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zoom RSS 我らの生涯の最良の映画監督―ウィリアム・ワイラーWilliam Wyler

<<   作成日時 : 2015/07/09 10:49   >>

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ウィリアム・ワイラーWilliam Wyler

1902年7月1日生まれ
1981年7月27日没(アメリカ、ロサンジェルス、カリフォルニアにて心臓発作で亡くなる)
ドイツ帝国ミュールハウゼン(現在のフランス東部アルザス地域圏オー=ラン県ミュルーズ)出身

本名:ウィルヘルム・ワイラー
ニックネーム:ウィリー、90テイク・ウィリー

ワイラーは、1902年7月1日、ドイツ国境に近いフランス、アルザス地方のミュルーズで、スイス人の父親とドイツ人の母親との間に生を受けた。小物売業を営んでいた家業を継ぐのがいやさにパリに渡り、バイオリニストを夢みて修行したが果たせなかった。1920年18歳の時、映画産業で仕事をするべく、当時ユニヴァーサル社の社長を務めていた母方の従兄弟カール・レムリを頼って渡米。ユニヴァーサルのニューヨーク本社で雑用係として働いていたが、撮影現場で働くことを強く希望して、1922年にカリフォルニアに移る。小道具係や配役係、助監督など、現場に携わるおよそ全ての仕事を経て、ワイラーは1925年7月に初めて監督をするチャンスを与えられた。2 巻物の短編ウェスタン『Crook Buster』である。それからおよそ5年に渡ってB級ウェスタンのサイレント映画を撮り続け、監督としての腕を磨いていく。当初はレムリ一族の1人としかみなされていなかったが、1930年の「砂漠の生霊」など、職人監督らしい確かな演出力の光る佳作を発表し、1930年代にはユニヴァーサル社の中堅監督として活躍するようになる。
“90テイク・ウィリー”(1つのシーンに90回も撮り直しを行うこと)の別名通り、彼は異常なまでの完璧主義者であり、自身の納得いくシーンが撮れるまで何度でも撮り直しを要求する厳格な監督であった。そのため、一緒に仕事をするスタッフやキャストとの間に度々軋轢があり、1933年の「巨人登場」では主演のジョン・バリモアと、1934年の「お人好しの仙女」では主演のマーガレット・サラヴァンと大ゲンカを繰り広げたのは有名。「黒蘭の女」(1938年)、「月光の女」(1940年)、「偽りの花園」(1941年)で3度コラボレートした女優ベティ・デイヴィスとの対立は、一時撮影が中断されるほどの大騒ぎとなり、いまだハリウッドの語り草となっているほどだ。特にこの頃はまだワイラーの英語も下手であったせいで、周囲との意思の疎通もままならなかったのであろう。サラヴァンとは1934年に結婚したが、2年後に離婚。その2年後に出会ったマーガレット・タラチェットと再婚し、彼女との間に4人の子供をもうけた。子供たちの1人キャサリン・ワイラーは現在プロデューサーとしてハリウッドで活躍している。 1990年に彼女が製作した「メンフィス・ベル」は、父親が1942年から1945年まで空軍に従軍した際に撮影したドキュメンタリー作品「メンフィス・ベル」(未公開)(1944年)を元にした戦争ドラマである。
1936年にワイラーはユニヴァーサルを離れ、やり手の映画プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンと共に優れたエンターテイメント作品を量産していく。特に1937年の「デッドエンド」、1941年の「偽りの花園」などのような、舞台劇を映画化した緒作品でワイラー節を確立した。カット割りを避け、1つのシーンを出来る限り長廻しで捉える手法、登場人物の表情や小道具に余さず焦点を当てることでその心情を言外に伝えるパン・フォーカス、考え抜かれた無駄のない台詞で場面を支える演劇風の演出。これらの方法を駆使することで、彼は映画に深みと気品を加えることに成功、普遍的な鑑賞に耐える作品を撮る監督として名声を確立する。1936年の「この三人」で組んだ劇作家リリアン・ヘルマンとの協力関係はことに有名で、30年代から40年代にかけて、ヘルマン女史はワイラー作品の脚本家として彼の作品を陰から支えた。

