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zoom RSS ブルージュとクリスマスとギャング―「ヒットマンズ・レクイエム In Bruges」

<<   作成日時 : 2015/03/16 23:14   >>

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日本では“ヒットマンズ・レクイエム”などという、どこの仁侠映画だと呆れる邦題がつけられた「In Bruges」。このひねくれたアクション人間ドラマ作品を処女作とした新鋭マーティン・マクドナー監督の、待望の新作がついに日本でも公開された。

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「セブン・サイコパス Seven Psychopaths」である。
「In Bruges」のとき同様、一応“アクション・コメディ”のカテゴリに入れられているようだが、注意が必要だろう。なぜ注意が必要なのかは、「In Bruges」を解説した以下の記事を読めばわかると思う。コメディかと思って構えていたら、ストーリーがどんどん違う方向に流れていき、気がつけばトラジェディの廃墟の中に呆然と佇んでいた…ということになりかねないからだ。

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今回の新作「セブン・サイコパス」には、くだんの「In Bruges」で愛すべきチンピラ・ヒットマンを好演したコリン・ファレル、クセ者俳優サム・ロックウェル、おまけにクセ者の二乗俳優ウッディ・ハレルソンまでが登場する。

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クセ者のダメ押しにクセ者俳優の始祖クリストファー・ウォーケンまで登場とあっては、期待するなという方が無理だろう。「Se7en」では、たった一人のサイコパスに大勢の被害者の運命が狂わされたわけだが、そんなのが7人も揃ったら世界はどうなってしまうのか。
…で、早速本編を観てきたわけだが、こんな思いもかけぬ大団円になっているとはっ…くっ!…と握り拳を握り締め、さらに歯まで立てたくなるような、素晴らしいストーリー展開であった。

思えばこのマクドナー監督、凄い脚本を書く人だと、何気なく彼の劇作家としてのキャリアを調べてみたら、驚いたのなんの!腰を抜かしてしまった。とんでもない有名作品(例えば「Pillowman」とか)の生みの親でもある、演劇の世界では既にいくつもの傑作をものにしている天才肌の劇作家なのであったよ。道理で、「In Bruges」や「セブン・サイコパス」の脚本が凄いわけだわ。

「セブン・サイコパス」単体の感想はまた別の機会に書くつもりなので(気が逸るが今日は体調が最悪…)、マクドナー監督の“キング・オブ・ストーリーテラー”振りにいち早く身悶えしたい方は、彼の処女作の紹介を以下からどうぞ。↓


なんとも不思議な映画を観た。コリン・ファレルとブレンダン・グリーソン主演の「ヒットマンズ・レクイエム」(ダサい邦題だ)という、日本では劇場公開が見送られた作品である。

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「ヒットマンズ・レクイエム IN BRUGES」(未)(2008年製作)
監督:マーティン・マクドナー
製作:グレアム・ブロードベント&ピート・チャーニン
製作総指揮:テッサ・ロス他。
脚本:マーティン・マクドナー
撮影:アイジル・ブリルド
音楽:カーター・バーウェル
音楽監修:カレン・エリオット
出演:コリン・ファレル(レイ)
ブレンダン・グリーソン(ケン)
レイフ・ファインズ(ハリー)
クレマンス・ポエジー(クロエ)
エリック・ゴードン(ユーリ)
ジェレミー・レニエ (エイリック)
エリザベス・バーリントン(ホテルの女主ナタリー)
ジェリコ・イヴァネク(カナダ人観光客)
ジョーダン・プレンティス(ジミー)他。

