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zoom RSS 何処にもいない貴方―「アイム・ノット・ゼア I'm not There」

<<   作成日時 : 2013/06/08 23:46   >>

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どれほど悠久の世紀が流れるのか
山が海となるには
どれほど人は生きねばならぬのか
ほんとに自由になれるために
どれほど首をかしげねばならぬのか
何もみてないというために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない

―“風に吹かれて Blowin' In The Wind”から一部抜粋 (アルバム「Free Wheelin」(1963年)収録)


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「アイム・ノット・ゼア I'm not There」(2007年)
監督:トッド・ヘインズ
製作:クリスティーン・ヴァション他。
原案:トッド・ヘインズ
脚本:トッド・ヘインズ&オーレン・ムーヴァーマン
撮影:エドワード・ラックマン
プロダクションデザイン:ジュディ・ベッカー
衣装デザイン:ジョン・ダン
編集:ジェイ・ラビノウィッツ
音楽監修:ランドール・ポスター&ジム・ダンバー
出演:クリスチャン・ベイル(ジャック/ジョン牧師)
ケイト・ブランシェット(ジュード)
マーカス・カール・フランクリン(ウディ)
リチャード・ギア(ビリー)
ヒース・レジャー(ロビー)
ベン・ウィショー(アルチュール)
クリス・クリストファーソン(ナレーター)
ジュリアン・ムーア(アリス・ファビアン)
シャルロット・ゲンズブール(クレア)
ミシェル・ウィリアムズ(ココ)
ブルース・グリーンウッド(キーナン・ジョーンズ/ギャレット)他。


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アルチュール・ランボーを気取る青年が登場する。試験官は、彼になぜプロテスト・ソングをやめてしまったのか訊ねた。男たちの前でタバコの煙をふかしながら、青年は詩の韻律のような不可解な言葉でその理由を語り始める。


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サーカスを追い出され、憧れていたウディ・ガスリーに会いに行こうと、放浪の旅に出た黒人少年ウディ。高価そうなギターを抱え、ご機嫌なブルースを歌うウディを見て、そのギターを奪おうと襲い掛かってくるホーボーたちがいた。彼らから逃れ、川に落下したウディはあるレディに助けられる。着のみ着のままで食べるものにも事欠く生活だった彼にとって、レディの家での安楽な暮らしは天にも昇る心地であった。しかし、やがてそこにも居辛くなり、再び放浪の旅に戻る。ウディは一人のブルース・シンガーの家に転がり込み、そこではじめて心から本物のブルースを歌うことが出来た。おまけにその家の“ママ”は、同じ黒人で身寄りのない少年ウディを殊のほか可愛がってくれたのだ。ようやく安住の地を見つけたかに思われたのだが、ウディは優しい“ママ”にそっと別れを告げ、またしてもたった1人で放浪の旅に出る。目指すは、ウディ・ガスリーが入院しているという病院だった。
見舞う人とてないウディの傍らに座った少年は、この世で唯一自分の歌を聴いて欲しかった人に、その声を捧げる。静かに響くギターの音色は、いつまでも病室内にこだましていた。少年は、ここでついに捜し求めていた己のルーツにたどり着いたのである。


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アコースティック・ギターを掻き鳴らし、一心にプロテスト・フォークを歌った青年ジャック。彼はたちまち時代の寵児となり、本来彼がプロテストしてきたはずの人々…音楽業界のお偉方、上流階級の人々の世界に取り込まれてしまう。自身が理想とする音楽と、心ならずも自身が属する虚飾の世界の間に広がっていく溝。元来理想家肌で繊細な彼は、音楽業界そのものの在り方に次第に耐えられなくなってくる。しかし、悩み苦しむ彼に、“それ”は突如訪れた。激しい雨が降りしきるある夜、ジャックは夜空に鮮やかな神の啓示を見たのだ。程なくして、彼は人々の前から姿を消した…。ジャックとコンサートで共演したことがある歌手アリスは、才能溢れるフォーク・シンガーであった彼との思い出を、かみ締めるように語る。
ジャックは現在、とある教会で牧師となっていた。教会の中で、信者たちを前に力強く生きる道を諭すジョン牧師。神の啓示を見た後、ジャックは牧師になるために学び、再び煌びやかな音楽業界に戻ることはなかった。しかし現在の彼は、自らが掴み取った神の言葉をゴスペルのメロディにのせ、信者たちの見守る前で歌っている。その自信に満ちた姿は、かつてフォーク・ソングで世界に革命を起こそうと夢見て果たせなかった彼が実感する、“理想”そのものであったのだろう。


