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zoom RSS 生きるために踊れ―「Pina/ピナ・バウシュ踊り続けるいのち」

<<   作成日時 : 2012/05/15 10:46   >>

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人間の業を見つめる透徹したまなざし、他者との交流を愛情という形で切実に求めながら、結局それを得られないまま終わる人間の哀れな魂に、限りない慈愛を注ぐ表現…などなど。ピナ・バウシュという偉大な芸術家を表現する際に必ず用いられる常套句ですね。


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ピナ・バウシュが2009年6月に癌の告知を受けた直後に急逝した当時、ピナ自身が考案した“タンツテアター(ダンス・シアター)”という表現手法と、名匠ヴィム・ヴェンダース監督の持つ映画という表現手法を合体させ、一つの作品を製作する企画が進んでいたそうです。結局それはピナの急死によって頓挫しましたが、世界中から寄せられるピナの信者たちの熱望に後押しされ、ヴェンダース監督は、ピナが芸術監督兼振付家として率いていたドイツのヴッパタール舞踊団のダンサー達と共に、ピナの遺したダンスの真髄を伝える映画を作ろうと決意します。

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しかし、彼女が目指したところの“ダンスと他のすべての芸術形態との融合と、その変幻自在なる進化”を平面的な映像で表現するのは難しく、監督は大胆にも3Dを導入することでこの難題をクリアしようとします。ピナの足跡がわかるように、彼女の代表作「カフェ・ミュラー」「春の祭典」「フルムーン」「コンタクトホーフ」をヴッパタールのオペラハウスに観客を入れた状態で、ダンサー達のすさまじいパフォーマンスの音、彼らの荒くなっていく呼吸、飛び散る汗までが生々しく感じられる至近距離でライブ撮影し、舞台に巨大な岩石や土、果ては廃墟を据えたり、絶えず雨を降らせたりといった趣向を凝らすことで、屋内のステージに屋外の自然の息吹を取り入れていたピナの意志を汲み取り、ヴェンダース監督はダンサー達を連れて、ついには劇場を飛び出していきます。

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モノレールの中や高架線下、工場、プール、現代建築のロビー、遺跡、あるいは森や庭園、浜辺といった、戸外の思い思いの場所で自由にソロパフォーマンスを披露するダンサーたちを、空間の奥行きや広がりを充分捉える3Dカメラが追っていきます。ステージの制約から解放された彼らのダイナミックなパフォーマンスは、まさしく生前のピナが目指した“ダンス”のひとつの極点であろうと思われますね。

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最終的に、ピナの人生そのものであったヴッパタール舞踏団の体現する“タンツテアター(ダンスと演劇、他のアートを融合させたものであり、かつ、そのうちのどれにも属さない独特の芸術形態)”を、3D映像として記録する映画となった「Pina/ピナ・バウシュ踊り続けるいのち」は、純然たるピナ・バウシュの伝記映画とは言い難いかもしれません。在りし日のピナの発言する映像であるとか、あるいはダンサー達に指導するアーカイヴ映像といったものは、全編のうちでほとんど登場しません。“ピナ・バウシュ”という一人の人間の生き様は、彼女の遺志を受け継いだ舞踏団のダンサー達一人一人の力強いパフォーマンスと、彼らが言葉少なに語る、偉大なメンターであったピナへの尽きせぬ思いによって表現されるのです。本編には、「カフェ・ミュラー」や「フルムーン」といった名作が完成するまでの興味深い裏話も飛び出します。タンツテアターの真髄を、ヴェンダース監督なりの解釈で映像にコラージュしつつも、映画はさながらバックステージもの特有の、大勢の人間による人生群像劇の様相も呈していきます。

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映画冒頭とラストは、世界中から集まってきた国籍も年齢層も様々なダンサー達が一丸となり、冒頭で披露されていた「春の祭典」のステージを出て、廃墟の果てのような乾いた大地を踊りながら歩いていく、シュールなシーンでまとめられました。この、ヴェンダースの意匠による、“タンツテアターのびっくり飛び出す絵本”といった趣向のダンス・ドキュメンタリーは、不思議な円環を描きながら永遠に続いていくような錯覚にさえ陥りますね。また、ピナ・バウシュのコンテンポラリー・ダンスの名作群を知らない観客にとっては、もっともっと彼女の創造世界を深く知りたいという欲求を掻きたてるであろう、良きガイドにもなっていたと思われます。