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第2次世界大戦が始まると、彼はアメリカ空軍に配属され、戦線の模様を伝えるドキュメンタリー作品を製作した。しかしその際遭遇した事故で耳を傷めてしまい、両耳ともほぼ聴こえない状態になってしまう。
終戦後1946年に製作した「我等の生涯の最良の年」では、戦後のアメリカで問題となっていた復員兵の社会復帰をいち早く取り扱った。時代を先取りする鋭敏な感覚と共に、根深い社会問題にシリアスな人間ドラマを絡めた物語が高く評価され、アカデミー賞では作品賞、監督賞など主要7部門を制覇する結果となった。その後も、「風と共に去りぬ」で知られるオリヴィア・デ・ハビランドを主演に迎えたシニカルな愛憎ドラマ「女相続人」(1949年)、「嵐が丘」(1939年)でも組んだローレンス・オリヴィエの、愛ゆえに落ちぶれていく姿が哀切な恋愛ドラマ「黄昏」(1951年)など、複雑な味わいのある恋愛ドラマに冴えを見せた。また「女相続人」からは自身のプロダクションを設立し、以降は製作も兼任して、監督作業に横槍が入らぬように製作環境を整える。
1953年には一転して、新人女優オードリー・ヘップバーンの愛くるしい魅力を最大限に引き出し、おとぎ話のようなロマンチック・コメディ「ローマの休日」を名作に仕立て上げるなど、ジャンルを問わない作品群で手堅く演出力を発揮していく。1955年の「必死の逃亡者」では、ヘイズの舞台劇を元に脱獄囚と牧師一家の攻防戦を緊迫感溢れるタッチで描き、サスペンス映画でもその演出技量をいかんなく披露した。1956年の「友情ある説得」では、敬虔なクェーカー教徒の農民一家を主人公に、非暴力を貫く家族が否応なく南北戦争に巻き込まれ、苦悩する姿を熱の篭もった演出で描ききった。農村を舞台に“反戦”という大命題を追及したワイラーの執念が、この作品で結実。後に青春スターとしてブレイクする、アンソニー・パーキンスのデビュー作でもある。
彼の演出力は衰えることを知らず、1958年の「大いなる西部」ではグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンという2大スターを配して 、湧き水の所有権を争う西部の町の2つの家族と風来坊の関わりを詩情豊かに描きあげた。尺も長く、堂々たる大作の仕様であるが、静けさと風格の漂う滋味深い西部劇となった。翌1959年には、史上空前の製作費をかけた大スペクタクル史劇「ベン・ハー」の監督に指名される。完全な雇われ監督の立場であったものの、トラブルの続出する現場を上手くまとめて、一瞬の中だるみも見られない見事な作品に仕上げた。ワイラーの苦労は、アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞など主要11部門で受賞という快挙で報われることになる。映画は世界中で大ヒットを記録し、映画史に残る名作として永遠に名を残したのである。
60年代に入ってもワイラーの采配と意欲はいささかも揺るがず、1961年には、以前不本意な形で映画化せざるを得なかった「この三人」(リリアン・ヘルマン原作「子供たちの時間」、1936年製作)を、本来の作品テーマに即した形で再映画化する。 オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンを主役に迎え、1人の少女の虚偽によって同性愛の噂を立てられた2人の女性が、社会によっていかに罰せられていったかを執拗に描いたのである。同性愛というテーマのため、初映画化当時は内容に脚色を加えざるを得ず、それがワイラー監督にとって長年の後悔の種であったのだ。彼は、ヘプバーンとマクレーンの両女優から女性の心情の揺らぎと哀しみを見事に引き出し、彼らにとっても最良の演技の作品となったが、監督の真意を理解しない人々から批判的な批評が相次いだ。
1965年には猟奇犯罪を扱った「コレクター」を製作、ヒッチコックの「サイコ」ばりのスリリングな演出を連発し、現在でも依然として大流行のサイコ・スリラー映画群の中でも傑作と位置づけられることになった。女を“コレクション”した男と、その目に見えぬ網から必死で逃れようとする女。息詰まる心理戦を繰り広げる男女に扮したテレンス・スタンプとサマンサ・エッガーは熱演で、揃ってカンヌ映画祭演技賞を授与された。
1966年にはまたもがらりとジャンルを違え、ワイラーは「おしゃれ泥棒」を監督する。相性のよいオードリー・ヘプバーンを再び主演に迎え、クセのある名優ピーター・オトゥールからもキュートさを引き出す好調な演出で、「ローマの休日」を思わせる上品なロマンチック・コメディの快作に仕上げた。ワイラーはかつて、ナチスに関連した映画は撮りたくないとの理由で「サウンド・オブ・ミュージック」の監督を辞退していたが、1968年にはデビュー間もないバーブラ・ストライザンドを主演に、ミュージカル「ファニー・ガール」を製作した。これは、20年代を代表するショウ・ガールであったファニー・ブライスの伝記ミュージカルの映画化で、舞台同様、ストライザンドの圧倒的な歌と演技を遜色なく見せ、スクリーンは彼女のコンサート会場と化してしまった。夫役のオマー・シャリフ、ジークフェルド役のウォルター・ピジョンという名優を引っりだしてきたものの、ストライザンドの押し出しの強いパフォーマンスの陰に隠れてしまい、男優陣の演技は一様に低調。ストライザンドはこの作品の演技でアカデミー賞に輝き、その後アメリカを象徴するディーヴァへと成長していく。ニューシネマの波がハリウッドを席巻する中、ワイラーは1969年の遺作「L・B・ジョーンズの解放」で、当時深刻な社会問題となっていた黒人差別問題にメスを入れた。彼の監督としてのスタンスが、死の直前まで揺らぐことがなかったなによりの証拠である。弟のロバート・ワイラーは脚本家で、「大いなる西部」と「探偵物語」(1951年)で脚本を執筆している。