“不思議な”というには理由があって、この作品、一応表向きはコミカルな味付けのアクション映画ということになっているが、実際に蓋を開けてみると、必ずしもそのカテゴリの範疇にはないことがわかるのだ。コメディ風味で始まった男2人の凸凹珍道中が、やがて血で血を洗うヤクザ者同士の激しい攻防戦になだれ込み、思ってもみない悲劇的な幕引きを迎えるのだ。二転三転するスリリングなストーリーは、コメディと悲劇(トラジェディ)の間を行きつ戻りつしながら、“美しい古都ブルージュでのクリスマス”という、殺し屋とは全く相容れない非現実的な背景に幻惑される男たちを、自滅の道に追い込んでいく。コメディ+トラジェディ=“トラメディ”とでも呼びたい全体像である…と書いたら、雰囲気が伝わるだろうか。
本筋とは関係のないキャラクターの行動が、思わぬところで突然ストーリーの流れを変えてしまったり、映画の前半と後半ではがらりと趣きの変わるストーリー展開の中で、伏線とは思えなかった既出の出来事が、実はクライマックスを導く巧妙な伏線として機能していたり。また、緊迫感が高まる最中にも、思わずぷっと吹きだしてしまいそうな愉快なやり取りが飛び交ったりして、よく練られた脚本の妙を感じる。これは、元々は脚本家・戯曲家であるマクドノー監督(今作が初メガホン作となる)のセンスの良さに拠るところが大きいだろう。いくつか目にした今作に対するレビューの中で、あのタラちゃんこと(笑)タランティーノ監督の映像感覚との類似点を指摘するものがあったが、確かに今作の雰囲気は、タラ坊印の作品群に通ずるものがある。逆に言えば、タラ坊映画独特のノリについていけない人は、今作もあまり楽しめないかもしれない。コメディものなのか、それともブラッディなノワールものなのか、どっちつかずの中途半端な印象を受けてしまうだろう。従って私自身も、たくさんの人に観ていただきたい!と声を大にすることに、躊躇を感じるのだ。

