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zoom RSS ソレルさんと探索する文豪の旅―「文豪の真実 Literary Lives」Part3

<<   作成日時 : 2016/07/07 12:29   >>

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天才モラリスト舌好調!ソレル氏の次なるターゲットは、ジャン=ポール・サルトル、ジョージ・エリオット、ベルトルト・ブレヒトという、いずれ劣らぬ文学界の巨星であります。


【ジャン=ポール・サルトル Jean-Paul Charles Aymard Sartre】

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1929年。ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、共にソルボンヌ大学で哲学を学ぶ仲。小柄で斜視で不潔なサルトルに、ボーヴォワールはなぜかぞっこん。しかしサルトルは1人の女に縛られたくはなく、結婚に囚われない関係を主張する。
1932年。大学を優秀な成績で卒業した2人は、それぞれ教師として働き始めた。だが職場は離れ離れ。サルトルはボーヴォワールに誓ったとおり、自分の派手な女性遍歴を逐一彼女に手紙で伝えた。
1940年。フランスがドイツに降伏。サルトルは、捕虜となっていた収容所から辛くも脱出し、ボーヴォワールの待つパリへ向かう。
1941年。ドイツに負けっぱなしなのが悔しいサルトルは、“社会主義と自由”と銘打ったレジスタンス組織を立ち上げた。だが、コミュニストの側にもド・ゴールの側にもつきたくない彼の主義は誰にも受け入れられず、組織は即刻解散とあいなった。
1942年。なんとかフランス史に名が残るような活躍をしなければ。ドイツ軍協力者の出す雑誌にサルトル哲学を展開、1944年には戯曲「出口なし」を完成し、大成功を収める。これはナチスにも受け入れられたのだ。
1945 年。うまくたちまわったサルトルは、この大戦中、青色吐息の祖国を尻目に名声と富を得る。ついでに、それらに群がる魅力的な女性を片っ端から征服してゆく。ボーヴォワールは、性的に省みられない不満を「第二の性」「娘時代」「女さかり」といった精力的な執筆活動で発散した。サルトルの関心を繋ぎとめるため、彼のハーレムに美しい教え子達を送り込むことまでやってのけた。
1952年。“人は一個の人間について何を知りうるか”。サルトルはこの茫漠とした哲学を追い求める実存主義の旗頭となって活躍する。しかし突如コミュニズムに目覚め、ソヴィエト連邦のありかたを絶賛する。スターリンは翌年倒れるのであるが。
1965年。ベトナム戦争激化、中国の文化大革命など、サルトルが飛びつきそうなエピックがたくさんあった60年代。しかし彼は、孫ほども年の離れた愛人アルレットをボーヴォワールに内緒で養女にするのに大忙しだった。
1980 年。サルトル没す。その日、パリでは5万人もの人々が喪に服した。彼は莫大な財産を全てアルレットに遺していた。このような仕打ちを受けてもなお、ボーヴォワールは、モンパルナスのサルトルの墓に共に葬られるのは自分であると確信していたという。そして、事実、6年後の1986年にはその通りになった。

嘔吐
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「嘔吐 La Nausee」(1938年)

未来が見えない。希望が見えない。幸福を感じない。

今現在、不確かな空気の中で不安を抱えながら生きる私たち。サルトルの「嘔吐」(正しくは“吐き気”だが)は、今のような時代にこそ受け入れられやすいような気がしている。思春期のさなか、精一杯背伸びして読んだ高校時代には、ただ正体不明な気だるさを覚えるだけであった。今は違う。
道端に転がる石ころにも、巨大な社会を構築した偉大な人間にも、等しくあると信じられている“存在”意義など、実は最初からないのだ。この世にある事象は皆、本当は幻のようなもの。たまたまそこにあるだけで、何ならこの世から消し去っても全く問題はない。しかしながら、生きとし生けるものはすべからく、この空虚で哀れな “実存”から逃れる術はないのだ。人間は永遠に吐き気を覚えつつ、意味のない生を全うしなければならない。地獄が存在するのなら、まさしく今この瞬間がそれであろう。
サルトルは後半生、神経症に陥っていたといわれるが、それは斜視用の補正メガネのせいではない。実存主義というメガネを終生かけ続けたからこそ、この世における平衡感覚を狂わせてしまったのだ。ボーヴォワールの無償の愛さえ実存主義の名の下に踏みにじり、無数の愛人を征服する“冒険” に出たロカンタン(「嘔吐」の主人公)ことサルトル。彼は最後にアルレットを抱きながら、その冒険が全くの無意味であったことを密かに悟ったのだろうか。私には、ボーヴォワールが天に召され、2人の魂がようやく寄り添ったときに初めて、サルトルの心に平穏が訪れたように思われてならない。


