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zoom RSS ユル・ブリンナーと私 --- Yul Brynner & I

<<   作成日時 : 2014/04/18 22:49   >>

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小学生のときの友人との会話
Q「○○ちゃん(館長の子供時代のあだ名)、だれか好きな人おるん?」
A「おるよ、もちろん」
Q「だれだれ?」
A「ゆる・ぶりんなー!」
Q「…何なん、それ?…」


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ユル・ブリンナー Yul Brynner

1920年7月11日生まれ
1985年10月10日没(享年65歳)
ロシア、ウラジオストック出身

本名はYuliy Borisovich Brynner。スイス国籍を持つモンゴル人の父親と、ジプシーの血を引くユダヤ系ロシア人の母親との間に生まれる。彼が生まれてすぐ一家は北京に移り、その後は中国大陸を点々とする日々を送った。ブリンナー10歳のとき、子供たちの教育のために一家はフランスに移住することを決意。ブリンナーも学校に通い始めるが、そのエキゾチックな容貌のためか同級生からのいじめに合い、彼自身もフランスの生活習慣や文化に馴染めず、すぐに学校を中退してしまう。
幼い頃から親しんできたジプシー達から音楽を教わり、13歳で年齢を偽ってパリのナイトクラブで弾き語りをするようになる。と同時に、屈強で俊敏な肉体を武器にサーカス団にも参加して、花形である空中ブランコ乗りとして活躍した。17歳のとき怪我のためにサーカスの道を断念、ピトエフ・レパートリー一座に入って演技の勉強を始める。俳優になるべく修行を積みながらも、ソルボンヌ大学で哲学を学ぶ秀才振りを見せ、学士号を取得する。

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野望を抱いて1941年渡米し、マイケル・チェーホフが教鞭を取る俳優養成クラスに入って演技を磨く。同年にはシェークスピアの舞台「十二夜」で初舞台を経験した。第2次世界大戦が勃発すると、舞台で鍛えた張りのある声を生かして国営放送のアナウンサーとなったが、戦後は俳優に復帰。CBSテレビのテレビ・シリーズ『Mr. Jones and His Neighbors』に出演し、共演した女優のヴァージニア・ギルモアと意気投合して1944年に結婚した。
次いでブロードウェイにも復帰、舞台『Lute Song』でメアリー・マーティンと共演して注目を集めた。1948年にはテレビ初のトーク・ショー番組『Mr&Mrs』に妻ギルモアと共に出演しながら、同番組の演出も手掛けるように。映画デビューは、1949年に製作されたラズロ・ベネディク監督の「ニューヨーク港」。転機は翌年1950年に訪れた。1946年にレックス・ハリスン、アイリーン・ダン主演で映画化された「アンナとシャム王」のミュージカル化が、ロジャース=ハマースタイン二世のコンビによって進められていたのだった。家庭教師アンナ役には、英国の女優ガートルード・ローレンスが抜擢され、シャム王役は当初レックス・ハリソンに打診されたが、スケジュールの都合で実現しなかった。困ったロジャース=ハマースタイン二世は、ノエル・カワードなど様々な舞台俳優をテストしたものの気に入らず、シャム王選びは難航する。ブリンナーは、以前舞台で共演したメアリー・マーティンの勧めで、このシャム王役のオーディションを受けることを決意。作詞作曲家コンビの前でジプシー民謡を歌って注目を引き、彼の、東洋の血を引くエキゾチックな容貌が決定打となって、主役の王様役を与えられた。

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新作ミュージカル「王様と私」の幕が1951年2月26日に上がると、舞台内容と共にブリンナーの素晴らしい存在感と歌、演技は大絶賛を浴び、スターの座をものする。1952年にはこの演技でトニー賞を受賞した。また舞台公演中に、衣装デザイナーのアイリーン・シャラフの薦めで髪の毛をそり上げ、結果的にエキゾチックな色気にあふれた彼の雰囲気をより強調するのに一役買った。屈強かつ威厳にあふれたシャムの王様のイメージと彼のスキンヘッドは別ちがたく、この舞台以降ツルツルの頭は彼のトレード・マークとなる。舞台の成功を受けて、ミュージカル「王様と私」は1956年に映画化もされた。ここでもブリンナーはタイトルロールの王様を演じ、1956年度アカデミー賞主演男優賞に初ノミニーで即受賞という快挙を成し遂げる。