In Bruges
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ヒットマンを生業とする2人の男―1人はまだ若くて殺し屋家業を始めたばかりのチンピラ、片割れは中年の冴えない風貌だが実はベテランの殺し屋―が、いかにもワケ有りの様子で、ブルージュという中世の趣をそのまま残した小さな古都にやってくる。もちろん単なる観光ではない。彼らはロンドンで仕事をひとつやり終えたばかりで、すぐブルージュに飛び、その場にしばらく潜伏しているようボスから言い渡されたのだ。折りしも、ときはクリスマス・シーズン。陰気な雰囲気のブルージュにも、クリスマスツリーが飾られていたり、あちこちでイルミネーションが輝いていたりする。観光の街ゆえにホテルはどこもいっぱいで、むさくるしい男2人は仕方なくツインベッド・ルームに落ち着いた。
ところが、若い方の男レイは、有名な観光地に来てもそれを楽しむような心境になかった。彼は、年嵩の方の男ケンと組んでやった初仕事―神父暗殺―の際に、とんでもない失敗を犯してしまったからだ。落ち着かず、ことあるごとに泣き言を並べるレイを、ケンは辛抱強く構ってやる。一緒に美術館でボッシュの「最後の審判」を見学したものの、レイは自分もいずれトッテナムの街のような煉獄に落ちるに違いないと絶望を新たにする始末。ブルージュ名物の鐘楼に登るケンを見送ったレイは、やって来た肥満アメリカ人家族をからかうものの、初仕事での大失敗に意識を引き戻されてしまう。あのとき…ターゲットであった神父を撃ったとき…、ちょうど神父の影になって視界に入っていなかった少年を、誤って一緒に撃ってしまった…。紙片を握り締めたまま、脳天を撃ち抜かれて礼拝堂で即死した少年の死相が、レイの脳裏にこびりついて離れない。故郷から遠く離れたこの陰気な街で、無関係の子供を殺害してしまったという罪の意識はさらに増幅し、レイを再三にわたって苛むのだった。
ケンはそれなりに観光を満喫するが、レイのあまりの落ち込みぶりに、夜は絶対に外出するなというボスの御達しを無視することに決めた。一緒にパブにも付き合ってやり、新人ヒットマンの愚痴を辛抱強く聞き、映画「赤い影」のパストゥーシュを撮影する現場を偶然見かけるや、フラフラ出かけてしまった相棒を仕方なく見逃してやる。撮影現場をうろついていたレイは、地元の女の子クロエと仲良くなった。彼女と夕食の約束をして別れ、足取りも軽くケンの待つホテルへ戻る。憂鬱だったレイの心に晴れ間が見え始めていることに気付いたケンは、ため息をついて長い一日を締めくくったのであった。
しかし災難はすぐにやってきた。昨晩彼らが出かけた留守中に、ボスのハリーから彼ら宛てに電話があったというのだ。臨月で大きなおなかを抱えたホテルの女主人ナタリーは、1センテンスごとに"fu●k”を連発するハリーからの伝言に呆れ返る。それはケンも同様で、ハリーの代わりにこの親切な女主人に謝罪するのだった。その晩、クロエとのデートに出かけてしまったレイを庇いつつ、ケンはハリーからの怒りの電話を受け取った。殺しの現場でしくじり、激しく動揺するレイはヒットマンの器ではない。今後、どんな形で殺しの証拠が漏れるやもわからない。そのためにも、レイは消さねばならないだろう。ハリーは最初からレイを消す目的で、ケンと共にブルージュに向かわせたのだった。そこで、ハリーはケンに新たな指令を与える。ブルージュ在住の武器商人ユーリの家で拳銃を調達し、それでレイを殺せと。ベテラン・ヒットマンのケンの顔は一瞬にしてこわばった。
丁度その頃、自分の命が危うくなっていることも知らず、レイはレストランでクロエと食事をしていた。外国人であるクロエとの会話は、最初ぎこちないものだったが、2人は徐々に打ち解けていく。しかし、クロエが禁煙の店内で盛大にタバコを吹かしていたせいで、近くのテーブルで食事していたカナダ人カップルが、レイに文句をつけてきた。売り言葉に買い言葉、クロエが席を立った間に、レイはカナダ人カップルを2人ともぶん殴ってしまう。慌てて店を出た2人は、そのままクロエのアパートへ。甘いムードになったのもつかの間、そこへスキンヘッドの人相の悪い男エイリックが飛び込んできた。レイの姿を見て逆上するエイリック。しかしレイはエイリック以上に頭に血が上りやすい男だった。あっという間に拳銃を抜き、エイリックの眼窩に1発命中させてしまう。パニックになったエイリックを放ってもおけず、クロエは仕方なく彼に付き添って病院へ向かった。結局、1人部屋に取り残されたレイは、彼女が部屋の中に隠していたドラッグを行き掛けの駄賃に失敬して、ホテルへと戻っていった。
バーの中で酒を飲んでいたケンは仏頂面だ。レイからドラッグをもらって自分も一発キメると、なんともいえず快い高揚感に見舞われる。レイとケンは、映画「赤い影」に出演中の俳優ジミーとその女友達とバーで知り合い、そのまま彼らの部屋でドラッグ・パーティーを始める。生まれつき身長が伸びない体質のジミーは、その特殊な体型を生かし、映画では子供の役を演じることが多い。完全な大人であるのに、いつまでたっても子供や小人の役しかやらせてもらえない鬱憤を、ジミーはドラッグの酩酊に任せて人種差別的発言でぶちまける。ジミーの横柄な物言いには、さすがの温厚なケンも呆れ、レイと共に自室に引き返していった。その晩、レイはベッドの中でまんじりともせずに夜を明かした。
