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zoom RSS 「高野聖 Koya Hijiri」ーシネマ歌舞伎 Kabuki in cinema。

<<   作成日時 : 2016/04/18 23:41   >>

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“シネマde歌舞伎”をはじめ、コンサートや他の演劇を映画館で見るという習慣も、今やすっかり根付いた感があります。そんな中、坂東玉三郎 Tamasaburo Bando氏が泉鏡花の幽玄の世界を体現した「高野聖 Koya Hijiri」を数年前に映画館で見た時の衝撃は、やはり筆舌に尽くしがたいものがありました。私のつたない言葉では到底表現できないこの感覚を、皆さんにもぜひ味わっていただきたいですねえ。

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およそ4年前、朝一の上映で観た「高野聖 Koya Hijiri」。坂東玉三郎氏が贈るシネマ歌舞伎第三弾として上映されました。歌舞伎の世界の門戸を、広い年齢層に開く目的を担うと同時に、玉三郎氏と原作の泉鏡花の夢のコラボレーション企画でもありましたね。この「高野聖 Koya Hijiri」は、玉三郎氏の三つの作品のうちで、私が最も興味をもっていた舞台。スクリーン越しとはいえ、ようやく実際に対面できて感激でした。

シネマ歌舞伎第一弾「天守物語 Tenshu Monogatari」のブログ内記事はこちら
シネマ歌舞伎第二弾「海神別荘 Kaijin Bessou」のブログ内記事はこちら

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信濃を目指し、険しい山道を急ぐ若い修行僧が一人。13年前にこの付近一帯に大洪水が起こり、今だに本街道は水浸し。隣に見える獣道は、50年前まで使われていた旧街道だという。どちらの道をとるか、僧は躊躇するが、地元の人間が忠告するには、先を急ぐならば水浸しになっても本街道を行くべきで、獣道の先は妖怪の類が出ると気味の悪い噂が立っているらしい。僧は、先ほど道すがらいいようにからかわれた富山の薬売りが、さっさと獣道を行ってしまったのが気にかかる。恐ろしい場所に通ずるなら、なおのこと薬売りの後を追って連れ戻してやらねばなるまい。意を決した僧は獣道を進んだが、大量の蛇やヤマヒル、蝙蝠など気味の悪い生き物に襲われ、ほうほうの態であるあばら家にたどり着いた。
荒れ果てた山奥に建つ粗末な一軒屋。そこにいるのは、ものも言わず、ただぼんやりと前を見やる若い男と、目の覚めるような美女だった。まるで場違いのような見目麗しい女に、僧は下へも置かぬ丁重なもてなしを受ける。汗をかいた僧の背中を、女自ら清水の流れを掬って流すに至っては、女の柔肌という僧にとって最大の戒律への試練が降りかかる。寸でのところで女のあからさまな媚から逃れた僧は、女と共に家へ戻るのだが、その道中奇妙な出来事を目撃する。どこらともなく現れた猿や鳥、蛙、昆虫が、彼女の身体に絶えずまとわりついてくるのだ。その違和感は、僧が戻ってきた姿を見た老下男がびっくり仰天した様子によって、さらに不信感へと変ずる。家に繋がれていた馬が、はっきりと僧を見て、猛々しく暴れる。それは何故なのか。そして先に獣道を行ったはずの富山の薬売りは、一体どこへ消えたのか。疑惑は僧の心に恐怖を生むが、彼は高野山の教えを頼りに女の心づくしの夕餉に向かうのだった…。


もともとは短編小説であるこの摩訶不思議、そして人間の業の痛みを痛烈に感じさせるシニカルな密室劇。玉三郎氏は、舞台がはねたあとの静まり返ったステージにカメラを持ち込み、演技する役者の表情をクローズアップで撮影したり、野外でロケ撮りした映像を巧みに交錯させて、鏡花独特の遠近法が曖昧な世界観を映像に移植しました。初めて原作小説を読んだときに残った、なんともいえないほろ苦い後味と、人の世と人でない世界の境界線を彷徨った夢から醒めたような、いたたまれぬ驚きの板挟みを思い出しましたね。

舞台は不気味な生き物が蠢く荒れた山奥ですが、描く対象に異様に接近して語られる緊迫したストーリーのせいで、息詰まる様な居心地の悪さすら覚えます。玉三郎氏は、その辺りの微妙かつ繊細な空気を壊さぬよう、細心の注意を払って編集作業を行ったのでしょうね。鏡花作品に付きまとうミニマム感覚は舞台上へのクローズアップで、人にあらざる者が跋扈する暗黒世界の奥行きは、ロケ映像や舞台全体を見渡せるような俯瞰カメラ、光と影の対比が恐ろしくも美しい照明などで立体的に表現し、違和感を最小限に抑えつつ融合させる…。原作者の鏡花も考えつかなかったような方法で、“小説の世界”と“舞台の世界”という、本来次元の異なる二つの世界をうまく融合させていたと思います。
この「高野聖」に関しては、玉三郎氏による鏡花世界の解釈論が更に進化を遂げ、もはや“舞台”という制約すら取り払われた、自由闊達な精神世界へと昇華しているように感じました。歌舞伎であるか否か、なんて、玉三郎氏と鏡花が融合したえもいわれぬ世界では、本当に些細な問題に過ぎませんね。