【ジョージ・エリオット George Eliot】

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19世紀半ば。女性は男性名のペンネームを使わなければ、本を世に出すこともままならなかった。ブロンテ姉妹から少し遅れて文壇に登場したマリアン・エヴァンズも然り。彼女は22年もの間同棲した内縁の夫ジョージ・ルイスの名前を借り、“ジョージ・エリオット”として数々の大著をものにする。気難しいエリオットにとって、ルイスは愛する夫であり有能な編集者でもあり、頼りになるマネージャーでもあった。だから彼が亡くなったときには、部屋の中に引きこもり、魂の抜け殻と化したのである。なんでもいいから縋りたいエリオットは、母親を亡くしたばかりの友人ジョン・クロス青年を呼び寄せる。
1年の喪があけた後、高名な作家エリオットとなよなよした頼りない青年クロスは結婚。新婦は60歳だったが法的には“初婚”。新郎は40歳。素晴らしいカップルの誕生だ。エリオットは、長く内縁状態にあったルイスとの関係から、英国の社交界からつまはじきに遭っていた。それを挽回せんと、新郎を引き連れてセント・ジョージ教会で派手な結婚式を挙げた。不可知論者のくせに。
新婚旅行に旅立った夫婦だったが、クロスは妻の息子だと勘違いされ、イライラを募らせていく。ヴェニスではついにイライラのピークに達し、ホテルのバルコニーからグランド・カナルに身投げする始末。
新婚夫婦は、社交界の好奇のまなざしを避けて英国南部のサリー州に引き篭もる。秋になってロンドンに戻ったものの、エリオットは風邪をこじらせて亡くなってしまった。
クロスは大急ぎで、「書簡と日記でみるジョージ・エリオットの生涯」というタイトルの妻の伝記を書き上げる。それはさながら妻の傑作「ミドルマーチ」のような、ロマンチックに美化された悲恋ものであった。出版者のチャップマン、哲学者のスペンサー、そしてジョージ・ルイス。エリオットの生涯には、少なくとも 3度の激動の時代があったはずだが、この伝記にはそんなことはこれっぽっちも書かれていない。

サイラス・マーナー (岩波文庫)
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「サイラス・マーナー Silas Marner」(1861年)

“人間を救うのは神ではない”

