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zoom RSS 繭の外へ―「Caterpillar」(short film)

<<   作成日時 : 2013/05/14 14:58   >>

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自らを真に理解する過程で、人は時に自身を見失うことがある。

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“Caterpillar”

CATERPILLAR from David Field on Vimeo.



「Caterpillar」(2012年)
監督&製作:David Field
出演:Leslie Bornstein
Angela Marie Roy
音楽:Keith Gehle
撮影:Eric Giovon
編集:Corey Bayes
プロダクション・デザイン:Jesse Kaufmann
セット・デザイン:Jesse Kaufmann&Jared Outten&Alex Taylor
メーキャップ&ヘアスタイル:Deborah Altizio
特殊メーキャップ:Ben Bornstein (Creative Initiative Makeup and FX Studio)
SFX:Ben Bornstein
VFX: Donato Boccia&Greg M. Silverman
アニメーション:Greg M. Silverman
衣装:Newheart Ohanian


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年老い、肉体も気力も衰え、呼吸器が手放せなくなってから、彼女は他人と会うのをやめた。まだ彼女が華やかな社交生活を送っていた頃に交流のあった人々から、今でも時折思い出したように招待状が届くが、それらが開封されたためしはない。
彼女は、1人で住むには広すぎる家の中に引きこもり、ただ“寝て起きて食べる”を繰り返す、単調な毎日を送っていた。あまりに鬱屈とした気分でやりきれない時には、手慰みに新しいドレスのデザイン画を描いたりするが、それもごく稀なことだった。…尤も、今ではこのデザイン画だけが、彼女を過去と結びつけるよすがであるのだが。

ある日、自室の中で1匹の蚕が這っているのを見つけた彼女は、顔をしかめた。大抵の女性は芋虫が嫌いだ。彼女も、どこかしらから迷い込んだ蚕を不機嫌に捨ててしまう。ところが、彼女の身に妙な異変が起こるようになったのは、それから間もなくのことだった。

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ひとときのまどろみから目覚めると、腕に何かが這う気配が。…また蚕だ。一体どこからやってくるのか見当もつかない。何かがおかしい。家の中で、得体の知れない存在が蠢きかけている気配がする。

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眠りに引きずり込まれるようにまどろんだ後、彼女の違和感と不安は現実のものとなった。どれだけ意識を失っていたかも分からない。彼女が眠っている間に、その身体全体に糸が幾重にも張り巡らされ、繭のように彼女の身体を覆っていたのだ。そして、異変は彼女の身体だけではなく、家の中でも起こっていた。ありとあらゆる場所に蚕が大量発生し、彼らが吐き出した絹糸で家が覆われてしまいそうだった。

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彼女はあまりの光景に驚くが、ふとその柔らかな手触りの糸を手にとってみて、別の思案に暮れる。家を蚕に占拠されている状況は、確かにあまり気分のよいものではないが、見方を変えれば、高価な絹糸がこれだけ大量に手に入ったということ。彼女は常々頭の片隅にあった新作ドレスのイメージを呼び起こす。試してみるべきではないか?前々から思い描いていたドレスを作るチャンスだ。彼女は昔ながらの糸車で丁寧に絹糸を紡ぎ、美しい絹布に仕立てあげた。

ここ数年間の鬱屈が嘘のように、彼女は昔さながらの情熱に背中を押されるまま、一心不乱にドレスを縫い続ける。自分だけの、世界に一着しかない特別なドレス。誰もが振り返ってその顔を覗き込まずにはいられないほど美しかった昔、彼女は彼女にしか着こなせないドレスを縫上げ、それを身に着けて蝶のように社交界を舞ったものだった。若かりし頃の華やかな思い出に浸りつつ、彼女はついに新しいドレスを完成させた。

質素な服を脱ぎ捨て、色鮮やかな絹のドレスに裸の腕を通そうとしたとき、彼女は再び身体に異変を覚えた。顔の皮膚が取れてゆくのだ。ずるずると、まるで脱皮する生き物が古い殻を脱いでいくように、彼女の身体中の皮膚が剥がれ落ちていく。彼女は今度こそ恐怖のあまり失神した。

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どれぐらい時間が経っただろう。身体から剥がれ落ちた古い皮膚の山の中から、彼女はよろよろと立ち上がった。真っ先に覗き込んだのは鏡台。老いてからはあえて見ないようにしていた鏡だが、今は緊急事態だ。真実と向き合うのは恐ろしいが、自分の身体に何が起こっているのか、この目で確かめねばならない。

