House of M

アクセスカウンタ

zoom RSS この世とあの世を結ぶ橋―「ブリッジ The Bridge」

<<   作成日時 : 2017/10/08 21:11   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

最後に少しだけ追記しています。内容が内容ですので、暗い気持ちに落ち込みたくない方は読まないで下さい。ただちに回れ右し、AKB48の動画でも見て下さいな(笑)。


…再見しても、私自身の今作への基本的な評価は変わらなかった。いわく、“あまりにも整理されていない不器用な編集に、ドキュメンタリー作品として大いに問題あり”というもの。しかしながら、今作が自殺というタブーを扱った、おそらく最初で最後の映画になるだろうことは予想できる。それほど、様々な意味でショッキングな作品であるからだ。

画像

全長2790m、高さ230m、海までの距離66m。長大かつ荘厳なその巨大吊り橋ゴールデン・ゲート・ブリッジは、時折神秘的な霧と雲の背景を従え、サンフランシスコのみならずアメリカを代表する建築物である。年間900万人を超える観光客を集め、魅了するその美しい橋は、しかし一方ではアメリカ有数の自殺の名所であるという陰も持つ。都会から程近いロケーションにあること、歩行者がゆっくり散策を楽しめる歩道があること、またその歩行路には簡単に乗り越えられる柵しか取り付けられていないこと、そしてなにより、橋のかもし出す雰囲気がまだ見ぬ“天国”を連想させること…。そうした様々な要因が絡み合った結果だ。


“橋の向こうには、きっと別世界が広がっている。私はただそこに行きたかったのだ”

ブリッジ [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント
2007-11-22

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ商品ポータルで情報を見る

「ブリッジ The Bridge」(2006年製作)
監督:エリック・スティール Eric Steel
製作:エリック・スティール
製作総指揮:アリソン・パーマー・バーク
撮影:ピーター・マッキャンドレス
編集:ザビーヌ・クラエンビュール
音楽:アレックス・ヘッフェス

アラン・パーカー監督の「アンジェラの灰 Angela's Ashes」(1999年)の製作者として知られるエリック・スティール Eric Steelは、2004年から2005年にかけての1年間、ゴールデン・ゲート・ブリッジの両端に高度望遠レンズ搭載のハイビジョンカメラを設置し、橋を撮影し続けた。それまでにも2350名以上の尊い人命が失われていたというその橋の、“自殺の名所”としての顔を記録するためである。
今作は、その橋から美しい円弧を描いて落下してゆく人々の姿を映し出しながら、彼らがなぜ自ら死を選択したのか、遺された遺族や友人、偶然死の現場を通りかかった人などの証言を織り交ぜながら推測してゆく。いわく、“自殺”という行為の持つ意味、またその行為が周囲にもたらす計り知れない痛みを、この作品は真摯に提示しているといえるだろう。
次から次へと橋から飛び降りる人々の姿をありのままに伝える映像は、ことさら感情を抑えた冷徹な表現に徹している。しかし、巨大な橋そのものがこの世とあの世を結ぶ境界線のごとき様相であるために、逆に自殺を美化していると捉える観客もいると思う。まるで死の淵に吸い込まれていくように、橋に手招きされるように、抗いようもなく、為す術もなく人々は放物線を描いてゆく。そこには、ある種の高揚感すら漂うからだ。

画像

戦場カメラマンが常に晒されるジレンマ同様、死の模様を映像で見せてしまうことに対する倫理的嫌悪感、“自殺予備軍”への心理的悪影響、カメラを回す暇があったら自殺を止めるべきだという尤もな論理は、今作を必要以上に“衝撃的”たらしめている。だが、今作が提示する最も大きく、かつ恐ろしい問題点とは、実は自殺のシーンそのものではない。自殺者の周囲の人々の証言を連ねることにより、自殺者とその周囲との間には、結局埋めようのない亀裂があることに、いずれ観客が気づいてしまうことだ。遺された人々は、皆一様に悔恨の言葉を吐露する。「なぜもっと彼(あるいは彼女)を強く引きとめておかなかったのか…」と。それでも、やはり最後には、「私たちにはこれ以上のことはできなかったし、死んでいく人を止める手立てもなかった…」とその悔恨は締めくくられてしまう。要は、そういう結論に到達せざるを得ない絶望感こそ、今作の最も“危険な”側面であるのだろう。

