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zoom RSS 異形の美がたどり着いた楽園―「海神別荘」(Kabuki in Cinema)

<<   作成日時 : 2015/11/07 15:18   >>

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坂東玉三郎 (Bandou Tamasaburou)氏による、シネマ歌舞伎第2弾「海神別荘」の巻。「天守物語」より、ゆるやかに続く。

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これから「海神別荘」を映画館で見ます。泉鏡花ならではの捻れたハッピーエンドまで見届ける所存です。

先日観た「天守物語」にも、そしてこの「海神別荘」にも、鏡花作品に通底するテーマー“異界、異形への強烈な憧れと、それらとの完全なる融合こそ幸福”ーがみられます。その屈折した美意識の頂点を極める作品が、「天守物語」であり「海神別荘」なのでしょう。

それではまた、無事に生還出来たら(笑)、後程。


…生還しました(笑)。
引き潮のように彼方に引いていた血の気も無事に戻ってきましたし(笑)、なんとか生きてます( ̄▽ ̄)。お天道様、ありがとう。

さて。

「海神別荘 Kaijin Bessou」(平成21年7月歌舞伎座公演)
原作:泉鏡花 Izumi Kyoka
演出:戌井市郎、坂東玉三郎
美術:天野喜孝
出演:坂東玉三郎(美女)
公子(市川海老蔵)
沖の僧都(市川猿弥)
博士(市川門之助)他。
ハープ演奏:朝川朋之

地上から1人の美女が、白竜馬に乗って海底宮殿、琅かん殿に向かっていた。琅かん殿の主であると同時に海の世界の王子たる公子に、輿入れするためである。公子は、恋焦がれた美女がようやく自分のものになるのが待ちきれず、博士や沖の僧都と語らいながら彼女の到来を待つ。ようやく到着した美女を、公子は酒や優しい言葉でもてなすが、美女の方は、公子の権力に感嘆しつつも地上のふるさとへの未練を捨てきれない。短気で辛気臭い事が大嫌いな公子は、憂い顔の晴れぬ美女に機嫌を損ねる。一度だけという約束で美女を地上に帰してやるも、彼女はもはや人間ではなくなり、人間の目には白蛇にしか見えなくなってしまっていた。悲嘆に暮れ、海の世界も公子の愛情も全て拒絶する美女に、公子はその望みどおり剣を向けてやったが…。


「天守物語」では、天守夫人と図書之助の短いやり取りの中で、作者の鏡花自身が持つ旧来のモラルや定説への異義が語られていました。今回の「海神別荘」では、海底世界のプリンスこと公子の台詞の中に、鏡花が信ずるところの独自の哲学がビッシリ埋め込まれていましたね。公子の口を借りて、鏡花先生、大いに語りき。

面白かったのは、海の博士が講じたお七(江戸の町に放火して恋しい男と出会おうとした娘)などの、地上の世界で罪人として処刑された哀れな女達に対する公子の解釈。旧弊なモラルでは禁忌とされる彼女達の魂を、美しくも尊い、褒め称えられるべきものだと言い切る、その柔軟な発想ですね。若くして処刑され、肉体が滅んだということは、老醜を晒さずともよいという意味で逆に喜ばしいものではないか。お七の純粋無垢な魂は公子の姉によって海の世界に導かれ、重い肉体を脱ぎ捨て、海の世界で永久の輝きを放つ宝石となり、逆に彼女があれほど恋焦がれた男の魂は、海に沈むやすぐにクラゲに姿を変え、永遠に海底をさまよう羽目になった、と。

常識の真逆をゆくこの考え方こそ、鏡花が最も言いたかったポイントであり、それが異形の世界(今作では海の世界)でしか通用しない歯がゆさのようなものが、人身御供として地上からやってきた美女のかたくなな様子に表れているとみえました。今作の背骨は、この公子の開陳する哲学と、最初はそれを全く受け入れず、理解すら出来なかった美女が、最後にようやくそれを理解して公子の律する世界と和合するクライマックスでしょう。

玉三郎氏演じる美女―海の金銀財宝に目が眩んだ父親によって、海の神(公子)に人身御供にされた―は、今回はかなり見栄っ張りで強情、その愚かなる部分も含めて実に人間くさいキャラクターでしたね。ある意味大変リベラルでナイーヴ、ロマンチストな公子と好対照でした。「海神別荘」の真の主人公は市川海老蔵君演ずる公子です。彼は再三にわたって美女を諭します。

「人間の目には(大切なことや真に美しいものは)なにも映らない。いや、見えないのではない。見ようとしないのだ」

現世には、真の美なるものと、徹底して醜悪なるものがあり、それを正確に見分けられるのは、卓越した能力をもった限られた存在だけだとする鏡花の主張がにじみ出ていますね。彼は、それは自分も含めた芸術家や、一芸に秀でた者だけだと暗示しているわけですが。

「天守物語」「海神別荘」と続けて、玉三郎美学と鏡花美学の融合する様をスクリーンで見せてもらいましたが、察するに、異形の身の上に“美”を見出す鏡花美学を顕著に光輝かせたのは、他ならぬ玉三郎氏だったのではないでしょうかね。

では、なぜ玉三郎氏でなければならないのか、その理由は?もし間違っていたら申し訳ありませんが、玉三郎氏自身もまた、“異形の美”を持っておられるからだと思います。男性でありながら、この世には存在しない“究極の女性美”を完璧に体現する彼は、常識の支配するこの堅苦しい社会では、十分に異形の存在です。そして、伝統という硬い甲羅に覆われた歌舞伎界にとっても、その甲羅をいともたやすく剥がしてみせる彼は、やはり異形の才。二重にも三重にも異形であることすら、楽々と飛び越えてしまう、もはや存在自体が形容の仕様のない異形なのであります。だからこそ、玉三郎氏の演じる異形美は、正しく、鏡花の目指した美そのものであろうと想像できるのですね。

この「海神別荘」という舞台は、“歌舞伎であるか否か”という議論すら巻き起こしてしまったそうですが、無理もないと思います。玉三郎氏の手になる舞台世界が、歌舞伎の伝統芸を基礎にして、鏡花独特の美意識と氏自身の持つ哲学を吸収し、別の芸術形態に生まれ変わっているのですから。映画館の中にやってきたこの舞台も、背景に絶え間なく流れ続けるハープの伴奏、幻想的なイラストで知られる天野喜孝氏の美術といった異ジャンルの才能を貪欲に取り入れ、比肩することのできない美世界を構築することに成功しました。この画期的な試みは、前回の「天守物語」より、さらに進化したといえます。“歌舞伎か否か”などという無粋な論争は、絶対的な美世界の前ではもはや空しいだけでしょうね。

異形と幸福な融合を果たした美女は、その瞳に異形の世界の輝く美を映しとります。一歩足を踏み出すごとに、地上には存在しない妙なる色が、香りが、そして音楽が、彼女の身を包み込みます。人間の目には恐ろしげな地獄としか映らぬ世界が、異形の世界に飛び込んだ彼女にとって、この世のものでない楽園となったのです。これを悲劇と見るか、それともハッピーエンドと見るか。私たち観客が“どちらの世界”に属するかによって、結論は変わってこようと思います。

泉鏡花の戯曲は、ジャンルやカテゴリを蹴散らして、極北の地に粛々と立つ異形の塔と呼ばねばなりません。

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カナダの生んだこの鬼才もまた、“異形との融合”を生涯追求し続ける孤高の芸術家です。鏡花と相通じるところがあるような気がしてなりませんね。

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