親友の裏切りに遭い、猜疑心の強い世捨て人となったサイラス・マーナー。孤独な彼の唯一の拠り所は金だったが、それも失ってしまう。いよいよ世をはかなんだ彼は、ある寒い冬の日に赤ん坊を拾った。その子に妹の名前エピーを与え、心から慈しむサイラス。血は繋がらないものの、我が子と育てたエピーの無垢に触れ、彼の絶望は癒されていくのだった。昔、ベン・キングズレーがサイラス・マーナーに扮するテレビドラマを観たことがある。キングズレー自身も傲慢で冷酷な人物だと専らの評判だが、そんな彼が現代にも通ずる孤高の男を演じるのを観るのは、なかなかに不思議な感覚であった。
著者エリオットは、元々は英国国教会の信者であったそうだ。しかし、いつの日か教会とは縁を切ってしまった。そりゃまあ、複数の男性と、複雑な関係を演じていた彼女にしてみれば、教会の古臭い教義は疎ましかっただろう。だが、彼女が不可知論者になったのはそれだけが理由ではない気もする。抜群の学識を駆使して「ウェストミンスター評論」の編纂を行っていた才媛であっても、男性優位社会である文壇では敬意を得られない厳しい時代だったのだ。彼女は理不尽な文壇という世界で、サイラスと同じ孤独を感じていたに違いない。そこにジョージ・ルイスという無二の理解者が現れた。彼との生活は、たとえ法的には咎められるようなものであっても、彼女に安寧と生きる希望を与えたと思う。とすれば、サイラス・マーナーとはエリオット自身の投影されたキャラクターではないだろうか。彼女は、サイラスが再び希望を見出すまでの物語に、彼女自身が辿り着いた哲学―人は人によってのみ救われる―を示唆しているのであろう。
ルイスという希望を失ったエリオットが、再度救いを求めた人間がジョン・クロスであったのは、皮肉と考えられなくもないが。


【ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht】

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1924年。故郷で放蕩の限りを尽くしたブレヒトは、26歳の時初めてベルリンに出てきた。隠微な同性愛の詩や左翼のプロバガンダ芝居を書いていた彼は、さらなる成功を求めていたのだ。パーティーの席で、ブレヒトは何ヶ国語にも通ずる才女エリーザベト・ハウプトマンをたらしこむ。ところが彼にはれっきとした妻がいたし、愛人へレーネ・ヴァイゲルも孕ませていたし、さらには男性の愛人もたくさんいた。さすがのエリーザベトも二の句が告げない。
1925年。エリーザベトとブレヒトは愛人兼共作者となる。この頃、ブレヒト著として出版される作品は、実際にはほとんどがエリーザベトの手になるものだった。2人は、ベルリンの華やかな文学界の社交を楽しむ。
1928 年。エリーザベトはとうとう1人で「三文オペラ」を書き上げる。ブレヒトはそれに歌詞をつけ、手際よく興行に乗せてしまう。エリーザベトは愚かにも、大評判を呼んだこのオペラの著作権も手柄も原作者のプライドもなにもかも、ブレヒトに譲ってしまう。結婚してくれると信じて。
1929年。ブレヒトはエリーザベトを裏切り、へレーネ・ヴァイゲルと結婚。その他諸々の愛人達同様、絶望したエリーザベトは自殺を図る。ブレヒトは富も名声も芝居の配役決定権も牛耳り、大金持ちになった。
1932年。ヒットラーが政権を握る直前。左翼のブレヒトは右翼の作家たちを招いてパーティーを催す。いかな反体制を気取ろうと、やっぱり独裁者は怖いのだ。その直後、ブレヒト一家はスイスに亡命した。
1948年。ブレヒト一家は東ベルリンに戻る。彼は、既に東西に分断されていたドイツのうち、東ドイツの人になった。東ドイツ共産党の指導者は、党員であるヴァイゲルにブレヒトのための劇団ベルリナー・アンサンブルの運営を任せた。
1953年。恐怖の監視社会の中、ただ黙していたブレヒトは、スターリンが死んだ日にだけ彼を称える声明を発表する。この年ブレヒトは、スターリン平和賞を受賞した。
1956年。左翼の英雄にして労働者の守護神、演劇界の巨星、ブレヒト急逝す。エリーザベト・ハウプトマンはじめ、彼の無数のゴーストライターたちは、皆それぞれに怒りの形相で彼の棺の周りに群がってきた。ケチなブレヒトがいまだに代作料を支払わないからである。「だって冥土払いの手形を切っておいたのに」と言われてもねえ。

三文オペラ (岩波文庫)
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「三文オペラ Die Dreigroschenoper」(1928年)
・1928年にジョン・ゲイ作「乞食オペラ」をハウプトマンの翻訳を通じて読み、すぐに翻案して「三文オペラ Die Dreigroschenoper」を完成させた。クルト・ヴァイルによって音楽がつけられ、早くも同年ベルリンで初演されたが、大好評をもって観客に迎え入れられた。1931年には映画化もされている。