翌朝。ユーリの家に赴いたケンは、サイレンサー付きの拳銃を渡される。ユーリが投げかける禅問答的会話を上の空で切り返しながらも、ケンの意識はプロとして拳銃の撃ち心地に集中していた。ケンは、この日のうちに“仕事”をやり終えるつもりだった。そう、嫌な仕事はさっさと片付けてしまうに限る。視線がどこを向いているのかさえわからない奇妙な男ユーリは、なぜかケンのことをいたく気に入ったようだった。
厳しい顔つきでホテルに戻ったケンを、ナタリーが待ちかねていた。今朝のレイの様子がおかしかったことに鋭く気付いていた彼女は、レイが公園に行ったことをケンに伝える。ケンは複雑な心境で公園に向かった。物陰から見ていると、レイはぼんやりとベンチに腰掛け、近くで遊ぶ子供達を見ているようだった。そのまま動こうとしないのを確認したケンは、口の中で謝罪の言葉をつぶやきつつ、音もなくレイの背後から近づいて引き金に手をかけた。しかし、まさにその瞬間、レイが自分の拳銃の銃口を自身のこめかみに押し当てたではないか!こいつは自殺するつもりだったのか?!ケンは反射的にレイの手を止めてしまう。たかが一度仕事をしくじったからといって、自殺するなんてナンセンスだろう!…だが、ケンとてレイを暗殺しようとしていたのだから、その行動は大いなる矛盾である。困ったケンとバツが悪いレイは、お互い気まずいものを感じながら、しょんぼりとベンチに座る。レイは、ご大層にサイレンサーまでついたケンの銃を手に取り、ケンはケンでレイの銃を言葉少なに褒めてみる。ケンはレイを慰め、この冷酷無比な稼業が彼には向いていないと諭した。まだ若いのだから、いくらでも人生をやり直せるはずだ。ケンはレイを力づけるうち、ハリーの指令が間違っていることを確信する。自殺までしようとしたこの男を今更殺したところで、どうなるものでもない。もうこいつは殺し屋としては死んでるも同然だ。ケンは密かに、レイを別の町に逃がしてやることにした。
プラットホーム。着の身着のままで列車に乗り込むレイ。それを見送るケン。当惑した表情で、気まずそうにレイが問う。
「これからオレはどうしたらいい?」
ケンの答えはシンプルだった。
「なにがあっても前に進め。それだけだ」
その足で公衆電話に向かったケンは、居住まいを正してハリーの自宅に電話をかける。あの短気な男のことだ。レイ暗殺の首尾を知りたくて、電話機の前で待ち構えていることだろう。ケンは断固とした口調で、ハリーに口を挟む隙も与えずに、レイを逃がしたことを報告する。理由はひとつ。レイは殺し屋としては役立たずで、もう死んでるも同然だから。文句があるなら、聞いてやるからブルージュまで来い。ボスへのものの言い様とは到底思えぬケンの言い草に、さすがのハリーも唖然とする。いきなりがちゃんと切られた受話器を握り締め、怒りのままにそれをテーブルに叩きつけ、粉々にしてしまった。そして、ハリー以上にすさまじい剣幕の妻と子供達を残し、単身ブルージュに乗り込んだのである。
一方、ケンとハリーの間でそんなやり取りがあったことなど露知らぬレイは、途中で停車した列車の車掌から姓名を尋ねられてしどろもどろになる。そして、ブルージュのレストランでレイがぶん殴ってしまった、あのカナダ人観光客のカップルの前に引きずり出された。彼らは、理不尽な暴力を働いたレイをブルージュの警察に訴えていたのだった。こうしてレイは、命からがら逃げ出したはずのブルージュに、再び戻る羽目になってしまったのである。両手には手錠つきだ。
翌日。すぐにブルージュにやってきたハリーと対決するべく、ケンは一張羅を着こんで気持ちを引き締める。レイとのやり取りの中で、ケンもひとつ決意したことがあった。それは、もう殺し屋家業から足を洗うことだ。自殺しようとする若者を見て、心を乱されるようになった。自分も年を食ったのだろう。ターゲットに哀れみを持ってしまっては、殺し屋は務まらない。潮時ということだ。ハリーを説得できるかどうかはわからないが、自分は信念を持って銃を捨てよう。銃で戦うのは金輪際やめにするのだ。
ハリーは早速ユーリの家に向かう。すると、レイに目を撃たれた男エイリックが、ユーリに泣きついていた。ハリーはそんなエイリックを鼻で笑い、ケンを殺るための拳銃を調達する。だがハリーには、ユーリの禅問答的会話のセンスは皆目理解できなかったようだ。
怒りのために額に青筋を立てたハリーと、悟りの境地に達した穏やかな表情のケンは、対決の前にパブでビールを飲む。ケンの意志は揺るがない。レイにチャンスを与えてやってくれ。あいつはもう殺し屋稼業なんてやるわけない。組織の秘密が漏れることもなかろうよ。しかしハリーは、そんな奇麗事を鵜呑みにするような男でもなかった。2人の男はブルージュ名物の鐘楼のてっぺんへと、対決の舞台を移す。鐘楼に登れる時間はとっくに過ぎているので、当然ハリーはチケット売りの男をボコボコにのさなければならなかったのだが。ケンは、逃げも隠れも出来ない鐘楼の頂上で、早速銃を構えるハリーの目の前で自分の銃を捨てた。そして、必死にこのキレやすいボスを説得する。レイに慈悲を与えてやることは、この非情なる世界でも許されていいはずだ、と。ケンの真摯な説得に耳を傾けていたハリーが、やがて銃口を下げた。詰めていた息を安堵と共に吐き出すケンであったが、次の瞬間、ハリーはケンの脚を撃つ。
