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zoom RSS 対立か、それとも妄執か―「デュエリスト/決闘者 The Duellists」

<<   作成日時 : 2015/12/30 16:36   >>

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名誉のため?いいや、そうではない。己の誇りのためだ!

「デュエリスト/決闘者 The Duellists」(1977年)
監督:リドリー・スコット Ridley Scott
製作:デヴィッド・パットナム
原作:ジョセフ・コンラッド
脚本:ジェラルド・ヴォーン・ヒューズ
撮影:フランク・タイディ
音楽:ハワード・ブレイク
出演:キース・キャラダイン(デュベール)
ハーヴェイ・カイテル(フェロー)
アルバート・フィニー(フーシェ)
クリスティナ・レインズ(アデル)
エドワード・フォックス(大佐)
ロバート・スティーヴンス(トリヤール)
トム・コンティ(医師)
ダイアナ・クイック(ローラ)
ジェニー・ラナカー(マダム・デ・リオン)他。

1800年。フランスではナポレオンが帝政を敷いていた。トリヤール率いる軽騎兵団は風光明媚な田舎町ストラスブールに駐屯していた。ある日、軽騎兵フェロー中尉は、“ナポレオンを侮辱した”という理由で市長の甥に決闘を挑み、これに重症を負わせる。騎士道精神ももはや形骸化していたその頃、“名誉のため”という名目では決闘も許されぬ風潮であった。軍上層部はフェローに謹慎を申しつけ、しかる後に査問会にかけるという厳しい措置をとる。その命令を本人に伝える伝令役を買って出たのが、同じ軽騎兵のデュベール中尉であった。デュベールは単にフェローの顔を知っていたというだけの関係だったのだが、これがとんでもない災厄を彼に呼び込むことになる。

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フェローは、心を寄せていたマダム・デ・リオンのサロンにいた。デュベールはいささかバツの悪い思いをしながら、彼に謹慎処分を伝える。軍の名誉のための決闘で処罰され、しかもそれを愛人の目の前で知らされたフェローは逆上する。そして、全くの八つ当たりでデュベールを軍部の犬呼ばわりし、自宅の外にいた乞食を立会人に、突然デュベールに“名誉”の決闘を申し込む。それがどんなに常軌を逸した理由であっても、いったん決闘を申し込まれれば、騎士はそれを受けてたたねば自身の“名誉”が地に落ちることになる。デュベールは、気狂いとしかいいようのないフェローの決闘の申し込みを受け、他ならぬ彼の自宅の庭でその手に傷を負わせた。
デュベールは礼儀として、友人の医師をフェローの傷の手当に派遣する。同じ軽騎兵同士の決闘は、たちまちストラスブール中の格好の噂話となった。気恥ずかしさからか、フェローが決闘の理由を一切口にしないままなので、デュベールもその部分に関しては口をつぐむしかない。こうして “謎の決闘”は、軍隊の仲間と口さがない市民の間に広く知られるようになった。実はフェローは、心密かにデュベールへの復讐を誓っており、そのチャンスを虎視眈々と狙っていた。デュベールがアウグスブルグに駐屯していたときのこと、フェローの仲間がデュベールをついに探し当てる。デュベールは嫌々ながらフェローからの決闘の申し込みを受け入れ、2人は牧草地の片隅で剣を交える。このときデュベールは風邪を引いており、くしゃみをしながらの決闘と相成った。それが祟ったか、不意を突かれたデュベールはあっという間にフェローに重傷を負わされる。地に伏したデュベールに、なおも剣をふりかざすフェローであったが、立会人の判断で決闘の続行は無理と決定。フェローは忌々しげにデュベールに言い放つ。「この次、まただぞ!」