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同年に製作されたセシル・B・デミル監督の遺作「十戒」では、モーゼと対立して苦悩するエジプト王ファラオを演じて、おなじみのスキンヘッドに頑強な肉体美を披露した。また、不倫のため長らくハリウッドを追放されていたイングリッド・バーグマンのハリウッド復帰作「追想」では、ヒロインをロマノフ王朝の末裔に仕立てるペテン師ボーニンに扮した。ここでは彼は、王家に相応しい女にするためヒロインを厳しく教育する強面の顔と、自堕落で哀愁漂うペテン師としての顔を巧みに演じわけ、助演ながら観客に強い印象を与えた。大スターの道を歩み始めたブリンナーは、「ソロモンとシバの女王」では急逝したタイロン・パワーの代役でソロモン王を演じ、安定感のある演技で英雄役をそつなくこなした。

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1960年には、自らリメイク権を買ってまで製作に意欲を燃やした念願の企画、西部劇「荒野の七人」に主演。この作品は、黒澤明監督の名作「七人の侍」(1954年製作)のリメイクであり、舞台を無法地帯の西部に置き換えたウェスタンである。ブリンナーはオリジナルで志村喬が演じていたリーダーに扮し、その頃はまだ新人であったスティーブ・マックィーンやチャールズ・ブロンソンを起用、彼ら若手の俳優達に負けないガン・アクションを披露した。ただ、撮影開始当初、ブリンナーのガン捌きはあまり褒められたものではなかったらしく、見かねたマックィーンやブロンソンに銃の扱い方を教わっていたという裏話もある。西部劇に新境地を開拓したブリンナーは、この作品の興行的成功をもって1966年に同設定の続編「続・荒野の七人」にも主演した。これらの作品や1962年製作の「隊長ブーリバ」の隊長役などで、彼には古き良きヒーロー役のイメージが定着し、多くのアクション大作や歴史大作で、エキゾチックなハンサムで強いヒーロー像を演じ続けた。

ところが時代が70年代に入ると、ブリンナーが長らく演じてきたヒーロー像は古くさいと感じられるようになり、映画出演も行き詰まりを見せるようになる。1973年の異色SF映画「ウエストワールド」(マイケル・クライトン監督)では、自らセルフ・パロディ的な役柄に甘んじた。遊戯施設のアトラクションに置かれたアンドロイドのガンマン役で、黒尽くめの姿は「荒野の七人」のリーダーを容易に思いださせる。やがてそのアンドロイドに組み込まれたコンピューターが誤作動、暴走を始めるというカルト映画であったが、ここで披露した不気味な怪演により、彼は以降SF映画やサスペンス映画などで、強烈な個性を売り物にした性格俳優の顔を見せるようになった。

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(1979年、「王様と私」の舞台の準備中のユル。静かに精神を集中する瞬間。メイクも自分でこなし、彼にしか演じられない、地球上でたった1人の“王様”になっていく)

1972年に製作されたテレビ版「王様と私」で久しぶりに当たり役の王様に扮したブリンナーは、一旦映画やテレビでのキャリアにピリオドを打ち、1977年の5月からブロードウェイに戻ってミュージカル「王様と私」のリバイバル公演に参加する。舞台はロンドンのウエストエンドにまで進出して、各地で好評を博して続行された。しかし、少年の頃からタバコを欠かしたことがないというほどのヘビー・スモーカーであった彼は、1983年に肺癌と告知されてしまう。それでも、急速に体力の衰えた身体に鞭打って舞台に立ち続け、癌の全身転移で続演が不可能となった1985年の5月まで、1951年の初演から数えて合計4621回もの上演で王様を演じ続けた。

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余命いくばくもないことを悟ったブリンナーは死の直前に、タバコの弊害を訴えるテレビコマーシャルに出演、癌に侵された自らの姿をカメラの前にさらした。「私が肺癌になったのは長年の喫煙のせいである」と語ったこの衝撃的な映像は、彼の死後全米で放映され、多くの人々に喫煙の恐ろしさを喚起せしめることになる。彼はその生涯で4度結婚して5人の子供を持ったが、そのうちの1人の娘は『Yul Brynner Foundation』という禁煙と癌の撲滅運動を進める団体を組織し、父の遺志を継いで禁煙運動に携わるようになったという。