結局今作の抱えるジレンマは、自殺のメカニズムを明らかにし、その要因を突き止めることで自殺そのものを抑止できるという希望を掲げながらも、それを実現するのは不可能なのではないかと暗示してしまう点にある。ドキュメンタリー作品としての、それが今作の限界点でもあろうし、また今作に及第点を与えられない原因でもある。スティール監督としては、今作を“自殺防止のための論争”の試金石にしたかったのだろうが、皮肉なことに、自殺を巡る人間心理の闇の深さをかみ締める結果となった。それがわかるのは、いわゆる“自殺フリーク”たちの取材映像である。

画像

ゴールデン・ゲート・ブリッジのケースのみならず、自殺を企てる者たちは、もちろん死ぬために事に及ぶわけだが、心の奥底には“実行寸前に誰かに止められたい”という願いが根強くあるという。誰かに声をかけてもらいたい、自分という存在を知ってもらいたい、そして窮状から助けられたいという願望が、無意識のうちに自殺しようとする者を支え、行為そのものへと駆り立てているのだ。“誰かに助けられたい”から逆説的に死を選ぶという皮肉。その“誰か”の救助が間に合えば、自殺という行為が性質の悪い“自己認識の儀式”になっている“自殺フリーク”を増大させるし、間に合わなければ自殺者名簿の数を増やすことになる。進むも地獄、退くも地獄。“死”を巡る考察を問題提起する今作は、結局のところ、その先の見えない複雑さに打ちのめされるのだ。

だが、わずかな希望は、橋からの死のダイブに臨み、奇跡的に生還したある青年の証言でもたらされる。彼は重傷を負いながらも、こう力強く語った。

「飛び降りる前は、死にたいとしか考えられなかった。だが手を放した瞬間、生きたいと思った」

これはまさしく、生物が本能的に持つ生への渇望だろう。彼とて、周囲を取り巻く状況は自殺決行前と後とでなんら変わってはいないが、この原始的な生命力を思い出しただけでも、彼のこれからの人生は全く違ったものになると思う。そして、これはたぶん、死を選ぼうとする人々に唯一届く、生者からの言葉でもあるだろう。

最後に技術的な問題点にも少し触れておく。

衝撃的=素晴らしい作品だというわけでは、決してない。題材が題材だけに、その映像のもたらす衝撃でつい忘れられがちだが、今作のような作品こそ、もっともっと細部に至るまでをデリケートに取り扱われねばならない。取り上げられる7つの自殺者のケースに関しても、遺された遺族や友人、偶然現場を通りかかった人などの証言を、詳細さ、考察の深み全てにおいてほぼ均一に保って欲しかった。ある自殺者のケースについては証言者のインタビューが長大であるかと思えば、別のケースに関してはほとんど証言がない状態なのは、ドキュメンタリーとして今作の公正さを推し量る側にとっては困惑の元だと思う。また、各ケースの証言インタビューをそのケースごとにまとめるのではなく、無作為にシャッフルするのもやはりいただけない。観る方はどの証言がどのケースのものについてなのか分からず、混乱するだけだろう。

画像

これらの欠点はもちろん大きなマイナスポイントではあるが、それを補って余りあるパワーが、この作品には不思議と漲っている。理屈ではない。人間が、無意識のうちに生きようと行動することと似ている、とでも例えるべきか。



―あとがき―

さて、これから書くことは私の独り言だ。暗い内容を含むので、そんな話は聞きたくないという方は、どうぞこのまま他のサイトなりブログなりへ飛んでもらって構わない。だがこれもまた、“死”にまつわるお話のひとつである。