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かつて一世を風靡したシンガーでありながら、忽然と姿を消し、信仰の道に入ったという伝説のフォーク・シンガー、ジャックの伝記映画を撮影するため、精力的にカメラに向かう男がいた。ロビーという俳優だ。彼は、自らが主演する伝記映画で名実共にスターになることを切望していた。果たして、その希望は程なく叶えられる。映画も彼の演技も評判を呼び、ロビーは一躍人気俳優となったのだ。おまけに、撮影中に知り合ったフランス人女流画家クレアと熱烈な恋に落ち、結婚までしてしまった。ロビーは公私共に充実していたはずだった。
しかしながら、ロビーとクレアの結婚生活は、実は長女の誕生と共に軋み始めていたのだ。アメリカ人とフランス人の間に潜在的に横たわるギャップだけでなく、売れっ子となったロビーにとって、映画業界は誘惑の多い世界であった。撮影に次ぐ撮影で家に不在のときが多くなった彼は、クレアと2人の娘たちと一緒にいられる時間を確保することができなくなる。クレアも仕事を再開し、ロビーはますます妻との間に距離感を覚える。そんな彼が、撮影中ずっと一緒に過ごす共演女優と浮気に走るのは避けられない事態であったといえよう。こうして、ついにロビーとクレアの結婚生活はごまかしようがないほど破綻し、2人は離婚する。可愛い盛りの2人の娘の養育権を巡り、2人は泥沼の裁判沙汰を演じねばならなかった。


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ジュードはかつて、ギター1本を抱えてフォーク・ソングを歌っていた。彼の歌は、社会の下層部にいる人々にとっての心の支えであり、音楽の良心を伝えるものであったのだ。しかし、彼はとあるコンサート会場に立った時、突如としてアコースティック・ギターをエレキ・ギターに持ち替える。観客におもちゃの機関銃の銃弾を浴びせかけた彼は、その騒々しいロックンロールを嫌う観客によって、逆に罵声を浴びることになる。
ジュードは変わった。美しいフォーク・ソングをかなぐり捨て、ロックンロールをシャウトし、かつての彼が唾棄していた驕慢な資本主義の権化のようなロック・スター・ライフを自ら演じてみせる。その変貌振りに、昔の彼を知る者の多くは離れていった。観客だけではなく音楽業界からも大きな反発を受ける彼であったが、新たなバンド・メンバーと共に未開の境地であるロックンロールを演奏し続ける。永遠に変わらないものなど何処にもないと嘯きながら。水を得た魚のように業界を泳ぎ回る人気モデル、ココと、キーナン・ジョーンズだけは、そんな彼の虚勢を見抜いていた。お互い似た者同士のココとジュードは、しかし、恋人同士として結ばれることは決してなかった。一方ジョーンズは、ジュードが必死に隠そうとする実体のない“恐怖心”を暴く。本来ならジュードの最大の理解者であるはずの彼は、こうしてジュードにとっての愛憎入り混じる宿敵となってしまった。
自分自身が密かに理想とする音楽のスタイルと、周囲が自分に求める音楽の間に埋めがたい溝があることを知りつつ、周囲から押し付けられる“レッテル”の重圧に押しつぶされそうなジュード。アレン・ギンズバーグとのスピリチュアルな触れ合いや、酒やドラッグに一時の避難所を求めつつ、彼は必死に“新しい自分”を演じ続けるが、やがてある悲劇が襲い掛かってきた。