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なじみの娼婦ローラと再会したデュベールは、彼女から愛の告白を受けていた。だが兵士との結婚は、妻になる女性にとって過酷なものだ。夫がいつ死ぬかわからないのだから。おまけに、デュベールにはフェローという疫病神もいる。ローラとの結婚を躊躇うデュベールは、街中で再びフェローの仲間にかち合ってしまったことで意を決する。決闘に備えて剣の訓練を再開し、ローラを遠ざけたのだ。ローラは悩んだ挙句、婚約指輪をくれた男の元へ去っていった。
フェローとデュベールは、三度狭く薄暗い酒蔵の中で剣を交える。鍛えたはずの剣の刃は、激しい斬り合いのせいでこぼれ、ボロボロになっていた。フェローもデュベールも、体中斬り傷だらけの血まみれで、立っているのがやっとの状態だ。それでも、互いへの意地から決して膝を折ろうとはしない。見かねた立会人が2人をようよう引き剥がし、この決闘でも両者の勝敗はつかなかった。数日後、デュベールは上官に呼び出され、厳しい叱責を受ける。戦地での実績は申し分なく、将来有望な軍人であるのに関わらず、意固地な子供のようにフェローと決闘を繰り返す理由が分からないというのだ。理性ある大人としてフェローと和解しなければ、デュベールは軍から追放処分を受けることになるだろう。デュベールはここで初めて、自分が大尉に任ぜられることを知らされる。軍規では、軍内部の階級の違う者同士の決闘を禁じている。デュベールは大尉、フェローは中尉。これで決闘をすれば、2人揃って査問会行きである。ようやく悪夢から解放され、デュベールは安堵した。

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1806年、リューべック。フランス軍も時代の流れと共に、その趣きを変えていた。戦地でがむしゃらに戦うよりは、頭を使うことで立身出世の近道を探る輩が増えている。ナポレオンによる帝政が安定し、戦乱の世相の中での小休止がフランス国内に訪れていた。切迫した戦争の危機が遠のいている気分は、軍内部にもあったのだ。デュベールは、その才覚と戦功を買われ、近々少佐に任ぜられることになっていた。前祝いにやってきた酒場で、彼はなんとフェローとその取り巻き連中の姿を見る。やっと出世の道が開けてきたのに、ここで決闘を申し込まれ、命を落とす羽目になってしまうのはかなわない。黙って酒場を立ち去ろうとしたデュベールは、しかし運悪く酔っ払いに絡まれ、フェローに見つかってしまった。その腕には大尉の腕章がある。今はまだ大尉のままのデュベールは、こうして四度目の決闘を受けることになったのである。
デュベールはローラと再会した。喪服姿で春をひさいでいるらしい。結婚した男が腸チフスで死に、デュベールとよりを戻しに来たのだ。しかし、まだフェローと決闘しているデュベールに愛想を尽かし、今度こそ殺されるがいいと捨て台詞を残して去っていった。
どうして何度も何度もフェローと決闘しなければならないのか。申し入れを拒否すればいいのだが、それは紳士であるデュベール自身の名誉にもかかわる。おまけに、今やフェローとデュベールの決闘は騎兵隊内部で一種の見世物になっており、有名な2人の決闘を見物しようと、将軍などお偉方までが駆けつける始末。実戦がなく、退屈しきった兵士たちの士気を鼓舞するのにうってつけの余興というわけだ。当然、どちらが勝つかで莫大な賭け金も動いている。騎兵隊の退屈しのぎのために命がけで決闘しなければならない運命を呪いながら、デュベールは決闘の場に赴いた。今度は馬上で斬り合う趣向だ。大勢の見物客を前に、馬上で剣を構える2人。様々な思いを胸に、フェローを視界に捉えたデュベールは、鮮やかな一突きでフェローの額を抉る。視力を奪われたフェローは戦闘不能。この決闘では、デュベールに軍配が上がった。

