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zoom RSS 「生きる歓び QUELLE JOIE DE VIVRE」―ルネ・クレマン監督

<<   作成日時 : 2014/05/28 23:02   >>

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“自由とは監獄の穴にすぎない”

「生きる歓び QUELLE JOIE DE VIVRE」(1960年製作)
監督:ルネ・クレマン
製作:フランコ・マグリ
脚本:ルネ・クレマン&ピエロ・デ・ベルナルディ&レオ・ベンヴェヌーチ
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:アンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ
出演:アラン・ドロン
バルバラ・ラス
ジーノ・チェルヴィ
リナ・モレリ
パオロ・ストッパ

1920年代初頭のイタリア。除隊したところで、新たな就職口の当てのない時代。ユリス青年は街中で見かけたポスターを見るや、すぐさま黒シャツ党に入党してしまう。そう、それが悪名高きイタリア・ファシストの巣窟であるとも知らずに。イタリア国内に潜伏する、反ファシスト派の印刷所の場所を突き止める仕事を仰せつかったユリスは、当初こそ真面目に何軒かの印刷所を調べていたが、徐々に面倒になってくる。そうこうするうち、一目惚れしてしまった娘フランカの一家が運営する印刷所に、ちゃっかり住み込みの助手として居ついてしまうのだ。しかし、やがてその印刷所こそ、目指す反ファシスト派の活動拠点であったことがわかり、ユリスは二者択一を迫られる。

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のんきなユリスの悩みを他所に、政局は刻一刻と変化を見せる。スペインから、ファシスト派の将軍暗殺の密命を受けた精鋭アナーキストがイタリア入りすると、ファシストと反ファシストの両勢力ともに緊迫する。ユリスはフランカのためにあっさり宗旨替えし、彼女にいいところを見せようと、自分が将軍の暗殺者であると宣言してしまう。フランカ一家は、反ファシスト派のヒーローたるユリスを下にも置かぬ扱いでもてなすように。ローマで博覧会が開催されるため、アナーキストの疑いのある者は警察によって一斉検挙される。フランカ一家も刑務所入りするが、しかしこれは大きな催しのあるときの決まりごとのようなものであり、警察側もアナーキスト側も心得たもので、一家は易々とフランカとユリスを脱獄させてやる。そうして迎えた博覧会当日、実は本物の暗殺者が既に仕事を始めており、会場に仕掛けられた多数の爆弾が爆発するタイムリミットは、刻一刻と迫っていた。ユリスは政治的立場を超えて、フランカとその一家を守りたい一心で爆弾を次々と処分してゆく。果たしてユリスは間に合うのか。

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「太陽がいっぱい」の後、思ってもみなかった形で祖国フランスの映画界から手痛い仕打ちを受けたルネ・クレマン監督。これは私の想像ですが、政治的知識も、もちろん政治的野心もな〜んも持たない暢気な男の予想外の“政治的活躍”を描く今作で、戦後、方向性を見失った(と、クレマン自身が信じている)祖国に精一杯の意趣返しをしようとしたのでは、と思います。戦後の母国の栄光のために戦った、自分のようなレジスタンス達を“テロリズム”として排除しようとするフランスを皮肉る、これはクレマン監督からの挑戦状なのでしょう。舞台はイタリアですが、“自由”を希求するために活動するアナーキスト達を戦時中のフランス・レジスタンスと置き換えれば、彼らを押さえつけようとするファシスト政権は、戦後のフランス国家のカリカチュアされた姿だと容易に察せられます。
当然、今作の中でのアナーキスト達は、危険分子、危険分子と大騒ぎされる割には全く危険ではなく、むしろ平和を求めるごく常識的な人々のように描かれています。ですから、何も知らずにファシストになってしまったユリスも、惚れた娘のために至極あっさりと宗旨替えするわけで(笑)。コミカル・タッチで描かれるので、この辺りの描写は思わず笑ってやり過ごしてしまいそうになるけれど、実はクレマン自身の精一杯の皮肉は、ここにこそ込められていると感じるべきでしょうね。アナーキスト側の個性豊かな面々の醸し出す、そこはかとない可笑しさと愛しさによって、巧妙に和らげられてはいますが、クレマン監督のフランスへの批判精神は、なかなかどうしてかなりの怒りを込めて表明されているように思いますよ。

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結局ユリスは、本物の暗殺者が博覧会会場に仕掛けた爆弾を必死にかき集めていきます。このときのユリスの置かれた立場から考えるなら、本当なら彼は暗殺者の仕事を邪魔するべきではなかったでしょう。でも、この際政治的立場云々は関係ないんですよ。大勢の人間が集まる場所で爆弾が爆発すれば、そりゃファシスト達は一掃出来るかもしれないけれど、その他無関係の無辜の民も大勢命を落とす結果になります。それは、人間として絶対見過ごすことの出来ない悲劇でしょう。政治的ポリシーなど犬にでも食わせとけ、俺達はただ平和な社会で家族を作ることを望んでいるんだ!ユリスの最後の行動は、政治的思想の相違、見解の差異を乗り越えて平和な世の中になって欲しいと望む、全ての民衆の願いを代弁するものだったわけです。もちろんそれは、洋の東西を問わず、極めて普遍的な意味を持つ結論でありますね。クレマン監督自身がたどり着いたひとつの境地であったわけですが、それを理解した人は少なかったようです。

監督がコメディ演出に腐心し過ぎたせいかどうかはわかりませんが、今作のスリリングな見所―ユリスとフランカが脱獄するシーンと、ユリスが会場の爆弾をかき集めるくだり―が、案外見落とされてしまっているのが残念です。なかなか面白いシーンに仕上がっていますもの。それに、コミカルなアラン・ドロンのキュートさに、皆さんもっと注目していただかなくては(笑)!眉間に皺を寄せているだけがハンサムの条件ではありません。多少アホでも(笑)、己の信念を最後に貫き通すことができるかで、男の真価は決定するものでしょう。その意味では、恋した娘を守ろうという一念だけで命がけの行動に出たユリス=ドロン、なかなかの“ハンサム”ではありませんか。また、そのヒロイン、フランカに扮したバルバラ・ロスも非常に魅力的。下町娘の親しみと気取りのない美貌、素直な心根を上手く表現しておりましたよ。“お笑い度”に関しては厳しい点をつけざるをえませんが、フランカ一家の人物造形と描写も奥深く、面白いものがありますね。クレマン監督の、丁寧なキャラクター演出の妙も楽しいです。

どうしても、傑作「太陽がいっぱい」と比較する誘惑に勝てないせいか(笑)、今作に対する一般的な評価は極めて低いもの。ドタバタ・コメディの体裁をとりつつも、政治映画のパロディという形で、フランス国家の無理解を大いに呪った作品が批評家の支持を得られるはずもなく、クレマン監督のキャリアも一層追い詰められていきました。今作の後、彼が“政治と歴史と国家”を題材に映画を製作したのは、1966年の「パリは燃えているか PARIS BRULE-T-IL?」のみ。その映画監督生命は、サスペンスとスリラーの分野で辛うじて生きながらえることになるのです。

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