「何をしやがる!」
「お前こそ何様だ!“ナザレのイエス”のロバート・パウエルか!」
その頃、レイはクロエの尽力によってブルージュ警察の留置場から釈放された。クリスマスだ。2人は再会を祝って例の鐘楼の丁度下にあるバーで乾杯する。あの映画「赤い影」も、近くで夜間の撮影中らしい。久しぶりにジミーと再会したレイは、撮影中のジミーが子供の衣装を着ているのを見て、さすがに笑いを堪えきれない。クロエも交えて3人で乾杯。ジミーは、ドラッグで酩酊中だったときの失言をレイに指摘されて困り果てる。だが、そんななごやかな3人の様子を、遠くで見守っている者がいた。エイリックである。彼は、鐘楼の下で警察が来ないか見張り役を務めていたのだ。
エイリックは、逃げたはずのレイがいるのを見て驚き、急ぎハリーに報告する。重いケンを抱えつつ、鐘楼の階段を降りている途中であったハリーは、エイリックの報告を聞いて顔色を変える。ケンも同様だ。2人は狭い階段の途中で、再び揉み合う。お互いに、銃を握っている腕をけん制しあっていたが、負傷しているケンはやがて力尽き、ハリーが撃った弾丸がその首をかすめていく。元来友人同士であった2人。ハリーは小さく謝罪の言葉を残し、レイを始末しに駆け出した。レイが危ない。ケンは、思うように動かない体で這うようにして再び鐘楼のてっぺんにたどり着く。そして自身の誓いどおり、持っていた弾丸を全て投げ捨てると、そこから下に向かって飛び降りた。
突然男が鐘楼から飛び降りたため、下にいた人々は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。レイは、ケンの変わり果てた姿に縋り付いて泣きじゃくる。虫の息のケンは、ハリーに命を狙われている旨をようよう知らせると、そこで事切れた。ケンの持っていた銃は壊れて使い物にならない。そこに銃を構えた怒りの形相のハリーがやってきた。レイは、周囲を憚らずめくら滅法に撃ちまくるハリーから、ただ走って逃げるしかなかった。
レイは滞在していたホテルに戻る。自室に自分の銃があるのだ。しかし、銃を取り戻したときには、ハリーは既にホテルの女主人ナタリーと押し問答をしているところだった。ナタリーは、銃を向けるハリーに一歩もひかず、頑としてその場を動かない。階段に座り込んでハリーを恫喝するナタリーの体が邪魔で、レイは銃を撃つことが出来ない。しかもナタリーは身重だ。彼女を巻き込まないため、レイはハリーに妥協案を提示した。1,2の3で2人とも外に出て、そこで銃で決着をつけようではないか、と。ナタリーが呆れる中、レイは窓から外の運河に飛び込んだ。丁度そこに船がやってきたのを確認していたのだ。だが船の上に落ちた衝撃で、レイは銃を運河に落としてしまう。レイとハリーの間は距離が離れていたが、ハリーは執念の射撃でレイの腹を撃ち抜いてしまった。
レイは船から転がるように降り、よろよろと逃げ続ける。雪が降ってきた。今日はクリスマスなのだ。中世の雰囲気を色濃く残したこの街は、幻想的な情景を演出する。レイが辺りを見回すと、動物の顔をした人間が歩いている。そこにもあそこにも。これは現実か、それとも幻か。オレは夢を見ているのか、それとも死んで天国にいるのか。背後からハリーが追いついてきた。1発、2発、3発…。あのとき…、レイが初めての殺しで神父を撃ったとき…。神父は、背後からレイに撃たれながら前につんのめるように数歩よろめいた。それと全く同じ光景が、再び繰り返される。しかし、今殺されようとしているのはレイの方だ。銃声が響くと同時に、周囲には悲鳴と喧騒が満ちる。レイがゆっくりと崩折れると、目の前に小さな男の子が倒れているのが見えた。
「なんてことだ、男の子をまた殺っちまった…」
そこは映画の撮影現場だった。子供の衣装を着たジミーが、あのときと同様、額を撃ち抜かれて即死していたのだった。
銃を片手に、暗殺に失敗して立ち尽くすハリーと死んだジミー。それを見つめる虫の息のレイ。レイの殺しを正確に再現してみせた3人の男。息を呑み、遠巻きにして彼らを見守る人々。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。ハリーは衆人環視の中の殺人が失敗したことを悟り、銃口を口に銜える。レイは思わず引き止めるが、ハリーは引き金を引いた。レイの意識は朦朧としている。彼は自分の体がいつの間にか担架に乗せられ、酸素マスクをつけられたことを知った。彼の周りには人が現われては消え、現われては消える。クロエが狂ったように泣いている。ナタリーが彼を安心させるように微笑んでいる。救急隊員がクロエを押し留め、彼の担架を救急車に乗せた。まるで、走馬灯のようだ。レイははじめて死にたくないと思った。たとえ、これから監獄に入れられることになっても、生き続けたいと。