だがしかし、鏡に映っている彼女の姿は、気を失う前の異様な事態よりもさらに予想外のものだった。今や古い写真の中でしか見られないはずの、若い頃の彼女自身だったのだ。黒々とした艶やかな髪、皺一つない美しい顔、女性らしいラインを保った柔らかな身体。老化と病のためにやせ衰え、顔は皺だらけ、薄くなった白髪の哀れな老女はどこにもいない。文字通り、老いた彼女は“脱皮”していたのだ。彼女は信じられない思いで鏡の中の自分の姿に見入る。老いという現実を受け入れるため、二度と自分の元に戻ってくるはずもないために封印した、過去の自分自身の美貌と若々しさ、生命力への未練。それが、昔と寸分違わぬ正確さで、今現に自分の肉体に甦っている。

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若返った彼女は、嬉々として新しいドレスに身を包んだ。若く美しい姿ならば、なおのこと似合うだろう。漆黒の髪も綺麗に梳かしてまとめ、彼女はゴミ箱に放り込んでいた未開封の招待状を手に取った。遠い昔、毎日のように聞いていた社交界の人々が集うざわめき。囁き声、笑い声、彼らが纏う着物の衣擦れの音、酒の入ったグラスが軽く触れる音…。大勢の人間が醸し出すざわめきは少しく浮き足立った、楽しげなものだった。蝶のドレスと共に彼女がそこに現れたら、人々はどうするだろうか。長い間社会から離れてひっそりと生きてきた彼女の姿を見て、ざわめきはぴたりと止むに違いない。招待状を開封しよう。家を出て、懐かしい皆に会いにいこう。外はきっと明るい日差しが降り注いでいるはずだ。玄関のドアからこぼれおちる陽光は、彼女の心を一層奮い立たせた。

彼女は外に出る前、いつもの習慣で、身だしなみの最終チェックをするために玄関の鏡をふと覗いた。

その時、彼女は悟ったのだ。自分が体験した異様な出来事は、全て幻であったことを。

鏡の中に映る自分は、やはり白髪のやせた老女であった。

今までと違うところがあるとすれば、それは、完成したばかりの美しい蝶のドレスを纏っていることだけ。

だがそれでも、彼女は悲嘆に暮れたりはしない。

おそらくもう二度と、過去の思い出に拘泥するあまり現実を否定する愚行は犯さないだろう。

彼女は、一瞬強張った口元にゆるやかな微笑みを浮かべる。鏡の中には、黒髪の妖艶な美女ではなく、柔和な表情で穏やかに微笑む老女がいた。彼女は美しいドレスを着て、これから懐かしい面々に再会するために出かけるのだ。彼女は、今ようやく、自分でこしらえて閉じこもっていた大きな繭から外に出ようとしていた。

―・―・―・―閑話休題―・―・―・―

新作映画を観ていて最近特に実感するのは、未知の映画に接し、それを評価するにあたり、他人の意見に自分の意思を委ねてはいけないってことですね。自分の目で見て、自分の気持ちに正直に作品に触れ、自分がどのように感じたかを、自分の言葉で考えなきゃダメだと痛感します。特に、FacebookやTwitterなどのお手軽な情報ツールにどっぷり浸る状況にいると、危機感すら覚えますね。

これらのツールでは、例えば映画なら、様々な映画に対する感想が毎日毎日大量に出回ります。日頃このようなツールを利用していると、大量に発信される情報を自動的にふるいにかけ、“高評価”がいくつ、“まあまあ”がいくつ、“低評価”がいくつ、と単純計算した結果、その作品の評価を決定する癖がついてしまいます。尤も、今世界中に乱立する“映画批評サイト”なるツールも、結局は同じ統計に基づく理論であって、“評価する”ことの難しさをここでも思い知らされますね。

だいたい、多岐のジャンルにまたがる映画たちを一律に点数で評価すること自体、やはり無理があるでしょう。観客が作品を選ぶ際に、何らかの指標を立てないといけないこと、それが一番分かり易く可視化できるのは点数だとか星の数であるのは充分理解していますけどね。映画に限った話ではないのですが、このような“統計評価”を、完全に客観的なものとみなしてよいのか、私にはなんとも言えません。

これは私自身も経験があるのですが、統計評価や有名批評家が駄作の烙印を押した作品でも、自分の目で観る前から“ゴミ箱リスト”に放り込んでその作品を観る機会を失ってしまったら、大抵後悔する羽目になります。“統計”が観客の持つ繊細な感性の違いまで見分けるわけではないし、批評家とて人の子、所詮は自分の好き嫌いを判断の基準にしているに過ぎないんです。映画産業はギャンブル要素の大きなビジネスだといわれますが、毎年星の数ほど製作される映画の中で、自分が気に入った作品と出会うこともまた、一種の賭けですよね。ならば、自分の目で見て面白いと感じる映画を大事にしましょうよ。他人がそれを批判しようが褒め称えようが、関係ないと思います。