“言葉にならない感情って絶対にあると思う。それを表現することが、ダンスの出発点だわ”―ピナ・バウシュ

ピナ・バウシュのことも、彼女が一大変革をもたらしたコンテンポラリー・ダンスの世界の歴史もよく知らない私にとっては、この作品から感じ取れる“第六感”とでも呼びたい感覚こそが、彼女を理解する手がかりの全てでした。

彼女自身はドイツ人で、バレエダンサーとしての訓練もドイツで積みましたが、ヴッパタール舞踏団のメンバーは、国籍も言葉も文化も年齢も皆バラバラ、それぞれにまるで異なるバックグラウンドを持つ人間が集まって構成されています。ピナの仕事とはつまり、共通点はあまりないと思われる彼ら全員と対話を交わすことで、彼らの中に眠っている普遍的な感性を探り出し、丹念に選り分け、それを世界中の人々が共通して理解できる唯一の言語、すなわち“ダンス”に翻訳する、ということだったのではないでしょうか。

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ピナが生み出した、彼女独特の“ムーヴメント(動き)”を見ていますと、何かこう、ある完成された“美”の様式を再現するのではなく、私達が普段心の中に抱いているいろんな感情…楽しい、悲しい、怖い、怒る、寂しい、心地よい、苦しい、愛しい…等々を、身振り手振りで観客に伝えることを目指しているのかなあと思います。ピナ自身は彼女のダンス芸術をシンプルに“タンツテアター(演劇的ダンス)”と呼んでいましたが、ただ単純に、いわゆる演技のメソッドをダンスに取り入れたということではなく、感情を表現するのに日常的に使われる動作、コミュニケーションのために自然に為される動作から、それを発展させて“ダンス”に膨らませたとみた方がいいでしょう。

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そう、ちょうど、子供の“理屈抜きの自由闊達な動き”を再現したような感じですね。子供が日常で見せる動作なんて、どれも意味があるようでないものばかり(笑)。大人の屁理屈で説明できることじゃないんです。彼ら子供達は、ただ飛び跳ねてみたいから飛び跳ねるのだし、ただ走ってみたいから突如走り出すのだし、ただ転がってみたくなったからゴロゴロ転がるのだし。ですから、ピナの目指す“ダンス”は、大人になってからそれをやろうとしても、簡単に出来ることではないのでしょう。

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むしろ、完全に幼少期の魂の自由を失った大人になった状態で、それを再現するからこそ、鍛え抜かれたプロフェッショナルなダンサーたちの力量が必要なのだと思いますよ。ヴッパタール舞踏団のダンサー達を見ていると、ピナが彼らに要求するものは、ただ単に訓練を積めば得られるのではないと分かります。ダンサー達自身が持っている既成概念の殻を、自ら打ち破る決意と精神力が必要なのではないでしょうかね。

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判で押したように、“慈愛の〜云々”と表現されるピナの作品世界ですが、一つ一つの振り付けを注意深く見ると、むしろ性の匂いを実感させる生々しい表現と、まさしく“言葉にならない”激しい感情のマグマをぶちまけたような表現に、目を奪われます。実際、彼女の初期の作品の中には、かなりきわどい暴力表現もみられたようで(1976年の「七つの大罪/怖がらないで」におけるレイプシーンや1977年の「青髭」における拷問とも捉えかねられないシーン)、それはこの映画で取り上げられた名作群の中にも、大なり小なり息づいている感覚だと思います。個人的にとても興味を持ったのは、それらの、“慈愛”とは正反対ともいえる痛みと怒り、絶望といった負の感情を極限まで解放し、躍動する肉体によって表現しきってしまうピナのダンスの可能性ですね。ピナの作品に、人間性への慈愛の感覚があるとすれば、それは、全ての負の感情を我がものとし、それらと闘って打ち勝ち、死への恐怖すらも突き抜けたからこそ到達できる、解脱と同じ境地だといえるでしょう。