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フランスでfnacの店頭に並んでいた、今作のDVDを購入した。日本で流通しているものは、どうやらレンタル専用らしいから。やはり今作の面白さを言葉で説明するのはとても難しい。そもそも、日本で受け入れられやすい内容の作品でもない。おそらく日本の販売元もそう判断したのだろう(笑)。

だが、ロアルド・ダールという作家の短編を読んだことがある人なら、今作の雰囲気を掴みやすいかもしれない。前述したように、お話のイメージが、コメディぽい様相から次第に悲劇的な色合いを帯びる不思議な流れであるからだ。物語のイメージが一貫しない。持ち主を失った風船があちこちを浮遊するように、あるいは、光の加減で様々に表情を変える仮面のように、お話のベクトルが自由に方向を変えていく。ダールは、実は映画の脚本を手がけた経験もある作家だが、彼がもしノワール映画を撮ったとしたら、こんな感じになるのではないか。

今作は、サンダンス映画祭においてオープニング上映され、かの映画祭に集まる通好みの映画ファンたちを虜にした。白状すると、私も今作を何度か観直している。一度観終わると、もう一度始めから観てみたいという誘惑に駆られるのだ。しかし、そういった中毒性は、この根暗でねじれた面白さに嵌った人限定に作用するのだと思う。
尤も、観客を選ぶとはいえ、今作をある種魅力的な映画たらしめているのは、やはり中心人物3人を演じる役者陣の見事な好演に拠る部分が大きい。短気なチンピラだが、実は心根は優しくて素直な若者レイ、長年の殺し屋家業で人生を諦観してしまった、お人よしの中年男ケン、すぐにブチ切れる危険人物だが、妙なところで生真面目でポカをやらかしてしまうハリー。彼らそれぞれに、おそらく脚本に明記されていた以上の愛しさを付加したのは、コリン・ファレルとブレンダン・グリーソン、そしてサプライズ出演となったレイフ・ファインズの力量だ。