●フィルモグラフィー

1969年「L・B・ジョーンズの解放」
1968年「ファニー・ガール」
1966年「おしゃれ泥棒」
1965年「コレクター」
1961年「噂の二人」兼製作
1959年「ベン・ハー」
1958年「大いなる西部」兼製作
1956年「友情ある説得」兼製作
1955年「必死の逃亡者」兼製作
1953年「ローマの休日」兼製作
1951年「黄昏」兼製作
1951年「探偵物語」兼製作
1949年「女相続人」兼製作
1946年「我等の生涯の最良の年」
1945年『FIGHTING LADY』(未)
1944年「メンフィス・ベル」(未)
1942年「ミニヴァー夫人」
1941年「偽りの花園」
1940年「月光の女」
1940年「西部の男」
1939年「嵐ケ丘」
1938年「黒蘭の女」
1937年「デッドエンド」
1936年「孔雀夫人」
1936年「この三人」
1936年「大自然の凱歌」
1935年「お人好しの仙女」
1934年「白蛾」
1933年「巨人登場」
1932年「北海の漁火」
1932年「やりくり宝船」
1932年「鉄血士官校」
1930年「砂漠の生霊」
1930年「嵐」
1929年「熱血阿修羅王」
1929年「恋のからくり」
1928年「君を尋ねて三千里」
1927年「新時代」
1926年「稲妻の男」
1926年「戦友の為」

●受賞歴

【アカデミー賞】
1965年:アーヴィング・タールバーグ記念賞
1959年:監督賞「ベン・ハー」
1946 年:監督賞「我等の生涯の最良の年」
1942年:監督賞「ミニヴァー夫人」

【カンヌ国際映画祭】
1957 年:パルム・ドール「友情ある説得」
 
【ヴェネチア国際映画祭】
1938年:芸術メダルと文化大臣賞「黒蘭の女」
 
【NY批評家協会賞】
1946年:監督賞「我等の生涯の最良の年」
1945年:特別賞『FIGHTING LADY』
 
【ゴールデン・グローブ賞】
1959年:監督賞「ベン・ハー」

いつぞやも、映画監督には2種類あって、1つの分野を突き詰めて傑作をものにするタイプと、あらゆるジャンルに手を伸ばし、そのいずれにおいてもある一定のレベルの作品を作ってしまう器用なタイプがあると書いたことがあります。後者は特に、“職人監督”という、わかったようなわからんような(笑)呼ばれ方をされることが多いですね。
“器用貧乏”という言葉があるように、なんでも小器用にこなしてしまう人間に対して、昔から日本ではことさら低い評価を与える傾向にあります。手先が繊細で器用というのは日本人の特筆すべき美点であるにも関わらず。器用さがなんだか恥ずかしいことででもあるような認識は、おそらく日本人の欧米コンプレックスに遠く起因していると思っているのですが、いかがでしょう。パワフルで豪快で細かいことはいちいち気にしない底抜けの明るさ=欧米列強という根強い意識、そんな国々に敗戦した日本人という拭いきれない後ろ暗さ。長年培われてきたそういう図式はそう簡単に覆ることはなく、昔ながらの日本独特の美しい習慣や考え方を壊してしまった…。

まあそれはともかく。

今でも、なんでもこなす器用な監督は、優等生的であっても没個性的で面白みに欠けると判断されがちですよね。強烈な個性を持ち、どの作品に於いても己のカラーを反映させるような監督もいいですが、そんな人たちばかりをありがたがるのも良し悪しです。監督とは、個性的である以上に演出の才に秀でてこそ、高い評価を得るべきだと思うからです。どんなジャンルであれ、脚本の内容とテーマを咀嚼し、それに見合った才能を持つスタッフとキャストを選び、自身の意図する映像を創造するために彼らを上手く指揮し、そのもてる力を最大限引き出してこそ、本物の監督。まっこと監督とは、映画製作という集団作業に於ける総合指揮官なのですね。
ワイラー監督は、まさにそういった意味で、正真正銘本物の映画監督だったと思います。彼がその生涯の間にいくつ賞をとったかということではなく、どんな分野の映画でも、それが望みうる最高の形で表現されている事実そのものが、その非凡を物語っているのです。

