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zoom RSS あなたは何者なのだ?ー「ザ・マスター The Master」

<<   作成日時 : 2013/03/30 17:47   >>

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“All great truths begin as blasphemies. すべての偉大なる真理は、最初は冒涜の言葉として出発する -- ジョージ・バーナード・ショー George Bernard Shaw


ポール・トーマス・アンダーソン監督の「ザ・マスター The Master」を観てきた。事前に出回っていた情報から察するに、観賞の際には腹を括って作品に対峙せねばならぬと身構えてしまったが、実際にはそんな恐ろしげな内容ではなかった。少なくとも私にとっては。

しかし、考えをまとめるのに時間を要するのは確かだ。

一言で表現すれば、時に不可解にも感じられる人の心の機微の不可思議を、俳優の表情の微細な変化を克明に追うことで追求した映画なのだろうということか。

これが‘ただ一つの正解’ではないが、人と人の間に結ばれていく絆が変化していく様子を、可能な限りカメラを近付けてクローズアップで捉えた結果の作品ではなかろうか。その意味では、人間関係、ひいてはそれぞれの人間の抱える深淵を解き明かそうとしたアンダーソン監督が到達した、一つの極点だと考えていいと思う。

リスキーな素材をあえて取り上げ、誤解を恐れず必要最小限までシーンを切り詰め、現実と妄想の境界線を意図して曖昧にしたのは何故だろう。この作品は、何もカルト宗教を告発するといった“社会派”映画ではない。極めて非現実的で非科学的だと考えられる宗教の教理が、皮肉なことに主人公フレディの精神世界を変え、見失いかけていた自我を蘇生させた。それは事実だ。しかも、その教理を触媒として、フレディの精神と化学反応を起こした教祖“マスター”の内的世界が、脆くも崩折れようともしている。この映画におけるカルト宗教団体コーズの教理は、少なくとも登場人物の運命を動かす動力源となり、ストーリーを引っ張る重要な役目を担っている。一見するとてんでばらばらで、繋がりなどなさそうな各エピソードは、この狂気に満ち満ちた教理でもって、時に緩やかにまた時に強力に一つの輪の中に纏められているのだ。

登場人物、彼らが紡ぐ物語、その背景となる世界観、全てが“常識”はずれで…常軌を逸している。しかし、その狂った調律のまま、アンダーソン監督は映画を構成するすべての要素を間違いなく、あるべき位置に完璧に組み立ててしまっている。無造作に繰り出されるストーリーの切れ端は、それぞれ鋭いナイフのように研磨され、安直な共感やらお涙頂戴の感動やらを寄せつけない。しかし最後は、アンダーソン監督によってそれらがこのうえない優しさでもって慰撫され、抱きしめられた後に観客の近くにそっと置かれる。それを手にするか否かは観客の自由だ。気に入らねばその上を跨いで去ればよし、どこか一つでも心に引っかかるものがあれば、手にとってしげしげと眺めればよいのだと思う。

しかし、常識の左斜め上にずれてしまった場所で展開するこの物語が、単なる夢物語に終わらず、現実世界にみられる様々な人間関係のショーケースになっていることは忘れないほうがいいだろう。前に立つものを常にありのまま写し返すといわれる鏡のように、壮大な法螺と狂気に彩られたこの物語が、実は人間性の真理をありのまま映してしまっている。おそらくは、それに気づいた時はじめて、この映画の面白さと深遠さを感じ取るのだろう。

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「ザ・マスター The Master」(2012年)
監督:ポール・トーマス・アンダーソン Paul Thpmas Anderson
脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
製作:ポール・トーマス・アンダーソン&ミーガン・エリソン&ダニエル・ルピ&ジョアン・セラー
製作総指揮:テッド・シッパー&アダム・ソムナー
音楽:ジョニー・グリーンウッド
撮影:ミハイ・マライメア・Jr
編集:レスリー・ジョーンズ&ピーター・マクナルティ
出演:ホアキン・フェニックス(フレディ・クエル)
フィリップ・シーモア・ホフマン(ランカスター・ドッド)
エイミー・アダムス(ペギー・ドッド)
ジェシー・プレモンス(ヴァル・ドッド)
アンヴィル・チルダース(エリザベス・ドッド)
ラミ・マレク(クラーク、エリザベスの新郎)
ローラ・ダーン(ヘレン・サリヴァン)他。

余談だが、私はテレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ Tree of Lifeが今だに好きになれない。公開と同時に世界中から絶賛され(カンヌではパルム・ドールに輝いた)、あまりの前評判の良さに、私も大いに期待して劇場に足を運んだものだが。世の中、そうそううまくいくものではない。これまた、見る人と見るタイミングを神経質に選ぶタイプの映画だった。アメリカの田舎町に生まれ、厳格で昔かたぎの父親との確執、無力だが慈愛深い母親との絆を経て成人した男が、壮大な自己探求の旅の果てに、全宇宙の真理と結びついて「2001年宇宙の旅 2001: A Space Odyssey」のラストを飾った"スター・チャイルド”のごとき存在に昇華されていく。
これを絶賛する心理というのは、いったい何なのだろうといつも考える。現実の厳しさに打ちのめされ、価値観が揺らぎ、未来に希望が持てない現代人が陥りがちな、怪しげなオカルトの一歩手前…という風には間違っても捉えていないのだろうな(笑)。”根性が曲がっている”と面と向かって言われたことのある私でなくとも、この作品に疑問を持った人もいたという事実は(公開から時間が経つにつれ、「ツリー・オブ・ライフ」は賛否両論を呼んで議論されるようになった)、マリック監督がついに"遠いところ”へ行ってしまったと認識した人間もいるということだろう。
私自身は、芸術家はやはり現実世界にしっかり足をつけていて欲しいと思っている。私ごときのクズが偉そうに発言できた義理ではないが、芸術を心の糧として必要としている多くの人間の1人として、常に願っている。映画をはじめとするあらゆる芸術形態が、浮世を忘れさせる程の圧倒的な美に満ちていると同時に、その美が紛れもなく私たちの現実世界から生み出されたことをしっかり理解できるように。そして、美が私たちと触れることで、再び現実世界に還元されることを。