若くして大作のヒーローを演じてきたファレルは、一時期デビュー当時の輝きを失っていたものの、今作のような小品で披露したコミカルな演技で新境地を開拓している。そう、ファレルという役者は、絶対死なないヒーローよりも、たった一度の失敗で今にも死にそうになってしまうチンピラに扮しているほうが、余程生き生きしていると思う。今作に於ける彼のキャラクター、レイは、まるっきり彼の素顔を髣髴とさせるもの。本当におバカだけれど(笑)愛すべき男で、周囲に何度も迷惑をかけつつ、それでもピンチを救われながら最後まで生き延びる。今作のテーマは、プロフェッショナルとしても、また人間としても未熟なレイが、命がけの戦いを通じ、最後に己の人生に光明を見出すことだ、とまとめてもいい。そんな人物を演じると、ファレルは見事なのである。
しかし個人的には、今作の真の主役は、ベテラン殺し屋のケンだと思っている。なんといっても、グリーソンのチャームが爆発しているのだから(笑)。純朴なレイの姿を目の当たりにし、彼を守ることで血塗られた自身の人生に決着をつけようとするケンは、ある意味、お人よしに過ぎて格好悪い存在だろう。よく考えれば、ケンとて、それまでにすでに何人もの人間を殺めているのだ。今更レイ1人に功徳を施したところで、彼自身の罪が消えるわけではない。よってケンの行動とは、本当のところ、とても愚かな振る舞いだといえる。だが、自分の行動が例え愚かだとわかっていても、良心の命ずるまま、危険極まりないハリーと対決するその真摯な姿は、観る者の目頭を等しく熱くするのではないか。レイは、ケンにとって“人生のやり直し”の第一歩だったのであり、それに全てを賭けようとした彼にこそ、私たちは真の勇気を見出してしまうのだ。狐につままれたようなお話が続く中、不意に観る者の胸を突く真理がひょっこりと顔を出す瞬間があるとすれば、それは、ケンによってもたらされたものだと思う。グリーソンは、今作の演技で、ファレルともどもゴールデン・グローブ賞主演男優賞にノミネートされたが、それに値する名演だろう。
髪の生え際が危険な年齢に入ってからの(笑)、レイフ・ファインズの快気炎には脱帽する。スピルバーグ監督の「シンドラーズ・リスト」の悪役でブレイクした当初から、“ハンサムなんだけど粘着質で爬虫類を思わせる”独特のルックスは、注目されてはいた。が、今ほど、そのネガティヴなイメージを変幻自在に操ってみせていることはなかったと思う。今のファインズは、たとえ誰もが尻込みするようなキャラクターであっても、難なく自分のものにすることができるだろう。今作に於けるハリーも、通り一遍の演技ならば薄っぺらい悪役に堕するところを、絶妙のタイミングで放つボケ演技(実際に観ればわかる・笑)で、なんとも魅力的に仕立てている。彼が登場してから映画はがらりとイメージを変え、血生臭さと緊迫感が急上昇するが、映像を引き締める重心の役割も余裕でこなしているように見える。

さて、映画は映像のつづれ織りだと私は常々思っているが、今作にもあるイメージが繰り返し登場する。それは、レイの最初の殺しが失敗した場面である。前半にそのシークェンスを見た私たちは、ブルージュで撮影されている映画(「赤い影」というところも、なかなか映画好きの琴線に触れる)の撮影現場と、レイが自殺を企てようとする公園で遊ぶ子供たちの姿に、その悲劇的なイメージを重ねてしまう。万華鏡のように表情を変える作品を貫くのが、実はそのイメージであるのだ。サブリミナルのように、観る者の脳裏に焼きついた子供のイメージは、美しい古都ブルージュで繰り広げられるギャングたちの抗争に、一定の悲しみと緊迫感とを与える。なぜなら、殺し屋たちが追っているのはレイその人ではなく、影法師のようにブルージュの街を浮遊する“殺された子供”のイメージだからだ。つまり、レイの犯した過ちがいずれ繰り返されるだろうことが、あらかじめ観客の側に暗示されているということなのだ。レイが誤って死なせてしまった子供と、撮影現場で子供の扮装をしていたジミー(ファンタジー映画などで活躍する俳優。なかなかのクセモノ役者とみた)のイメージ、レイのターゲットだった神父とハリーに撃たれたレイ自身のイメージ…。一見すると無関係に感じる映像の連なりが、最後にひとつの映像に収束してゆく醍醐味は、観客を不思議な酩酊感にいざなう。

あるいはまた、中世の趣をたたえたブルージュという古都自体に、レイやケンのような“よそ者”を惑わせる力が宿っているのかもしれないとも思う。男たちは、何故些細なことであっけなく自滅していったのか。しかも、クリスマスという心楽しいときに…。もしあなたが、レイたちにいいしれない実感を覚えるというのであれば、それはきっと外国での非日常を経験したことがあるせいだと考えている。



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