“不正をあまり追及するな
この世の冷たさに逢えば
不正もやがて凍りつくさ
考えろ この世の冷たさを”
―「三文オペラ」より抜粋

“叙事的演劇”とはつまり、日常世界を舞台上に再現できるかという挑戦のことであると、拙い私の脳みそは解釈している。
ブレヒトはその命題を生涯通じて追及し続けた。そうか。だから、彼の書く詩はシンプルで直接的な表現が多いのか。詩のくせに言葉を飾っていない。韻を踏んだりといった、詩特有のややこしいテクニックもあまりない。愛の詩、自然を称える詩、反戦、あるいは反体制を訴える詩、どれをとっても、てきぱきとしたリズムや平易な語句が日常会話を想起させるのだ。
彼の戯曲もまた、当時の風俗や世相を色濃く反映する内容である。この「三文オペラ」は、持てる者と持たざる者の溝をいや増す資本主義の台頭を徹底的にコケにし、ワイマール体制が崩れようとしていたドイツ激動の時代を暗示するもの。
19世紀のロンドン。乞食から金をピンハネする“乞食商会”の長ピーチャムの一人娘ポリーは、馬小屋で盗賊頭マックヒースと結婚式を挙げた。彼と警視総監ブラウンは親友同士。だからマックヒースは、警視総監というバックアップまでついている札付きのワルである。しかしピーチャムはポリーをマックヒースから取り戻そうと画策。マックヒースはポリーに別れを告げ行方をくらますが、情婦の裏切りで逮捕される。なんとか脱獄に成功するも、再び情婦の裏切りで逮捕され、マックヒースに死刑が宣告される。ところが、死刑執行直前、女王の戴冠式で突然彼に恩赦が下り、爵位と報奨金まで与えられるのだった。
全編にわたって俗っぽさが横溢し、ありえないほどあっけない幕切れに、混沌とした当時の社会に対するブラックな嫌味を感じる。どんな突拍子のないことでも起こり得た時代だったのだ。そんな時代を生き抜く庶民のパワーは、やがて特権階級を覆すだろう。それはそのまま、ブレヒト自身の共産主義という思想とリンクしていく。
ジョン・ゲイ作の「乞食オペラ」を下敷きに、エリーザベト・ハウプトマンが翻案、彼女の草稿に俗語と猥語満載のリズミカルな詩をつけ、クルト・ヴァイルに作曲を依頼してできあがったのが、「三文オペラ」である。オペラというより、ミュージカルに近い雰囲気。当時としては冒険的というか、かなり挑発的な内容ではなかったか。だがこういった手法も、やがて後続の戯曲家に受け継がれている。結局、ブレヒトという人は、プロデュース能力、先見の明に長けた人だったのではないかと思う。時代の空気を読むのが上手く、時代が何を欲しているかを見極める嗅覚が発達していた。だから一歩先を行く演劇スタイルを追及できたのだろう。

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ブレヒトといえば、演劇界の革命家という顔のみならず、映画界でも重要な足跡を残している。同郷の映画監督フリッツ・ラング Fritz Langと共に、傑作「死刑執行人もまた死す Hangmen Also Die!」(1943年)の脚本を書いているのだ。考えてみればこれも共作。やはりブレヒトは、ハウプトマンに対してもそうであったように、才能のある人材になにがしかのインプレッションを与え、彼らから傑作をものにする力を引き出す術にも長けていると思われる。
ブレヒトはナチスの迫害を逃れてドイツから亡命したが、一時期アメリカにも身を寄せていた。共産主義という思想を共有するラング、アメリカ人映画監督ジョゼフ・ロージーと接触があったのはこの頃だ。だが当時のアメリカでは、マッカーシーが推進する赤狩り旋風が巻き起こっていた。ブレヒトもまた、下院非米活動委員会への召喚を食らい、とうとうアメリカ脱出を余儀なくされたのである。


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