配偶者:ヴァージニア・ギルモア(1944年 - 1960年)
ドリス・クライナー(1960年 - 1967年)
ジャクリーヌ・ド・クロワセ(1971年 - 1981年)
キャシー・リー(1983年 - 1985年)
子供達:ユル(息子)
ラーク(娘)
ヴィクトリア(娘)
ミア(養女)
メロディ(養女)

●フィルモグラフィー

1976年「未来世界」
1976年「ユル・ブリンナーの殺人ライセンス」(未)
1975年「SF最後の巨人」
1973年「ウエストワールド」
1973年「エスピオナージ」
1972年「複数犯罪」
1971年「カーク・ダグラスとユル・ブリンナーの世界の果ての大冒険」(未)
1971年「大西部無頼列伝」
1971年「マーベリックの黄金」
1969年「黄金線上の男」
1969年「ネレトバの戦い」
1969年「マジック・クリスチャン」
1968年「戦うパンチョ・ビラ」
1968年「長い長い決闘」
1967年「ダブルマン」
1966年「悪のシンフォニー」
1966年「続・荒野の七人」
1966年「トリプルクロス」
1965年「巨大なる戦場」
1965年「モリツリ/南太平洋爆破作戦」
1964年「ガンファイトへの招待」
1964年「あしやからの飛行」
1963年「太陽の帝王」
1962年「隊長ブーリバ」
1961年「ザーレンからの脱出」
1960年「オルフェの遺言―私に何故と問い給うな―」
1960年「荒野の七人」
1959年「ソロモンとシバの女王」
1959年「悶え」
1958年「大海賊」
1958年「旅」
1957年「カラマゾフの兄弟」
1956年「王様と私」
1956年「十戒」
1956年「追想」
1949年「ニューヨーク港」(未)

ユル・ブリンナーが登場したときの衝撃は、やはりものすごいものだったのでしょう。多くのアメリカ映画で主役を張る俳優ながら、そのほかのアメリカ人俳優とは一線を画する独特の風貌。どこかオリエンタルな雰囲気が醸しだされる彼は、こと日本国内でも大変な人気を博しました。そのせいか、彼のプロフィールは当初、サハリン生まれのスイス人と日本人の間に生まれたハーフだとされていました。後にそれは訂正されることになるのですが、そんな勘違いもまかり通るほど、ブリンナーの神秘的なイメージは日本人に広く受け入れられたのですね。

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私がはじめてブリンナーを観たのはテレビで放映された「王様と私」。強く見据えるようなまなざしに、常に背筋をぴしっと伸ばした堂々たる姿。これぞ王者の風格だと、思わずひれ伏したくなるオーラが溢れていました。そんな彼がアンナと歌い、ダンスのステップまで踏んでしまう!黙って国民を睥睨する際の恐ろしいほどの威厳と、踊るときのお茶目さの落差がまたすごくて、ノックダウン。異文化の出会いと衝突、融合という映画のテーマなんぞどこへやら、ただただブリンナーの姿を追っかける鑑賞とあいなりました。幼い頃からおっさん好きであったということを差し引いても、一撃で落ちた強烈な恋でしたね(笑)。スキンヘッドという言葉すら知らなかった私は、目をハートでいっぱいにしながらも、「誰?あのかっこいいハゲの人は…」と失礼千万なうわ言をつぶやいていたということです。隠れ洋画ファンであった父母にしつこく尋ねて、かの人がユル・ブリンナーという俳優であることを知り、彼の出演作がテレビで放映されるのを心待ちにする日々が始まりました。

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次に観たのは「追想」。ヒロイン、バーグマンを教育するブリンナーはひたすら恐ろしく、その頃学校で生徒から一番恐れられていた先生を彷彿とさせましたね (笑)。しかし彼ら2人の関係が深まるにつれ、正体はペテン師であったブリンナーに苦渋の表情が見られるようになります。彼は、彼女をロマノフ王朝の生き残りの皇女と売り込むために彼女と接触したわけですが、やがて金銭づく以上の、より深い感情を彼女に対して持つようになってしまうのです。

