです。そして、思いもよらない所から突拍子もないアイデアを思いついて、大人をびっくりさせるのも得意技。新しい物を発見したら、今すぐ自分で試してみないと気がすまないし、新しい思いつきをすぐに実行しないとむくれるものなんです。ボイル監督もそういう方なんでしょう(笑)。

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この作品を観たときに感心したことの一つに、今でも映画界で廃れる気配を見せないモチーフ“時間軸の移動”を、科学的検証に基づいた催眠療法という特殊なテクニックを用いて無理なくストーリーと一体化させている点があります。過去の記憶と今現在、トランスによって意図的に見せられる偽りの幻覚と覚醒した目で見る現実、これらの異世界を、サイモンの意識と共に私達もまた困惑しながら行き来します。自意識を他人に操られる不快さを我慢してまで、時間軸を超える旅を続けるのは、サイモンも私達もひとえに“真実”を知りたかったせいなのですが…。

…この作品のオチは、人によっては、ある意味、アガサ・クリスティの「アクロイド殺人事件」並の禁じ手のように感じられるかもしれません。物語の語り手として登場し、かつまた主人公であったはずのサイモンが、催眠誘導によって二転三転する展開に翻弄されていくうち、クライマックスに向けて加速する物語の主導権を別の人間に明け渡さざるを得なくなるからですね。しかし、この作品の肝であり面白さの源泉は、実は、物語の主軸が途中から別の人間に交代してしまうこと、また、催眠誘導がミスリードするのは、結果的にサイモンだけではなく私達観客をも含んでいたことに、後から気づく仕掛けそのものなのです。ですから、観る人によっては、なんとなく狐につままれたような(笑)違和感につながることもあるでしょう。

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しかし、サイモン、エリザベス、そしてフランクという主要人物のキャラクターが意外な方向に変化していく様子は大変鮮やかにしてダイナミックであり、一見単純に見える人間にも、隠された奥深い多面性があるのだと示唆されるストーリーの妙には、何度観ても唸らされる魅力があると思います。この3人の心理的立ち位置が、ストーリーの展開に従ってジリジリと変わっていくことそのものが今作のサスペンスの源泉であり、あちこち壁にぶつかりながらも、少しずつ真実に近づいていく流れとも密接に繋がっています。何気なく提示されていた事柄やモチーフが、実は真相の要になるものだったと後で分かる伏線も、真相に至る道筋を一度バラバラに分解し、その一つ一つのピースを、サイモンと観客を誘導したい方向に繋ぎ直した結果であるのです。催眠誘導の特殊性を利用して、それを観客の目から巧みに隠蔽していたと言い換えてもよいでしょうかね。

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それにしても、サイモンの、あの何かに依存せずには生きられないキャラクターに哀れを覚えるのは、演じるマカヴォイに繊細さとふてぶてしさが同居しているせいでしょう。その相反する特徴が、彼が演じるキャラクターに複雑な陰影を加えるのです。
尤も、結局サイモンが記憶を失う前にやらかしていたことと、その結果彼が引き受ける羽目になった運命それ自体については、自業自得と謗られても仕方がないとは思います。でも、何かに縋って何かに依存しなければ生きてゆけないのも、また人間であります。程度の差こそあれ、私達はみんな何かしら依存する対象を持っているはず。アイデンティティへの自覚が欠落した人間であるサイモンは、その空虚を埋めるため、対象への依存度があまりにも強くなるタイプだったともいえますね。
それゆえにこそ、彼は意識の海の中をいとも容易く行き来し、あっけなく暗示にかかり、あっという間にトランス状態に入ってしまうのでしょう。第三者に自分の意識を明け渡し、自我さえも操られてしまう状況は、確かに彼自身が招いた混乱に違いありません。…その事態に甘んじ、砂の城のように自ら壊れていく彼の悲惨な姿は、しかし、明日のわが身であるかもしれないのです。それを考えると、サイモンという男をただのクズ野郎と嘲笑うことは、私には出来ませんね。



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本編の最初と最後に姿を見せ、映画全体を不吉な影で覆うゴヤの「魔女たちの飛翔」。魔女たちが軽やかに宙を舞い、思うがまま遊んでいる姿に比べ、自ら目隠しをして地を惑ったり、周囲の世界を受け入れるのを拒絶するかのように蹲ったり、魔女たちに弄ばれるだけの男どもは、なんと惨めな格好であることか。劇中、サイモンが服を頭から被って面白半分に再現するこの絵画に描かれた“男たち”のイメージは、しかし皮肉にも、その後のサイモンを含む“男たち”それぞれが辿った運命を暗示していました。

…ただ、彼ら男たちにとってせめてもの慰めだったと感じるのは、それぞれが、最終的には求めていたものを手に入れることができたという結果でしょうかね。片方は“安寧を意味するコーマ”を、そしてもう片方は紛れもなく明瞭な“現実”を。


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