世間に出回っているレビューや感想を眺めていると、アンダーソン監督の「ザ・マスター The Master」もまた、「ツリー・オブ・ライフ Tree of Life」に系列するようなタイプの独りよがり映画ではないか、という意見もある。難しいところだが、そう解釈されても仕方がない部分もあるだろう。聞くところによると、映像を極限までソリッドにするために、本編からカットされたシーンがかなりあるようなのだ。その失われたシーンを補完すれば、一度の観賞で咀嚼しきれなかったストーリーの流れが理解でき、腑に落ちる人もたくさんおられると思う。再三に渡って申し上げるが、「ザ・マスター」をご覧になられた方なら、この作品が紛れもなく現実世界にある“関係性”、人間の心の奥底を映す鏡であることはお分かりいただけるだろう。

フレディとランカスターという、まったくもって対照的に見える2人の人間の精神が、分かちがたく惹かれ合い結びつき、しかしその蜜月によって、お互いがお互いに対して本能的に持っている毒素に侵されてしまう皮肉は強烈だ。心の中のあまりに深い部分で惹き合っているために、お互いの存在が自分にとって良い影響を及ぼさないと分かっていても、もはや離れられない共依存関係。私はこの作品を観ている間中、以前触れた映画「趣味の問題 Une Affaire de Gout」(2000年)を思い出していた。この「趣味の問題 Une Affaire de Gout」でも、互いに強く結びついてしまったがために、それぞれの自我に自身を侵食され、崩れ落ちるように自滅していく2人の男が語られていた。
「ザ・マスター The Master」のフレディとランカスターはどうか。フレディはおそらく、ランカスターの哲学を最も正確に理解した男だったのだろう。だからこそ、ランカスターのカリスマの衰えに耐えられず、ランカスターの唱える教理に対して生まれた疑念を看過できない。…遅かれ早かれ、フレディとランカスターは一対一で対決しなければならぬ運命だった。「趣味の問題 Une Affaire de Gout」と比較するにつけ、精神的一卵性双生児たる2人の人間の関係に決着をつけるとしたら、共倒れか若しくは永遠の別れしかないように思えてならない。

世界中の映画祭で賞を授与、もしくはノミネートを受け、高く評価されたフレディ役のホアキン・フェニックスの存在の重さと鋭さ、激しさと脆さのアンビバレンスは凄まじかった。彼が画面に出てくるだけで、不穏な空気が満ち、異常な緊迫感が漂う。もちろん彼の演技がここまで映えたのも、彼とがっぷり四つに組んで一歩も揺るがぬフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が映画を支えていたからだ。
人当たりの良い、ユーモア溢れるチャーミングなランカスターは、博識でカリスマ性に満ちた“マスター”然とした表向きの顔を崩さない。しかし、その自信たっぷりの表情の裏では、己の信念への疑問と、信者たちの離心や世間から迫害されることへの怒りと不安に、辛うじて耐えているにすぎない。実の息子ヴァルにすら背信される四面楚歌っぷりは、マクベスの如し。だが、そんな彼の孤独を慰めるのは、野望のために夫をけしかけ、野望もろとも夫を支配せんとする“マクベス夫人”ペギーのみだ。本編ラスト、あくまでも“マスターの仮面”を被り続ける人生を選択したランカスターの表情に、一片の喜びも誇りも浮かばない。彼の未来はどのみち真っ暗だ。“マスター”によって自我を取り戻し、これから自分らしい生き方を模索しようと、手探りのスタート地点に立ったフレディと実質は同じレベルであろう。社会から弾き出された者といった意味では、フレディもランカスターも似た者同士なのだし。

従って、ランカスターによって万感の思いを込めて歌われる別れの歌は、ひときわ哀切に響くのである。

多分に感覚的な映画を撮るアンダーソン監督にとって、音楽という要素は“第2のカメラ”たる重要なポイントだ。今作でも、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に続いてジョニー・グリーンウッドが参加し、不協和音を底辺に忍ばせた秀逸なスコアを完成させている。ストーリーの背景となる既成の楽曲も、時に作品を牽引する程の重要な役割を果たしており、グリーンウッドの卓越したセンスが光っている。このグリーンウッド然り、どこまでも“アメリカでしかあり得ない”映像の広がりを感じさせる、ミハイ・マライメア・Jrのダイナミックかつ瑞々しいカメラワーク然り、才能ある映画監督の周りには、優秀なスタッフが自然と集まってくるものだ。 本編のストーリーやモチーフがどうあれ、この作品に眩しいほどの多幸感が溢れるのは、アンダーソン監督の下に結集したスタッフ達の才能が、これ以上望めないほど見事なハーモニーを奏でているからだろう。



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