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しかし、しがないペテン師でしかない自分と、後に本物の皇女と判明する彼女の間には、越え難い溝が横たわります。彼女の幸せのため、最終的に彼女の前から消えることを選択した彼の真意を思えば思うほど、この屈折した大人の恋愛の苦しさに、いとおしいものを感じずにはいられないのですね。硬質な彼の存在感こそが、単なるメロドラマに幾重もの陰影を与えていました。ブリンナーは多くの大作で派手なヒーローを演じてきましたが、脇に回ったときの個性も捨てがたいもの。彼の出演作の中でも、この「追想」は大変印象の深い作品であります。

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よくテレビで放映されていたスペクタクル史劇「十戎」は、聖書でおなじみ、モーゼの十戒のお話です。例の、海が割れ…というスペクタクル・シーンも有名ですね。監督はセシル・B・デミルですから、ストーリー構成や演出そのものは平板で、出演陣の華やかさと衣装や美術の派手さで見せるような浅薄な作品でした。しかしながら、モーゼと対立するエジプト王ファラオに扮したブリンナーのセックスアピールは目もくらむほど(笑)。生まれながらにして美しき王者の風格に恵まれ、大勢の民の上に君臨することが義務付けられていたファラオですが、モーゼのカリスマと彼の信念に触れ、己のアイデンティティが大きく揺らぐのです。傍目には弱みを見せぬよう、気丈に振舞う王者が1人苦悩する姿は、正直危険なほど美しかった(笑)。

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サーカスに籍を置いていたほどの屈強な肉体美も見もので、彼がアメリカで長らくセックスシンボルと目されていたのも判る気がしますね。ロシアで生を受け、後にヨーロッパに渡って磨かれ、アメリカに輸入された彼の無国籍な美貌は、50年代から60年代にわたって絶頂期を迎えます。代表作もこの頃に多く製作されました。彼の映画界におけるもうひとつの代表作「荒野の七人」については、後ほど記事にするとして、キャリアの後期には再び舞台に活躍の場を求めた彼の内面に触れてみたいと思います。

彼は多くの作品で、古きよき時代の英雄を演じてきました。時代が下るにつれ、そのヒーロー然とした佇まいが時代遅れとみなされるようになってしまいましたが、リーダーを演じる彼は確かに頼もしく、凛々しかった。彼に任せておけば安心、という強力なイメージを観客に植え付けましたものね。

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でも演技者としての彼自身は、そのことについてどう感じていたのでしょう。あるいはもっと屈折した、深い考察を必要とする役柄を演じてみたいと思っていたのでしょうか。時代の空気が変わる中で出演した「ウエストワールド」(1973年)のアンドロイド役は、ある意味、彼に性格俳優への転換を促した重要な転機であったと思います。作品そのものはアングラ色の強いマイナーなSF映画でしたが、ここで彼が示した無機質な演技には鬼気迫るものがありましたね。
しかしこの性格俳優路線も結局はうまくいかず、加齢も手伝ってヒーローとしてのパワーを失いつつある自らを自覚した彼は、「王様と私」のリバイバル公演に全精力を傾けるようになります。自分を大スターにし、ここアメリカに安住の地を約束してくれた作品に、残りのキャリアを捧げる決意をした彼の心情はいかなるものだったのでしょう。肺癌と診断され、衰弱していく身体をひきずってでも、執念でステップを踏み続けた彼の姿に、真の王者の誇りを見出したのは私だけではなかったはず。彼は人生の最後にステージ上で“本当の王様”となりました。そして、それに満足したかのように、映画では一度たりとも見せたことのなかった“弱い自分”を、カメラの前でありのままにさらけ出したのです。癌に蝕まれた自らの身体を偽ることなく観客に見せることで、彼は、虚構の“強い英雄”を演じ続ける苦痛と孤独からようやく解放されたのでしょう。この、喫煙の恐怖を訴えるコマーシャルこそ、俳優ユル・ブリンナーの一世一代の大役であり、映画ではついぞ演じるチャンスに恵まれなかった、“観客に深い思考を促す役”を見事に演じきったとも言えるのです。


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