1812年、刻一刻と変わるヨーロッパの戦力図により、ナポレオンはロシア遠征を始める。どこまでも不毛の大地が広がるシベリア、極寒のロシアの冬に苛まれるフランス軍。食糧も水も底をつき、凍死したり餓死したりする兵士たちが続出する。戦うどころか、前へ進むことすら不可能だ。騎兵隊も再編成され、デュベールとフェローも同じ部隊で遠征に参加していた。いかな隊長といえども、2人とも飢えと寒さに震える点では一般兵士と同じ立場だ。そんな中、デュベールの姿を認めたフェローは、森に潜むコサック兵を探しに志願者を募る。誰も名乗り出る者はいない。仕方なくデュベールは、フェローの後についていった。森の中に入った2人は、互いに拳銃を構えてにらみ合う。座ったまま凍死している仲間の傍で、決闘するのだ。だがそこへ、本当にコサック兵が現れた。干し肉を噛みながら、フランス軍を嘲弄するコサック軍。2人は咄嗟に引き金を引き、コサック兵たちを蹴散らした。予想外の展開に、デュベールはフェローに手を差し出す。彼らとて、共通の敵の前では、やはり共に戦う仲間なのである。フェローもむっつりと押し黙ったまま、デュベールの手を握った。決闘に明け暮れる2人の間には、いつの間にか奇妙な形の友情が育っていたのであろうか。

1814年。ロシア遠征に失敗し、フランスを追われたナポレオン。ルイ18世が即位し、王党派がフランスを牛耳るようになった。ナポレオン軍で長年戦ってきた功績を認められ、デュベールも今や将軍である。足を負傷し、姉の屋敷で療養していたデュベールは、同じく将軍となっていたフェローから、またもや決闘の挑発を受ける。どうやらフェローは、彼らの決闘の原因は、デュベールがナポレオンを裏切ったからだと周囲に吹聴しているらしい。人づてにそれを聞いたデュベールは、冷ややかに挑発を切って捨てた。マダム・デ・リオンとナポレオンを一緒くたにするなど、愚の骨頂であろうと。フェローは再びデュベールに対し逆上する。
デュベールは、姉のお膳立てで貴族の娘アデルと結婚した。これにより彼は、王党派に属することになったのだ。もうナポレオンの時代は終わった。デュベールに、平凡だが穏やかな幸せが訪れる。程なく、アデルはお腹にデュベールの子を宿した。
ナポレオン帝政の下で虐殺に加担したかどで、フェローが処刑名簿に登録された。名簿にはナポレオン派の軍人や政治家が漏れなく記載されている。それを作成したのはフーシェだ。彼は自らが生き延びるために、かつての仲間の名前をせっせと処刑名簿に書き加えているのだった。デュベールはそれを百も承知で、フェローの釈放を願い出る。元帥の推薦状まで作って、わざわざフェローを救う理由を問われても、デュベール自身にも答えられない。不器用に軍人人生を全うしたフェローと、実に上手く気流に乗って世渡りをした自分を比べて、罪悪感を感じたのか。あるいは、そのつながりは決闘だけとはいえ、彼と対峙するときだけは純粋に“騎士”になれたことへの郷愁か。奇妙で捩れているとはいえ、やはり両者の間には不思議な因縁があったせいか。

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条件付きで自由の身になったフェローは、国王軍を率いることになったデュベールの記事を新聞で目にする。その胸にムラムラと決闘への闘志が湧き上がる。まだ決着はついていない。今や落ちぶれ果てた我が身ではあるが、デュベールとの決闘の勝敗はついていないのだ。同じく落ちぶれ、路上生活者となったフェローの仲間が、デュベールの領地に現われて最後の決闘を申し入れる。決着は拳銃でつけようと。あくまでも決闘に執着するフェローに呆れるデュベールだが、“フェローの受けた痛手はとても深い”という言葉で腹を括る。彼の望む“決着”をここでつけてやろうではないかと。
夜明け。デュベールは、妻と義父に気づかれないようにそっと屋敷を抜け出た。廃墟でフェローと再会し、銃を構える。立会人はフェローの仲間だけ。今や決闘は犯罪であり、このことが知れればデュベールとて監獄行きは免れないのだ。発砲できるのは1人2発まで。彼らは互いに身を隠しながら、相手の気配を伺う。先にデュベールの影を見つけたフェローが発砲し、デュベールはもんどりうつ。とどめを刺そうと近づいてきたフェローの手を、デュベールは絶妙のタイミングで撃つ。銃を弾き飛ばされたフェローは自棄になって殺せと叫ぶが、デュベールはそうしなかった。これでフェローは“死んだ”のだ。デュベールはフェローに、今後自分の前では死者のごとく黙していることを誓わせた。それで充分である。
1人になったフェローは、崖の上から遠くの景色を見つめる。その空虚な瞳に、厚い雲の切れ間から輝く日の光が射している様が映った。それはまるで神の剣のごとく雲を切り裂き、辺りに光の柱を打ち立てている。フェローは魅入られるように、その光が水面を照らす様子をいつまでも見つめていた。