男女の間の複雑な機微を、繊細にかつ格調高く描いた作品群―「孔雀夫人」「黒蘭の女」「嵐が丘」「月光の女」「女相続人」「偽りの花園」「黄昏」―では、こと女性の側の描き方に尋常ならざる深みがみられます。単なる悪女、あるいは単純で軽佻浮薄に見えるヒロインであっても、その心のうちには深い闇を抱えていることがたやすく察せられるのですね。ワイラー監督が戯曲や小説の映画化を好んだのも、映像芸術である映画に文学的な解釈を与えることを目指したからではないでしょうか。長廻しショットやパン・フォーカスといった技術的な特性は、映画を舞台劇のように見せるためのものですし、空間に生み出されるリアルな間や緊張感は、観客が小説を読むように登場人物の心理を推測できるよう工夫されたものだと思うのです。「デッドエンド」や「探偵物語」といった群像劇でも、あるいは「噂の二人」「コレクター」「必死の逃亡者」といったサスペンスフルな心理劇でも、常にスポットライトが当てられているのは人物の内面。映画ならではの描写に目が奪われがちですが、ワイラー監督の、一貫性がないように見える作品群を貫くのは、人間の複雑な心理の襞を解き明かそうとする姿勢なのですね。

登場人物の内面の変遷を余すところなく描く点に加え、「我等の生涯の最良の年」や「友情ある説得」などにおいて特に顕著なように、反戦というテーマを追及することにある種の執念を燃やしていたことも注目すべきでしょう。後者は南北戦争に巻き込まれた敬虔な農民一家の苦労を描き、非暴力を貫くことの困難さでわかりやすくテーマを現出しました。問題は、戦後のアメリカに歓喜をもって迎え入れられた「我等の生涯の最良の年」ですね。3人の復員兵が社会復帰に難渋するというドラマを通じて、監督が本当に言いたかったことはなにか。戦争で勇敢に戦った兵士を受け入れようとしない、社会の非寛容でしょうか。戦争によってそれぞれに傷ついた3人の男たちの、人生の模索の末にたどり着いた“幸せ”の意味でしょうか。私は作品の背景に、監督の持つ戦争への憎しみにも似た嫌悪感を感じて仕方がありません。それは、マイノリティーに対する社会の非寛容への憤りと言い換えてもいいかもしれません。自身、スイス人とドイツ人のハーフという身の上で、特に第2次世界大戦後は、アメリカではなにかと差別の目を向けられていたであろうことは想像に難くありません。無意味に人間を殺戮し、マインドコントロールして人間性をも抹消していく戦争への拒絶感、結果的に戦争を容認してきた社会への不信感といったものが、この2作には特に顕著であるように思われるのです。

ワイラー監督の手腕はまた、役者から最良の演技を引き出すことでも充分発揮されました。撮影中の不仲は周知の事実でしたが、3作品で組んだベティ・デイヴィス然り、あるいは、彼の作品で鮮烈なイメージを確立したオードリー・ヘップバーン然り。デイヴィスといえば「黒蘭の女」を思い出し、ヘップバーンといえば「ローマの休日」を思い出すといった風に、役柄と完璧にシンクロする名演技であったが故に、その後の彼女たちのイメージまでもが固定されてしまったほどです。他にも「ベン・ハー」の主役チャールトン・へストンなど、ワイラー監督と組んでオスカーに輝いた俳優は枚挙に暇がありません。
また、反骨の劇作家リリアン・ヘルマンとの友情が示すとおり、ワイラー監督の作品ではしばしば劇作家が脚本を担当し、舞台劇を観ているような、辛らつでウィットに富んだ台詞が数多く創造されています。監督がなにより脚本と台詞の出来を重んじた証拠ですね。それがまた、その諸作品に独特の品格を与えることに寄与しています。

前述した通りワイラー監督は、その優しげな外見からは想像もつかないほど、現場では鬼監督で鳴らしたそうです。撮影現場の雑用から叩き上げたキャリアが物語っていますが、彼が常に映画と真正面から向き合い、突飛な表現方法や奇をてらった手法に逃げることなく正攻法で映画を撮り続けたのも、監督としての絶対的な自信がその内にあったからでしょう。愚直なまでの真摯さを批判されようが、映画製作のあらゆる側面において、最高の結果を残してきたワイラー監督の実績は、彼自身の“完璧”への飽くなき追及と、絶えざる努力、そしてなにより映画を愛する心が支えたものだったのです。

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テアトル十瑠
2010/02/20 21:17

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