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もう一つ、ピナの作品世界に触れて感銘を受けたのは、彼女のダンスから、思わず吹き出してしまうようなユーモアが多々飛び出すこと。古典的な作品の踊りのように、主役はどこまでも主役らしく振舞い、いわゆる2枚目半的な“お笑い”はそれを担当する別の役柄が固定されているわけではないように感じました。どんなキャラクターでも、喜怒哀楽全ての感情を網羅し、それぞれの場面にあわせてシリアスに踊ったり、陽気に踊ったり、万華鏡を覗くように鮮やかに変転していく人間の感情を、見事にトレースしているのです。
レトロなダンスホールを舞台に、大勢の男女がユーモラスに群舞する一風変わった作品「コンタクト・ホーフ」(1978年)では、既に完成した作品の再解釈も自由で制約など設けないピナらしく、2000年には素人の高齢者だけで構成されたグループで公演が行なわれました。また、日本ではこの映画と同時期に劇場公開された「ピナ・バウシュ/夢の教室」では、これまた全く素人の、ピナのことも全然知らないようなティーン・エイジャー達で再演された「コンタクト・ホーフ」の模様が紹介されています。この映画でも、ヴッパタール舞踏団のメンバーによって演じられていたとおぼしき「コンタクト・ホーフ」が、カメラが切り替わった瞬間に、見たこともない老人の顔に変わっていたりというトリックが多用され、過去に「コンタクト・ホーフ」が素人集団によっても再現されたことを暗示していました。

つまりピナの作品は、極論すれば、プロのダンサーでなくとも、あらゆるタイプの人達が自分のものとして体感できる芸術なんだといえるのでしょうね。

ならば、このわたくしめも、ピナの世界のほんの一端でも感じ取れるのではないか?ダンスが言葉に出来ない感情を発信することから始まるのなら、彼女の世界観を理解するには、自分も同じように舞ってみるしかないだろう!

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実践あるのみ!とぉーっ!!ピナが現役時代に感じていたかもしれない“無重力”の感覚。彼女が舞った空間が、人々に誤解をもたらす“言葉”もない、さらには重力や肉体の重みすら忘れられる場所だとしたら…。それはまさしく、ピナのようなダンサーのみならず全ての人間にとって、等しく桃源郷となるでしょう。

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どすこーい!

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ヴッパタール舞踏団のメンバーは、必ずしも若くてガリガリにやせ細ったダンサーばかりではありません。むしろ、オバチャン世代の中年ダンサー、しかも肉付きもしっかりしている安産型体型のダンサーが、軽やかにピルエットする姿がみられ、わたくしめ、心のそこから感動した次第です。

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本編中でも、舞踏団のベテランダンサーが、「ヴッパタールは年を食ってても必ず踊る役割が与えられるからいい。ベテランになれば、それだけ出来る可能性が広がったんだと感じられる」と証言していましたね。素晴らしいことです。ステージで踊るためには、骨と皮だけになるまでやせ細らねばならないだの、30過ぎたら即お払い箱になってしまうだの、悪しき強迫観念を助長するのはけしからんことです。

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ぐえ。 …ま、しかし、いくら可能性があるからといっても、身の丈に合わぬチャレンジは控えた方がよろしいでしょうね…

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フェデリコ・フェリーニ監督の「そして船は行く」(1983年)にピナが出演しています。


そして、愛する女性とのコミュニケーションの断絶の絶望を描いたペドロ・アルモドバル監督の「トーク・トゥ・ハー」(2002年)では、そのテーマを暗示するかのように、冒頭でピナ自身が「カフェ・ミュラー」を踊る様子が収められています。「カフェ・ミュラー」は、現代人の“ディスコミュニケーションの哀れ”を、人気の無いカフェの中で繰り広げられる不毛な男女のやり取りによって符号的に表現したもので、非常に観念的な内容ながら、ヨロヨロとめくら滅法に走る女性と、その道筋から椅子をどけつつ、必死に彼女の後を追いかける男性の姿が“一方通行なコミュニケーション”を象徴していて、見ていて悲しくなる作品です。

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ピナの解説本として有名な「ピナ・バウシュ―怖がらずに踊ってごらん」の表紙にも、彼女が踊る“カフェ・ミュラー”の一場面が使われています。

Tanztheater Wuppertal - Pina Bausch

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