そう、このお話のテーマに、相反する二つの要素が絶えず比較され、厳しく選択を迫られるということがあります。まあ、人間が生きることすなわち、なにがしかの選択の連続だといえるわけですが、この作品では、それが己自身の哲学と生命の存在意義を揺るがすほどの重要性を帯びるのです。
例えば、玉三郎氏が体現する女性の聖性(母性)とふしだらな邪性、若い修行僧が揺れ動く自律心と官能への甘い誘惑、不思議な女の人智を超えた美と、暗闇に蠢くおぞましいヤマヒルや蛇、愚かな猿どもなど。それら両極端な要素の間を、主人公の修行僧と一緒に行きつ戻りつしながら、観客も最後には、この物語の目指す“人間の業”の不条理と哀しみに辿り着くのですね。
物語の最後、女に長年仕える老いた下男の口から語られるのは、無垢な“聖”女そのままであった女が味わったとてつもない喪失と孤独、それら残酷な運命を経た彼女が、文字通りの“魔性”に変貌してしまったやるせなさです。玉三郎氏自身は、この不思議な女のキャラクターについて、“自我”を失った、透明で細波一つたたない水面のような人間だと分析しておられました。つまり、相手がこうあって欲しいと願うその理想通りの女を演じられる、という意味ですね。

聖性と魔性は表裏一体のもの。聖女(人)であった人間が、なにかのきっかけでその持てる力を暗黒面に向けて放出してしまえば、とんでもない化け物が生まれましょう。想像するに、荒れ果てた山奥で人目を避けるように生きる女は、既に魔性に変じてしまっていたのでしょうが、純粋な修行僧の心根の優しさにほだされ、ほんの一時、昔の聖性を蘇らせたのではありますまいか。色好みの汚濁にまみれた魔性ではなく、本来の彼女がそうであり、今もなお心のどこかに留まり続ける“心優しい生き神様のようなお嬢様”を。彼女は、修行僧だけには、聖女としての自分の姿を覚えておいてもらいたかったのでしょうね。

皮肉なものです。もし修行僧が信仰に篤い人間でなかったら、彼はおそらく彼女のもとに留まり、共に山の中で暮らしていく選択をしたでしょうに。まあしかしながら、彼がそんな人間なら、女の魔性によって直ちに虫や動物に変じられるというオチも同時に付いてきますがね(笑)。修行僧が、女の手に入らない清らかな存在だったからこそ、彼女は彼を生かしておく気になったのです。この男女は、精神の深いところで惹かれあうものがあっても、所詮は夫婦にはなれない運命だったのでありますよ。人と人の間に結ばれる絆は、時に不条理なる運命をそれぞれの人生に与えてしまいます。

聖女であり魔性の女でもある、全ての女という生き物の象徴を演じた坂東玉三郎氏に、心からの感嘆を。そして、近くてとても遠かった歌舞伎の世界を、私たちの側に引き寄せてくださった偉業に感謝を。「天守物語 Tenshu Monogatari」では陽気で豪快な赤鬼を演じて、見応えのある舞姿で楽しませてくれ、「高野聖 Koya Hijiri」では心優しい善良な僧侶を、朴訥とした雰囲気で涼やかに演じ切った中村獅童氏に拍手を。「海神別荘 Kaijin Bessou」では、公子に仕える爺やを愛嬌たっぷり朗らかに演じて場を和ませ、「高野聖」では、女主人の秘密を唯一知る者として物語のキーパーソンになると同時に、人間の業の深さを知り尽くしてしまった哀しみを一身に負う老人を名演した、中村歌六氏にも盛大な拍手を。
思えば歌六氏には、「海神別荘」でも「高野聖」でも長い長い台詞を一人でしゃべる見せ場がありました。特に「高野聖」における氏の役割は、女に関する一種の謎解きを行い、バラバラになったパズルのピースのように描かれてきた摩訶不思議な出来事の裏に、どんな真理が隠されていたのかを、修行僧と観客に悟らせること。氏が演じる老下男の最後の台詞を聞いて初めて、私たちは修行僧と共に、この寓話の持つ普遍的なテーマを咀嚼することが出来るのです。つまり、氏は大変重要な役割と場面を任されたわけで、責任重大。ベテランらしい手練れの隙間に、知らずともよいことを図らずも知ってしまった人間の忸怩たる思いを滲ませ、見事でありましたな。修行僧が、女の妖しくも静謐な世界に石を投げ込んで起こった波紋が、この「高野聖」という物語ならば、老下男はその波紋による変化を止め、水面を元のように戻す守り人のような役回りだったのでしょう。

坂東玉三郎氏と泉鏡花の、時代を超えたコラボレーション作品をスクリーンで観られるのは、この「高野聖」でいったん終了いたしました。これでお終いかと思うと、本当にお名残惜しゅうございますねえ。松竹によると、歌舞伎の舞台をスクリーンで上映する試みは、これで17回目を数えるそうです。
今回、「天守物語 Tenshu Monogatari」「海神別荘 Kaijin Bessou」「高野聖 Koya Hijiri」と、歌舞伎の世界のほんの入り口付近を少しだけ覗かせてもらった感想は、“これで終わりにするのではなく、今後も継続して、映画の世界と歌舞伎の舞台の世界の橋渡しをして欲しい”という、観客の我侭なおねだりでありました(笑)。私が観た映画館では、やはり観客の年齢層は非常に高かったものの、中にはちらほらと若い人たちの姿も見えたんですよ。この試みを続けることは、必ずや歌舞伎という伝統を守ることにもつながるでしょう。

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歌舞伎の灯を消えないように守るためには、歌舞伎界も、それを受け入れる私たちの方も、学ばねばならないことはたくさんあります。シネマ歌舞伎を観賞してみて、自分自身の歌舞伎への理解度、知識が圧倒的に足らないことを改めて痛感しました(笑)。自分の国の文化を代表するものを知ることは、自分自身のルーツを理解すること。“温故知新”は、折にふれ、自覚しなければいけないですねえ。


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「高野聖 Koya hijiri」
泉鏡花 Kyoka IZUMI 作



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