話を「Caterpillar」に戻しましょう。

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このショートフィルムは、18世紀後半に建てられた石造りの歴史的邸宅Wynkoop Houseで撮影されたそうです。そのせいか、映像全体がセピア色の霧で覆われたかのような、落ち着いた佇まいの中にノスタルジックな雰囲気が加味されていますね。その背景から醸し出される柔らかながら寂しげに沈んだ色調と窓から差し込む光が、画面に鮮やかな光と影のコントラストを作っているのが印象的です。

また、スタッフの中には、大きな規模のメジャー映画で仕事をした経験のある者が多く含まれているため、無名の監督によるショートフィルムとは思えないほどのリッチな質感もあります。特殊効果や特殊メイクを担当したBen Bornsteinは映画「300」や「ザ・ファイター」のスタッフでしたし、同じくGreg Silvermanも映画「ブラック・スワン」のスタッフでした。さらに付け加えるならば、編集のCorey Bayesは「コンテイジョン」「インフォーマント!」「エージェント・マロリー」など、スティーヴン・ソダーバーグ監督の作品で知られています。

自身の強い“思い込み”が精神の変革のみならず、目に見える世界、ひいては己の肉体までも変容させてしまう異様なストーリーが、彼らの高い技術によって、より強烈な不安感と高い緊張感を獲得することができたのでしょう。自分の身の回りで得体の知れない変化が起こりつつあり、止めようもなく予想外の事態に引きずり込まれていくという展開は、サスペンス映画では定番ですが、そこに“肉体の変容”というホラー映画的要素を組み合わせた語り口は、「ブラック・スワン」を思わせます。
しかし今作では、悲劇的結末を予想する大方の観客を裏切るラストが用意されており、無駄のない描写を畳み掛けて頂点に達した緊迫感が、空中にふわりと霧散してゆくような感慨がありますね。この、古ぼけた館のくすんだ色合いに沈む、1人の女性の寒々とした孤独感が、ラストシーンで光に溢れる外の世界へと昇華していく流れには、ある種の美を感じずにはいられません。

また、老醜を恥じる主人公の執着である“若さ”と“美(容貌のそれのみならず、美しいドレスなども含む)”を、美しい絹糸を吐き出す醜い蚕に重ね合わせて恐怖感を煽るのは、なかなかシニカルな趣きです。ですが、若返りたい、もう一度美しかった頃に戻りたいと願うあまり、蚕のように自らも古い皮を脱ぎ捨てて実際にトランスフォームしてしまう(主人公が現実だと思い込んでいる世界では、ですが)絵を、やりすぎだと感じる人もおられるかもしれませんね。この作品では映像に映っている世界は、全て主人公の目を通じて見えているものです。つまり、老女の主観がそのまま映像になっているわけですね。
孤独な老女の単調な生活というリアルそのものの情景に、どこからか家に入り込んできた蚕同様、悪夢のような異様な変化がひたひたと染み込んでいく前半部分の不穏さを思い起こせば、孤独に精神を侵され過ぎた老女が、夢を現実だと思い込んでしまった結果の後半部分の展開が、そんなに不自然には感じられないはず。

老いや病いといったものは、人間として生きる以上、避けられない運命です。誰だって老いぼれたくないし、病み衰えたくもない。それでも、死を迎えようとしている肉体を元に戻すことが出来ない以上、どこかで老いた自分、衰えた自分を受け入れてやらねばなりません。そしてそれが出来るのは、他ならぬ自分しかいないわけです。

若くて美しいことだけが、人生で、人の世で、最も素晴らしいことかというと、そうとも限りません。若さや美貌を判断の基準にするというのは結局、他人から見たあなたの見た目への評価だけを鵜呑みにしていることを指し、あなたの内面の充実といった要素は全く認識していませんものね。それでは、人の生き様を判断するに片手落ちだと思います。

若かろうが、老い衰えていようが、要は、その時の自分の力で可能な限り、最善のことを目指せばいいだけではないでしょうか。常にそうした気持ちを保持していれば、人生のたそがれ時に絶望する必要もありませんしね。それに、私ら人間が、短い一生の間になし得ることには自ずから限界もあります。ならば、この作品の老女のように、目に見えぬ繭にずっと閉じこもって時間を無駄にするのではなく、ドアの外に出て行って“今の自分にとって最善のこと”をするべきでしょう。


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