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西部開拓時代。南部のある村で静かな生活を送る初老の男がいた。1匹の犬と1頭の馬だけを相棒に、コミュニティーの人々とも関わりを持とうとしない彼は“ビリー”と呼ばれていた。彼がかつて何をやっていたのか、またどうしてこんな村で身を潜めるように暮らさねばならないのか、それどころか彼の苗字は何なのかすら、誰も知らない。だがその風変わりな男は、コミュニティーの中の暮らしを心から楽しんでいる風にも見えた。そんなある日、ビリーに大きな事件が降りかかる。
真っ白になった髭が顔中を覆い尽くしているかのような老人が、不自由な足を引き摺りつつ、共の人間を引き連れてコミュニティーを訪れたのだ。 昔、無頼のアウトローとして国中を混乱に陥れ、多くの人命を奪った男を捜しているという。老人ギャレットが示した指名手配書の中の男は、まだ少年と言ってもいいほどの若者で、コミュニティーの人々はそれが誰だかわかるべくもなかった。ところが、ビリーだけはギャレット老人を見て顔色を変える。彼の脳裏に、かつての親友にして宿敵の顔が走馬灯のように浮かび上がった。死期が間近いに違いないパット・ギャレット保安官は、いまだ執念深くビリー逮捕を諦めていなかったのだ。ギャレットの方も、初老の髭面の男が“ビリー”であると悟ったようだ。ビリーはコミュニティー内唯一の友人の手引きで脱走、着のみ着のままで貨物列車に飛び乗る。相棒であった飼い犬がビリーの後を追って走ってきたが、やがて力尽きてしまった。こうしてビリーは、再びたった1人で放浪の旅に出ることになった。しかし、孤独と放浪は既に自身の分身のようなものだ。ビリーは、列車内に置き去りにされていた古ぼけたギターを手に取ると、静かにそれを爪弾き始める。空はどこまでも青く、その下で孤独な男が奏でるギターのメロディに黙って耳を傾けているようであった。


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ボブ・ディランというアーティストは、時代の変遷に従ってその音楽性をくるくると変化させてきた人だ。
キャリアの初期には、プロテスト・ソングを歌うフォーク・シンガーとして脚光を浴び、突如アコースティック・ギターをエレキ・ギターに持ち替えてからは、シャウトするロック・スターとなり、時には俳優としても活動し、ロックンロールに飽きるとR&Bやゴスペルに傾倒したりもした。そして、つい最近では初めてのクリスマス・アルバム(収益は全て寄付される)なんかを発表したりして、68歳になる現在も現役バリバリの達者な爺さんである。

要はこの御仁、飽きっぽい人であるのだろう。自分のイメージに固定した色が付いてしまうと、それを嫌ってファンを煙に巻くようなイメージチェンジを次々と敢行する。昔ながらの彼のファンは、一つ所にじっとしていられない男の気まぐれについていかねばならんわけで、ある意味大変だろうと思われる。しかもこの御仁、なにをやらせても高い才能を発揮するのだから困ったものだ(笑)。生真面目なマーティン・スコセッシ監督の長大なディラン・ドキュメント映画「ノー・ディレクション・ホーム」や、自らディラン狂を公言するトッド・ヘインズ監督の、ディランへのラブレター「アイム・ノット・ゼア」からのインプットを待つまでもなく、ボブ・ディランは、変化によって何かを失うことを恐れなかった男であることはよく理解できる。

私の周囲にいるディラン・フリークに話を聞いてみても、フォーク時代のディランが最高だという人もおれば、いやいやロック時代の彼が一番とんがっていて素晴らしい、という人もいて、ディランという不思議な存在の全体像を把握しているファンは存外少ないとの印象を受ける。だが、この「アイム・ノット・ゼア」を作ったトッド・ヘインズ監督は、ひょっとしたら、その数少ないディランの真の理解者のうちの1人であるのかもしれない。

今作は、ウディ・ガスリーを敬愛した青年時代、フォーク・シンガーとして一世を風靡した時代、歓声と罵声を浴びたロック・スター時代、俳優として活動した時代、ゴスペルにハマっていた時代、業界から距離を置いていた時代…の、それぞれのディランが残したエピソードを元に創作されたお話を、6人の異なる俳優に演じさせたもの。そうそう、各エピソードを繋ぐ狂言回し的存在として、“ランボー”なる詩人が登場するが、これは、難解な歌詞を書いて一部から批判されたディランの側面を象徴したキャラクターである。このアイデア自体は一見奇抜に見えるが、ディランというアーティストを表現するには、実は最も適した方法であると思う。なにしろ彼は、いとも軽やかにしかも何度も何度も、たった一度の人生において自分自身を生まれ変わらせてしまったのだから。

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6つのエピソードは、それぞれ異なった個性と魅力を備えていて、切り離して独立させても充分ひとつのドラマとして機能するだろう。ヘインズ監督は、ディランの持つ多面的な素顔を、実際の逸話と監督自身の想像とをミックスさせて、これらのエピソードに昇華させたのではないかと思っている。個人的に特に気に入っているエピソードは、病床にあったウディ・ガスリー本人に会うために流離う少年のお話と、フォーク・シンガーであったジャックが信仰に目覚めるお話、そして、西部開拓時代と思しき頃、老齢にある男ビリーが安住の地を求めて再び放浪の旅に出るお話だ。この“ビリー”とは、実はアメリカの伝説的アウトロー、ビリー・ザ・キッドの暗喩であり、同時に、1973年のサム・ペキンパー監督の映画「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」に、俳優として出演も果たしたディラン本人のイメージも重ねられている(映画と同時にリリースされたアルバム「ビリー・ザ・キッド」には名曲“天国への扉”が収録されている)。
ヘインズ監督自身は、リアルタイムで触れたディランの一側面である“ロック・スター時代”に特に思い入れがあるそうで、なるほど、劇中でも、ロック・スター・ディラン、すなわちジュードのエピソードに最も長い時間が割かれている。
正直に白状すると、私自身は上記3つのエピソードの完全な長尺版を望んでしまう(笑)が、考えてみれば、制限された短い時間内で語られたストーリーであるからこそ、観客の側には、映像として“語られないストーリー”を想像する余地が残されているわけだ。それが、映画としての余韻を生んだのかもしれない。まあ、本物のディラン当人に思い入れがあまりない人間のたわごとなので、聞き流してくれればいい。
各エピソードに共通するのは、人が“ここではないどこか”へ行こうとするのはなぜなのかを、ヘインズ監督なりに解釈したものだという点。人間が本質的に抱えている放浪への願望、社会のしがらみから逃れようとする本能は、絶えずどこかを彷徨っているようなディランのイメージの核と共鳴する。従って、ディランの生き様そのものが、人間の一生における“アイデンティティ探し”という根源的な問題を提示しているようにも感じられるだろう。ディランという1人の人間像を解析するのに、わざわざ6人の異なる人間の顔が用意されたのには、今作を単なる伝記映画以上の、より普遍的な作品にしようとする意図があったのではないか。

さて、今作に関して拒否反応を示されている方の多くが指摘する部分に、それぞれ時代も背景も異なる6つのエピソードを無作為に交錯させる、“ザッピング”という表現方法がある。これは、トッド・ヘインズ監督がデビュー当時から好んで用いている手法であり、サンダンス映画祭で注目された「ポワゾン」というオムニバス仕様の作品でも大胆に取り入れられていた。この手法、観る側にしてみれば、映像上で起こる事象を順序だてて説明してくれない歯がゆさがあり、作品の理解にも当然混乱を招く。だが、上手く編集すれば、作品に独特のリズムが生まれる可能性もあるのだ。尤も、デビュー当時ならまだしも、このような名の知れたスター達が競演するメジャーな作品でのザッピング導入は、確かにリスクを伴うものだろう。
ヘインズ監督は、もはや十八番となった感のあるこの演出方法でもって、ある1人の人間の思考の流れ―今作では各時代を生き抜いていくディラン本人の思考と、そのディランを見つめるヘインズ監督自身の思考―を、あるがままに映像に写し取っている。まるで、人間の深層心理の奥深くに眠っている、本人も気付いていないような、ある一瞬の心象風景を鮮やかに再現するかのようだ。スクリーンに連なっていく、様々な“イメージ”の綴れ織り。それは、おそらく次の瞬間には消えてしまうか、形を変えて別のものになってしまうものだ。ディランが今作を気に入ったのは、ひょっとしたら、自分自身も知らなかった、そんな儚い原風景に気付かされたせいかもしれない。

映画としての良し悪しは別として、今作の映像の流れに身を任せてみる体験は、素晴らしい音楽のメロディーに身をゆだねることにとても似ていると思う。


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