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いろいろ異論を唱える向きもあろうが(笑)、現在の英国映画界では、やはり巨匠の1人だと認識されているリドリー・スコット監督。作品によって好不調の波が激しく、取り上げる題材も一貫せず雑多であることから、“雇われ職人監督”という芳しからぬ評価もついてまわる彼。しかし私にとっては、「エイリアン」「ブレードランナー」の2本の傑作を撮ったという事実だけで充分である。この2作は、おそらく今後も映画史に燦然と輝き続け、忘れ去られることはないだろう。正直に言えば、彼の他の監督作品がどうであろうと、あまり興味がない。それほど、私にとってこの2作は絶対的な位置を占めているものだ。

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映画監督にもいろいろなタイプがあるだろうが、スコット監督はビジュアルセンスに格別秀でた人だ。映像の中で何を語るかではなく、どのような映像を撮るのか、その一点にこそ彼の本領が発揮される。よって彼の映画では、背景、美術、小道具、衣装、照明その他あらゆるディテールに心血が注がれるのだ。絵画を学び、デザイナー、あるいは美術監督として働き、CM製作で成功を収めたというバックボーンが、彼をして完璧なビジュアル構築に駆り立てるのだろう。思えばどの作品でも、彼は内容に即したビジュアルを独自のセンスにまで昇華させている。そこに彼の一貫したプロ意識を感じることができるわけだが、それはともすれば、映画の重要な要素である“ストーリーテリング”がおざなりになってしまうという結果を招くこともある。つまり、スコット印の映画は、土台にしっかりした脚本がなければ、目も当てられない出来に陥る危険性も孕んでいるのだ。彼の作品が、“スタイルばかりで内容は薄い”と評される傾向にあるのも、ある意味仕方がないかもしれない。なにしろ監督自身に、物語やテーマといったものをきちんと伝えるという意識が、あまりないのだから(笑)。

しかしスコット監督というのは、もともと文芸志向の映画監督であるわけではない。CM製作会社を成功させた後、満を持して映画界に乗り込んだ第1作目「デュエリスト」においても、彼は世界中で多くの観客に作品を観てもらい、楽しんでもらいたかったと後に述懐している。わかる人だけが観てわかればよいとする製作態度は、彼の中にはないらしい。映画はあくまでもエンターテイメントであり、彼がその中で己の役割と自認しているのは、“映画を完璧なビジュアルに置き換えること”であるというわけだ。

そして、彼の処女作である「デュエリスト」を数年振りに観賞した。スタンリー・キューブリックが映画化した「バリー・リンドン」や、フランシス・フォード・コッポラが翻案した「闇の奥へ」(「地獄の黙示録」)、あるいはリチャード・ブルックスが映画化した「ロード・ジム」等の原作者として知られる作家ジョゼフ・コンラッドの小説を基にした映画である。スコット監督がこの小説を選んだのも、そもそもは著作権切れのため、格安で映画化権が手に入ったからである。それに、19世紀初頭のフランスを舞台にしたこの作品は、彼のルーツでもある絵画的映像美を追求するにももってこいだ。物語は至ってシンプル。2人の男がひょんなことで出会って決闘し、以来15年の長きに渡って、彼らを取り巻く時代の空気が変わっても決闘し続ける、宿命のライバルになるというもの。ストーリーテリングが苦手なスコット監督でも(笑)、ラヴェル作曲の“ボレロ”のごとく、同じテーマを繰り返すことで多くを語らずともカタルシスを得ることができる。しかも驚いたことに、映画冒頭で“これは実話に基づく”というテロップが出る。どうやら、コンラッドが史実を脚色して小説にしたということらしい。なんともはや、事実は小説よりも奇なり、である。