学生時代、ある男子学生と知り合う機会があった。何がきっかけだったかなあ。元々は、私の女友達の知り合いの知り合いだとか、あるか無きかの遠い繋がりだ(笑)。
その男―仮にA君としておく―は、スポーツマンにしてなかなかの男前、優しくて面倒見がよく、正義漢で人に頼られる兄貴肌だった。そりゃあもう、女子達にモッテモテであったそうな。尤も、残念ながら彼女持ちだということで、私を含め、ファンクラブ(笑)の女の子達に、彼と個人的に親しくなるチャンスはゼロだったが。

A君のことを覚えていたのは、当時、劇場に通いつめる程のめり込んでいたある映画を、彼もまたお気に入りだと知ったから。それまでは、彼の取り巻き連中の一番外殻サイドで背景と化していた私が、それ以降はなんとなく、ご本人とちょこちょこ会話を交わすようになった。映画を観るようなタイプには見えなかったし、意外だったのだな。でも、今に至ってその会話の内容を思い出せないのだから、所詮はその程度の親交でしかなかったのだろう。

私が見かける時はいつも、A君は絵に描いたような爽やかイケメンスポーツマン然とした佇まいだった。内向的な私には眩しく、そして遠い存在(笑)。癪に障るほど非の打ち所のない男であったから。しかし、ただ一度だけ、普段誰にも見せたことのないような虚ろな表情で、独り言のように私に呟いていたことを、妙に鮮明に記憶している。

「なあ、お前ヴェンダースの「ゴールキーパーの不安」というのを観たことがあるか?俺には、あのゴールキーパーの苦しみがすごくよく分かるんだ」

こいつの好む映画の傾向はもっと単純明快なドラマだと認識していたので、「ゴールキーパーの不安」などという、ヴェンダース監督のフィルモグラフィーの中でも初期のアヴァンギャルドな作品名がその口から出て来たこと自体、私には充分意外だった。それにA君という人は、その明るく頼りがいのある人柄も関係して交友関係が広く、どこに行っても人気者でたちまち人の輪ができる。可愛い彼女もいて素敵な御友人が山のようにいて、明るい確固とした未来が輝いていて。今風に言い表すなら、A君よ、あんたは“エリート勝ち組”で“超リア充”なんだよ。サッカーの試合で勝敗を分けるほどの重責を背負いながら、観客の賞賛を浴びることのないゴールキーパーの鬱屈とは、どう考えても無縁の世界の男なんじゃないのか。

「…その映画は知ってるけど、どうしてそう思うわけ?」

だが、本人はそれ以上何も語らなかったし、私も、本人のパブリック・イメージと作品の間のギャップに狼狽え、その言葉の真意を測りかねていた。そしてなにより、A君のこわばった表情から窺える嫌な違和感に、私のほうこそ“不安”が募っていったのだ。

数日後、A君はふつりと姿を見せなくなった。後に、あれから程なくして彼が自ら命を絶っていたことを、友人から聞かされた。

私はどうするべきだったのだろう。

口を貝のように閉ざしてしまった本人を追いかけ、しつこくその心に抱える問題を問いただすべきだったのか?私のような者より、彼ともっと親しかった友人や恋人を差し置いて?

そりゃ無理な話だ。

「ゴールキーパーの不安」にしたって、そのキーワードを聞いたのはあの時1回こっきりだった。仮にA君が誰にも言えない苦悩を抱えていたとしても、それを理解してなんとかする手立ても時間も、私にあるはずはなかった。私に一瞬見えたのは、大勢の友人に囲まれていたA君の背後で、ぽっかりと口をあけて待っている真っ暗闇だけ。そこに近づくな、足を踏み外すな、と叫ぶ時間すら私にはなかった。

…それに。

大勢いたであろう彼の取り巻き連中(恋人も含め)が誰も気づかないほど、A君は死への願望をひた隠しに隠していた。自分の身の中にそれを隠したまま、遺書の類も残さず彼は逝った。周囲の人間にとっては、彼の自殺は寝耳に水の事件だったはずだ。そんな状況下で私に何ができただろう。

この時私は初めて、死に囚われている人間をこの世に連れ戻すことは不可能だと悟った。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
この世とあの世を結ぶ橋―「ブリッジ The Bridge」 House of M/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる