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zoom RSS ベルリン “嘆きの天使”の歌―マレーネ・ディートリッヒMarlene Dietrich

<<   作成日時 : 2015/02/02 20:04   >>

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A mysterious glow, a "je ne sais pas quoi"
Lies always in the eyes of a beautiful woman
But if my eyes connect with yours and
Dive in them too deeply, then what do they say?

―“Falling in Love Again”より

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マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)

1901年12月27日生まれ
1992年5月6日没(享年90歳)

ドイツ、ベルリンのシェーネベルク出身





●主なフィルモグラフィー

1930年「嘆きの天使 The Blue Angel」(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)
1930年「モロッコ Morocco」(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)
1931年「間諜X27 Dishonored」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
1932年「上海特急 Shanghai Express」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
1932年「ブロンド・ヴィナス Blonde Venus」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
1933年「恋の凱歌 The Song of Songs」
1934年「恋のページェント The Scarlet Empress」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
1935年「西班牙狂想曲 The Devil is a Woman」(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
1936年「真珠の首飾 Desire」
1936年「沙漠の花園 The Garden of Allah」
1937年「鎧なき騎士 Knight Without Armour」
1937年「天使 Angel」
1939年「砂塵 Destry Rides Again」
1940年「妖花 Seven Sinners」
1941年「焔の女 The Flame of New Orleans」
1941年「大雷雨 Manpower」
1942年「淑女の求愛 The Lady Is Willing」
1942年「スポイラーズ The Spoilers」
1942年「男性都市 Pittsburgh」
1944年「キスメット Kismet」
1946年「狂恋 Martin Roumagnac」
1947年「黄金の耳飾り Golden Earrings」
1948年「異国の出来事 A Foreign Affair」
1950年「舞台恐怖症 Stage Fright」
1952年「無頼の谷 Rancho Notorious」
1956年「モンテカルロ物語 The Monte Carlo Story」
1956年「八十日間世界一周 Around the World in Eighty Days」
1956年「黒い罠 Touch of Evil」
1957年「情婦 Witness for the Prosecution」
1961年「ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg」
1964年「パリで一緒に Paris, When It Sizzles」
1979年「ジャスト・ア・ジゴロ Just a Gigolo」
1984年「MARLENE/マレーネ Marlene」
2001年「真実のマレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich: Her Own Song」(マレーネの孫デヴィッド・ライヴァ監督のドキュメンタリー)

彼女が“マリー・マグダレーネ・ディートリッヒ”として生を受けたのは1901年、ドイツはベルリンであった。父はプロイセン近衛警察士官。厳格な家柄にあって、マリーは1919年、国立ヴァイマール音楽学校に入学する。プロのバイオリニストを目指していたのだが、音楽家としては生命線ともなる手首を痛め、バイオリニストの道は断念せざるをえなかった。
1921年、マックス・ラインハルト主催の演劇学校に進み、天性のカリスマ性と美貌でたちまち注目を集め、翌1922年にはドイツ映画で銀幕デビューを飾っている。1924年にルドルフ・ジーバーと結婚して1女マリアをもうけ、主婦業をこなしつつ精力的に女優活動を続けたが程なく別居。ジーバーがカトリックであったために離婚こそしなかったが、その後マリーはジーバーと共に暮らすことはなかったという。

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1930年、ベルリンで舞台出演中にジョセフ・フォン・スタンバーグ監督にスカウトされ、運命の映画「嘆きの天使」に主演した。今作はまた、ドイツ映画初のトーキー映画でもある。また“マリー・マグダレーネ・ディートリッヒ”であった名前を、“マレーネ・ディートリッヒ”と改めた。「嘆きの天使」の国際的なヒットにより、マレーネはスタンバーグ監督共々、一躍脚光を浴びることになる。後年のマレーネのトレードマークとなる、高い頬骨、細いあご、同じく細い細いウェスト…といった鋭角的な容姿の面影はまだなく、若々しい、幾分ぽっちゃりとした容貌であったが、カモシカのようにすらりと伸びた見事な曲線美は既に完成されていた。しかし、いまだ洗練の余地を残す美貌には、マレーネの代名詞でもある“退廃”と“官能”の萌芽をみることができる。「嘆きの天使」の劇中でマレーネがセクシーに歌った“Falling in Love Again”は、その後彼女の生涯のレパートリー・ナンバーとなった。

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彼女の演じたローラは、エミール・ヤニングス演じるラート教授にとっての“ファム・ファタール”であったわけだが、ローラ自身には教授を翻弄し、その人生を破滅せしめた意識などこれっぽっちもない。ただ単に、自分の生きたいように生きているだけであり、意図して誰かを犠牲にしようなどとも考えていないだろう。教授が破滅の深淵に堕ちていったのは、彼自身がそのような人生を選択したせいなのだ。そこが、この名作の最もやりきれない部分であり、おそらく、教授の没落にヴァイマール帝国の滅亡そのものが暗示されているのだろう。対するローラことマレーネは、天性の才覚で、既に天使の顔と悪魔の心を自在に演じわける術を心得ており、彼女のキャラクターこそが、新しいドイツを牽引する若い世代の象徴だとも考えられる。

このエキゾチックなヴァンプ女優に注目したパラマウント・ピクチャーズは、1930年の映画「モロッコ」で、ゲイリー・クーパーの相手役としてマレーネを招聘した。「嘆きの天使」の監督スタンバーグも一緒にアメリカに渡り、2人はこの後数作でコンビを組み、共に名作を生むことになる。スタンバーグ監督は、最も美しい時期のミューズの、最も美しい瞬間をフィルムに焼き付けていったのだ。思えば、この30年代中盤までが、マレーネの映画女優としての最盛期であった。しかしその輝かしい成功の裏側には、マレーネを崇め、愛したスタンバーグ監督の厳しい指導と、マレーネ自身の血のにじむような努力があったことを忘れてはならない。ちょっと美しくて歌が上手いぐらいでは、ハリウッドでは簡単にはスターになれない。スタンバーグ監督は、若い娘特有のぽっちゃりした体型だったマレーネに徹底したダイエットを敢行させ、“100万ドルの脚線美”とも謳われた長い脚をさらに強調。また、顔の彫りを深くするために奥歯を抜くなど、マレーネの専売特許となる中性的で鋭角的な美貌を造りだした。そうして生み出されたマレーネの個性は、当時ハリウッドの女王として君臨していたグレタ・ガルボに充分拮抗しうる魅力を放ったのだ。
特にスタンバーグ監督作品の中では、マレーネは、流線型を描く美しいボディラインと脚線美を見せ付けるかのような衣装を必ず身に纏っている。また、映画「モロッコ」で着こなしてみせたように、燕尾服をはじめとする男装も見事に着こなしてみせている。細身になった身体には、こと男装がよく映えた。ゴージャスなドレスでブロンドを輝かせ、下から掬い上げるような独特の上目遣いで男どもを蕩けさせるかと思えば、「モロッコ」で見せたように、シルクハットと燕尾服とくわえタバコで粋なジゴロさながらのポーズを決めたり。男性性と女性性を変幻自在に操る魔性、これこそマレーネの魅力だといえるだろう。それが例え人工的に作られたものであったとしても、それを完全に自身のアイデンティティの一部にしてしまったのは、純然たる彼女の才能であると思う。

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スタンバーグ監督とマレーネのコンビ第2作目「モロッコ」では、完全主義者スタンバーグの十八番絢爛たる映像絵巻と、印象的なラストシーンで映画史の記憶に残った。次の「間諜X27」では、伝説的な魔性のスパイ、マタ・ハリに扮し、軍服姿で逆説的に観客を酔わせる。ここでもまた、ラスト、悲劇の銃殺刑に処される直前の粋なシーンで、映画ファンの関心をさらった。ナチスが台頭し始めた母国ドイツに危機感を覚えたマレーネは、今作を期に、娘マリア共々アメリカに亡命する。更なるコンビ作「上海特急」は、彼らにとって最高の興行成績をあげた作品となった。セクシーなドレスとゴージャスなブロンドで再びヴァンプを演じた「ブロンド・ヴィナス」では、ハリウッドきっての2枚目俳優ケイリー・グラントをかすませるオーラを発揮。ヒトラーからの再三の帰国要請をはねつけ、ナチスのユダヤ人迫害を公然と批判したマレーネは、「恋の凱歌」公開後、ついに愛するドイツへの入国を禁じられる。ドイツ国内では、マレーネの出演映画が上映禁止となった。再びスタンバーグ監督とコンビを組んだ「恋のページェント」では、監督は製作会社の予算を湯水のように使い、セットや衣装、細かい小道具に至るまで豪奢なロシア王朝を再現してみせた。古風なコスチュームに身を包んだマレーネは殊のほか美しく、いつものけだるげな官能性を封印して、演技で女王の風格を十二分に表現している。

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そして次のコンビ作「西班牙狂想曲」で、またしてもエキゾチックなヴァンプを演じたマレーネであったが、さすがにこの黄金コンビによる作品も観客に飽きられてきてしまい、興行的には失敗となった。結果的に、今作がスタンバーグ監督とマレーネの最後のコラボレーションとなる。実はこの頃、マレーネは作家アーネスト・ヘミングウェイと知り合っている。彼は、他の数多いマレーネの恋人達と違って、反ナチスの立場を明らかにするマレーネの気骨ある生き方に敬意を払っていた。マレーネも無骨で繊細な彼を気に入り、2人は彼が亡くなるまで本当の意味で親友同士となるのだった。

スタンバーグ監督とのコンビを解消したマレーネ自身も、この後のキャリアは下降線を辿っていく。1936年にはついにパラマウントを離れ、別の製作会社で「沙漠の花園 」に出演。今作で共演したシャルル・ボワイエと意気投合し、フランスとの縁が深まるも、結局これが元でパラマウントとの契約問題がこじれて解雇されてしまう。1937年の「鎧なき騎士」はイギリスでの製作。名プロデューサー、アレクサンダー・コルダの映画であったが、戦争の影響で日本ではフィルムに検閲が入った。再び古巣パラマウントに戻り、名匠エルンスト・ルビッチと組んで「天使」を撮りあげるも、興行は大失敗。事実上パラマウントから契約を切られた状態になったマレーネは、映画出演を諦め、アメリカとヨーロッパを往復。その際に作家エーリヒ・マリア・レマルクと知己を得て、たちまち彼を虜にしてしまう。1939年には、路線変更に挑んだ娯楽ウェスタン「砂塵」で、酒場の女フレンチー役で大暴れする。映画界でのキャリアも息を吹き返し、マレーネはついにアメリカの市民権を獲得した。しかし、ヒトラーの最後通告も断固拒否したため、ナチスの息のかかったドイツの新聞では、彼女を“裏切り者”と書きたてた。

1940年代に入ると、マレーネはますます芸域を広げていき、コメディ映画や西部活劇などで軽妙な演技を披露するようになった。1942年からはブロードウェイの舞台にも立ち、ナチスに占領されたフランスから亡命してきた、多くのフランス映画人と知り合う。後に恋に落ちたジャン・ギャバンもその1人。1942年の活劇「男性都市」でジョン・ウェインと再共演を果たすと、一時映画界から離れ、1943年からUSOの一員として活動を始める。ヨーロッパ各地を巡業し、アメリカ軍兵士の慰問にこれ務めたのである。彼女は、ララ・アンデルセンが最初に歌った楽曲「リリー・マルレーン」をカバーして慰問先で歌い続け、連合軍のために戦う兵士の無聊を慰めた。3年間の慰問巡業は常に危険と隣り合わせであったが、マレーネはあくまでも反ナチスの立場を翻そうとはしなかった。1945年、パリに落ち着いたマレーネは、第2次世界大戦の終結をジャン・ギャバンと共に祝う。この頃、フランスの知識人と多数知己を得る。特にジャン・コクトーとエディット・ピアフとは、無二の親友となった。ギャバンとは、1946年に「狂恋」という共演作を製作している。マレーネは、天性の美貌だけでなく、その持ち前の知性とウィットと抜群の行動力で、出会う人全てをすぐさま虜にした。彼女の交友は、映画界の人間だけではなく作家や画家、音楽家など広い範囲に及び、その誰とでも対等に会話することが出来たそうだ。彼女の大きな魅力の一つであろう。
1947年の「黄金の耳飾り」でハリウッドに復帰。USOでの連合軍への貢献に対し、アメリカからは自由勲章を、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。

1950年には、アルフレッド・ヒッチコック監督のサスペンス「舞台恐怖症」に主演した。淑女と娼婦の二面性を持つ女性を理想としていたヒッチコック監督は、マレーネの中に屈折した性的魅力を見出し、彼女に最大限の賛辞を送っている。ドイツ映画史を代表する巨星フリッツ・ラング監督の、アメリカ亡命後の西部劇「無頼の谷」(1952年)に出演後は、歌手としての活動の方が中心となる。また、この時期のマレーネの恋人名簿帳の中には、あの俳優ユル・ブリンナーの名前もあったという。彼女はアメリカやヨーロッパを公演してまわり、チャリティー・ショーも積極的にこなしていった。

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その後のマレーネの出演映画の中で注目すべき作品はただ一つ、ビリー・ワイルダー監督の法廷サスペンスドラマ「情婦」(1957年)である。世界中で評判を呼んだ、作家アガサ・クリスティの法廷劇「検察側の証人」の完全映画化となる。ストーリーの性質上、詳細を明かせないのが心苦しいが、舞台劇特有の緊迫感を再現しつつ、映画ならではのトリックを巧妙に用いて見事なクライマックスを引き出したワイルダー監督の、これは名作と呼んで差し支えない作品であろう。映像の隅々まで計算しつくされた、緻密なる法廷劇だ。その中にあって、マレーネも渾身の名演を披露している。

1960年には、マレーネ念願のワン・ウーマン・ショーをドイツ国内で開催。ステージは満員の観客で大盛況だったが、一部からは彼女を“売国奴”呼ばわりする罵声も飛んだ。ナチスがドイツに残した傷跡は、想像以上に深いものであったのだ。ドイツを“裏切って”アメリカに日和ったと捉える人々がいる一方で、ドイツの生んだ偉大なる大スター、マレーネ・ディートリッヒの帰還を拍手で迎える人々もたくさんいた。マレーネ自身は、正しいドイツ人としての誇りを片時も忘れたことはなく、純粋にナチスの間違った行いを憎んでいただけだと理解できる。戦後、時間はかかったものの、その彼女の確固たる生き様は多くの人々の共感と尊敬を呼び、スターとしての彼女を永遠不滅の存在にしたのだろう。
マレーネの不死鳥神話はもちろん日本でも健在で、1970年開催の大阪万博の際に来日し、コンサートを行った。また、1973年初夏に行われた、ピーエル・カルダンの劇場エスパル・カルダンでのショーには、パリきっての名士たちが駆けつけた。デザイナー、ジャン・ルイの素晴らしいドレスを身に纏ったマレーネは、絶頂期の頃と寸分たがわぬオーラを見せ、“生ける伝説”と化した。翌1974年には再び来日コンサートを行い、年齢を忘れたかのような旺盛な活動を続けていたマレーネであったが、1979年、コンサートの最中に足を骨折してその後の歌手活動を断念。同年に製作されたデヴィッド・ボウイ主演の退廃的なメロドラマ「ジャスト・ア・ジゴロ」にカメオ出演して、ピアノの伴奏と共にタイトル曲を披露したのを最後に、引退した。

引退後はパリに引き篭もる。公には全く姿を現さなかったが、熱心なファンからのファンレターが途切れることはなかったという。1992年、パリで逝去。死因は老衰による肝臓と腎臓疾患で、享年91歳。人生を太く長く貪欲に生き、炎のような恋に生き、死の瞬間まで己の信念を貫いた鉄の意志の人であった。葬儀はマドレーヌ寺院とベルリンで行われ、遺言により、遺骸は生まれ故郷のシェーネベルクにある実母の墓の隣に埋葬された。ベルリンのポツダム広場の隣にある広場に、故人の名前が残された。


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“私の人生ときたら!全く酷いもんだわ!”―マレーネ・ディートリッヒ

そして、“嘆きの天使”ことマレーネ・ディートリッヒは、2010年に創設されたドイツ版映画の殿堂に入ることになりました。1901年に彼女がこの世に生を受けてから、実に109年の年月が経過。2度の大きな戦争を固い意志で潜り抜け、泥沼化したベトナム戦争にアメリカが疲弊していたときにも、彼女は“花は何処へいった?”を歌って、反戦の意思を明らかにしています。圧力に屈することなく、徹頭徹尾、己の信念を貫いた人生は、世界中が寛容を失い、迷走し、緊迫感を増す一方の今の時代にこそ、その真価を私達に問うているのではないでしょうか。

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