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すらりとした長身で細身のいかにも伊達男といったハンサム、冷静沈着にして頭が切れ、おまけに育ちのよさから来る品格も充分な男はデュベール。じゃがいものような無骨なルックス、戦うことが大好きで闘志だけは人一倍あるものの、品位や知性には欠ける典型的な不器用男はフェロー。まあ普通は、これだけ比較すればどちらに軍配が上がるかは明白だろう。映画もデュベールをヒーローとみなし、終始デュベールの視点でフェローとの決闘の日々を描いている。スコット監督はコメンタリーで、この作品を往年の西部劇のように撮りたかったと述べているので、彼としてはこのような描き方でよかったのだろう。
しかし、私としてはここが大いに不満である。映画的に見れば、もちろんヒーロー、デュベールを主人公にしなければならないのはわかっているが、それでは物語に深みや余韻が出てこないのだ。むしろ、負け犬となる(ことがあらかじめわかっている)フェローを主軸に据えた方が、テーマがよりはっきりするのではないだろうか。

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この作品のテーマとは、フェローとデュベールにとっての“名誉”が何であったのか、ということに尽きると思う。それが映像を通じてあぶりだされないと、19世紀の時代においても既に形骸化していた“名誉”に固執する男たちの虚しさが伝わってこない。くだらぬ自尊心によって自滅するフェローの哀れが、観る者の胸を打たないのだ。
戦うことでしか己の存在価値を見いだせないフェローにとって、“名誉”とは相手に打ち勝つことに他ならないだろう。勝ちさえすれば、相手が敵であろうが仲間であろうが関係ない。彼が誰彼構わず勝負を挑むのは、そうしなければアイデンティティが失われてしまうからだ。一方デュベールにとっての“名誉”とは、己自身の品格を保つことである。格好をつけるという意味ではない。頭脳派の彼には、決闘などは無益な殺生以外の何物でもなく、むしろ時代遅れの産物だ。誰に対しても正直であること、何事にも公正を求めること、寛大になること、慈愛を持つこと。これらがデュベールにとっての名誉であり、人間としての誇りなのである。つまり両者は、生まれも育ちも性格も価値観も何から何まで正反対であり、だからこそ、フェローがデュベールに執着したとも考えられる。彼らが互いに嫌いあいながらも、決着をつけるためにどうしても近寄らずにいられない様は、磁石のN極とS極が引き合う様子にとても似ている。フェローは常に一歩先を行くデュベールに追いつこうとがむしゃらに戦うし、デュベールはデュベールで、フェローと決闘できない状況を作ろうと必死に武功を立て、階級を上げていく。つまり彼らは、真情はどうあれ、軍人として互いに切磋琢磨している状態にあるわけだ。会えば必ず殺し合いをしているのに、結果的にはそれがそれぞれの人生において起爆剤になっているという皮肉。場合によっては滑稽ですらある。

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フェローに付きまとわれることを嘆いていたデュベールも、何度も彼と決闘するうちに次第に奇妙な連帯感を共有するようになる。ローラとの愛情を振り切りってまでフェローとの決闘を選択し、その決闘に臨んでいるというのに、最後の瞬間に相手の息の根を止めることができない。しかもロシア遠征では、共に共通の敵と戦うまでに至るのだ。ここに、この物語の醍醐味がある。2人の歴史は、ナポレオンの絶頂と転落に呼応して明暗を分けていくが、デュベールもフェローももはや決闘の意義はどうでもよくなっている。時代の変遷も、2人の関係の核心には影響を及ぼさない。決闘して相手を打ち負かすこと、これがそれぞれの人生の命題になり、また今を生きる支えともなっていったのだ。こと、上手く時代の潮流に乗れなかった不器用なフェローにとっては、デュベールとの決闘の瞬間は、生きるために必要不可欠なものとなったに違いない。ナポレオン凋落をいち早く察知し、世渡りに成功したデュベールにしても然りだ。なぜ彼はフェローを処刑の運命から救ったのか。そのまま放っておけば、手を汚さずにフェローを厄介払いできるというのに。それは、やはりデュベールにとっても、フェローという存在が必要であったからだろう。
だが、そういった2人の心境の変化は、彼らの辿る運命をきちんと説明しなければ観客には伝わらない。激動の近世ヨーロッパの渦中にあったナポレオン時代を語るには、監督のストーリーテリングはやはり非常に単調であると言わざるを得ない。さすがに、決闘シーンはリアルかつ独特の暗い美学を醸し出していて秀逸だが、その裏で煩悶していたであろう2人の男たちの心情が、ほとんど描かれていないのだ。単純なストーリーこそ、登場人物の感情の変化、彼らが置かれている状況の説明を押さえておかねばならないが、その意味で、特にフェローに対するフォローが(笑)お粗末である。従って映画の中では、血なまぐさくも凄惨に美しい決闘シーンのみが突出してしまい、全体の印象としてはヴァイオレントなシークェンスの繰り返しに留まっているのだ。

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ヒーロー然としたデュベールの描写に偏ったがために、名誉を巡る深遠な物語になるはずだった映画は、単に血の気過多な単細胞サイコ野郎フェローにしつこく付き纏われて難渋する話だという以上の感慨を持てなくなってしまった。これがもう少しなんとかなっておれば、ラストの奇跡的に美しいシーン…フェロー自身が、ようやく決闘への妄執から解放されたことを悟る神の光のシーンが、より大きな意味を宿し、この映画を傑作たらしめてくれただろう。

昔観たときには、まるで古い絵画のような美しい構図を誇るショットに酔ったものだ。もちろん、屋内外の美術や衣装、照明と、俳優との相対関係に配された神経は並々ならぬものがある。スコット監督のトレードマークたる“光と影”の絶妙な配分も素晴らしい。

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屋外にあっては、カメラが思い切り引くと、そこにまさしく19世紀のヨーロッパの田園風景が広がる。フェルメール、あるいはレンブラントの絵画からの影響、引用はよく指摘されるとおりだが、個人的には、映画冒頭の鵞鳥を追う少女のシーンから、ミレーの作品を思い出した。

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ミレー作「鵞鳥番の少女」

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ミレー作「羊飼いの少女」

タイムスリップしたかのような、この美しくも牧歌的な風景描写は、しかしこの作品の白眉である決闘シーンにおいては、手振れも生々しい接近したカメラ・アングルに摩り替わる。

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薄明かりしか差さぬ狭い納屋の中で、あるいは家の庭では、大きな男たちが剣を振り回すたび、刃に光が乱反射し、大量の埃や塵が雪のように舞う。刃物同士がぶつかればそこに火花が散り、相手の肩の肉を半ば削いでしまう。そうしたリアル極まる描写は、光と影が交錯する美しい全体の構図と奇妙に符合しあい、スコット監督の美学を映像に刻印している。

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静と動の対比、果てしない空間の広がりと一点に集約する緊迫感の妙、レンブラントの最高傑作といわれる大作「夜警」を容易に連想することができるだろう。

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リドリー・スコット監督はこの処女作において、キューブリック監督の「バリー・リンドン」を相当に意識していたそうだが、彼自身の持つポテンシャルは既に見事に披露されている。どのシーンにも、後の彼の作品に踏襲された緻密な構図があり、それは彼の狂いのない審美眼を証明もしている。だが、この作品には、そんな彼の計算を超えた力も働いているような気がする。フェロー自身の心情を代弁するかのようなラストの光線には、何度観てもやはり神がかり的な美しさを感じるのだ。監督自身もコメンタリーで述懐していた通り、それは予期せぬ奇跡の賜物である。映画には、時折計算外の出来事が起こり、それが映画を違う領域へ引き上げることがある。「デュエリスト」もそんな奇跡に恵まれ、スコット監督はカンヌ映画祭で新人監督賞を得たのだった。


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